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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第6話 信じてはいけない第6話

 黒瀬依子の平手打ちは、思ったより痛かった。


 ぱん、という乾いた音が部屋に残っている。


 頬が熱い。


 痛みが遅れてじわじわ広がっていく。


 六畳一間の空気は、まだ少し紙の匂いがした。読了神が散ったあとに残った文字の欠片が、床のあちこちに落ちている。メロンパンの袋。雨宮透真の学生証。壊れたビニール傘。折れて死んだ玄関マット。最後のプリン。


 それら全部が、妙に正しい位置にあるように見えた。


 ああ、そうか。


 そうだったのか。


 僕は、最初から朝だった。


「……水無月さん」


 黒瀬が、僕の目の前で拳を握っていた。


 もう一回殴る気だ。


 いや、正確には殴るかどうか迷っている顔だった。怒っている。泣きそうでもある。怖がっている。自分がした平手打ちに少し驚いてもいる。


 人間の顔だ。


 複数の感情が同時に乗っていて、整理されていない。綺麗ではない。わかりやすくもない。


 でも、今の僕には、そのぐちゃぐちゃがひどく眩しかった。


「黒瀬」


 僕は言った。


「ありがとう」


「お礼じゃない!」


 黒瀬は本気で怒鳴った。


「私、あんたを褒めたんじゃないの! 叩いたの! 理解した顔すんなって言ったの! 急に全部わかったみたいな目をして、『僕は最初から朝だったのか』とか言い出されても、こっちは何一つわかってないの!」


「説明します」


「今すぐ!」


「はい」


「できるだけじゃなくて、ちゃんと!」


「はい」


 僕は頷いた。


 頷いた瞬間、頭の中に膨大なものが広がった。


 雨の日。


 団地の階段。


 白い猫。


 黄色い傘。


 まだ名前のある三人目。


 雨宮しずくが敵だった版。


 僕が敵だった版。


 黒瀬が記録しすぎて世界を壊した版。


 神様たちが毎朝死ぬ理由。


 遺言が不完全な理由。


 読者。


 作者。


 白紙。


 没。


 朝。


 僕。


 全部が繋がっていた。


 繋がりすぎていた。


 人間の頭で理解するには、あまりにも綺麗すぎた。


 だから危なかった。


 人間は、綺麗に理解しすぎると、たぶん人間ではなくなる。


「まず」


 僕は口を開いた。


「神様は、死んでいるんじゃない」


 黒瀬が眉をひそめる。


「死んでるでしょ。今朝からめちゃくちゃ死んでるでしょ」


「違うんです。死んでいるように見えるだけで、本当は――」


 そこで、言葉が止まった。


 舌が動かない。


 喉の奥に、透明な鍵がかかったようだった。


 僕はもう一度言おうとした。


「本当は、神様は――」


 言葉が出ない。


 代わりに、口の中から小さな紙片が落ちた。


 ぺら、と。


 畳の上に落ちたそれには、僕の字でこう書かれていた。


 そこはまだ書いてはいけません。


「……」


 黒瀬が紙を拾った。


 読んだ。


 顔を歪めた。


「腹立つ!」


 黒瀬は紙をぐしゃっと握り潰した。


「説明しろって言ってるのに、書いてはいけませんって何!? 誰の都合!? 水無月さん、あんた今、自分で出したの?」


「たぶん」


「たぶんじゃない! 口から紙出すな! 怖い!」


「僕も怖いです」


「怖いならもっと怖がって! 今のあんた、怖いことを怖いって思ってる顔じゃない!」


 その言葉は刺さった。


 僕は、自分の頬に触れた。


 黒瀬に叩かれたところが、まだ熱い。


 痛い。


 痛いということが、ぎりぎり僕を人間に戻していた。


「黒瀬」


「何」


「もう一回叩いてもらっていいですか」


「嫌よ!」


「なぜ」


「私を暴力担当にしないで! さっきのも、こっちだって結構ショックだったんだから!」


 黒瀬は、思ったより傷ついた顔をした。


 僕はすぐに謝ろうとして、口を閉じた。


 謝罪は便利すぎる。


 猫に命を預けたばかりの僕が、簡単に使っていい言葉ではない気がした。


「……すみません、と言いたいですが」


「言いたいですが?」


「たぶん今言うと、僕は楽になります」


 黒瀬は一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ表情を緩めた。


「じゃあ、今は言わないで」


「はい」


「あとで言って。ちゃんと自分が楽になるためじゃなくて、私に悪かったと思った時に」


「わかりました」


「本当にわかってる?」


「今は、少しだけ」


「よし。少しだけでいい。全部わかるな」


 黒瀬はそう言った。


 その言葉に、しずくが顔を上げた。


「全部わかるな」


 彼女は、黒瀬の言葉を繰り返した。


「はい」


 黒瀬はしずくを見る。


「今の水無月さん、たぶん全部わかったら駄目なやつです。さっきから目が遠いし、言葉が神様寄りになってるし、感情が薄い。こういう時は、たぶん人間側の小さいことを言わせた方がいいです」


「小さいこと」


「朝ごはん食べた? とか。家賃払った? とか。昨日の靴下どこやった? とか」


「なるほど」


 しずくは真剣に頷いた。


「では、透真さん」


「はい」


「プリン、食べますか?」


「それは、しずくさんが食べるはずだったのでは」


「今は透真さんに必要です」


「神様の判断ですか」


「いえ」


 しずくは、少しだけ迷ってから言った。


「女の子の判断です」


 黒瀬が小さく「お」と言った。


 僕はしずくを見た。


 彼女は半透明のまま、最後のプリンを差し出している。


 雨の日だけ存在する神様。


 第1話のヒロイン。


 敵だったかもしれない存在。


 過去の版で僕と結婚していたかもしれない存在。


 でも、今、目の前で僕にプリンを渡そうとしている女の子。


 僕はプリンを受け取った。


 プラスチックのカップが冷たい。


 蓋はもう開いている。


 安い甘い匂いがする。


 それだけで、頭の中の巨大な理解が少し遠のいた。


「……甘い匂いです」


「はい」


「普通の」


「普通のプリンです」


「神様の遺言だったのに」


「今は、ただのプリンです」


 しずくはそう言った。


 僕はスプーンですくって、一口食べた。


 甘い。


 ひどく甘い。


 安っぽくて、少しぬるくなっていて、特別な味ではない。


 その普通さが、胸に落ちた。


「水無月さん」


 黒瀬が、正座したまま少し身を乗り出す。


「今、何がわかってるのか、説明できる範囲でいいから言って」


「はい」


「ただし、神様っぽい言い方禁止」


「神様っぽい言い方とは」


「『最初から朝だった』みたいなやつ」


「では、人間っぽく言います」


「お願いします」


 僕は少し考えた。


 理解したことを、そのまま言おうとすると紙になる。


 だから、人間の言葉に崩さないといけない。


 完全な形ではなく、雑で、穴だらけで、少し間違っている形に。


「僕はたぶん、人間として生まれたんじゃありません」


 黒瀬の眉が上がった。


「もう雲行きが怪しい」


「でも、人間として育ちました」


「続けて」


「僕は、朝を迎えるための役割だったんだと思います」


「また怪しくなってきた」


「毎朝、神様が死ぬ。そうすると、世界は次の朝に進める」


「え、神様って日めくりカレンダーなの?」


「黒瀬、その言い方はひどいです」


「わかりやすくしようとしてるの!」


 しずくが小さく言う。


「でも、近いかもしれません」


「近いの!?」


 黒瀬は本気で嫌そうな顔をした。


「神様って、もっと大事な存在じゃないの?」


「大事です」


 僕は言った。


「だから死ぬんです」


「……それ、人間っぽい言い方?」


「すみません。今のは神様寄りでした」


「気をつけて。あんた今、ちょっと危ない」


 黒瀬がすぐに指摘する。


 僕は頷いた。


「神様たちは、世界の余白みたいなものを持っているんです。雨の日の寂しさとか、笑い損ねた冗談とか、忘れた猫の名前とか、読まれなかった設定とか。そういう、人間が毎日取りこぼすものを、神様が抱えている」


「それは、少しわかる」


 黒瀬が小さく言った。


「忘れたけど残ってる感じ。メロンパンとか、傘とか」


「はい」


「でも、それでなんで死ぬの?」


「人間が朝を普通に迎えるためには、取りこぼしたものをどこかで処理しないといけない。見なかったことにしたもの。いなかったことにしたもの。言わなかったこと。謝らなかったこと。そういうのが溜まると、世界が進めなくなる」


「だから、神様が死ぬ?」


「たぶん」


「都合よく死なされてるだけじゃない」


 黒瀬の声が低くなった。


 しずくが目を伏せる。


 僕は頷いた。


「そうです」


 言った瞬間、部屋の中の空気が少し重くなった。


 黒瀬は壊れた傘を抱え直した。


「じゃあ、毎朝神様が死ぬって、世界が綺麗に回るために、誰かが汚れ役を押しつけられてるってこと?」


「近いです」


「最悪」


「はい」


「はいって言うな」


「でも、そうです」


 黒瀬は歯を食いしばった。


 怒っている。


 たぶん、神様のために。


 今朝まで神様なんて信じていなかったはずの彼女が、もう神様の扱いに怒っている。


 それが少しおかしかった。


 少しだけ、救いだった。


「じゃあ、透真さんは?」


 しずくが聞いた。


「透真さんは、その中で何なのですか」


 僕はスプーンを置いた。


 ここから先を言えば、何かが変わる。


 わかっていた。


 でも、言わないわけにはいかない。


「僕は、神様を死なせる朝です」


 黒瀬が、ぎりっと目を細めた。


「言い方」


「人間っぽく言い直します」


「お願い」


「僕はたぶん、神様が死ぬ場所を作っているんです。僕の部屋に神様が来るんじゃなくて、僕の部屋が神様を死なせる朝になる」


「……だから、僕は最初から朝だった?」


「はい」


 黒瀬は額を押さえた。


「腹立つ。説明されても腹立つ」


「すみません」


「いや、少しわかったのも腹立つ」


「それは、いいことですか」


「よくない。でも、置いていかれるよりはいい」


 黒瀬は深く息を吐いた。


「つまり、水無月さんは人間っぽく生活してたけど、本当は“朝”という現象に近い。で、神様は毎朝その場所に来て死ぬ。死ぬことで、人間が忘れたものとか、世界の余白とか、そういうのを処理してる」


「かなり近いです」


「でも、今までの水無月さんはそれを知らなかった」


「はい」


「知ったらどうなるの?」


 その質問を聞いた瞬間、僕の中の何かが開きかけた。


 答えはわかっている。


 知ったら、僕は――。


 床に、また紙が落ちた。


 口からではない。


 今度は、僕の影から出てきた。


 黒瀬が拾う。


 読んだ。


 顔がひきつった。


 知った朝は、人間をやめます。


「……水無月さん」


「はい」


「これ、かなり嫌なこと書いてある」


「でしょうね」


「でしょうね、じゃない!」


 黒瀬は紙を僕の目の前に突きつけた。


「知った朝は、人間をやめます。って何!? あんた今、知りかけてるんでしょ!? やめて! 知らないで!」


「知らないでと言われましても」


「じゃあ忘れて!」


「忘れると、誰かが死にそうです」


「もう! この世界、覚えても忘れても地獄!」


 黒瀬の叫びに、しずくが静かに頷く。


「だから、たぶん真ん中が必要なのです」


「真ん中?」


「完全に知らず、完全に忘れない」


 しずくは僕を見た。


「疑いながら、持っている。読了神様がそう言っていました」


「信じてはいけない神様の言葉ですよ」


「はい」


「でも、持っていていい?」


「はい」


 しずくは、少し不安そうに言った。


「私は、それを持っていたいです」


 僕は彼女を見た。


 この版では敵だったかもしれない。


 過去の版では妻だったかもしれない。


 第1話の死体ではなかったかもしれない。


 でも、今、彼女は自分の不確かさに怯えている。


 その怯え方を、僕はもう無視できなかった。


「しずくさん」


「はい」


「あなたは、自分が敵だったかもしれないことが怖いですか」


「怖いです」


 即答だった。


「私は、透真さんを傷つけたくありません。でも、もし私の中に、透真さんを傷つけたがっている私が残っていたらと思うと、怖いです」


「それは、しずくさんだけじゃないと思います」


「え?」


「僕の中にも、神様を死なせる朝がある。黒瀬の中にも、全部を記録して世界を壊した黒瀬がいるかもしれない」


「ちょっと」


 黒瀬が手を上げた。


「私を巻き込む時は事前に一言」


「すみません」


「まあ、否定はできないけど。私、たぶん記録すると思うし」


 黒瀬は苦い顔をした。


「忘れるの嫌だから。誰かが消えるの、もう嫌だから。だから全部書くと思う。書いて、貼って、写真撮って、録音して、誰が忘れても自分だけは忘れないようにすると思う」


「それで世界が壊れるとしても?」


「……わかんない」


 黒瀬は唇を噛んだ。


「でも、壊れるって聞いても、じゃあ忘れましょうとはならない。そこが私の嫌なところだと思う」


「嫌なところではありません」


 しずくが言った。


「怖いところです」


「それ、褒めてる?」


「はい」


「神様の褒め方、難しい」


「でも、黒瀬さんの怖さは、たぶん私たちに必要です」


 黒瀬は少しだけ目を丸くした。


「必要?」


「はい。透真さんが全部を理解してしまわないために。私が自分を信じすぎないために。忘れたものを、全部消えたことにしないために」


 黒瀬は照れたように目を逸らした。


「……そういうの、急に言わないで」


「黒瀬も同じこと言ってましたね」


「水無月さんは黙って」


「はい」


 会話をしているうちに、頭の中の巨大な理解は少しずつ薄くなっていった。


 完全に消えたわけではない。


 でも、人間の手で持てる大きさまで縮んでいく。


 それでいい。


 たぶん、全部わかってはいけない。


 物語の中にいる者が、物語を外から見てしまうと、心臓の置き場所を失う。


 僕は、まだここにいたい。


 この部屋に。


 この朝に。


 プリンの甘さが残る舌で、黒瀬に怒られ、しずくに心配され、壊れた傘とメロンパンと死んだ玄関マットに囲まれていたい。


 まともではない。


 でも、今の僕にとっては、それが一番人間らしい場所だった。


「それで」


 黒瀬が言った。


「三人目の名前は?」


 空気が止まった。


 しずくも、僕も、同時に黒瀬を見る。


 黒瀬は真剣な顔をしていた。


「わかってるんでしょ。さっき、全部わかったみたいな顔してた。だったら、私が忘れた三人目の名前もわかってるんじゃないの」


 僕は唇を噛んだ。


 わかっている。


 名前は、ある。


 頭の中に、ちゃんとある。


 言える。


 言えば、黒瀬は泣くかもしれない。


 世界が壊れるかもしれない。


 その人がもう一度死ぬかもしれない。


 でも、言わなければ、名前はずっと僕の中で腐る。


「水無月さん」


 黒瀬の声は震えていた。


「私、怖いよ。聞いたら何か変わる気がする。でも、聞かないままにするのも怖い。私、また忘れるかもしれない。だから、今聞きたい」


「黒瀬」


「お願い」


 彼女は、壊れた傘を抱えたまま言った。


「私が忘れた人を、私に返して」


 猫たちの声が、頭の奥で蘇る。


 返せ。


 最初の名前を返せ。


 僕は息を吸った。


 名前を言おうとした。


「その人の名前は――」


 口が動かない。


 またか。


 そう思った瞬間、今度は紙が出なかった。


 代わりに、部屋の電気が一斉に消えた。


 朝なのに。


 窓の外は明るいのに。


 部屋の中だけ、真夜中になった。


 黒瀬が息を呑む。


 しずくが僕の袖を掴もうとして、やはりすり抜ける。


 暗闇の中で、机の上に置かれたメロンパンだけが、ぼんやり光っていた。


 そして、誰かの声がした。


 若い男の声。


 聞き覚えがあるような、ないような。


 いや、ある。


 あったはずだ。


 昨日まで、三人で話していた声。


『まだ言わないで』


 黒瀬が固まった。


「……今の」


 彼女の声が震える。


「私、今の声、知ってる」


 暗闇の中で、メロンパンの袋が少しだけ揺れた。


『依子が思い出すと、依子が敵になる』


「誰?」


 黒瀬が一歩前に出た。


「ねえ、誰なの? 私、あなたを知ってるの? 昨日まで一緒にいたの?」


『ごめん』


「謝らないで。名前を言って」


『まだ、第7話じゃない』


 その言葉の直後、部屋の明かりが戻った。


 いや、戻ったのではない。


 朝が戻った。


 窓から光が差し込み、畳の上の文字片が見え、折れた玄関マットが玄関に転がっている。


 黒瀬は、立ったまま泣いていた。


 声を出さずに。


 自分が泣いていることに気づいていないみたいに。


「黒瀬」


「聞こえた」


「はい」


「私、あの声、知ってる」


「はい」


「でも名前が出ない」


「……はい」


 黒瀬は、拳を握った。


「腹立つ」


「はい」


「すごく腹立つ」


「はい」


「私、敵になってもいいから思い出したいって言いそうになった」


「それは」


「わかってる。駄目なんでしょ。たぶん、今は駄目なんでしょ」


 黒瀬は乱暴に涙を拭いた。


「でも、いつか言って。水無月さんが言えないなら、私が自分で探す。しずくさんも止めないで」


 しずくは静かに頷いた。


「止めません」


「危なくても?」


「危ない時は、一緒に危ないと言います」


「何それ」


「止めるのではなく、一緒に怖がります」


 黒瀬は一瞬だけ呆れたような顔をした。


 それから、泣きながら少し笑った。


「神様って、不器用だね」


「半分ですので」


「もう、それ言われると何も言えない」


 僕は、メロンパンを見た。


 まだ第7話じゃない。


 その言葉が、嫌に残った。


 まるで、第7話に何かがあると言っているようだった。


 いや、読了神は言っていた。


 次話タイトルが本文中に現れる。


 第7話は存在しません。


 僕はスマホを見た。


 画面には、こう表示されていた。


【第6話 信じてはいけない第6話】


 その文字が、ゆっくり滲む。


 黒瀬が近づいてくる。


「またスマホ?」


「はい」


「次の表示、嫌な予感しかしない」


 その予感は当たった。


 画面の文字が消え、新しい文字が浮かぶ。


【第7話 存在しない第7話】


 黒瀬は眉をひそめた。


「存在しない第7話?」


 表示がまた変わる。


【第7話は存在しません】


「どっちよ」


 黒瀬が苛立った声を出した。


 表示がさらに変わる。


【あなたは第7話で雨宮しずくを殺しました】


 しずくが、息を止めた。


 僕はスマホを落としそうになった。


 黒瀬が、震える声で言った。


「……第7話、存在しないんじゃなかったの?」


 その時、机の上に新しい遺言が現れた。


 紙ではない。


 メロンパンの袋の内側に、油の染みのような文字が浮かんでいた。


 第7話を探さないでください。

 探すと、黒瀬依子が自分の死に方を思い出します。


 黒瀬の顔から、血の気が引いた。


「私の、死に方?」


 しずくが、震える声で言った。


「黒瀬さんは、第7話で……」


「言わないで」


 黒瀬が即座に遮った。


 声は震えている。


 でも、目は強かった。


「まだ言わないで。私、たぶん今聞いたら駄目になる」


 僕は頷いた。


 黒瀬は、自分の胸を押さえた。


「怖い」


「はい」


「でも、逃げない」


「はい」


「水無月さん」


「はい」


「もし第7話で私が死んでたとしても」


 黒瀬は、涙の残った目で僕を見た。


「今ここにいる私を、勝手に終わった人扱いしないで」


 その言葉は、部屋の中に深く残った。


 しずくが小さく頷く。


「はい」


 僕も頷いた。


「約束します」


 黒瀬が少しだけ笑った。


「さっき、約束すると何か死にそうって言ってたのに」


「これは、死んでも守る種類の約束だと思いました」


「重い」


「すみません」


「でも、悪くない」


 その瞬間。


 部屋の時計が、六時四十四分を指した。


 二分進んだ。


 朝が、少しだけ前へ進んだ。


 僕たちは三人で、その小さな針の動きを見ていた。


 たった一分。


 たった一分なのに、ひどく遠くまで来た気がした。


 そして、スマホの画面が最後に一度だけ光った。


【第7話は存在しません】


 その下に、小さく文字が追加される。


【ただし、登場人物は全員覚えています】


 黒瀬が乾いた笑いを漏らした。


「最悪」


 しずくが、プリンのスプーンを握りしめた。


「はい」


 僕は、頬の痛みを確かめた。


 まだ痛い。


 なら、まだ人間だ。


 少なくとも今は。


 だから僕は言った。


「探しましょう」


 黒瀬が僕を見た。


「第7話を?」


「存在しないなら、余計に」


 黒瀬はしばらく黙った。


 それから、壊れた傘を肩に担いだ。


「ほんと、主人公って面倒」


「僕が主人公かどうかは」


「今は主人公ってことにしといて。私が怒りやすいから」


「わかりました」


 しずくが、静かに立ち上がる。


「透真さん」


「はい」


「第7話で私を殺したとしても」


 彼女は、雨みたいな目で僕を見た。


「今の私は、まだここにいます」


「はい」


「だから、探してください」


「わかりました」


 僕たちは、存在しない第7話を探すことにした。


 まだ朝は終わらない。


 神様は、次の朝を待っている。


 そして、どこかで消えたはずの三人目が、まだ言うな、と僕たちに頼んでいる。


 机の上で、メロンパンの袋がかすかに揺れた。


 まるで、名前を呼ばれるのを待っているみたいに。


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