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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第4話 僕の死体は、僕より礼儀正しい

 押し入れの中に、僕がいた。


 正確には、僕と同じ顔をした何かがいた。


 目を閉じて、膝を抱えるように座っている。着ている服も、僕と同じグレーのシャツ。髪の跳ね方まで似ている。いや、似ているどころではない。鏡に映った自分を、押し入れの中に無理やり詰め込んだようだった。


 ただ一つ、決定的に違うところがある。


 そいつの胸には、透明な傘が刺さっていた。


 血は出ていない。


 代わりに、傘の先からぽたり、ぽたりと、雨粒が落ちている。


 いや、落ちているように見えた雨粒は、畳まれた布団の上で跳ね返り、押し入れの天井へ吸い込まれていた。


 また逆さまの雨だ。


 もう、本当に勘弁してほしい。


「お前、まだ主人公のつもりなのか?」


 押し入れの中の僕が言った。


 声も僕だった。


 ただ、妙に落ち着いている。


 僕より低いわけでも、僕より大人びているわけでもない。なのに、同じ声なのに、こちらより一枚上手そうに聞こえる。


 それが、ものすごく腹立たしかった。


「……まず、押し入れから出てもらっていいですか」


 僕が言うと、押し入れの中の僕は、少し目を丸くした。


「第一声がそれか」


「こっちの台詞です。僕の部屋の押し入れで、僕の顔をした人が、僕の主人公性を問いただしてくる状況に、適切な第一声なんてありません」


「あるだろう」


「例えば?」


「きゃあ、とか」


「僕はその反応を自分の顔相手にしたくありません」


 後ろで黒瀬依子が、かすれた声で言った。


「……私が代わりに言っていい?」


「いいですよ」


「きゃああああああああああ!」


 遅れて悲鳴が響いた。


 かなり本気の悲鳴だった。


 アパートの隣室から壁を叩かれるのではないかと思ったが、不思議と反応はない。たぶん、この部屋だけがまた少し世界から切り離されているのだろう。


 迷惑をかけずに怪異が起きるのは助かる。


 助かるが、そもそも怪異が起きないでほしい。


「黒瀬、落ち着いて」


「落ち着けるわけないでしょ! 押し入れ開けたら水無月さんが入ってたのよ!? しかも今の水無月さんも横にいるのよ!? 人間って二人いたら駄目な顔ってあるじゃない! 今それ!」


「たしかに僕も、自分の顔が二つあるのは落ち着きません」


「でしょうね!」


 黒瀬は壊れたビニール傘を両手で構えている。


 武器としては頼りない。


 でも、本人は本気だ。


 傘の骨は曲がっているし、ビニール部分も破れている。けれど黒瀬は、それをまるで聖剣か何かのように握っていた。


「近づかないでよ、押し入れ水無月!」


「押し入れ水無月」


 押し入れの中の僕が、小さく笑った。


 いや、笑いそうになった。


 口元がほんの少し動いただけだ。


 僕は、机の上にある新しい遺言を見た。


 次の朝までに、自分の死体を笑わせてください。


「……今、笑いました?」


 僕が聞くと、押し入れの中の僕は首を傾げた。


「笑ってほしいのか?」


「そういう遺言があるので」


「自分の死体に芸をしろと?」


「僕も正気とは思っていません」


「だろうな」


 押し入れの中の僕は、ようやく立ち上がろうとした。


 しかし、胸に刺さった透明な傘が、押し入れの枠に引っかかる。


 かつん。


 地味な音がした。


 押し入れの中の僕は、動きを止めた。


「……すまない。少し手伝ってくれないか」


 丁寧だった。


 びっくりするくらい丁寧だった。


 黒瀬が、変な顔をする。


「礼儀正しい」


「そうですね」


「死体なのに」


「死体だからかもしれません」


「死体に礼儀で負けてない? 水無月さん」


「やめてください。僕も今、少し思いました」


 押し入れの中の僕は、ため息をついた。


「死体死体と言うな。こちらにも尊厳がある」


「死体の尊厳」


 黒瀬が呟く。


「新しい倫理の話が始まった」


「黒瀬さん」


 しずくが、静かに言った。


「死体にも礼儀は必要です」


「神様に言われると重い」


「私も一度死んでいますので」


「半分でしょ」


「はい。ですから半分だけ重いです」


「その半分理論、便利すぎない?」


 黒瀬のツッコミは、相変わらず鋭かった。


 けれど声の端が震えている。


 怖いのだ。


 当然だと思う。


 僕だって怖い。


 自分の顔をした存在が押し入れから出ようとしていて、しかもそいつの方が自分より礼儀正しい。こういう恐怖は、日常生活のどこにも予行演習がない。


 僕は押し入れに近づいた。


 透明な傘の柄に触れる。


 冷たい。


 氷ほどではない。でも、朝の雨に濡れた金属みたいな冷たさがあった。


「抜いた方がいいんですか」


 僕が聞くと、押し入れの中の僕は真面目に答えた。


「抜くと私が死ぬ」


「今は死んでないんですか」


「死体だが、死にきってはいない」


「今日、その分類の人が多いですね」


 しずくが少しだけ目を逸らした。


「透真さん。私は人ではありません」


「そこ訂正します?」


「大事です」


「大事ですか」


「はい。人間として扱われると、少し嬉しいので」


 それは、訂正ではなかった。


 たぶん、願望だった。


 僕は一瞬だけ言葉に詰まる。


 その隙に、黒瀬がしずくを見た。


「嬉しいんだ」


「はい」


「じゃあ、人間扱いしていいの?」


「わかりません」


「またわかんないの」


「でも、嫌ではありません」


 黒瀬は、ほんの少し困った顔をした。


 そして、気まずそうに壊れた傘の柄を指で撫でながら言った。


「じゃあ、しずくさんって呼ぶ」


 しずくが目を丸くした。


「いいのですか」


「嫌ならやめるけど」


「嫌ではありません」


「じゃあそうする。神様神様って呼ぶと、こっちも距離感おかしくなるし」


「ありがとうございます」


 しずくは、少しだけ笑った。


 その笑顔を見た瞬間、押し入れの中の僕が、小さく呟いた。


「前の版より、ずいぶん早いな」


 空気が止まった。


 僕は手を止めた。


 黒瀬も、しずくも、押し入れの中の僕を見た。


「前の版?」


 黒瀬が言う。


「今、前の版って言った?」


 押し入れの中の僕は、しまった、という顔をした。


 僕と同じ顔で。


 だから余計に腹が立つ。


「説明してください」


 僕が言うと、押し入れの中の僕は肩をすくめた。


「説明しても、お前たちは忘れる」


「それでも聞きます」


「聞いたことを後悔する」


「今日は後悔の量がすでに上限を超えています」


「なら、いいか」


「軽いですね」


「死体だからな」


「そこは使うんですね」


 押し入れの中の僕は、胸の傘を枠に引っかけないよう、器用に身体を斜めにして外へ出た。


 その動きが妙に丁寧だった。


 布団を踏まないように足を置き、押し入れの襖に手を添え、床に降りる時も静かに膝を曲げる。


 僕より行儀がいい。


 黒瀬が、ものすごく微妙な顔で僕を見た。


「……水無月さん」


「言わなくていいです」


「でも」


「言わなくていいです」


「死体の方が育ちよさそう」


「言った」


「ごめん、我慢できなかった」


 押し入れの中の僕は、丁寧に会釈した。


「雨宮透真だ」


 僕は固まった。


「今、何て?」


「雨宮透真」


「水無月じゃなくて?」


「違う」


 雨宮。


 しずくと同じ苗字。


 僕は思わず、しずくを見た。


 しずくは青ざめていた。


 半透明なのに、青ざめているのがわかった。妙な話だけど、本当にそう見えた。


「しずくさん」


 僕が呼ぶと、彼女は小さく首を振った。


「違います」


「何がですか」


「私は、覚えていません」


 その言い方が、すでに覚えている人のものだった。


 黒瀬が鋭く突っ込む。


「覚えてないって言う時の顔じゃない」


「黒瀬さん」


「ごめん。でも今のは嘘っぽい」


「嘘ではありません」


 しずくは、胸の前で手を握った。


「覚えているのではなく、残っているんです。記憶としてではなく、痛みとして」


「痛み?」


「はい」


 雨宮透真が、静かに続けた。


「私としずくは、結婚していた」


 部屋が、嫌な方向に静かになった。


 黒瀬が僕を見る。


 僕は雨宮透真を見る。


 しずくは床を見る。


 誰もすぐには喋らなかった。


 最初に沈黙に耐えられなくなったのは、やはり黒瀬だった。


「……待って。情報を一個ずつにして」


「すみません」


 雨宮透真が頭を下げる。


「謝るところが礼儀正しい!」


 黒瀬が叫んだ。


「じゃなくて! 結婚? 誰と誰が? しずくさんと、押し入れ水無月が?」


「雨宮透真だ」


「名前訂正できる立場!?」


「名前は大事だ」


「それは今朝ずっとそうだけど!」


 黒瀬は頭を抱えた。


「水無月さん、あなた、何歳?」


「十九です」


「しずくさんは?」


「神様なので、年齢という概念が曖昧です」


「はい、面倒。じゃあ結婚してた版って何? どこの戸籍? どこの役所? 神様って婚姻届受け付けてもらえるの? というか、半透明の奥さんって扶養に入るの?」


「黒瀬、そこですか」


「私は今、法律と感情の両方で混乱してるの!」


 言い分はわかる。


 むしろ、そういう細かい現実問題を出してくれることで、かろうじて僕は発狂せずに済んでいる。


 雨宮透真は、僕に向かって財布を差し出した。


「確認しろ」


 僕は受け取った。


 僕の財布と同じだった。


 いや、似ているだけかもしれない。革の傷、カードの入り方、小銭入れの膨らみ。その全部が、僕のものと少しずつ違う。


 中から学生証が出てきた。


 名前。


 雨宮透真。


 大学名は同じ。


 学部も同じ。


 写真も僕。


 ただ、住所が違った。


 そして、緊急連絡先の欄に書かれていた名前を見て、僕は指を止めた。


 雨宮しずく。


「……緊急連絡先が、しずくさんになってます」


 黒瀬が覗き込んだ。


「え、本当だ。続柄は?」


 僕はその欄を見た。


 配偶者。


「配偶者」


 声に出した瞬間、しずくが目を閉じた。


 雨宮透真は、静かに言った。


「その版では、彼女は死ななかった」


「版って何ですか」


 僕は学生証を握りしめたまま聞いた。


「小説の版ですか。世界の版ですか。昨日の僕とか、明日の僕とか、そういう話ですか」


「全部だ」


「全部で済ませないでください」


「なら、こう言おう」


 雨宮透真は、僕の目を見た。


 僕と同じ目だった。


 でも、そこには僕の知らない疲れがあった。


「世界は何度も書き直されている。お前は採用された透真だ。私は没になった透真だ」


 黒瀬が、小さく息を呑んだ。


「没って……」


「消えるはずだった。だが、猫が拾った」


「猫が?」


「ああ」


 雨宮透真は、公園で預かった命のことを知っているような顔をした。


「お前が猫に謝ったせいで、こぼれたものの一部が戻ってきた。その結果、押し入れに私が出た」


「つまり、僕が猫に謝ったせいで、僕の死体が押し入れに?」


「そうだ」


「謝罪って、もう少し気持ちよく終わるものじゃないんですか」


「人間の謝罪は、だいたい後から面倒になる」


「嫌なこと言いますね」


「経験談だ」


 黒瀬が、学生証と雨宮透真を交互に見た。


「じゃあ、あなたは何なの? 死体? 別ルートの水無月さん? しずくさんの夫? 没キャラ?」


「全部だ」


「全部で済ませる人、多すぎない!?」


「黒瀬さん」


 しずくが小さく言った。


「たぶん、全部本当なのです」


「それが一番困るのよ!」


 黒瀬は部屋の真ん中でぐるぐる歩き始めた。


 壊れた傘を抱え、メロンパンの入った鞄を足元に置き、時々こちらを睨む。


「待って。整理する。整理できないけど、整理しないと私が壊れる」


「どうぞ」


 雨宮透真が丁寧に頷いた。


「まず、朝、水無月さんの部屋にしずくさんが死んでた」


「はい」


「そのあと、笑う神様が来て、一人減ったらしいけど私は忘れてる」


「はい」


「猫に謝ったら町が一回死んで、命を預けた」


「はい」


「その結果、押し入れに別ルートの水無月さんが出てきた」


「はい」


「その水無月さんは雨宮透真で、しずくさんと結婚してた版の没キャラ」


「はい」


「そして次の朝までに、この死体を笑わせないといけない」


「はい」


 黒瀬は、ぴたりと歩くのを止めた。


 それから真顔で言った。


「帰っていい?」


「さっきも言ってましたね」


「何回でも言うわよ! 帰りたい気持ちは継続してるの!」


 黒瀬は両手で顔を覆った。


 指の隙間から、目だけがこちらを睨む。


「でも帰らないけどね!」


「ありがとうございます」


「礼を言うな! 帰りづらくなる!」


 雨宮透真が、少しだけ口元を緩めた。


 僕はすかさず言った。


「今、笑いました?」


「笑っていない」


「かなり惜しかった気がします」


「死体の表情筋を侮るな」


「死体の表情筋って何ですか」


 黒瀬が急にこちらを向いた。


「もしかして、笑わせるって普通に笑わせればいいの?」


「遺言にはそう書いてあります」


「じゃあ、漫才とか?」


「この状況で?」


「この状況だからでしょ。まともな手段じゃ無理よ。押し入れ水無月、ツボ浅い?」


「雨宮透真だ」


「ツボは?」


「浅くはない」


「だめだ、面倒な客だ」


「客ではない」


「死体相手の営業、難しすぎる」


 黒瀬は腕を組んで考え込んだ。


 その真剣な顔が、少しおかしかった。


 神様が死に、町が死に、別ルートの僕が押し入れから出てきて、しずくと結婚していたという話になっているのに、黒瀬は今、「どうやって死体を笑わせるか」を真面目に考えている。


 人間の適応力は恐ろしい。


 いや、適応ではないのかもしれない。


 壊れないために、怒って、突っ込んで、考えるしかないのだ。


「透真さん」


 しずくが、小さく僕を呼んだ。


 彼女は、雨宮透真を見ないようにしている。


「はい」


「私は、彼と結婚していたのでしょうか」


「僕に聞かれても」


「そうですよね」


「覚えていないんですか」


「覚えていません」


 しずくは、少し黙った。


「でも、左手が痛いです」


 彼女は自分の左手を見る。


 半透明の薬指。


 そこには何もない。


 指輪もない。


 傷もない。


 でも、彼女はその指を大切そうに撫でた。


「ここに何かがあった気がします。とても重くて、とても軽いものです」


「指輪ですか」


「たぶん」


「嫌ですか」


 僕は聞いてしまった。


 聞いてから、少し後悔した。


 これは、僕が聞くべきことだったのだろうか。


 しずくは僕を見た。


 雨みたいな目。


 最初に見た時より、少しだけ人間に近い目。


「嫌ではありません」


「……そうですか」


「でも」


 しずくは、言葉を選ぶように視線を落とした。


「今の私は、透真さんと結婚していません」


 胸の奥が、妙に痛んだ。


 それは嫉妬とは違う。


 寂しさとも違う。


 もっと曖昧で、名前のない痛みだった。


 自分が選ばなかった未来を、目の前で見せられているような痛み。


「そうですね」


 僕は言った。


「今の僕は、水無月透真なので」


「はい」


「それに、今日会ったばかりですし」


「はい」


「半分死んでいる神様と結婚の話をするには、朝が忙しすぎます」


「それは、とても人間らしい意見ですね」


 しずくは少し笑った。


 その笑顔に、雨宮透真が静かに目を細める。


 笑っているのではない。


 懐かしんでいる顔だった。


 僕はその顔を見て、嫌な気分になった。


 同じ顔なのに。


 僕より先に、しずくの笑い方を知っている顔。


 黒瀬が、僕の顔を覗き込んだ。


「水無月さん、今ちょっと嫌な顔した」


「してません」


「した。嫉妬っぽいやつ」


「してません」


「二回否定する時は、だいたいしてる」


「黒瀬はこういう時だけ鋭いですね」


「こういう時って何よ」


 黒瀬はじとっと僕を見る。


 そのやり取りを見て、雨宮透真がもう一度、口元を緩めた。


 僕は指さした。


「今のは?」


「笑っていない」


「絶対少し笑いましたよね」


「死体の微笑は笑いに含まれない」


「そんな規定あります?」


「ある。今作った」


「ずるい」


 黒瀬が手を叩いた。


「わかった!」


「何がですか」


「押し入れ水無月は、普通のギャグでは笑わない。でも、人間関係の面倒くささには反応する」


「どういう分析ですか」


「つまり、ラブコメで攻める」


「やめてください」


 僕と雨宮透真の声が重なった。


 黒瀬はにやりとした。


「ほら、反応した」


「黒瀬」


「だって死体を笑わせないといけないんでしょ? 命かかってるんでしょ? だったら恥ずかしいとか言ってる場合じゃない」


「それはそうですが」


「では質問です」


 黒瀬は、壊れた傘をマイクのように構えた。


「雨宮透真さん。しずくさんの好きなところを三つ言ってください」


「黒瀬!」


 僕が叫ぶ。


 しずくが真っ赤になった。


 半透明なのに、赤くなるのはずるい。


 雨宮透真は、少しだけ目を伏せた。


「三つでは足りない」


 部屋が静まり返った。


 黒瀬が、口を開けたまま固まる。


 しずくは、さらに赤くなる。


 僕は、自分の顔でそんなことを言われた衝撃に耐えられず、壁を見た。


「……水無月さん」


 黒瀬が小声で言った。


「押し入れ版の方が強い」


「言わないでください」


「だって、強い」


「言わないでください」


「今のは普通に強い」


「三回言った」


 雨宮透真は、静かに続けた。


「雨の匂いがすると、必ず窓を見るところ」


 しずくの肩が揺れた。


「甘いものを好きだと言うのに、最初の一口をいつも遠慮するところ」


「……」


「人間になりたいと言わないところ」


 しずくが、息を止めた。


「本当は、人間になりたかったのに」


 その言葉は、部屋の中にゆっくり落ちた。


 誰も茶化せなかった。


 黒瀬ですら、壊れた傘を下ろした。


 しずくは泣いていなかった。


 神様は泣くのだろうか。


 半分死んだ神様は、泣けるのだろうか。


 わからない。


 でも、彼女の目は、雨が降る直前の空に似ていた。


「私は」


 しずくが言った。


「人間になりたかったのでしょうか」


 雨宮透真は、優しく答えた。


「なりたかった」


「どうして」


「私と同じ朝を迎えたかったから」


 黒瀬が小さく呟いた。


「重い」


「黒瀬」


「ごめん。でも重い。朝から恋愛感情が重い。死体のくせに恋が重い」


 雨宮透真が、初めて声を出して笑った。


 短い笑いだった。


 ふ、と。


 本当に小さな、息みたいな笑い。


 けれど確かに笑った。


 机の上の遺言が、ぱっと光った。


 文字が一つずつ浮かび上がり、空中でほどけていく。


 次の朝までに、自分の死体を笑わせてください。


 その文字が消えた。


 黒瀬が目を見開く。


「やった?」


「笑いましたね」


「私の『死体のくせに恋が重い』で?」


「はい」


「最悪。私の人生初の神様案件解決ワード、それなの?」


 黒瀬は顔を覆った。


「もっと感動的に決めたかった……」


「十分感動的でした」


「どこが!?」


「人間らしかったです」


 しずくがそう言うと、黒瀬は返事に困ったようだった。


「……それ、褒めてる?」


「はい」


「なら、まあ、いいけど」


 黒瀬は照れ隠しのように壊れた傘を振った。


 その瞬間、雨宮透真の身体が薄くなり始めた。


「え」


 僕は思わず手を伸ばした。


「待ってください。笑わせたら、助かるんじゃないんですか」


「違う」


 雨宮透真は穏やかに言った。


「笑わせることが、死体を正しく死なせる条件だった」


「そんなの」


「最初から、そういう遺言だった」


「書いてなかった」


「遺言はいつも足りない。だから人間が間違える」


 雨宮透真の足元が、雨に変わっていく。


 逆さまに落ちる雨ではない。


 今度は、普通に床へ落ちる雨だった。


 ぽつり。


 ぽつり。


「待って」


 しずくが、初めて彼に近づいた。


「私は、あなたを覚えていません」


「ああ」


「でも、痛いです」


「それでいい」


「よくありません」


「いいんだ」


 雨宮透真は、しずくを見た。


 僕と同じ顔で、僕にはできない顔をしていた。


「君が痛いなら、私は完全に無駄ではなかった」


「そんな言い方は嫌です」


「すまない」


「謝らないでください」


「すまない」


「だから」


 しずくの声が震えた。


「私は、あなたを覚えていないのに」


「うん」


「なぜ、泣きそうになるんですか」


「愛されていたからだ」


 しずくが黙った。


 黒瀬が泣きそうな顔で、でも泣くのを我慢していた。


 僕は、何も言えなかった。


 雨宮透真は僕を見た。


「水無月透真」


「はい」


「嫉妬するな」


「してません」


「した」


「……少しだけ」


「それでいい」


「いいんですか」


「しずくを、神様としてだけ扱うな」


 雨宮透真は言った。


「死体としても、ヒロインとしても、過去の妻としても、世界のバグとしても扱うな。全部間違っている。だが、全部少しずつ正しい」


「では、どう扱えばいいんですか」


「目の前にいる女の子として扱え」


 その言葉に、しずくが息を呑んだ。


「神様は、人間にそう扱われると弱い」


「弱い?」


「好きになる」


「……それは困りますね」


「困れ。人間の恋は、だいたい困る」


 雨宮透真は、少し笑った。


 今度は、遺言のための笑いではなかった。


 たぶん、別れの笑いだった。


「最後に一つだけ言っておく」


「はい」


「第1話を信じるな」


 空気が冷えた。


 黒瀬が眉をひそめる。


「またそれ系?」


 雨宮透真は、頷いた。


「第1話で死んだ神様は、雨宮しずくではない」


 しずくが、動きを止めた。


 僕も、黒瀬も、声を失った。


「どういう意味ですか」


 僕が聞く。


「お前が最初に見た死体は」


 雨宮透真の身体が、さらに薄くなる。


 声が遠くなる。


「しずくの形をした、別の神様だ」


「別の神様?」


「第1話を読んだ神様」


 その言葉を最後に、雨宮透真は雨になった。


 普通に床へ落ちる雨。


 小さな水たまり。


 そこに透明な傘だけが残った。


 しずくの胸に刺さっていたものと同じ形。


 そして、雨宮透真の学生証だけが、僕の手の中に残っていた。


 名前。


 雨宮透真。


 続柄。


 配偶者、雨宮しずく。


 黒瀬が、ぽつりと言った。


「……ねえ」


「はい」


「水無月さん、自分の死体に恋愛マウント取られて消えられたの、だいぶしんどくない?」


「今それ言います?」


「言わないと、泣きそうだったから」


 黒瀬は目元を袖で拭いた。


 泣いてはいない。


 でも、泣きそうだった。


 僕も、少しだけ笑いそうになった。


 今度は、笑っても誰も消えない気がした。


 たぶん。


「黒瀬」


「何」


「いてくれて助かりました」


「……そういうの、急に言わないで」


「すみません」


「謝るな。猫に謝ったばっかりでしょ」


「謝罪の在庫がまだあります」


「嫌な在庫」


 しずくは、床の水たまりを見つめていた。


 僕は彼女に声をかけるべきか迷った。


 何を言えばいいのかわからない。


 結婚していたらしい別の僕が消えた。


 彼女は覚えていない。


 でも痛いと言った。


 そういう時、今の僕は何者として隣にいればいいのか。


 水無月透真としてか。


 別ルートの自分の代わりとしてか。


 それとも、今日初めて彼女と出会った、ただの人間としてか。


 迷った末に、僕は言った。


「しずくさん」


「はい」


「プリン、まだ一個残ってます」


 黒瀬が目を剥いた。


「今それ!?」


「今それです」


「いや、悪くはないけど! 悪くはないけど、もっと何かあったでしょ!」


 しずくは、一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから、少しだけ笑った。


「食べてもいいですか」


「はい」


「半分だけ?」


「今日は一個全部でいいです」


「太っ腹ですね」


「神様相手に、プリン一個で太っ腹扱いされるのは複雑です」


 しずくは、床の水たまりから視線を上げた。


「ありがとうございます、透真さん」


 その声は、少しだけ震えていた。


 でも、さっきより現実に近かった。


 僕は冷蔵庫を開けた。


 最後のプリンを取り出す。


 蓋を開ける。


 その時、机の上に新しい紙が現れた。


 僕たちは三人同時に動きを止めた。


 黒瀬が、ものすごく嫌そうな顔をする。


「また?」


「またです」


「この部屋、紙出すぎじゃない?」


「遺言なので」


「遺言ってもっと一生に一回じゃないの?」


「神様が毎朝死ぬので」


「理屈はわかるけど納得はしてない」


 僕は紙を手に取った。


 今度の文字は、見たことのない筆跡だった。


 硬くて、角ばっていて、どこか印刷された文字に似ている。


 そこには、こう書かれていた。


 第1話を読んだ神様が、あなたの部屋に向かっています。

 彼は、あなたより先にこの物語の結末を知っています。

 ただし、彼の言うことを信じてはいけません。


 黒瀬が、横から覗き込んで言った。


「第1話を読んだ神様って、さっき言ってたやつ?」


「そうですね」


「信じてはいけないって書いてあるけど」


「はい」


「でも来るんでしょ?」


「たぶん」


「帰っていい?」


「帰らないんでしょう?」


「帰らないけど、毎回言わせて。言わないとやってられない」


 その時、玄関のチャイムが鳴った。


 ぴんぽん。


 普通の音だった。


 普通の音なのに、今日聞いたどんな怪異よりも不気味に響いた。


 しずくが、プリンのスプーンを持ったまま固まった。


 黒瀬が壊れた傘を構える。


 僕は、学生証を握ったまま玄関を見た。


 ドアの向こうで、男の声がした。


「すみません。第1話を読ませていただいた者です」


 黒瀬が小声で言った。


「礼儀正しいの、逆に怖い」


 僕も同感だった。


 チャイムが、もう一度鳴る。


 ぴんぽん。


「感想をお伝えに来ました」


 ドアの向こうの声は、穏やかだった。


「あなたの第1話、嘘から始まっています」


 僕は思った。


 どうやら僕の物語は、まだ冒頭すら信用できないらしい。


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