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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第7話 存在しない第7話

 朝は、六時四十四分から進まなかった。


 いや、正確には一度だけ進んだ。


 六時四十二分から六時四十三分へ。

 六時四十三分から六時四十四分へ。


 たった二分。


 普通の朝なら、その二分でできることは少ない。歯を磨くには少し短い。カップ麺には一分足りない。寝坊した人間が「あと五分」と言って布団に戻るには、かなり危険な長さだ。


 けれど、今朝の二分で、神様は死に、町は一度死に、僕の死体は押し入れから出てきて、読了神が感想を述べながら玄関マットを殺し、黒瀬依子が僕を叩いた。


 時間の密度がおかしい。


 たぶん、朝というものは、引き延ばせば引き延ばすほど中身が腐る。


「水無月さん」


 黒瀬が言った。


 壊れたビニール傘を抱えたまま、僕のスマホ画面を覗き込んでいる。


 画面には、まだその文字が残っていた。


【第7話は存在しません】

【ただし、登場人物は全員覚えています】


「これ、どういう意味?」


「わかりません」


「さっき全部わかった顔してた人の発言として、それはどうなの」


「黒瀬に叩かれてから、かなり忘れました」


「私の平手、性能良すぎない?」


「助かりました」


「二度と言わないで。私の手が世界のリセットボタンみたいになるの嫌だから」


 黒瀬は自分の右手を見た。


 さっき僕を叩いた手。


 彼女は少しだけ顔をしかめた。


「……痛かった?」


「痛かったです」


「ごめん」


 黒瀬は小さく言った。


 その謝罪は、今朝聞いたどんな神様の言葉よりも現実的だった。


「でも、もう一回必要なら叩く」


「優しさと暴力が同居してますね」


「人間なんてだいたいそうでしょ」


 しずくが、最後のプリンを持ったまま座っている。


 食べるのを忘れているようだった。


 半透明の白い指が、スプーンを握っている。プリンの表面には、スプーンで崩された跡が残っていた。その黄色い甘さだけが、部屋の中で妙に場違いだった。


 折れた玄関マット。


 メロンパン。


 雨宮透真の学生証。


 透明な傘。


 読了神の文字片。


 そしてプリン。


 この部屋に残っているものは、どれも少しずつ死んでいる。


 なのに、プリンだけはまだ普通に甘い。


「しずくさん」


 僕が呼ぶと、彼女はびくりと肩を揺らした。


「はい」


「大丈夫ですか」


「大丈夫、ではありません」


「ですよね」


「でも、大丈夫ではないと答えられるくらいには、大丈夫です」


「神様の日本語は難しいですね」


「女の子の日本語です」


「……そうでした」


 しずくは、少しだけ口元を緩めた。


 でもすぐに、その笑みは消えた。


「透真さん」


「はい」


「第8話に行きましょう」


 黒瀬が、ぴたりと動きを止めた。


 僕も一瞬、言葉を失った。


「……第8話?」


「はい」


 しずくは、不思議そうに僕を見る。


「次は第8話です」


「待ってください」


 僕はスマホを指差した。


「ここには第7話って」


 画面を見た。


 表示が変わっていた。


【第8話 遺言を書いたのは誰か】


 さっきまで確かにあったはずの文字が、消えている。


 第7話は存在しません。


 その一文は、どこにもない。


 僕の指先が冷たくなった。


「黒瀬」


「何」


「さっき、見ましたよね」


「見たって何を?」


「第7話は存在しません、って表示」


 黒瀬は眉をひそめた。


「何それ」


「え」


「いや、次は第8話でしょ?」


 彼女は本気で言っていた。


 冗談でも、強がりでもない。


 黒瀬依子は、第7話の表示を忘れている。


 僕はしずくを見た。


「しずくさん」


「はい」


「第7話は?」


 しずくは、一瞬だけ表情を消した。


 その一瞬を、僕は見逃さなかった。


 けれど彼女はすぐに、静かに言った。


「存在しません」


「存在しないのに、なぜ僕だけ覚えているんですか」


「透真さんだからです」


「説明になっていません」


「はい」


「はい?」


「説明にならないように言いました」


 黒瀬が、横からすごく嫌そうな顔をした。


「しずくさん。今のは良くない」


「良くないですか」


「良くない。意味深っぽく言えば許されると思ったら大間違いだから。こっちは朝からずっと意味深に殴られ続けてるの。説明できないなら、できないって言って。隠してるなら、隠してるって言って」


 しずくは黙った。


 スプーンを握る指に、少し力が入る。


「……隠しています」


 黒瀬が小さく息を呑んだ。


 僕も黙る。


 しずくは、プリンの表面を見つめたまま言った。


「私は、第7話を知っています」


「なぜ」


「私が消したからです」


 部屋が静まり返った。


 窓の外からは、普通の朝の音がする。車が走る音。どこかの部屋で洗濯機が回る音。遠くで誰かが笑う声。


 普通の世界が、僕たちの異常を知らずに動いている。


 黒瀬が、壊れた傘をぎゅっと抱えた。


「しずくさん」


「はい」


「消したって、どういう意味?」


「そのままです」


「そのままだと困るから聞いてるのよ」


 しずくは顔を上げた。


 雨みたいな目が、僕を見る。


「第7話は、透真さんが初めて私を殺した話です」


 僕は息を忘れた。


「だから、消しました」


 言葉が出なかった。


 押し入れから出てきた雨宮透真が言っていた。


 第1話で死んだ神様は、雨宮しずくではない。


 読了神は言っていた。


 しずくは最初の版では敵だった。


 そして今、しずく自身が言った。


 第7話は、僕が初めて彼女を殺した話。


「……僕が」


 声がかすれた。


「しずくさんを殺した?」


「はい」


「第1話ではなく?」


「はい」


「でも、第7話は存在しないんですよね」


「存在しないようにしました」


「なぜ」


「透真さんが、壊れるからです」


 黒瀬が、低い声で言った。


「それ、本当に水無月さんのため?」


 しずくが目を伏せる。


「……私のためでもあります」


「だと思った」


 黒瀬は怒っていた。


 でも、怒鳴らなかった。


 むしろ、怒鳴らない分だけ声が重かった。


「しずくさん、私、あなたのこと嫌いじゃないよ。怖いけど、嫌いじゃない。プリン持ってるところとか、半分死んでるって言い訳するとことか、たまに変に素直なところとか、まあ、だいぶ変だけど嫌いじゃない」


「はい」


「でも、今のは駄目」


 しずくの肩が小さく震えた。


「水無月さんを守るためって顔で、自分が見たくないものを消すのは駄目。だって、それをやられると、こっちは何も信じられなくなる」


「……はい」


「私、たぶん何かを忘れてる。誰かを忘れてる。自分の死に方まで忘れてるかもしれない。だからこそ、誰かが勝手に“なかったこと”にするの、すごく嫌なの」


 黒瀬の声が震えた。


「私が忘れたことと、あなたが消したことは、たぶん同じじゃない。でも、痛い場所が似てる」


 しずくは何も言えなかった。


 僕も言えない。


 黒瀬だけが、今この場で一番人間らしく怒っていた。


 怒りながら、傷ついていた。


「黒瀬」


 僕はようやく声を出した。


「はい」


「少し、聞いてもいいですか」


「何」


「第7話の記憶、少しでもありませんか」


「ない」


 即答だった。


 でも、そのあとに黒瀬は自分の胸を押さえた。


「ない、はずなんだけど」


「はい」


「さっきから、変。あなたがしずくさんを殺したって聞いた瞬間、ここが痛い」


「胸ですか」


「うん。でも、しずくさんのために痛いのか、水無月さんのために痛いのか、自分のために痛いのかわからない」


 彼女は苦しそうに息を吐いた。


「それに、変な感じがする」


「変な感じ?」


「私、第7話であなたに殺された気がする」


 しずくが息を呑んだ。


 僕は、頭を殴られたような気がした。


「僕が、黒瀬も?」


「気がするだけ」


 黒瀬は早口で言った。


「本当に殺されたかどうかはわからない。そもそも私、生きてるし。ここにいるし。こうやって喋ってるし。だから、たぶん“死んだ”って言っても普通の死じゃないんだと思う。でも」


 彼女は自分の首元に触れた。


「首の後ろが冷たいの。あなたの声を聞くと、時々そこがぞわっとする。怖いんじゃなくて、思い出しかけてる感じ」


「……僕は」


 言い訳をしようとした。


 覚えていない。


 知らない。


 僕はそんなことをしていない。


 けれど、その言葉を口にする直前、猫の鳴き声が頭の奥で響いた。


 忘れてもいい。

 でも、捨てないで。


 知らない、と言ったものは死にやすくなる。


 僕は口を閉じた。


「僕は、覚えていません」


 言い方を変えた。


「でも、していないとは言い切れません」


 黒瀬は、少しだけ目を見開いた。


「……そこで否定しないの、けっこう怖いんだけど」


「すみません」


「でも、嘘つかれるよりはいい」


「はい」


「本当に私を殺してたら、あとでめちゃくちゃ怒るから」


「はい」


「謝って済むと思わないでよ」


「思いません」


「あと、もし殺すなら事前に言って」


「それは無理では」


「そういうところだけ常識的に返すな!」


 黒瀬が怒鳴った。


 その怒鳴り方が、妙に生きていた。


 僕は少しだけ安心してしまった。


 この人は、死に方を思い出すかもしれない状況で、まだ僕に怒ってくれる。


 しずくが、小さく言った。


「私は、卑怯ですね」


 黒瀬がすぐに振り返った。


「卑怯です」


「黒瀬」


「そこは言わせて」


 黒瀬はしずくを見た。


「卑怯。でも、だからって全部駄目な人……神様? 女の子? とにかく、全部駄目ってことにはしない」


「なぜですか」


「私も、たぶん卑怯だから」


「黒瀬さんが?」


「うん。だって、私も水無月さんに自分の忘れた人を返してって言った。でも、思い出したら自分が敵になるって聞いて怖くなった。思い出したいくせに、今はまだ言わないでって思った。都合いいよね」


「それは」


「都合いいの。人間って都合いいの。怖くなったら逃げたいし、でも置いていかれたくないし、正しいこと言いたいくせに、自分だけは傷つきたくない」


 黒瀬は壊れた傘を見下ろした。


「でも、都合いいからって、全部嘘ってことでもないでしょ」


 しずくは黙って黒瀬を見ていた。


 半透明の神様と、泣きそうな人間。


 どちらが強いのか、僕にはわからなかった。


 ただ、この二人が同じ部屋にいて、同じ朝を見ていることだけは、たぶん必要だった。


「第7話を探しましょう」


 僕は言った。


 しずくが顔を上げる。


「透真さん」


「消されたなら、痕跡があるはずです」


「探すと、壊れます」


「誰が」


「全員です」


「それは困りますね」


「はい」


「でも、探さないと、壊れたことにも気づけません」


 しずくは、何かを言おうとして、やめた。


 黒瀬が小さく頷く。


「私も探す」


「怖いんじゃ」


「怖い」


 彼女は即答した。


「めちゃくちゃ怖い。自分の死に方なんて、誰が知りたいのよって感じ。でも、知らないまま水無月さんの顔を見るたびに首の後ろが冷えるのも嫌」


「僕を見るのが怖いですか」


「今のところ、少し」


 正直だった。


 だから痛かった。


「でも、怖いから見ないようにするのは、もっと嫌」


 黒瀬はまっすぐ僕を見た。


「だから、ちゃんと怖がりながら見る」


 僕は頷いた。


「わかりました」


「水無月さんも、しずくさんを怖がっていいと思う」


 黒瀬が言った。


 しずくの顔がこわばる。


 でも黒瀬は続けた。


「怖がるのと、嫌うのは違うから」


 それは、さっき僕が言った言葉に似ていた。


 疑うことと、見捨てることは違う。


 黒瀬は、その言葉を別の形で返してくれたのだと思う。


 しずくが、小さく息を吐いた。


「怖がられるのは、少し寂しいです」


「でしょうね」


「でも、怖がられないまま信じられるのも、少し怖いです」


「でしょうね」


「黒瀬さんは、よくわかりますね」


「私が今、全部怖いから」


 黒瀬は、ほんの少しだけ笑った。


「怖い側の専門家みたいになってる」


「助かります」


「助かるの?」


「はい」


 しずくは頷いた。


「私は、自分が怖いのかどうかも、時々わからなくなるので」


 その言い方が、ひどく寂しかった。


 神様は、人間より自分の感情に詳しいわけではない。


 むしろ、自分の感情に名前をつけるのが下手なのかもしれない。


 僕たちは、第7話の痕跡を探し始めた。


 まず、スマホ。


 表示は相変わらず【第8話 遺言を書いたのは誰か】になっている。


 履歴を開いても、第7話の記録はない。


 メモアプリを開く。


 白紙。


 いや、完全な白紙ではなかった。


 一行だけ、文字があった。


 ――第七話は、声に出すと死ぬ。


「物騒」


 黒瀬が言った。


「死ぬの主語がないの、一番嫌なやつ」


「僕が死ぬのか、言葉が死ぬのか、誰かが死ぬのか」


「選択肢が全部嫌」


 次に机の上。


 読了神が残した文字片を集める。


 ひらがな、カタカナ、漢字、句読点。


 黒瀬がそれを並べようとした。


「こういうの、推理ものなら文章になるんじゃない?」


「なるかもしれません」


「じゃあ、やる」


「黒瀬、こういう作業得意ですか」


「得意じゃない。でも、何かしてないと怖い」


 彼女はそう言って、畳の上に文字を並べ始めた。


 しずくも手伝おうとしたが、半透明の指が文字片をすり抜けた。


「……触れません」


「じゃあ、しずくさんは読む係」


 黒瀬が言う。


「私が並べるから、変な単語になったら止めて」


「わかりました」


「あと、怖い単語になっても急に消さないで」


「……努力します」


「努力じゃなくて」


「消しません」


「よし」


 黒瀬は、しずくに対して普通に指示を出すようになっていた。


 それが少しだけおかしかった。


 神様を怖がっているのに、ちゃんと役割を振る。


 怖い相手にも仕事を渡せるのは、たぶんかなり強い。


 僕は押し入れを調べた。


 雨宮透真がいた場所。


 畳んだ布団は少し湿っている。透明な傘の刺さっていた跡が、布団に丸い穴のように残っていた。


 その穴の奥に、小さな紙が挟まっていた。


 取り出す。


 紙というより、写真だった。


 古い写真。


 雨の日の団地の階段。


 小さな僕。


 黄色い傘。


 雨宮しずくらしき女の子。


 白い猫。


 そして、もう一人。


 顔だけが黒く塗り潰されている。


 でも体格からして、男の子だ。


 僕たちと同じくらいの年。


 いや、写真の中では子供だから、昔の同級生かもしれない。


 黒瀬が文字片を並べる手を止めた。


「それ」


「写真です」


「見せて」


 僕は写真を渡した。


 黒瀬はそれを見た瞬間、肩を震わせた。


「……この人」


「覚えていますか」


「覚えてない」


「でも」


「知ってる気がする」


 彼女は写真の黒く塗られた顔を指でなぞった。


「ここ、顔が見えないのに、なんか腹立つ」


「腹立つ?」


「うん。たぶん、この人、私をよくからかってた」


「どんなふうに」


「わかんない。でも、私が怒ると笑ってた気がする。嫌なやつ」


 黒瀬の目に涙が浮かんだ。


「嫌なやつだったはずなのに、なんで泣きそうになるの」


 誰も答えられなかった。


 しずくが、写真を見つめる。


「この人は、第7話にいます」


「知っているんですか」


 僕が聞くと、しずくは頷いた。


「名前は、言えません」


「なぜ」


「名前を言うと、第7話が始まります」


「始まると?」


「私は死にます」


 黒瀬が、唇を噛んだ。


「私も?」


「たぶん」


「水無月さんも?」


「たぶん、殺します」


 僕は息を止めた。


「僕が?」


「はい」


 しずくは、逃げずに僕を見た。


「第7話で、透真さんは私を殺し、黒瀬さんを殺し、名前のない三人目を殺しました」


 黒瀬が、震える声で言った。


「全員じゃん」


「はい」


「水無月さん、全滅ルートじゃん」


「その言い方は」


「茶化さないと吐きそうなの!」


 黒瀬が叫んだ。


 その目には、今度こそはっきり涙があった。


「何それ。第7話って何。なんで水無月さんがそんなことするの。さっきまでプリン食べて、説明できなくて、私に叩かれて、そんな普通に困った顔してる人が、なんで私たちを殺すの」


「それは」


 僕は写真を見た。


 黒く塗り潰された顔。


 首の後ろが冷える黒瀬。


 死を消したしずく。


 第7話で全員を殺す僕。


 その理由は、頭の奥にある。


 でも、まだ言葉にならない。


 言葉にしたら、始まる。


 始まれば、誰かが死ぬ。


「たぶん」


 僕は言った。


「僕は、全員を助けようとしたんだと思います」


 黒瀬は、涙目で僕を睨んだ。


「最悪の言い訳」


「はい」


「助けるために殺すって言う人、だいたい一番信用できない」


「僕もそう思います」


「じゃあ言わないでよ!」


「でも、それが一番近い気がするんです」


 しずくが静かに言った。


「透真さんは、第7話で朝を終わらせようとしました」


「朝を?」


「はい。毎朝、神様が死ぬ。それを止めるために、朝そのものを終わらせようとした」


「それで私たちを殺したの?」


 黒瀬の声は冷たかった。


 しずくは、痛みをこらえるように頷く。


「神様が死ぬ朝を止めるには、朝にいるものをすべて消す必要がありました」


「それ、救いじゃなくて心中じゃない」


「はい」


「はいって」


 黒瀬は、両手で顔を覆った。


「もうやだ……朝から倫理がぐちゃぐちゃ……」


 僕は、何も言えなかった。


 ただ、胸の奥で何かが疼いている。


 第7話の僕。


 全員を殺した僕。


 それは本当に、別の僕なのか。


 それとも、今の僕の中にもいるのか。


 黒瀬が顔を上げた。


「水無月さん」


「はい」


「今のあなたは、私たちを殺したい?」


「いいえ」


「朝を終わらせたい?」


「……わかりません」


「そこはいいえって言ってよ」


「言いたかったです」


 僕は正直に言った。


「でも、終わらせたい気持ちはあります。この朝が続けば、また神様が死ぬ。誰かが消える。黒瀬は何度も泣く。しずくさんは何度も自分を疑う。僕は何度も、自分が人間かどうかわからなくなる」


「だから終わらせたい?」


「はい」


「私を消してでも?」


「今は、嫌です」


「今は?」


「今は、絶対に嫌です」


 黒瀬は、じっと僕を見た。


 そして、小さく頷いた。


「じゃあ今は、それでいい」


「いいんですか」


「よくない。でも、全部永遠に約束しろって言っても無理でしょ。今だけでも嫌って言えるなら、今の水無月さんは大丈夫」


 黒瀬は写真を僕に返した。


「ただし、第7話の水無月さんは、あとでめちゃくちゃ怒る」


「僕なのに」


「あなたなのに」


「厳しいですね」


「厳しくするって決めたから。あんた、放っておくとすぐ人間やめそうになるし」


 しずくが、ふっと笑った。


「黒瀬さんは、透真さんの人間係ですね」


「人間係?」


「人間に戻す係です」


「何その変な役職」


「とても大切です」


「給料出る?」


「神様からは出ません」


「現実的な不満が残った」


 その時、畳に並べていた文字片が、勝手に動いた。


 黒瀬が「うわ」と言って後ずさる。


 文字片は、ひとりでに並び替わり、一つの文章を作った。


 第七話は、四人で始まり三人で終わる。


 黒瀬が息を止めた。


 写真の黒く塗られた人物。


 僕。


 しずく。


 黒瀬。


 四人。


「四人で始まり、三人で終わる」


 僕は呟いた。


 その瞬間、部屋の中に、もう一人分の気配が生まれた。


 姿はない。


 声もない。


 けれど確かに、誰かがいる。


 黒瀬が、ゆっくり振り返る。


「……いる」


「見えますか」


「見えない。でも、いる」


 しずくが、プリンをそっと置いた。


「第7話が近づいています」


「近づくって何」


 黒瀬が怒る。


「話数って歩いてくるものなの?」


「存在しないものほど、足音がします」


「そういう台詞、嫌いじゃないけど今は腹立つ!」


 部屋の隅。


 押し入れの前。


 何もない空間に、雨粒が一つ落ちた。


 今度は、下から上ではない。


 上から下。


 普通の雨。


 その雨粒が畳に落ちた瞬間、スマホが鳴った。


 通知。


 画面を見る。


【第7話を復元しますか?】

【はい/いいえ】


 黒瀬が、顔を青くした。


「選択肢出た」


「出ましたね」


「こういうの、絶対どっち押しても駄目なやつじゃん」


「そうでしょうね」


「冷静に言うな!」


 しずくが、震える声で言った。


「いいえを押してください」


「復元しない?」


「はい」


「でも、それだと第7話は」


「消えたままです」


「あなたが死んだ話も、黒瀬が死んだ話も、三人目も」


「消えたままです」


 黒瀬が低い声で言った。


「しずくさん」


「はい」


「それは、あなたが楽になる選択?」


 しずくは答えられなかった。


 黒瀬は僕を見る。


「水無月さん」


「はい」


「あなたは?」


 スマホの画面。


【はい/いいえ】


 たった二つ。


 世界はいつも、こんなふうに雑に選択肢を出す。


 けれど、人間の気持ちは二択ではない。


 復元したい。


 復元したくない。


 知りたい。


 知りたくない。


 助けたい。


 傷つきたくない。


 終わらせたい。


 終わらせたくない。


 全部、同時にある。


「選びません」


 僕は言った。


 黒瀬が目を見開く。


「え?」


「はいも、いいえも押しません」


「でも、それでどうするの」


「選択肢を疑います」


 僕はスマホを床に置いた。


 それから、紙とペンを取った。


 大学のレポート用に買った、百円ショップのボールペン。


 何でもないペン。


 何でもない紙。


 僕はそこに書いた。


【保留】


 その瞬間、スマホが震えた。


 画面の【はい/いいえ】の下に、三つ目の選択肢が現れた。


【保留】


 黒瀬が、ぽかんとした。


「増えた」


「増えました」


「選択肢って、書けば増えるの?」


「たぶん、人間はそうやって生きているんだと思います」


 しずくが、僕を見ていた。


 泣きそうな、笑いそうな、どちらでもない顔だった。


「透真さん」


「はい」


「ずるいです」


「すみません」


「でも、少し好きです」


 黒瀬が即座に顔を向けた。


「今そういうこと言う!?」


「はい」


「水無月さんが人間に戻りかけたタイミングで恋愛爆弾を投げないで! 情緒が渋滞する!」


「すみません」


「謝る時の顔が可愛いのもやめて! 怒りづらい!」


 しずくは本当に困った顔をした。


 僕は少しだけ笑ってしまった。


 今度の笑いでは、誰も消えなかった。


 スマホの画面で、【保留】が淡く光っている。


 その下に、新しい文字が浮かんだ。


【第7話は保留されました】

【次回、第8話へ進んでください】


 黒瀬が大きく息を吐いた。


「進むんだ」


「進むようです」


「第7話、結局存在しないまま?」


「保留です」


「保留って便利ね」


「人間らしいですね」


「いいじゃん、人間らしくて」


 しずくが静かに頷いた。


「はい。とても」


 その時、写真の黒く塗られた顔の部分が、少しだけ薄くなった。


 まだ顔は見えない。


 名前もわからない。


 でも、黒塗りの下に、うっすら口元だけが見えた。


 笑っていた。


 黒瀬が写真を見て、また涙を一粒落とした。


「……嫌な笑い方」


「思い出しましたか」


「少しだけ」


「何を」


「この人、たぶん私に言った」


 黒瀬は涙を拭かずに、写真を見つめた。


「依子は怒ってる時が一番生きてる、って」


 部屋の隅で、誰かが小さく笑った気がした。


 今度は怖くなかった。


 でも、胸が痛かった。


 スマホが最後に一度だけ震えた。


【第8話 遺言を書いたのは誰か】


 机の上に、新しい遺言が現れる。


 白い紙。


 黒い文字。


 その筆跡を見た瞬間、僕の背中が冷たくなった。


 僕の字だった。


 そこには、こう書かれていた。


 これまでの遺言は、すべて僕が書きました。

 ただし、僕はまだ書いていません。


 黒瀬が、それを覗き込んで言った。


「水無月さん」


「はい」


「次、あんたをめちゃくちゃ疑う回っぽい」


「そうですね」


「覚悟して」


「はい」


 しずくも、静かに僕を見る。


「透真さん」


「はい」


「私も、疑います」


「はい」


「でも、見捨てません」


 その言葉に、僕は頷いた。


 第7話は存在しない。


 けれど、痛みは残っている。


 殺した記憶はない。


 けれど、殺したかもしれない自分はいる。


 四人で始まった話は、三人で続いている。


 そして、保留された第7話は、きっといつか戻ってくる。


 僕は自分の筆跡で書かれた遺言を見つめた。


 まだ書いていないはずの僕の字。


 その字は、僕より少しだけ大人びていた。


 まるで、未来の僕が、過去の僕に嘘をついているみたいだった。


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