第4話 僕の死体は、僕より礼儀正しい
押し入れの中に、僕がいた。
正確には、僕と同じ顔をした何かがいた。
目を閉じて、膝を抱えるように座っている。着ている服も、僕と同じグレーのシャツ。髪の跳ね方まで似ている。いや、似ているどころではない。鏡に映った自分を、押し入れの中に無理やり詰め込んだようだった。
ただ一つ、決定的に違うところがある。
そいつの胸には、透明な傘が刺さっていた。
血は出ていない。
代わりに、傘の先からぽたり、ぽたりと、雨粒が落ちている。
いや、落ちているように見えた雨粒は、畳まれた布団の上で跳ね返り、押し入れの天井へ吸い込まれていた。
また逆さまの雨だ。
もう、本当に勘弁してほしい。
「お前、まだ主人公のつもりなのか?」
押し入れの中の僕が言った。
声も僕だった。
ただ、妙に落ち着いている。
僕より低いわけでも、僕より大人びているわけでもない。なのに、同じ声なのに、こちらより一枚上手そうに聞こえる。
それが、ものすごく腹立たしかった。
「……まず、押し入れから出てもらっていいですか」
僕が言うと、押し入れの中の僕は、少し目を丸くした。
「第一声がそれか」
「こっちの台詞です。僕の部屋の押し入れで、僕の顔をした人が、僕の主人公性を問いただしてくる状況に、適切な第一声なんてありません」
「あるだろう」
「例えば?」
「きゃあ、とか」
「僕はその反応を自分の顔相手にしたくありません」
後ろで黒瀬依子が、かすれた声で言った。
「……私が代わりに言っていい?」
「いいですよ」
「きゃああああああああああ!」
遅れて悲鳴が響いた。
かなり本気の悲鳴だった。
アパートの隣室から壁を叩かれるのではないかと思ったが、不思議と反応はない。たぶん、この部屋だけがまた少し世界から切り離されているのだろう。
迷惑をかけずに怪異が起きるのは助かる。
助かるが、そもそも怪異が起きないでほしい。
「黒瀬、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ! 押し入れ開けたら水無月さんが入ってたのよ!? しかも今の水無月さんも横にいるのよ!? 人間って二人いたら駄目な顔ってあるじゃない! 今それ!」
「たしかに僕も、自分の顔が二つあるのは落ち着きません」
「でしょうね!」
黒瀬は壊れたビニール傘を両手で構えている。
武器としては頼りない。
でも、本人は本気だ。
傘の骨は曲がっているし、ビニール部分も破れている。けれど黒瀬は、それをまるで聖剣か何かのように握っていた。
「近づかないでよ、押し入れ水無月!」
「押し入れ水無月」
押し入れの中の僕が、小さく笑った。
いや、笑いそうになった。
口元がほんの少し動いただけだ。
僕は、机の上にある新しい遺言を見た。
次の朝までに、自分の死体を笑わせてください。
「……今、笑いました?」
僕が聞くと、押し入れの中の僕は首を傾げた。
「笑ってほしいのか?」
「そういう遺言があるので」
「自分の死体に芸をしろと?」
「僕も正気とは思っていません」
「だろうな」
押し入れの中の僕は、ようやく立ち上がろうとした。
しかし、胸に刺さった透明な傘が、押し入れの枠に引っかかる。
かつん。
地味な音がした。
押し入れの中の僕は、動きを止めた。
「……すまない。少し手伝ってくれないか」
丁寧だった。
びっくりするくらい丁寧だった。
黒瀬が、変な顔をする。
「礼儀正しい」
「そうですね」
「死体なのに」
「死体だからかもしれません」
「死体に礼儀で負けてない? 水無月さん」
「やめてください。僕も今、少し思いました」
押し入れの中の僕は、ため息をついた。
「死体死体と言うな。こちらにも尊厳がある」
「死体の尊厳」
黒瀬が呟く。
「新しい倫理の話が始まった」
「黒瀬さん」
しずくが、静かに言った。
「死体にも礼儀は必要です」
「神様に言われると重い」
「私も一度死んでいますので」
「半分でしょ」
「はい。ですから半分だけ重いです」
「その半分理論、便利すぎない?」
黒瀬のツッコミは、相変わらず鋭かった。
けれど声の端が震えている。
怖いのだ。
当然だと思う。
僕だって怖い。
自分の顔をした存在が押し入れから出ようとしていて、しかもそいつの方が自分より礼儀正しい。こういう恐怖は、日常生活のどこにも予行演習がない。
僕は押し入れに近づいた。
透明な傘の柄に触れる。
冷たい。
氷ほどではない。でも、朝の雨に濡れた金属みたいな冷たさがあった。
「抜いた方がいいんですか」
僕が聞くと、押し入れの中の僕は真面目に答えた。
「抜くと私が死ぬ」
「今は死んでないんですか」
「死体だが、死にきってはいない」
「今日、その分類の人が多いですね」
しずくが少しだけ目を逸らした。
「透真さん。私は人ではありません」
「そこ訂正します?」
「大事です」
「大事ですか」
「はい。人間として扱われると、少し嬉しいので」
それは、訂正ではなかった。
たぶん、願望だった。
僕は一瞬だけ言葉に詰まる。
その隙に、黒瀬がしずくを見た。
「嬉しいんだ」
「はい」
「じゃあ、人間扱いしていいの?」
「わかりません」
「またわかんないの」
「でも、嫌ではありません」
黒瀬は、ほんの少し困った顔をした。
そして、気まずそうに壊れた傘の柄を指で撫でながら言った。
「じゃあ、しずくさんって呼ぶ」
しずくが目を丸くした。
「いいのですか」
「嫌ならやめるけど」
「嫌ではありません」
「じゃあそうする。神様神様って呼ぶと、こっちも距離感おかしくなるし」
「ありがとうございます」
しずくは、少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、押し入れの中の僕が、小さく呟いた。
「前の版より、ずいぶん早いな」
空気が止まった。
僕は手を止めた。
黒瀬も、しずくも、押し入れの中の僕を見た。
「前の版?」
黒瀬が言う。
「今、前の版って言った?」
押し入れの中の僕は、しまった、という顔をした。
僕と同じ顔で。
だから余計に腹が立つ。
「説明してください」
僕が言うと、押し入れの中の僕は肩をすくめた。
「説明しても、お前たちは忘れる」
「それでも聞きます」
「聞いたことを後悔する」
「今日は後悔の量がすでに上限を超えています」
「なら、いいか」
「軽いですね」
「死体だからな」
「そこは使うんですね」
押し入れの中の僕は、胸の傘を枠に引っかけないよう、器用に身体を斜めにして外へ出た。
その動きが妙に丁寧だった。
布団を踏まないように足を置き、押し入れの襖に手を添え、床に降りる時も静かに膝を曲げる。
僕より行儀がいい。
黒瀬が、ものすごく微妙な顔で僕を見た。
「……水無月さん」
「言わなくていいです」
「でも」
「言わなくていいです」
「死体の方が育ちよさそう」
「言った」
「ごめん、我慢できなかった」
押し入れの中の僕は、丁寧に会釈した。
「雨宮透真だ」
僕は固まった。
「今、何て?」
「雨宮透真」
「水無月じゃなくて?」
「違う」
雨宮。
しずくと同じ苗字。
僕は思わず、しずくを見た。
しずくは青ざめていた。
半透明なのに、青ざめているのがわかった。妙な話だけど、本当にそう見えた。
「しずくさん」
僕が呼ぶと、彼女は小さく首を振った。
「違います」
「何がですか」
「私は、覚えていません」
その言い方が、すでに覚えている人のものだった。
黒瀬が鋭く突っ込む。
「覚えてないって言う時の顔じゃない」
「黒瀬さん」
「ごめん。でも今のは嘘っぽい」
「嘘ではありません」
しずくは、胸の前で手を握った。
「覚えているのではなく、残っているんです。記憶としてではなく、痛みとして」
「痛み?」
「はい」
雨宮透真が、静かに続けた。
「私としずくは、結婚していた」
部屋が、嫌な方向に静かになった。
黒瀬が僕を見る。
僕は雨宮透真を見る。
しずくは床を見る。
誰もすぐには喋らなかった。
最初に沈黙に耐えられなくなったのは、やはり黒瀬だった。
「……待って。情報を一個ずつにして」
「すみません」
雨宮透真が頭を下げる。
「謝るところが礼儀正しい!」
黒瀬が叫んだ。
「じゃなくて! 結婚? 誰と誰が? しずくさんと、押し入れ水無月が?」
「雨宮透真だ」
「名前訂正できる立場!?」
「名前は大事だ」
「それは今朝ずっとそうだけど!」
黒瀬は頭を抱えた。
「水無月さん、あなた、何歳?」
「十九です」
「しずくさんは?」
「神様なので、年齢という概念が曖昧です」
「はい、面倒。じゃあ結婚してた版って何? どこの戸籍? どこの役所? 神様って婚姻届受け付けてもらえるの? というか、半透明の奥さんって扶養に入るの?」
「黒瀬、そこですか」
「私は今、法律と感情の両方で混乱してるの!」
言い分はわかる。
むしろ、そういう細かい現実問題を出してくれることで、かろうじて僕は発狂せずに済んでいる。
雨宮透真は、僕に向かって財布を差し出した。
「確認しろ」
僕は受け取った。
僕の財布と同じだった。
いや、似ているだけかもしれない。革の傷、カードの入り方、小銭入れの膨らみ。その全部が、僕のものと少しずつ違う。
中から学生証が出てきた。
名前。
雨宮透真。
大学名は同じ。
学部も同じ。
写真も僕。
ただ、住所が違った。
そして、緊急連絡先の欄に書かれていた名前を見て、僕は指を止めた。
雨宮しずく。
「……緊急連絡先が、しずくさんになってます」
黒瀬が覗き込んだ。
「え、本当だ。続柄は?」
僕はその欄を見た。
配偶者。
「配偶者」
声に出した瞬間、しずくが目を閉じた。
雨宮透真は、静かに言った。
「その版では、彼女は死ななかった」
「版って何ですか」
僕は学生証を握りしめたまま聞いた。
「小説の版ですか。世界の版ですか。昨日の僕とか、明日の僕とか、そういう話ですか」
「全部だ」
「全部で済ませないでください」
「なら、こう言おう」
雨宮透真は、僕の目を見た。
僕と同じ目だった。
でも、そこには僕の知らない疲れがあった。
「世界は何度も書き直されている。お前は採用された透真だ。私は没になった透真だ」
黒瀬が、小さく息を呑んだ。
「没って……」
「消えるはずだった。だが、猫が拾った」
「猫が?」
「ああ」
雨宮透真は、公園で預かった命のことを知っているような顔をした。
「お前が猫に謝ったせいで、こぼれたものの一部が戻ってきた。その結果、押し入れに私が出た」
「つまり、僕が猫に謝ったせいで、僕の死体が押し入れに?」
「そうだ」
「謝罪って、もう少し気持ちよく終わるものじゃないんですか」
「人間の謝罪は、だいたい後から面倒になる」
「嫌なこと言いますね」
「経験談だ」
黒瀬が、学生証と雨宮透真を交互に見た。
「じゃあ、あなたは何なの? 死体? 別ルートの水無月さん? しずくさんの夫? 没キャラ?」
「全部だ」
「全部で済ませる人、多すぎない!?」
「黒瀬さん」
しずくが小さく言った。
「たぶん、全部本当なのです」
「それが一番困るのよ!」
黒瀬は部屋の真ん中でぐるぐる歩き始めた。
壊れた傘を抱え、メロンパンの入った鞄を足元に置き、時々こちらを睨む。
「待って。整理する。整理できないけど、整理しないと私が壊れる」
「どうぞ」
雨宮透真が丁寧に頷いた。
「まず、朝、水無月さんの部屋にしずくさんが死んでた」
「はい」
「そのあと、笑う神様が来て、一人減ったらしいけど私は忘れてる」
「はい」
「猫に謝ったら町が一回死んで、命を預けた」
「はい」
「その結果、押し入れに別ルートの水無月さんが出てきた」
「はい」
「その水無月さんは雨宮透真で、しずくさんと結婚してた版の没キャラ」
「はい」
「そして次の朝までに、この死体を笑わせないといけない」
「はい」
黒瀬は、ぴたりと歩くのを止めた。
それから真顔で言った。
「帰っていい?」
「さっきも言ってましたね」
「何回でも言うわよ! 帰りたい気持ちは継続してるの!」
黒瀬は両手で顔を覆った。
指の隙間から、目だけがこちらを睨む。
「でも帰らないけどね!」
「ありがとうございます」
「礼を言うな! 帰りづらくなる!」
雨宮透真が、少しだけ口元を緩めた。
僕はすかさず言った。
「今、笑いました?」
「笑っていない」
「かなり惜しかった気がします」
「死体の表情筋を侮るな」
「死体の表情筋って何ですか」
黒瀬が急にこちらを向いた。
「もしかして、笑わせるって普通に笑わせればいいの?」
「遺言にはそう書いてあります」
「じゃあ、漫才とか?」
「この状況で?」
「この状況だからでしょ。まともな手段じゃ無理よ。押し入れ水無月、ツボ浅い?」
「雨宮透真だ」
「ツボは?」
「浅くはない」
「だめだ、面倒な客だ」
「客ではない」
「死体相手の営業、難しすぎる」
黒瀬は腕を組んで考え込んだ。
その真剣な顔が、少しおかしかった。
神様が死に、町が死に、別ルートの僕が押し入れから出てきて、しずくと結婚していたという話になっているのに、黒瀬は今、「どうやって死体を笑わせるか」を真面目に考えている。
人間の適応力は恐ろしい。
いや、適応ではないのかもしれない。
壊れないために、怒って、突っ込んで、考えるしかないのだ。
「透真さん」
しずくが、小さく僕を呼んだ。
彼女は、雨宮透真を見ないようにしている。
「はい」
「私は、彼と結婚していたのでしょうか」
「僕に聞かれても」
「そうですよね」
「覚えていないんですか」
「覚えていません」
しずくは、少し黙った。
「でも、左手が痛いです」
彼女は自分の左手を見る。
半透明の薬指。
そこには何もない。
指輪もない。
傷もない。
でも、彼女はその指を大切そうに撫でた。
「ここに何かがあった気がします。とても重くて、とても軽いものです」
「指輪ですか」
「たぶん」
「嫌ですか」
僕は聞いてしまった。
聞いてから、少し後悔した。
これは、僕が聞くべきことだったのだろうか。
しずくは僕を見た。
雨みたいな目。
最初に見た時より、少しだけ人間に近い目。
「嫌ではありません」
「……そうですか」
「でも」
しずくは、言葉を選ぶように視線を落とした。
「今の私は、透真さんと結婚していません」
胸の奥が、妙に痛んだ。
それは嫉妬とは違う。
寂しさとも違う。
もっと曖昧で、名前のない痛みだった。
自分が選ばなかった未来を、目の前で見せられているような痛み。
「そうですね」
僕は言った。
「今の僕は、水無月透真なので」
「はい」
「それに、今日会ったばかりですし」
「はい」
「半分死んでいる神様と結婚の話をするには、朝が忙しすぎます」
「それは、とても人間らしい意見ですね」
しずくは少し笑った。
その笑顔に、雨宮透真が静かに目を細める。
笑っているのではない。
懐かしんでいる顔だった。
僕はその顔を見て、嫌な気分になった。
同じ顔なのに。
僕より先に、しずくの笑い方を知っている顔。
黒瀬が、僕の顔を覗き込んだ。
「水無月さん、今ちょっと嫌な顔した」
「してません」
「した。嫉妬っぽいやつ」
「してません」
「二回否定する時は、だいたいしてる」
「黒瀬はこういう時だけ鋭いですね」
「こういう時って何よ」
黒瀬はじとっと僕を見る。
そのやり取りを見て、雨宮透真がもう一度、口元を緩めた。
僕は指さした。
「今のは?」
「笑っていない」
「絶対少し笑いましたよね」
「死体の微笑は笑いに含まれない」
「そんな規定あります?」
「ある。今作った」
「ずるい」
黒瀬が手を叩いた。
「わかった!」
「何がですか」
「押し入れ水無月は、普通のギャグでは笑わない。でも、人間関係の面倒くささには反応する」
「どういう分析ですか」
「つまり、ラブコメで攻める」
「やめてください」
僕と雨宮透真の声が重なった。
黒瀬はにやりとした。
「ほら、反応した」
「黒瀬」
「だって死体を笑わせないといけないんでしょ? 命かかってるんでしょ? だったら恥ずかしいとか言ってる場合じゃない」
「それはそうですが」
「では質問です」
黒瀬は、壊れた傘をマイクのように構えた。
「雨宮透真さん。しずくさんの好きなところを三つ言ってください」
「黒瀬!」
僕が叫ぶ。
しずくが真っ赤になった。
半透明なのに、赤くなるのはずるい。
雨宮透真は、少しだけ目を伏せた。
「三つでは足りない」
部屋が静まり返った。
黒瀬が、口を開けたまま固まる。
しずくは、さらに赤くなる。
僕は、自分の顔でそんなことを言われた衝撃に耐えられず、壁を見た。
「……水無月さん」
黒瀬が小声で言った。
「押し入れ版の方が強い」
「言わないでください」
「だって、強い」
「言わないでください」
「今のは普通に強い」
「三回言った」
雨宮透真は、静かに続けた。
「雨の匂いがすると、必ず窓を見るところ」
しずくの肩が揺れた。
「甘いものを好きだと言うのに、最初の一口をいつも遠慮するところ」
「……」
「人間になりたいと言わないところ」
しずくが、息を止めた。
「本当は、人間になりたかったのに」
その言葉は、部屋の中にゆっくり落ちた。
誰も茶化せなかった。
黒瀬ですら、壊れた傘を下ろした。
しずくは泣いていなかった。
神様は泣くのだろうか。
半分死んだ神様は、泣けるのだろうか。
わからない。
でも、彼女の目は、雨が降る直前の空に似ていた。
「私は」
しずくが言った。
「人間になりたかったのでしょうか」
雨宮透真は、優しく答えた。
「なりたかった」
「どうして」
「私と同じ朝を迎えたかったから」
黒瀬が小さく呟いた。
「重い」
「黒瀬」
「ごめん。でも重い。朝から恋愛感情が重い。死体のくせに恋が重い」
雨宮透真が、初めて声を出して笑った。
短い笑いだった。
ふ、と。
本当に小さな、息みたいな笑い。
けれど確かに笑った。
机の上の遺言が、ぱっと光った。
文字が一つずつ浮かび上がり、空中でほどけていく。
次の朝までに、自分の死体を笑わせてください。
その文字が消えた。
黒瀬が目を見開く。
「やった?」
「笑いましたね」
「私の『死体のくせに恋が重い』で?」
「はい」
「最悪。私の人生初の神様案件解決ワード、それなの?」
黒瀬は顔を覆った。
「もっと感動的に決めたかった……」
「十分感動的でした」
「どこが!?」
「人間らしかったです」
しずくがそう言うと、黒瀬は返事に困ったようだった。
「……それ、褒めてる?」
「はい」
「なら、まあ、いいけど」
黒瀬は照れ隠しのように壊れた傘を振った。
その瞬間、雨宮透真の身体が薄くなり始めた。
「え」
僕は思わず手を伸ばした。
「待ってください。笑わせたら、助かるんじゃないんですか」
「違う」
雨宮透真は穏やかに言った。
「笑わせることが、死体を正しく死なせる条件だった」
「そんなの」
「最初から、そういう遺言だった」
「書いてなかった」
「遺言はいつも足りない。だから人間が間違える」
雨宮透真の足元が、雨に変わっていく。
逆さまに落ちる雨ではない。
今度は、普通に床へ落ちる雨だった。
ぽつり。
ぽつり。
「待って」
しずくが、初めて彼に近づいた。
「私は、あなたを覚えていません」
「ああ」
「でも、痛いです」
「それでいい」
「よくありません」
「いいんだ」
雨宮透真は、しずくを見た。
僕と同じ顔で、僕にはできない顔をしていた。
「君が痛いなら、私は完全に無駄ではなかった」
「そんな言い方は嫌です」
「すまない」
「謝らないでください」
「すまない」
「だから」
しずくの声が震えた。
「私は、あなたを覚えていないのに」
「うん」
「なぜ、泣きそうになるんですか」
「愛されていたからだ」
しずくが黙った。
黒瀬が泣きそうな顔で、でも泣くのを我慢していた。
僕は、何も言えなかった。
雨宮透真は僕を見た。
「水無月透真」
「はい」
「嫉妬するな」
「してません」
「した」
「……少しだけ」
「それでいい」
「いいんですか」
「しずくを、神様としてだけ扱うな」
雨宮透真は言った。
「死体としても、ヒロインとしても、過去の妻としても、世界のバグとしても扱うな。全部間違っている。だが、全部少しずつ正しい」
「では、どう扱えばいいんですか」
「目の前にいる女の子として扱え」
その言葉に、しずくが息を呑んだ。
「神様は、人間にそう扱われると弱い」
「弱い?」
「好きになる」
「……それは困りますね」
「困れ。人間の恋は、だいたい困る」
雨宮透真は、少し笑った。
今度は、遺言のための笑いではなかった。
たぶん、別れの笑いだった。
「最後に一つだけ言っておく」
「はい」
「第1話を信じるな」
空気が冷えた。
黒瀬が眉をひそめる。
「またそれ系?」
雨宮透真は、頷いた。
「第1話で死んだ神様は、雨宮しずくではない」
しずくが、動きを止めた。
僕も、黒瀬も、声を失った。
「どういう意味ですか」
僕が聞く。
「お前が最初に見た死体は」
雨宮透真の身体が、さらに薄くなる。
声が遠くなる。
「しずくの形をした、別の神様だ」
「別の神様?」
「第1話を読んだ神様」
その言葉を最後に、雨宮透真は雨になった。
普通に床へ落ちる雨。
小さな水たまり。
そこに透明な傘だけが残った。
しずくの胸に刺さっていたものと同じ形。
そして、雨宮透真の学生証だけが、僕の手の中に残っていた。
名前。
雨宮透真。
続柄。
配偶者、雨宮しずく。
黒瀬が、ぽつりと言った。
「……ねえ」
「はい」
「水無月さん、自分の死体に恋愛マウント取られて消えられたの、だいぶしんどくない?」
「今それ言います?」
「言わないと、泣きそうだったから」
黒瀬は目元を袖で拭いた。
泣いてはいない。
でも、泣きそうだった。
僕も、少しだけ笑いそうになった。
今度は、笑っても誰も消えない気がした。
たぶん。
「黒瀬」
「何」
「いてくれて助かりました」
「……そういうの、急に言わないで」
「すみません」
「謝るな。猫に謝ったばっかりでしょ」
「謝罪の在庫がまだあります」
「嫌な在庫」
しずくは、床の水たまりを見つめていた。
僕は彼女に声をかけるべきか迷った。
何を言えばいいのかわからない。
結婚していたらしい別の僕が消えた。
彼女は覚えていない。
でも痛いと言った。
そういう時、今の僕は何者として隣にいればいいのか。
水無月透真としてか。
別ルートの自分の代わりとしてか。
それとも、今日初めて彼女と出会った、ただの人間としてか。
迷った末に、僕は言った。
「しずくさん」
「はい」
「プリン、まだ一個残ってます」
黒瀬が目を剥いた。
「今それ!?」
「今それです」
「いや、悪くはないけど! 悪くはないけど、もっと何かあったでしょ!」
しずくは、一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、少しだけ笑った。
「食べてもいいですか」
「はい」
「半分だけ?」
「今日は一個全部でいいです」
「太っ腹ですね」
「神様相手に、プリン一個で太っ腹扱いされるのは複雑です」
しずくは、床の水たまりから視線を上げた。
「ありがとうございます、透真さん」
その声は、少しだけ震えていた。
でも、さっきより現実に近かった。
僕は冷蔵庫を開けた。
最後のプリンを取り出す。
蓋を開ける。
その時、机の上に新しい紙が現れた。
僕たちは三人同時に動きを止めた。
黒瀬が、ものすごく嫌そうな顔をする。
「また?」
「またです」
「この部屋、紙出すぎじゃない?」
「遺言なので」
「遺言ってもっと一生に一回じゃないの?」
「神様が毎朝死ぬので」
「理屈はわかるけど納得はしてない」
僕は紙を手に取った。
今度の文字は、見たことのない筆跡だった。
硬くて、角ばっていて、どこか印刷された文字に似ている。
そこには、こう書かれていた。
第1話を読んだ神様が、あなたの部屋に向かっています。
彼は、あなたより先にこの物語の結末を知っています。
ただし、彼の言うことを信じてはいけません。
黒瀬が、横から覗き込んで言った。
「第1話を読んだ神様って、さっき言ってたやつ?」
「そうですね」
「信じてはいけないって書いてあるけど」
「はい」
「でも来るんでしょ?」
「たぶん」
「帰っていい?」
「帰らないんでしょう?」
「帰らないけど、毎回言わせて。言わないとやってられない」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
ぴんぽん。
普通の音だった。
普通の音なのに、今日聞いたどんな怪異よりも不気味に響いた。
しずくが、プリンのスプーンを持ったまま固まった。
黒瀬が壊れた傘を構える。
僕は、学生証を握ったまま玄関を見た。
ドアの向こうで、男の声がした。
「すみません。第1話を読ませていただいた者です」
黒瀬が小声で言った。
「礼儀正しいの、逆に怖い」
僕も同感だった。
チャイムが、もう一度鳴る。
ぴんぽん。
「感想をお伝えに来ました」
ドアの向こうの声は、穏やかだった。
「あなたの第1話、嘘から始まっています」
僕は思った。
どうやら僕の物語は、まだ冒頭すら信用できないらしい。




