第8話 遺言を書いたのは誰か
自分の字というものは、意外と気持ち悪い。
普段、ノートに書いている時は何とも思わない。
講義中に眠気と戦いながら書いた板書。
買い物メモ。
レポートの下書き。
冷蔵庫に貼るつもりで書いて、結局貼らなかった「卵を買う」という雑なメモ。
そういうものに書かれた自分の字は、ただの字だ。
下手でもない。上手くもない。
少し右に傾いていて、「る」の終わりが雑で、「神」という字の示偏が毎回少し崩れる。
それが僕の字だった。
だからこそ、机の上に置かれた遺言を見た瞬間、胃の奥が冷えた。
これまでの遺言は、すべて僕が書きました。
ただし、僕はまだ書いていません。
僕の字だった。
間違いなく。
でも、僕は書いていない。
少なくとも、今の僕は。
「水無月さん」
黒瀬依子が、壊れたビニール傘を抱えたまま言った。
声が低い。
責めているというより、必死に自分を落ち着かせている声だった。
「まず、確認していい?」
「はい」
「これ、あんたの字?」
「僕の字です」
「書いた?」
「書いていません」
「書いた記憶は?」
「ありません」
「でも、朝から記憶が信用できないことは、もうだいぶわかってる」
「はい」
「じゃあ、書いてないって言葉も、かなり信用できない」
「……はい」
認めるしかなかった。
僕の「覚えていない」は、もう免罪符にならない。
知らない。
覚えていない。
そんなつもりはない。
今朝だけで、それらの言葉がどれだけ危ういか、嫌というほど知った。
黒瀬は僕を睨んでいる。
怖がっている目だった。
でも、逃げる目ではない。
「ごめん」
彼女は先に謝った。
「私、今から水無月さんのこと疑う」
「はい」
「ちゃんと疑う。中途半端に疑うと、あとで絶対に変なところで優しくしちゃうから」
「変なところで優しく?」
「そう。私、たぶん情に弱いから。あんたが困った顔すると、まあいいかってなる。それは危ない気がする」
黒瀬は、遺言の紙を指で押さえた。
「だから、今は疑う。怒るし、聞くし、納得できなかったら何度でも聞く」
「わかりました」
「そこで素直に頷かれると、逆にやりづらいんだけど」
「すみません」
「謝るな。謝罪で空気を柔らかくしないで。私は今、ちゃんと怖がってるの」
黒瀬の声が震えた。
「水無月さんが怖い。しずくさんも怖い。この部屋も怖い。自分が何を忘れてるのかも怖い。でも、一番怖いのは、怖いのに慣れてきてること」
それは、痛い言葉だった。
僕もそうだった。
神様が死ぬことに、少し慣れ始めている。
遺言が現れることに、少し慣れ始めている。
猫が喋ることも、町が死ぬことも、押し入れに自分の死体がいることも、意味が割れることも。
慣れたくないのに。
慣れないと、たぶん壊れる。
しずくが、プリンのカップを机の端に置いた。
「黒瀬さん」
「何」
「私も、透真さんを疑います」
僕は思わずしずくを見た。
彼女は、静かな目をしていた。
傷ついた目でもある。怖がっている目でもある。
けれど、そこには確かに決意があった。
「私も、透真さんを信じたいです。でも、信じたいから疑います」
「しずくさん」
「疑われるのは寂しいです。疑うのも寂しいです。でも、寂しいからといって見ないふりをしたら、たぶんまた第7話が消えます」
黒瀬が、小さく息を吐いた。
「それは、かなり嫌」
「はい」
しずくは遺言を見た。
「この字は、透真さんの字です」
「僕が書いたと思いますか」
「思いません」
少しだけ、胸が緩んだ。
でも、しずくはすぐに続けた。
「けれど、透真さんではない透真さんが書いた可能性はあります」
「雨宮透真さん?」
「彼だけではありません」
黒瀬が眉を寄せる。
「水無月さん、ほかにもいるの?」
「いてほしくないです」
「こっちもいてほしくない。でも、いる流れじゃない?」
黒瀬の言う通りだった。
雨宮透真。
押し入れの中にいた、別の版の僕。
なら、他の版の僕もいるのかもしれない。
しずくが言った。
「これまで、透真さんは何度も書き直されています」
部屋の空気が、また少し重くなった。
「私が敵だった版。透真さんが敵だった版。黒瀬さんが記録しすぎた版。第7話で全員を殺した版。雨宮透真さんがいた版」
「全部の版に、僕がいるんですか」
「はい」
「そして全部の僕が、遺言を書ける?」
「たぶん」
黒瀬が頭を抱えた。
「水無月さんの多重存在、迷惑すぎない?」
「すみません」
「いや、今の水無月さんが謝ることじゃないけど。でも、謝られないと私の怒りの置き場所がない」
「では、少しだけ謝ります」
「少しだけって何」
「すみません」
「うん。少しだけ受け取った」
黒瀬は遺言を見下ろす。
そして、ふいに顔を上げた。
「筆跡、比べよう」
「筆跡?」
「そう。水無月さんのノートとか、メモとか、あるでしょ」
「あります」
「全部出して」
「全部ですか」
「全部。今から水無月さん筆跡鑑定大会を始めます」
「朝から嫌な大会ですね」
「私も嫌。でも何かしないと怖い」
黒瀬は畳の上に正座し直した。
「動こう。考えるだけだと、また神様っぽい言葉に飲まれる。手を動かす。紙を並べる。見比べる。現実の作業をする」
彼女の言葉には、妙な説得力があった。
僕は机の引き出しからノートを出した。
講義ノート。
レポートの下書き。
買い物メモ。
封筒の裏に書いた電話番号。
書いた覚えのない落書き。
いや、それは僕の字ではなかった。
僕は一枚のメモを手に取って止まった。
白い紙。
そこには、こう書かれていた。
プリンを食べてください。
「……これ」
黒瀬が覗き込む。
「第1話の遺言」
「はい」
「どこにあったの?」
「机の引き出しです」
「最初から?」
「わかりません」
しずくが、静かに近づいた。
その文字を見た瞬間、彼女の顔が曇る。
「これは、透真さんの字です」
「でも、第1話の時は机の上にありました」
「はい」
「つまり、同じ文章が二枚ある?」
「いいえ」
しずくは首を横に振った。
「これは、最初にあった遺言そのものです」
「でも、あの紙は」
「場所が移動したのだと思います」
黒瀬が低い声で言った。
「紙って、そんな気軽に移動する?」
「今朝の紙は、かなり自由です」
「嫌な自由」
僕は引き出しをさらに探った。
紙が出てくる。
また一枚。
また一枚。
猫に謝ってください。
第6話を信じないでください。
雨宮しずくを殺してください。
第7話を探さないでください。
読者を逃がさないでください。
僕は、手を止めた。
「……読者を」
黒瀬が、僕の手から紙を奪うように取った。
読んだ瞬間、顔をしかめる。
「読者を逃がさないでください」
しずくの目が細くなる。
「その遺言は、まだ出ていません」
「未来の遺言?」
「たぶん」
「未来の水無月さんが書いた?」
「たぶん」
「読者って、誰?」
黒瀬は、部屋の中を見回した。
押し入れ。
窓。
玄関。
天井。
何もない空間。
「やめてよ。いるの? 誰か、ここを読んでるの?」
返事はない。
けれど、部屋の空気が一瞬だけ薄くなった気がした。
まるで、誰かが息を止めたように。
黒瀬が、すぐに僕の袖を掴んだ。
「水無月さん、今の感じた?」
「はい」
「しずくさんも?」
「はい」
「……いるんだ」
彼女はそう言って、喉を鳴らした。
「読者って、神様より怖いかもしれない」
「なぜですか」
僕が聞くと、黒瀬は嫌そうに言った。
「神様は一応、目の前に来るじゃん。死んだり、喋ったり、プリン食べたり、失礼な感想言ったりする。でも読者って、見えないんでしょ。こっちから見えないのに、こっちは見られてる。それ、普通に怖い」
しずくが頷く。
「読まれるとは、そういうことです」
「しずくさんは、読まれたことあるの?」
「ありません」
「神様なのに?」
「読まれなかった神様でしたから」
その一言で、部屋の空気が少し沈んだ。
しずくは、読まれなかった存在だった。
雨の日だけ存在する神様。
誰にも見上げられなくなった空。
忘れられた雨の匂い。
黒瀬は少しだけ気まずそうにした。
「……ごめん」
「なぜ謝るのですか」
「なんか、刺した気がした」
「刺さりました」
「正直」
「でも、大丈夫です。痛いところを教えてもらえるのは、少し助かります」
黒瀬は眉を下げた。
「しずくさん、時々すごく返しづらいこと言うよね」
「神様なので」
「半分でしょ」
「半分女の子です」
「その返しはずるい」
その会話を聞いていて、僕は少しだけ笑いそうになった。
けれど、机の上に並んだ遺言の山が、それを許してくれなかった。
全部、僕の字。
筆跡は、どれも少しずつ違う。
第1話の遺言は、今の僕に近い。
猫の遺言は、少し幼い。
第6話を信じるな、は、角が立っている。
雨宮しずくを殺してください、は、震えている。
読者を逃がさないでください、は、妙に整っている。
どれも僕の字なのに、全部違う僕の字だった。
「水無月さん」
黒瀬が、紙を一枚ずつ並べながら言った。
「これ、同じ人が書いてない」
「筆跡が違いますか」
「違うというか、同じ人の違う時期っぽい。小学生の水無月さん、高校生の水無月さん、徹夜明けの水無月さん、めちゃくちゃ病んでる水無月さん、悟ったふりしてる水無月さん」
「最後の二つ、嫌ですね」
「でも、そんな感じ」
黒瀬は、自分の鞄からペンを出した。
「今、同じ文章書いて」
「何を」
「プリンを食べてください」
「わかりました」
僕は紙に書いた。
プリンを食べてください。
黒瀬は、僕の今の字と、最初の遺言の字を並べる。
「似てる」
「はい」
「でも違う」
「どこがですか」
「今の水無月さんの字は、迷ってる。こっちの遺言の字は、迷ってない」
黒瀬は最初の遺言を指差した。
「この水無月さんは、プリンを食べたら何が起きるか知ってた」
背中が冷えた。
しずくが、紙を見つめる。
「はい」
「しずくさんも、そう思う?」
「思います」
「じゃあ、第1話の遺言を書いた水無月さんは、第1話の結果を知ってた」
「はい」
「なのに、今の水無月さんは知らなかった」
「はい」
黒瀬は、深く息を吐いた。
「つまり、未来の水無月さんか、別の版の水無月さんか、朝そのものの水無月さんが、今の水無月さんを動かしてる」
「かなり嫌な言い方ですが、そうなります」
「嫌なことほど、ちゃんと言った方がいい」
黒瀬はそう言ってから、少し声を落とした。
「水無月さん」
「はい」
「あなた、操られてるの?」
「わかりません」
「自分の意思で動いてるつもり?」
「はい」
「それが一番怖い」
「僕もです」
僕は並んだ遺言を見た。
プリンを食べろ。
笑わせるな。
猫に謝れ。
死体を笑わせろ。
第1話を信じるな。
第6話を信じるな。
第7話を探すな。
読者を逃がすな。
命令ばかりだ。
僕たちは今朝、ずっと遺言に従ってきた。
疑いながらも、結局従ってきた。
もし、それを僕自身が書いていたのだとしたら。
僕は、僕たちをどこへ連れていこうとしているのだろう。
「しずくさん」
僕は言った。
「あなたは、何か知っていますね」
しずくは黙った。
黒瀬がすぐに言う。
「しずくさん。隠してるなら、隠してるって言って」
「隠しています」
「よし。そこは進歩」
「でも、言うのが怖いです」
「怖いまま言って」
「黒瀬さんは厳しいですね」
「厳しくするって決めたから」
しずくは、少しだけ笑った。
それから、机の上の遺言に手を伸ばした。
半透明の指先が、紙に触れる。
今度は、すり抜けなかった。
しずく自身も驚いたように目を見開く。
「触れた」
僕が呟く。
「はい」
しずくは、一枚の遺言を手に取った。
雨宮しずくを殺してください。
その紙だった。
彼女は、それを自分の胸に当てるように持った。
「透真さん」
「はい」
「あなたは、神様を殺しているんじゃありません」
その声は、今までで一番静かだった。
静かすぎて、部屋のすべての音が遠のいた。
「神様が死ぬ朝を、あなたが選んでいるんです」
僕は、言葉を失った。
黒瀬が、眉をひそめる。
「選んでる?」
「はい」
しずくは遺言を机に戻した。
「神様は、毎朝どこかで死にます。透真さんの部屋でなくても、どこかで。誰かの忘れたものを抱えて、誰にも見られずに、誰にも遺言を読まれずに、静かに消えていきます」
「じゃあ、水無月さんの部屋に来るのは」
「選ばれた神様です」
「誰に?」
しずくは、僕を見た。
「透真さんに」
僕は首を横に振りかけた。
でも、止めた。
覚えていないだけかもしれない。
知らないと言えば、何かが死ぬかもしれない。
「僕は、選んだ記憶がありません」
「はい」
「どうやって選んでいるんですか」
「たぶん、遺言で」
黒瀬が、紙の山を見た。
「つまり、遺言は命令じゃなくて、選択の記録?」
「はい」
「水無月さんが、どの神様の死を見るかを選んだ記録」
「はい」
「でも、書いたのは今の水無月さんじゃない」
「はい」
「最悪」
黒瀬は低く呟いた。
「水無月さん、未来の自分に朝から地獄のシフト組まれてるみたいなものじゃん」
「地獄のシフト」
「神様死亡対応係。毎朝六時四十二分出勤。手当なし。精神崩壊あり」
「嫌な求人ですね」
「応募してないのに採用されてる」
「もっと嫌ですね」
黒瀬の茶化し方に、少しだけ救われた。
でも、しずくは笑わなかった。
「透真さんが選んでいる理由は、まだわかりません」
「まだ?」
「はい」
「いつか、わかるんですか」
「わかると思います」
「その時、僕は人間をやめますか」
しずくは答えなかった。
黒瀬が僕を見る。
「今それ聞く?」
「聞いておかないと、また先延ばしになります」
「先延ばしも時には大事よ」
「黒瀬らしくないですね」
「朝から人間やめそうな友達を見てると、慎重にもなるわよ!」
友達。
その言葉が、少しだけ遅れて胸に来た。
黒瀬は言ってから、自分でも気づいたらしい。
少し気まずそうに目を逸らした。
「……友達でいいでしょ。もう。神様の死体も見たし、町も死んだし、押し入れの別ルートも見たし、今さら知り合いは無理がある」
「はい」
「何その嬉しそうな顔」
「嬉しいので」
「素直に言うな。こっちが照れる」
しずくが、小さく微笑んだ。
「友達」
彼女は、その言葉を大事そうに繰り返した。
「良いですね」
「しずくさんも入ってるからね」
黒瀬がぶっきらぼうに言った。
しずくが目を丸くする。
「私も?」
「入ってるでしょ。もう。ここまで一緒にいて、今さら神様枠だけで済ませる方が面倒」
「黒瀬さん」
「何」
「嬉しいです」
「そういう素直なの、ほんと困る」
黒瀬は壊れた傘で自分の口元を隠した。
照れていた。
朝からずっと怖がって怒って泣きそうになっていた黒瀬が、照れている。
それだけで、世界がほんの少しだけ元に戻った気がした。
その時。
机の上の遺言が、一斉に震えた。
紙の端が、かたかた鳴る。
僕たちは同時に身構えた。
「何?」
黒瀬が低い声を出す。
「また神様?」
「違います」
しずくが言った。
「遺言が、並び替わります」
紙が浮いた。
プリンを食べてください。
笑わせないでください。
猫に謝ってください。
自分の死体を笑わせてください。
第1話を信じないでください。
第6話を信じないでください。
第7話を探さないでください。
読者を逃がさないでください。
雨宮しずくを殺してください。
それらが空中で輪を描く。
まるで時計の文字盤のように。
中心に、僕の書いたばかりの「プリンを食べてください」が吸い込まれていく。
黒瀬が呟いた。
「時計?」
「朝の時計です」
しずくが言う。
「神様が死ぬ順番」
「順番って」
「透真さんが選んだ順番です」
紙の輪が、ゆっくり回る。
六時四十二分。
六時四十三分。
六時四十四分。
止まっていた朝の針が、遺言の上でだけ進んでいる。
そして、まだ見たことのない遺言が一枚、輪の中から落ちてきた。
僕はそれを拾った。
今度の字は、ひどく乱れていた。
僕の字だ。
でも、泣きながら書いたような字だった。
そこには、こう書かれていた。
黒瀬依子に、すべてを記録させないでください。
彼女が最後まで覚えていた場合、世界は彼女一人だけになります。
黒瀬の顔が白くなった。
「私?」
僕は紙を握りしめた。
しずくが、静かに言った。
「三回目の版です」
「私が敵だった版?」
黒瀬の声が震える。
「はい」
「私が、最後まで覚えてたから?」
「はい」
「世界が、私一人だけになった?」
しずくは答えに詰まった。
答えに詰まることが、答えだった。
黒瀬は、小さく笑った。
笑ったのに、目が泣いていた。
「最悪。私、寂しがりなのに」
「黒瀬」
「覚えていたかっただけなのにね」
彼女は、壊れた傘を抱きしめた。
「誰も忘れたくなかっただけなのに、最後に私しか残らないとか、皮肉が雑すぎる」
僕は、何も言えなかった。
言えないでいると、黒瀬が僕を見た。
「水無月さん」
「はい」
「もし私が記録しすぎそうになったら、止めて」
「はい」
「でも、全部忘れろとは言わないで」
「はい」
「一緒に覚えて」
それは、とても重い頼みだった。
一人で覚えたら壊れる。
だから、一緒に覚えてほしい。
忘れないでほしい。
でも、覚えすぎて一人にしないでほしい。
「わかりました」
僕は言った。
「一緒に覚えます」
「約束?」
「約束です」
「死んでも?」
「死んでも、ではなく」
僕は少し考えた。
「生きている間は」
黒瀬は目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「そっちの方がいい」
「はい」
「死んでも守る約束より、生きてる間ちゃんと守る約束の方が、なんか信用できる」
「僕もそう思います」
しずくが、そっと頷いた。
「人間の約束ですね」
「はい」
僕は遺言の輪を見上げた。
紙はまだ回っている。
その中で、一枚だけ黒く染まり始めた紙があった。
雨宮しずくを殺してください。
その文字が、じわじわと濃くなる。
しずくが、息を呑んだ。
「次に選ばれているのは、私です」
「殺せという遺言ですか」
「はい」
黒瀬が即座に言った。
「却下」
「黒瀬さん」
「却下。そんな遺言、採用しません。水無月さんも、しずくさんも、勝手に受け入れないで」
「でも」
「でもじゃない」
黒瀬は遺言の輪を睨んだ。
「遺言って、死んだ人の最後の言葉でしょ。でも、最後の言葉だからって、全部聞かなくていい。死んだ人が間違ってることもある。神様だって間違う。未来の水無月さんだって、たぶん間違う」
彼女は、僕を見た。
「今の私たちが、今の頭で、今の怖さで、今のまま考える。過去とか未来とか別の版とか、そういうのに全部決めさせない」
黒瀬の言葉に、遺言の輪が少し揺れた。
まるで、嫌がっているようだった。
しずくが呟く。
「今のまま」
「そう。今のまま。半透明でも、記憶がなくても、怖くても、疑ってても、今ここにいるんだから」
黒瀬は言った。
「それを無視して、未来の字に従うのは嫌」
その瞬間。
遺言の輪が止まった。
部屋の空気が変わる。
冷たい。
何かが来る。
僕はそう思った。
机の上に、最後の一枚が落ちた。
真っ白な紙。
そこに、ゆっくり文字が浮かぶ。
これ以上、遺言に逆らう場合、次の神様は死にません。
黒瀬が眉をひそめる。
「いいことじゃないの?」
次の行が浮かぶ。
神様が死なない朝は、世界が死にます。
しずくが青ざめた。
僕は、喉の奥が詰まるのを感じた。
神様が死なない朝。
世界が死ぬ朝。
第5話で、読了神が言っていた。
そして最初のプロットにもあったはずの、まだ来ていない異常。
黒瀬が、悔しそうに唇を噛む。
「つまり、誰かを死なせないと世界が死ぬって脅してるわけ?」
「そうなります」
「ほんと最低」
黒瀬の声は震えていた。
「最低だけど、無視したら世界が死ぬ。じゃあ、どうすればいいの」
誰も答えられなかった。
しずくが、遺言の紙に手を伸ばす。
「透真さん」
「駄目です」
僕は先に言った。
しずくが止まる。
「まだ何も言っていません」
「言う前から駄目です」
「私は神様です」
「はい」
「死ぬことには、慣れています」
「慣れないでください」
「でも」
「しずくさん」
僕は彼女を見た。
「目の前にいる女の子として扱え、と言われました」
しずくの目が揺れた。
「だから、目の前の女の子に“世界のために死んでください”とは言いません」
黒瀬が、小さく息を吐いた。
「今のは、ちょっと主人公っぽかった」
「僕が主人公かどうかは」
「今は言わなくていい。せっかく締まったのに」
「すみません」
しずくは、困ったように笑った。
そして、泣きそうに見えた。
「透真さんは、ずるいです」
「今日はよく言われます」
「死ぬ理由を奪われると、神様は困ります」
「では、生きる理由を探しましょう」
そう言った瞬間、部屋の隅で何かが倒れた。
押し入れだった。
正確には、押し入れの奥に積んでいた段ボールが、ひとりでに崩れた。
黒瀬がびくっとする。
「今度は何!?」
僕は押し入れに近づいた。
雨宮透真がいた場所。
段ボールの奥に、見覚えのないノートがあった。
黒い表紙。
表紙には、僕の字でこう書かれている。
遺言帳。
黒瀬が後ろから覗き込んだ。
「水無月さん」
「はい」
「これはもう、完全にアウトなやつじゃない?」
「そうですね」
僕はノートを開いた。
一ページ目。
そこには、これまでの遺言が順番に書かれていた。
プリンを食べてください。
明日の神様を笑わせないでください。
猫に謝ってください。
自分の死体を笑わせてください。
第1話を信じないでください。
第6話を信じないでください。
第7話を探さないでください。
二ページ目。
読者を逃がさないでください。
三ページ目。
雨宮しずくを殺してください。
四ページ目。
黒瀬依子にすべてを記録させないでください。
五ページ目。
まだ白紙。
いや、白紙ではなかった。
うっすらと文字が浮かび始めている。
次に死ぬ神様の名前は――
そこで、文字は止まっていた。
黒瀬が、息を呑む。
「名前、まだ出てない」
「はい」
「出る前に閉じた方がいい?」
「たぶん」
「でも、閉じたらわからない」
「はい」
「開いてたら、死ぬ神様が決まる?」
「たぶん」
「……また選択肢が嫌」
しずくが、ノートを見つめていた。
その顔には、恐怖よりも悲しみがあった。
「遺言帳」
彼女は呟いた。
「やはり、透真さんが選んでいたのですね」
「このノートも、今の僕が書いたわけでは」
「はい」
「でも、僕のものなんですね」
「はい」
認めたくなかった。
けれど、ノートの表紙の字は、僕の字だった。
しかも、今の僕の字に近い。
迷っている字。
怖がっている字。
それでも、書かずにはいられなかった字。
僕は、五ページ目を見た。
次に死ぬ神様の名前は――
文字が少しずつ濃くなる。
黒瀬が叫んだ。
「閉じて!」
僕はノートを閉じた。
ばたん、と音がした。
その瞬間、部屋の時計が動いた。
六時四十四分から、六時四十五分へ。
三分目。
朝が、また一分進んだ。
そして、玄関の外で、誰かが倒れる音がした。
どさり。
黒瀬が顔を青くする。
「……今の」
「神様です」
しずくが言った。
声が震えていた。
「次の神様が、死に場所を失って落ちました」
「死に場所を失うって何よ」
「透真さんが、名前を決める前にノートを閉じたからです」
「じゃあ、玄関の外で」
「はい」
しずくは、僕を見た。
「まだ死んでいません」
机の上に、新しい遺言が現れる。
今度は、白紙ではない。
黒く濡れた紙だった。
文字は、僕の字。
死に場所を失った神様を、中に入れないでください。
入れた場合、朝は一度だけ夜になります。
黒瀬が、乾いた声で笑った。
「中に入れる流れじゃん」
「そうですね」
「ほんと、この遺言、逆張り誘導うまいわね」
「僕の字ですけど」
「だから腹立つのよ」
玄関の外で、小さな声がした。
「……すみません」
弱い女の声だった。
「ここ、死ぬ場所で合っていますか」
しずくが、目を見開いた。
「この声」
「知っているんですか」
彼女は頷いた。
「次の神様です」
「何の神様ですか」
しずくは、ひどく言いづらそうにした。
黒瀬が身構える。
「しずくさん、言って。怖くても言って」
しずくは、小さく頷いた。
「読まれなかった恋文の神様です」
玄関の外で、また声がした。
「すみません。遺言を、間違えて持ってきてしまいました」
僕たちは、動けなかった。
「本当は、黒瀬依子さん宛てです」
黒瀬の顔から、血の気が引いた。
「私?」
玄関の向こうの神様は、弱々しく続けた。
「差出人の名前は、まだ読めません」
部屋の隅で、メロンパンの袋が震えた。
黒瀬が、それを見た。
「……あの人?」
誰も答えなかった。
答えられなかった。
玄関の外で、読まれなかった恋文の神様が、今にも死にそうな声で言う。
「開けていただけますか」
遺言は、中に入れるなと言っている。
でも、黒瀬宛ての恋文がある。
差出人の名前は、まだ読めない。
そしてたぶん、その名前は、消えた三人目につながっている。
黒瀬は壊れた傘を握りしめた。
泣きそうな顔で、怒っていた。
「水無月さん」
「はい」
「開けて」
「遺言には」
「知ってる」
黒瀬は僕を睨んだ。
「でも、私宛てなら、私が読む。読まれなかったまま神様が死ぬなんて、そんなの嫌」
しずくが静かに言った。
「朝が夜になるかもしれません」
「なればいい」
黒瀬は言った。
「朝がこんなにひどいなら、一回くらい夜になればいい」
僕は玄関を見た。
それから、黒瀬を見た。
しずくを見た。
遺言帳を見た。
僕の字が命じている。
中に入れるな。
でも、今ここにいる黒瀬が言っている。
開けて。
僕は立ち上がった。
「わかりました」
黒瀬が、少しだけ息を震わせる。
「ありがとう」
「まだ礼を言う場面ではないです」
「じゃあ、あとで言う」
「はい」
僕は玄関へ向かった。
折れて死んだ玄関マットを避ける。
ドアノブに手をかける。
冷たい。
扉の向こうには、死に場所を失った神様がいる。
開ければ、朝は夜になる。
開けなければ、黒瀬宛ての恋文は読まれないまま死ぬ。
僕はドアを開けた。
その瞬間。
朝が、真っ黒に裏返った。
窓の外から朝日が消える。
町の音が夜の音に変わる。
カーテンの隙間から、星の光が差し込む。
玄関の前には、一人の少女が倒れていた。
制服姿。
胸に、封筒が刺さっている。
血の代わりに、インクが床へ落ちていた。
彼女は顔を上げ、黒瀬を見た。
「黒瀬依子さん」
黒瀬が、震えながら一歩前へ出る。
「はい」
少女は、胸に刺さった封筒を差し出した。
「あなたに、届かなかった恋文です」
封筒には、黒瀬依子様、と書かれていた。
そして差出人の欄は、黒く塗り潰されていた。
黒瀬はそれを受け取った。
その瞬間、部屋の中でメロンパンの袋が破れた。
中から、一枚の紙が出てくる。
そこには、たった一言。
まだ読むな。
黒瀬は、涙を浮かべたまま笑った。
「遅いわよ、たぶん」
そして、封筒の封を切った。




