第5話 第1話を読んだ神様
玄関の向こうに立っている誰かは、かなり礼儀正しかった。
ぴんぽん。
チャイムの音が、もう一度鳴る。
「すみません。第1話を読ませていただいた者です」
ドア越しの声は、穏やかだった。
柔らかい男の声。
年齢はわからない。若くも聞こえるし、年配にも聞こえる。学校の先生が保護者面談で出す声にも似ているし、書店員が本を勧める時の声にも似ている。
少なくとも、押し売りや宗教勧誘よりは丁寧だ。
問題は、訪問理由がこの世のどんな訪問販売よりも怖いことだった。
「感想をお伝えに来ました」
ドアの向こうの声が言った。
「あなたの第1話、嘘から始まっています」
部屋の中が静かになった。
雨宮しずくは、プリンのスプーンを持ったまま固まっている。
黒瀬依子は壊れたビニール傘を構えている。構え方だけは勇ましいが、膝は少し震えていた。
僕は、さっき消えた雨宮透真の学生証を握ったまま、玄関を見ていた。
第1話が嘘。
その言葉は、僕の頭の中で妙に重く響いた。
僕にとって第1話とは、今日の朝だ。
朝起きたら、しずくが死んでいた。
雨が逆に降っていた。
プリンを食べた。
母さんに電話したら、僕は明日産まれる予定だと言われた。
そのあと、しずくが半分だけ死に損ねて、黒瀬が来て、笑う神様が来て、一人が消えて、猫に謝って、町が死んで、押し入れから別の僕が出てきた。
いや、こうして並べると、今日一日があまりにも濃すぎる。
今、まだ朝なのだろうか。
時計を見る。
六時四十二分。
「……止まってる」
僕が呟くと、黒瀬がものすごく嫌そうな顔をした。
「ちょっと待って。朝起きた時も六時四十二分じゃなかった?」
「はい」
「じゃあ、私たち、朝からこんなに大騒ぎして、一分も進んでないの?」
「そうなりますね」
「嘘でしょ」
「第1話が嘘らしいので」
「うまいこと言ったみたいな顔しないで。全然うまくない。怖いだけ」
黒瀬はそう言いながら、玄関から一歩後ずさった。
でも、帰ろうとはしない。
この数時間、いや、この止まった朝の中で、黒瀬は何度も帰りたいと言った。何度も泣きそうになった。何度も怒った。なのに、結局帰らない。
人間は面倒だ。
そして、ありがたい。
「透真さん」
しずくが、小さく僕を呼んだ。
いつもより声が弱かった。
「開けない方がいいかもしれません」
「開けた方がいい時と、開けない方がいい時の違いがもうわからないんですが」
「今回は、本当に」
「しずくさん」
黒瀬が遮った。
「そうやって言う時ほど、だいたい大事なこと隠してる顔してる」
しずくが黙った。
黒瀬は壊れた傘を下ろさないまま、少しだけ目を細める。
「ごめん。疑いたいわけじゃない。でもさっき、押し入れ水無月が言ってたじゃない。第1話で死んだ神様は、しずくさんじゃないって」
「雨宮透真です」
「え?」
「彼の名前は、雨宮透真です」
しずくは、静かに言った。
黒瀬は一瞬だけ口を閉じた。
そして、気まずそうに頷いた。
「……ごめん。そうだった。雨宮透真さん」
「ありがとうございます」
「私にお礼を言う場面じゃないでしょ」
「名前を呼んでもらえたので」
しずくの言葉に、黒瀬は返事を失った。
僕も少しだけ胸が詰まった。
名前は大事だ。
猫もそう言っていた。
笑守も、消えた誰かも、雨宮透真も、名前にまつわる何かを残していった。
忘れることは、殺すことに近い。
なら、呼ぶことは何なのだろう。
生かすことに近いのか。
それとも、もう一度死なせることに近いのか。
ぴんぽん。
三度目のチャイム。
玄関の向こうの男は、声を荒げない。
ただ穏やかに言った。
「開けていただけない場合、このまま感想を読み上げます」
「感想って何なの!?」
黒瀬が叫んだ。
「こっちは生きるか死ぬか、いや、いたことになるかならないかの瀬戸際なのに、なんで読書感想文みたいなテンションで来るの!?」
ドアの向こうから、少し嬉しそうな声が返ってきた。
「読書感想文。いい言葉ですね」
「反応しなくていい!」
「黒瀬依子さん。あなたのツッコミは、第2話以降、作品の可読性をかなり支えています」
「私、褒められてるの!?」
「はい」
「誰目線で!?」
「第1話を読んだ神様目線です」
黒瀬は両手で顔を覆った。
「いやだ……神様にキャラ評価されてる……」
僕はドアの前に立った。
開けるしかない。
こういう時、開けるしかない。
開けなければ安全、という段階はとっくに過ぎている。
この部屋はもう、扉を閉めていれば守られる場所ではない。神様は押し入れから出るし、猫は廊下にいるし、遺言は机の上に勝手に現れる。
なら、外にいるだけましだ。
僕は鍵を開けた。
ドアを開ける。
そこに立っていたのは、黒いスーツを着た男だった。
年齢は三十代前半くらいに見える。短く整えた髪。細い銀縁眼鏡。手には、赤い付箋が大量についた文庫本のようなものを持っている。
見た目だけなら、出版社の編集者か、大学の非常勤講師か、保険の営業マン。
ただ、その顔には目がなかった。
いや、目の位置に、文字があった。
右目の場所には「読」。
左目の場所には「了」。
読了。
黒瀬が、喉の奥から変な声を出した。
「ひっ……目が、目が文字……!」
男は丁寧に会釈した。
「初めまして。私は読了神と申します。読まれた物語の最後にだけ発生する、非常に地味な神様です」
「目が読了の神様、地味ではないと思います」
僕が言うと、読了神は少し嬉しそうにした。
「そう言っていただけると幸いです。地味すぎて第1稿では名前もありませんでしたので」
「また稿の話……」
黒瀬が呻く。
しずくは、僕の後ろで微動だにしない。
読了神は、部屋の中を見回した。
床の水たまり。
透明な傘。
学生証。
メロンパン。
壊れたビニール傘。
最後のプリン。
それらを一つずつ確認するように視線を動かす。
目が文字なので、視線という表現が正しいのかはわからない。
「なるほど。第4話まで進行済みですね」
「進行済みって何ですか」
黒瀬が噛みつく。
「私たち、ゲームのイベント管理されてるの?」
「ゲームではありません」
読了神は穏やかに答えた。
「小説です」
「もっと嫌!」
黒瀬が本気で嫌そうな顔をした。
「ゲームならまだボタン押せば戻れそうだけど、小説ってことは書かれたら終わりじゃない!」
「書き直しは可能です」
「それはそれで怖い!」
「おっしゃる通りです」
読了神は素直に頷く。
その落ち着きが、逆に不気味だった。
こちらがどれだけ混乱しても、彼は一行も動揺しない。まるで、僕たちの混乱そのものを既読済みの文章として眺めているようだった。
「どうぞ」
彼は手にしていた文庫本を開いた。
「まず、第1話についてですが」
「ちょっと待ってください」
僕は言った。
「その前に、あなたは死ぬ神様ですか」
読了神は、本から顔を上げた。
「はい」
「今日、僕の部屋で?」
「正確には、あなたの部屋で死ぬ予定でした」
「予定でした?」
「ええ。ですが、あなたが玄関で迎えたため、死に場所が少しずれました」
「ずれると、どうなりますか」
「玄関マットが死にます」
全員が玄関マットを見た。
安物の青い玄関マット。
昨日、いや、いつの昨日かはわからないが、洗濯をさぼったせいで少し汚れている。
黒瀬が顔をしかめた。
「玄関マットって死ぬの?」
「物にも読後感はあります」
「情報が増えるたびに、世界が面倒になる」
「黒瀬さんのそういう反応は非常に良いですね」
「評価しないで!」
読了神は部屋に上がろうとして、靴を脱いだ。
礼儀正しい。
神様は、死ぬ前ほど礼儀正しくなる傾向があるのかもしれない。
いや、笑守はそうでもなかった。
猫の王様は偉そうだった。
しずくはプリンを欲しがっていた。
神様にも個体差があるらしい。
知りたくなかった。
「お邪魔します」
読了神は、玄関マットを避けて部屋に入った。
その瞬間、玄関マットが静かに折れた。
誰も触れていないのに、真ん中から二つに折れた。
黒瀬が小さく悲鳴を上げる。
「死んだの?」
「死にました」
読了神が答える。
「玄関マットが?」
「はい」
「ご冥福を……?」
「ありがとうございます」
「この会話、何?」
黒瀬は自分で言って自分で頭を抱えた。
しずくが、折れた玄関マットに向かってそっと手を合わせる。
黒瀬がそれを見て、さらに複雑な顔になった。
「しずくさん、そういうところ丁寧なの、余計に感情が迷子になる」
「死んだものには、できるだけ礼を尽くした方がいいです」
「それは、まあ……そうかもしれないけど」
「玄関マットにも?」
僕が聞くと、しずくは真面目に頷いた。
「玄関マットは、毎日誰かの帰宅を最初に受け止めるものです」
「急にいい話にしないでください。泣くタイミングがわからなくなる」
読了神は、部屋の真ん中に正座した。
スーツ姿で正座。
妙に似合っている。
僕たちも、なんとなく向かいに座った。
黒瀬は座った直後に「あ、なんで私まで正座してるの」と文句を言ったが、そのまま座っていた。
しずくは僕の横にふわりと座る。正確には浮いている。プリンはまだ手に持ったままだ。
読了神は、文庫本に挟んだ赤い付箋の一枚を開いた。
「では、第1話について」
「はい」
「冒頭の『朝起きると、僕の部屋で知らない女の子が死んでいた』は、強いです」
「ありがとうございます?」
「ただし、事実ではありません」
胸の奥が冷えた。
「事実ではない?」
「はい。第1話で死んでいたのは、雨宮しずくさんではありません」
しずくの手が、ほんの少し震えた。
プリンのスプーンが、カップの縁に当たって小さく鳴る。
「では、誰ですか」
僕が聞く。
「第1話で死んでいたのは、『雨宮しずくの形をした読まれなかった神様』です」
黒瀬が眉を寄せる。
「読まれなかった神様?」
「はい」
読了神は丁寧に頷いた。
「物語には、書かれなかった設定、採用されなかった会話、登場しなかった人物、語られなかった過去があります。それらは消えるわけではありません。読まれないまま、どこかに溜まります」
「没設定みたいな?」
「近いです」
「没設定って神様になるの?」
「なる場合があります」
「嫌な創作論を聞かされてる気がする」
黒瀬は青ざめた顔で言った。
「じゃあ、第1話のしずくさんは、本物のしずくさんじゃないってこと?」
「半分正解です」
「半分やめて。しずくさんで足りてるから」
しずくが、控えめに手を上げた。
「すみません」
「しずくさんに怒ってるわけじゃないから!」
黒瀬は慌てた。
読了神は、しずくを見た。
文字の目。
読。
了。
その二文字が、しずくの半透明な身体を映しているように見えた。
「雨宮しずくさん。あなたは第1話で死にました。けれど、第1話で死んでいた存在とは同一ではありません」
「それは」
しずくの声がかすれる。
「私は、偽物ということですか」
「いいえ」
読了神は即答した。
「あなたは本物です。ただし、本物であることと、最初に登場した存在であることは一致しません」
「……意味が」
しずくはそこで口を止めた。
意味がわからない。
その言葉を言いかけたのだろう。
彼女ももう、その言葉の危うさを知っている。
黒瀬が、小さく息を吐いた。
「言いたいことはわかる。言わないけど。私も言いたい」
「お二人とも賢明です」
「褒めないで。腹立つから」
僕は読了神を見た。
「あなたの言うことは、信じてはいけないと遺言に書いてありました」
「はい」
「でも、あなたはずいぶん断定的に話しますね」
「断定的な嘘ほど読みやすいので」
黒瀬が顔をしかめた。
「今、自分で嘘って言った?」
「はい」
「じゃあ信じなくていいの?」
「信じない方がいいです」
「じゃあ何しに来たの!?」
「感想を伝えに」
「帰れ!」
黒瀬の叫びは、たぶんこの部屋にいる全員の気持ちを代表していた。
読了神は、しかし少しも不快そうにしなかった。
「いい反応です」
「評価すんな!」
「黒瀬さん」
僕が止める。
「たぶん、この神様はそういう反応も読んでます」
「読まれてるのが嫌なのよ!」
黒瀬は壊れた傘で畳を軽く叩いた。
「読まれるって何? 私の怖がり方も、怒り方も、メロンパン見て泣いたことも、全部どこかの誰かに読まれてるってこと? ふざけないでよ。こっちは本気で怖いのに。あんたたち神様は、すぐ『良い反応』とか『可読性』とか言うけどさ、私は読まれるために怖がってるんじゃないんだけど!」
その声は、部屋をまっすぐ打った。
読了神が、初めて少し黙った。
黒瀬は、止まらなかった。
「私、何か忘れてるんでしょ。誰かを忘れてるんでしょ。でもそれが誰かわからないの。わからないまま、変な神様が来て、変なルールを出して、変な感想を言ってくる。読者とか第1話とか、そういう言葉で私たちを外側から見るのやめてよ。中にいる側は、普通に痛いんだから」
黒瀬の手が震えていた。
壊れた傘の骨が、かすかに鳴る。
しずくが、黒瀬を見つめていた。
読了神は、文庫本を静かに閉じた。
「失礼しました」
「……謝るの?」
「はい。感想を伝える神様ですが、感想によって登場人物を傷つける権利はありません」
「登場人物って言うな」
「失礼。黒瀬依子さん」
黒瀬は、それでも不満そうだった。
けれど、少しだけ息を吐いた。
「……名前で呼ばれるのは、まあ、さっきよりまし」
読了神は、深く頭を下げた。
礼儀正しい。
でも、その礼儀がどこまで本物なのかわからない。
信じてはいけない神様。
そう書かれていた。
では、謝罪も信じてはいけないのか。
傷ついた黒瀬の怒りを受け止めたように見える、この態度も、ただの演出なのか。
「水無月透真さん」
読了神が、今度は僕を見る。
「あなたに必要なのは、正解ではありません」
「では何ですか」
「疑う順番です」
「疑う順番?」
「はい。すべてを同時に疑うと、人間は壊れます。だから一つずつ疑ってください」
「まず何を疑えばいいんですか」
読了神は、しずくを見た。
しずくがびくりとする。
僕は無意識に、彼女との間に少し身体を入れた。
黒瀬がそれを見て、ものすごく小さく「お」と言った。
「黒瀬」
「何も言ってない」
「言いました」
「今のは言ったうちに入らない」
読了神は、穏やかに言った。
「まず、雨宮しずくさんを疑ってください」
しずくの表情が、静かに凍った。
僕は読了神を睨んだ。
「なぜですか」
「彼女は、最初の版では敵でした」
部屋の温度が下がった気がした。
黒瀬が、言葉を失う。
しずくは、スプーンを握る手に力を込めた。
半透明の手なのに、スプーンが曲がりそうに見えた。
「敵」
僕は繰り返した。
「しずくさんが?」
「はい」
「何の敵ですか」
「あなたの敵です」
「僕の」
「そして、世界の敵です」
「……信じません」
「それで構いません」
読了神は静かに言った。
「私の言うことは信じてはいけません」
「便利ですね、その立場」
「便利です」
「認めるんですか」
「神様は、都合の悪いことも時々認めます。そこが人間より少しだけ厄介です」
黒瀬が疲れた顔で言った。
「自分で厄介って言うタイプが一番厄介なのよ」
「その通りです」
「肯定するな!」
しずくは黙っていた。
僕は彼女を見た。
彼女は、こちらを見ようとしない。
「しずくさん」
僕が呼ぶ。
「はい」
「何か、覚えていますか」
「覚えていません」
即答だった。
でも、まただ。
覚えていないという声が、覚えているものを隠している。
「本当に?」
僕が聞くと、しずくはようやく僕を見た。
雨の目。
少しだけ傷ついた目。
「透真さんは、私を疑いますか」
その問いは、ずるかった。
疑うか疑わないか。
はいか、いいえか。
でも、僕の中の答えはそんなに単純ではなかった。
僕は、しずくを信じたい。
でも、何も疑わずに信じることは、たぶん彼女を人間扱いしないことに近い。
神様だから信じる。
ヒロインだから信じる。
可哀想だから信じる。
それはきっと、違う。
雨宮透真が言っていた。
目の前にいる女の子として扱え、と。
なら、疑うことも必要なのかもしれない。
「疑います」
僕は言った。
しずくの目が揺れた。
黒瀬が息を呑む。
僕は続けた。
「でも、疑うことと、見捨てることは違います」
しずくが、瞬きをした。
「……違うのですか」
「違います。たぶん」
「たぶん」
「すみません。僕も人間初心者みたいなところがあるので」
黒瀬が横から言った。
「そこは、まあ、全員初心者でしょ。人間なんて毎日初見みたいなものだし」
「黒瀬さん」
「何」
「今の、少しいいこと言いましたね」
「言ったあとに自分でもちょっと思ったから、わざわざ指摘しないで。恥ずかしい」
しずくが、小さく笑った。
読了神は、その様子を静かに見ていた。
「なるほど」
「何ですか」
僕が聞くと、彼は文庫本をまた開いた。
「この版のしずくさんは、かなり早く人間に近づいています」
「また版」
「ええ。世界は三回書き直されています」
その言葉に、全員が止まった。
三回。
雨宮透真も言っていた。
この世界は何度も書き直されている。
読了神は、赤い付箋を三枚めくった。
「一回目の版では、雨宮しずくさんは敵でした。透真さんの部屋に現れた神様の死体は、彼女が置いていました」
「私が」
しずくが呟く。
「はい。あなたは、透真さんに神様を否定させるために、毎朝死体を届けていた」
僕は背筋が冷たくなるのを感じた。
「二回目は?」
黒瀬が聞いた。
声が小さくなっていた。
「二回目の版では、透真さんが敵でした」
「僕が?」
「はい。あなたは神様を助けるふりをして、遺言を利用し、世界を書き換えていました」
「……三回目は」
「黒瀬依子さんが敵でした」
黒瀬の顔から血の気が引いた。
「私?」
「はい」
「私、何したの」
「すべてを記録しました」
「記録?」
「神様の死も、透真さんの嘘も、しずくさんの正体も、消えた人間の名前も。すべてを記録し、誰にも忘れさせなかった。その結果、世界は壊れました」
黒瀬は口を開けた。
閉じた。
また開けた。
「……それ、敵なの?」
「世界にとっては」
「でも、忘れたくないって思うのは、悪いことなの?」
「人間にとっては、悪いことではありません」
「じゃあ何なのよ」
黒瀬の声が震える。
「どうすれば正解なのよ。忘れたら誰かが消える。覚えてたら世界が壊れる。怒ったら神様が笑う。謝ったら命を預ける。疑えって言われるけど、疑ったら誰かを傷つける。何をしても駄目じゃない!」
読了神は、静かに答えた。
「だから、物語になります」
黒瀬が壊れた傘を握りしめた。
今にも殴りかかりそうな顔だった。
僕は慌てて手で制した。
「黒瀬、傘で神様を殴ると、たぶん何かが起きます」
「起きてもいい気がしてきた」
「よくないです」
「よくないけど、腹立つ!」
「わかります」
本当にわかった。
神様たちは、時々ひどい。
世界を外側から見ているような言い方をする。
痛みも、記憶も、怒りも、恋も、恐怖も、全部「物語」として処理しようとする。
でもこちらは中にいる。
僕たちは文章ではなく、心臓で朝を迎えている。
「読了神さん」
僕は言った。
「はい」
「あなたは何をしに来たんですか。感想だけではないでしょう」
「ええ」
読了神は本を閉じた。
「私は、第6話の前に死ぬために来ました」
「第6話?」
「はい」
「何が起きるんですか」
「あなたがすべてを理解します」
僕は息を止めた。
読了神は続ける。
「第6話の冒頭で、水無月透真さんは突然、神様の正体も、しずくさんの正体も、世界の仕組みも、自分が何者なのかも、すべて理解した状態になります」
「急に?」
「急にです」
黒瀬が即座に言った。
「最悪。説明放棄じゃん」
「はい」
「はいじゃない!」
「そして、透真さんはこう言います」
読了神は、僕を見る。
「そうか。僕は、最初から朝だったのか」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が軋んだ。
朝。
最初から朝。
僕が朝だった。
意味が――。
言いかけて、僕は口を押さえた。
言ってはいけない。
意味がわからない、と言えば、また何かが割れる。
黒瀬が僕の肩を掴んだ。
「水無月さん」
「……大丈夫です」
「絶対大丈夫じゃない顔してる」
「大丈夫じゃないです」
「よし、正直でよろしい」
黒瀬は強引にそう言った。
その手が、思ったより温かかった。
読了神は、少しだけ満足そうに頷いた。
「やはり、この版の黒瀬さんは強いですね」
「また評価した?」
「しました」
「反省してない!」
「反省はしています。評価は別です」
「面倒くさい読者みたい!」
「神様はだいたい面倒くさい読者です」
読了神は、そこで初めて少し笑った。
その笑顔は、穏やかだった。
だが、次の瞬間。
彼の胸に、しおりが刺さった。
赤いしおりだった。
文庫本に挟まれているような、細くて平たい紙のしおり。
それが、刃物のように彼の胸を貫いていた。
黒瀬が悲鳴を上げる。
「え、今度はしおり!?」
「はい」
読了神は、自分の胸を見下ろした。
「読了の神様は、しおりで死にます」
「説明が淡々としすぎ!」
「死因は、読後感の固定です」
「何一つわからない!」
「黒瀬さん、それ言うと危ないです」
「わかってる! でも言い換えが見つからないの!」
読了神の身体が、紙のように薄くなっていく。
端からぱらぱらとめくれ始める。
まるで、人間の形をした本が、風でページを失っていくようだった。
しずくが立ち上がる。
「待ってください」
「はい」
「私は、本当に敵だったのですか」
読了神は、しずくを見た。
読。
了。
その文字の目が、少しだけ優しく見えた。
「あなたは敵でした」
しずくの顔が強張る。
「ですが」
読了神は続けた。
「敵だったことと、今ここにいるあなたが誰かを傷つけたいことは、同じではありません」
「……」
「人は、前の版の罪で、今の版を裁きたがります」
彼は静かに言った。
「神様も同じです」
しずくは何も言わなかった。
僕は、彼女の横顔を見た。
傷ついている。
怖がっている。
自分の中に、覚えていない敵意があるかもしれないことに怯えている。
それは、神様というより、人間の顔だった。
「読了神さん」
僕は聞いた。
「僕たちは、あなたを信じていいんですか」
読了神は、微笑んだ。
「信じてはいけません」
「最後までそれですか」
「はい。ですが」
彼は、胸に刺さった赤いしおりを抜いた。
血は出ない。
代わりに、文字がこぼれた。
ひらがな。
カタカナ。
漢字。
句読点。
それらが床に落ち、雨みたいに跳ねる。
「信じてはいけない言葉の中にも、持っていていいものはあります」
「持っていていいもの」
「はい。疑いながら、捨てずに持っていてください」
読了神の身体が、さらに薄くなった。
黒瀬が、小さく言う。
「ねえ」
「はい、黒瀬依子さん」
「私が敵だった版って、本当にあったの?」
「ありました」
「その私、ひどかった?」
読了神は少し考えた。
「いいえ」
「え?」
「とても人間らしかったです」
黒瀬は、泣きそうな顔で笑った。
「それ、最近よく言われる」
「良いことです」
「本当に?」
「本当に」
「信じていいの?」
「信じてはいけません」
「最後まで腹立つなあ!」
黒瀬が叫ぶと、読了神は声を出して笑った。
そして、その笑いと同時に、彼の身体は本のページのように散った。
ばらばらになった紙片が、部屋の中を舞う。
その中の一枚が、僕の手元に落ちた。
遺言だった。
硬く角ばった文字。
第6話を信じないでください。
あなたは次の話で、すべてを理解します。
理解したあなたは、たぶん一番危険です。
黒瀬が、それを覗き込んだ。
「……水無月さん」
「はい」
「次、あんたが危ないってこと?」
「そのようです」
「自覚ある?」
「今のところ、ありません」
「それが一番怖い」
しずくが、僕の方を見た。
その目には、さっきまでとは違う不安があった。
「透真さん」
「はい」
「もし次の話で、あなたがすべてを理解してしまったら」
「はい」
「私を疑ってください」
僕は黙った。
しずくは、震える声で続けた。
「でも、できれば」
彼女は言葉を探した。
「疑っても、そばにいてください」
それは、神様のお願いではなかった。
死体の遺言でも、ヒロインの台詞でも、世界のバグの警告でもない。
ただの女の子が、怖い朝の中で言った、かなり面倒で、かなり弱くて、かなり本当のお願いだった。
僕は頷いた。
「努力します」
「約束ではないのですね」
「約束すると、破った時に何か死にそうなので」
「たしかに」
しずくは、少しだけ笑った。
黒瀬が腕を組んで言う。
「じゃあ私は、水無月さんが急に全部わかった顔し始めたら、殴る係ね」
「殴るんですか」
「必要なら」
「壊れた傘で?」
「いや、普通に手で」
「現実的ですね」
「傘は大事な気がするから、武器にしたくない」
黒瀬はそう言って、壊れた傘をそっと抱え直した。
覚えていない誰かの名残。
笑守の遺品。
理由のわからない大切なもの。
この部屋には、そういうものが増えすぎている。
メロンパン。
学生証。
透明な傘。
壊れた傘。
折れた玄関マット。
最後のプリン。
床に落ちた文字の欠片。
そして、新しい遺言。
第6話を信じないでください。
僕はスマホを見た。
画面には、相変わらずおかしな表示が出ている。
【第5話 読了】
その文字が一度だけ点滅した。
次の瞬間、画面が勝手に切り替わる。
【第6話 信じるな】
黒瀬が、僕のスマホを見て小さく呻いた。
「最悪の次回予告」
「同感です」
その時。
部屋の中のすべての時計が、一斉に動き出した。
六時四十二分から、六時四十三分へ。
たった一分。
けれど、その一分が進んだ瞬間、僕の頭の中で何かが開いた。
鍵が外れる音がした。
理解が、こちらを見た。
僕は、思わず笑ってしまいそうになった。
すべてが、わかった気がしたからだ。
神様の正体。
しずくの正体。
黒瀬が忘れた三人目の名前。
雨宮透真が消える前に言いたかったこと。
猫が預かった命の意味。
第1話の嘘。
そして、僕が何者なのか。
全部。
全部、わかった気がした。
黒瀬が、僕の顔を見て硬直した。
「水無月さん」
「はい」
「その顔、やめて」
「黒瀬」
僕は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「そうか」
しずくが、怯えたように僕を見る。
僕は笑った。
「僕は、最初から朝だったのか」
その瞬間、黒瀬の平手が飛んできた。
ぱん、と乾いた音がした。
頬が痛い。
かなり痛い。
黒瀬は涙目で怒鳴った。
「理解した顔すんな! 説明しろ!」
僕は頬を押さえながら思った。
たぶん、今の平手がなければ、僕はもう人間ではなくなっていた。




