第3話 猫に謝ると、町が一度死ぬ
猫は、字が書ける。
少なくとも、今朝の僕はそう理解するしかなかった。
アパートの二階廊下。錆びた手すりの上。黒い猫が一匹、朝日を背負って座っていた。
毛並みは艶がある。尻尾は長い。目は金色。首には赤い紐が巻かれていて、そこに小さな紙が結ばれている。
紙には、たった二文字。
遅い。
「……猫って、時間に厳しいんですか」
僕が呟くと、隣でしずくが真面目な顔で頷いた。
「猫は時間に厳しいです」
「初耳なんですが」
「人間が知らないだけです。猫はだいたい、すべてに厳しいです」
「たしかに、なんとなくそんな気はします」
「ちょっと待って」
黒瀬依子が、壊れたビニール傘を胸に抱えたまま言った。
彼女はさっきからずっと、眉間に皺を寄せている。泣いた理由は忘れたらしい。黄色いレインコートの神様のことも、消えた三人目のことも、たぶんもう覚えていない。
けれど、メロンパンを見た瞬間に流した涙の感触だけは残っているようだった。
人は、覚えていないことでも傷つく。
それは今朝、僕が知ってしまったことの中で、一番まともで、一番ひどい事実だった。
「猫が時間に厳しいとか、猫が字を書けるとか、そういう話を自然に進めないで。私、まだ玄関出て一歩も歩いてないのに、もう帰りたいんだけど」
「帰ってもいいですよ」
僕が言うと、黒瀬はものすごく嫌そうな顔をした。
「帰っていいって言われると、逆に帰れないじゃん」
「どうしてですか」
「ここまで巻き込まれて、私だけ帰ったあとに水無月さんが何か変な死に方したら、寝覚めが悪いから」
「優しいですね」
「違う。責任感と好奇心と恐怖と、あと少しだけ腹立たしさがぐちゃぐちゃになってるだけ」
「だいぶ人間らしい理由です」
「神様みたいな子に言われると、褒め言葉に聞こえない」
黒瀬がしずくを見る。
しずくは、半透明のまま首を傾げた。
「私は半分死んでいるだけなので、神様としての発言力は半分です」
「そういう分数で自分の状態を説明するのやめて。こっちは理系じゃないんだから」
「文系でも半分は半分です」
「正論の出し方が腹立つ!」
黒瀬が声を荒げた瞬間、手すりの上の黒猫が、尻尾を一度だけ揺らした。
ぴしり、と空気が鳴った。
黒瀬が口を閉じる。
「……今の何?」
「怒られたんだと思います」
「猫に?」
「はい」
「私、今、猫に生活態度を注意されたの?」
「たぶん」
「朝から人生が納得いかない」
黒猫は、じっとこちらを見ている。
鳴かない。
動かない。
ただ、金色の目で僕たちを見ている。
僕はその視線に耐えきれず、軽く頭を下げた。
「ええと……おはようございます」
黒猫は答えない。
代わりに、首の紙が勝手に裏返った。
さっきまで「遅い」と書かれていた紙の裏に、新しい文字が浮かぶ。
人間はすぐ挨拶で誤魔化す。
「……辛辣」
黒瀬が小声で言った。
僕はもう一度、紙を見た。
文字は墨で書かれているように見えた。けれど、書いた直後のように濡れてはいない。紙そのものに、最初からそういう意味が染み込んでいるみたいだった。
「しずくさん」
「はい」
「この猫が、猫の王様ですか」
「いいえ」
「違うんですか」
「王様の使いです」
「使いの時点でこの圧なんですね」
「王様はもっと大きいです」
「物理的に?」
「態度が」
「ああ……それは想像できます」
黒瀬が壊れた傘を抱き直しながら、僕の袖を引いた。
「ねえ、水無月さん」
「はい」
「このまま猫についていくの?」
「遺言には猫に謝れと書いてありました」
「猫って、この猫?」
「たぶん」
「たぶんで行動すると危なくない?」
「もう危ないところにいるので」
「それはそうなんだけどさあ!」
黒瀬は苛立ったように前髪をかき上げた。
その仕草が妙に普通で、僕は少しだけ安心した。世界がおかしくても、黒瀬は黒瀬のままだ。怖がるし、怒るし、納得できないことに文句を言う。そういう人間が隣にいると、現実は少しだけ足場を取り戻す。
しずくが、黒瀬の手元を見た。
「黒瀬さん。その傘、まだ持っているんですね」
「え? ああ、これ?」
黒瀬は壊れたビニール傘を見下ろした。
「なんか、手放すといけない気がして」
「理由は?」
「わかんない」
彼女は不機嫌そうに言った。
「わかんないけど、持ってた方がいいって感じがする。自分のものじゃないのに、捨てたら誰かに怒られる気がする」
「誰かに?」
「だから、誰かって誰よ。私が聞きたい」
黒瀬の声が少しだけ荒れた。
彼女はすぐに気まずそうな顔をした。
「ごめん。今の、八つ当たり」
「いいですよ」
「よくない。あんたも巻き込まれてる側なのに」
「加害者かもしれないらしいです」
「それ、ほんとやめて。こっちが怒りづらくなるから」
黒瀬は深く息を吐いた。
それから、手すりの猫に向かって言った。
「で、猫さん。私たち、どこに行けばいいの?」
黒猫は、じっと黒瀬を見た。
数秒。
さらに数秒。
黒瀬がだんだん不安そうな顔になる。
「……何? 私、猫に失礼なこと言った?」
「猫さん、という呼び方が馴れ馴れしかったのかもしれません」
「猫様?」
黒猫の尻尾が少しだけ上がった。
「あ、そっちなんだ」
黒瀬が真顔で頷いた。
「猫様。私たち、どこに行けばいいんでしょうか」
黒猫は、満足したように手すりから飛び降りた。
廊下の床に着地する音は、ほとんどしなかった。
そして、何も言わずに階段の方へ歩き出す。
歩き方が偉そうだった。
猫の歩き方なんて全部偉そうだと言えばそれまでだけど、この猫は特に偉そうだった。背中だけで「ついてこい」と言っている。
「……行くしかないですね」
僕が言うと、黒瀬が遠い目をした。
「大学って、欠席理由に『猫の王様に謝罪するため』って書けるかな」
「書けはします」
「通らないよね」
「たぶん」
「だよね。現実って変なところだけ厳しいよね」
「世界は雑なのに」
「ほんとそれ」
僕たちは、猫の後を追って階段を下りた。
しずくは、ふわりと僕の横を浮いている。足が階段に触れていない。黒瀬はそれを見るたびに、見ないようにして、結局見て、そして小さく「うわ」と呟く。
「黒瀬さん」
しずくが言った。
「何でしょう」
「私は見えていて大丈夫ですか」
「見えていて大丈夫かどうか聞かれる経験が人生にないから、正直わからない」
「怖いですか」
「怖い」
黒瀬は即答した。
しずくが少しだけ目を伏せる。
黒瀬は慌てた。
「あ、違う。いや違わないけど、怖いっていうのは、あなたが嫌とかじゃなくて。普通に半透明の女の子が浮いてたら怖いでしょ? それは人間としての正常な反応であって、あなた個人への悪口ではなくて」
「はい」
「それに、その……水無月さんと普通に会話してるから、だんだん慣れてきてる自分も怖い」
「人間は慣れます」
「慣れたくないって言ってるでしょ」
「でも、慣れないと壊れます」
しずくの声は静かだった。
黒瀬が黙る。
僕も黙った。
階段の途中で、朝の光が斜めに差し込んでいる。アパートの壁は少し汚れていて、隣の部屋の室外機が低く唸っている。下の道路から、ゴミ収集車の音楽が聞こえてきた。
こんなに普通の朝なのに、僕たちは猫に謝るために歩いている。
普通と異常の境目が、もうぼやけていた。
アパートを出ると、黒猫は迷わず駅とは反対方向へ進んだ。
住宅街の細い道。
塀の上に、別の猫がいた。
三毛猫。
車の下に、茶トラ。
電柱の陰に、白猫。
気づくと、やたらと猫が多かった。
最初は一匹、二匹だったのが、道を曲がるたびに増える。ベランダの手すり、植木鉢の隣、自動販売機の上、駐輪場の屋根、干された布団の上。
全部の猫が、僕たちを見ている。
「……ねえ」
黒瀬が小声で言った。
「猫、多くない?」
「多いですね」
「明らかに多いよね」
「はい」
「この町、こんなに猫いた?」
「少なくとも昨日までは、ここまでではなかったと思います」
「昨日が信用できない世界で昨日の話するの、やめよう?」
黒瀬が壊れた傘を抱きしめる。
その表情は怖がっているのに、どこか怒ってもいる。どうして自分がこんな目に、という怒り。どうして自分が何かを忘れているのか、という怒り。どうして怖いのに逃げられないのか、という怒り。
人間臭い。
不思議な言い方かもしれないけれど、今の黒瀬は、今朝見たどんな神様よりも生きている感じがした。
「水無月さん」
「はい」
「もし私がまた何か忘れたら、言って」
「何を忘れたかをですか」
「うん」
「言って、どうしますか」
「怒る」
「僕に?」
「状況に」
「それは大事ですね」
「大事よ。怒らないと、なんか全部ふわっと持っていかれそうだから」
黒瀬はそう言って、唇を結んだ。
その時、先頭を歩いていた黒猫が止まった。
場所は、駅前から少し離れた小さな公園だった。
ブランコが二つ。滑り台が一つ。砂場には青いビニールシートが半分かかっている。公園の隅には、古いベンチと、地域猫用らしい水皿が置かれていた。
僕も黒瀬も、一度は見たことのあるような、どこにでもある公園。
ただし、今日はどこにでもある公園ではなかった。
公園中に猫がいた。
ざっと見ても、二十匹以上。
いや、三十匹かもしれない。
塀の上、ベンチの下、滑り台の上、砂場の縁、木の枝。猫、猫、猫。
そして、ブランコの中央。
一匹の巨大な猫が座っていた。
巨大と言っても、虎みたいな大きさではない。普通の猫より、少し大きいくらいだ。けれど、その少しが異様だった。体の大きさ以上に、存在の態度が大きい。
毛は灰色。
片耳が欠けている。
右目の上に古い傷がある。
首には、どこかの子供が作ったような紙の王冠が乗っていた。
「……あれが」
僕が呟くと、しずくが頷いた。
「猫の王様です」
黒瀬が小声で言う。
「紙の王冠なんだけど」
「王様です」
「紙の王冠なんだけど」
「紙でも王冠は王冠です」
「世界の判定が雑!」
黒瀬が思わず叫ぶと、公園中の猫が一斉に彼女を見た。
黒瀬は瞬時に背筋を伸ばした。
「申し訳ありませんでした」
謝罪が早い。
猫の王様は、ブランコの上でゆっくり尻尾を動かした。
その瞬間。
声が聞こえた。
「遅い」
低い声だった。
人間の声ではない。
でも、意味はわかった。
猫の王様が喋った、というより、猫の王様が持っている意味が、直接頭の中に入ってきた感じだった。
黒瀬が目を見開く。
「今、喋った?」
「喋りましたね」
「猫が?」
「猫が」
「もうやだ」
黒瀬は顔を両手で覆った。
「私、猫カフェ好きだったのに。今日で猫への印象がだいぶ変わる」
「安心してください」
しずくが言う。
「猫は最初からこうです」
「安心できない情報!」
猫の王様が、また尻尾を動かした。
「人間」
頭の中に声が響く。
「謝れ」
僕は一歩前に出た。
公園の砂利が靴の下で鳴る。
「……何に対して、謝ればいいんですか」
猫たちがざわめいた。
にゃあ、ではない。
いや、鳴き声としては、にゃあ、だった。
でも、意味があった。
返せ。
返せ。
返せ。
最初の朝を返せ。
ぞくりとした。
何十匹もの猫の声が、頭の中で同じ言葉になる。
返せ。
最初の朝を返せ。
黒瀬が、青ざめた顔で僕を見た。
「水無月さん。今の、聞こえた?」
「はい」
「最初の朝って何」
「わかりません」
「また?」
「でも、たぶん」
僕はしずくを見た。
しずくは、少しだけ俯いていた。
長い髪が頬にかかって、表情が見えない。
「しずくさんは、知っていますか」
「少しだけ」
「教えてください」
「教えると、透真さんが思い出します」
「思い出すと?」
「何かが死にます」
黒瀬が堪えきれないように言った。
「この世界、思い出しただけで何か死にすぎじゃない?」
「記憶は命に近いので」
「そういう綺麗っぽいこと言われても納得しないからね!」
「綺麗ではありません。記憶は、だいたい汚いです」
しずくは静かに言った。
「だから、残るんです」
猫の王様が、ブランコから飛び降りた。
重い着地音はしない。
ただ、公園の空気が一段低くなった。
「人間」
声が響く。
「おまえたちは、猫を忘れた」
「猫を?」
僕は聞き返した。
「忘れていません。ほら、今も目の前に」
「違う」
王様の金色の目が、細くなった。
「おまえたちは、忘れたものを猫に預けた」
公園中の猫が、ゆっくり瞬きをする。
そのたびに、僕の頭の中に知らない景色が流れ込んできた。
雨の日。
団地の階段。
黄色い傘。
小さな僕。
雨の日にだけ現れる女の子。
そして、階段の下にいた小さな白い猫。
僕は息を呑んだ。
白い猫。
そうだ。
いた。
昔、いた。
でも名前が出てこない。
猫の名前。
僕が呼んでいた名前。
思い出そうとした瞬間、頭の奥でまた、ぱきん、と音がした。
「っ……」
「透真さん!」
しずくが僕の腕を掴もうとして、すり抜けた。
その代わり、黒瀬が僕の肩を掴んだ。
「ちょっと、大丈夫!?」
「大丈夫……ではないです」
「でしょうね! 顔色、壁紙みたいになってる!」
「僕、昔、猫を」
「猫を?」
「飼って……いや、違う。飼ってない。団地だからペット禁止で。でも、階段にいた。雨の日だけ。白い猫が」
言葉が勝手に出てきた。
思い出しているのか、作られているのか、区別がつかなかった。
しずくが、僕を見ている。
その目は、どこか怯えていた。
「名前は?」
黒瀬が聞いた。
「名前は何だったの?」
「……わからない」
僕がそう言った瞬間、公園中の猫が一斉に鳴いた。
違う。
それは鳴き声ではなかった。
抗議だった。
怒りだった。
悲鳴だった。
返せ。
返せ。
返せ。
最初の名前を返せ。
黒瀬が耳を押さえた。
「何これ、頭の中がうるさい!」
「猫に謝ってください」
しずくが言った。
声が焦っている。
「透真さん。早く」
「何を謝れば」
「わからなくてもいいんです。猫に謝る時は、理由より先に頭を下げるんです」
「それ、謝罪としてどうなんですか」
「人間の謝罪もだいたいそうでしょう」
「否定できないのが嫌ですね」
僕は猫の王様の前に立った。
何十匹もの猫が、僕を見ている。
通りがかりの人はいない。
いや、違う。
公園の外の道には人がいる。自転車で通り過ぎる主婦。犬を散歩させる老人。スマホを見ながら歩く会社員。
でも、誰もこちらを見ない。
公園だけが、世界から少し切り取られているようだった。
僕は膝をついた。
黒瀬が小さく「え」と声を漏らす。
「水無月さん、本当に土下座するの?」
「猫相手に謝る作法がわからないので」
「だからって初手土下座は重いでしょ」
「相手は王様です」
「それはそうだけど!」
猫の王様は、じっと僕を見ている。
僕は頭を下げた。
額が砂利に触れる。
冷たい。
少し痛い。
「すみませんでした」
声を出した瞬間、自分が何に謝っているのかわからなくなった。
猫に。
忘れた名前に。
消えた誰かに。
雨の日にいた女の子に。
昨日までいた三人目に。
それとも、普通のふりをして生きてきた自分に。
「僕は、何かを忘れました」
言葉が続いた。
自分の意思なのかどうか、わからない。
「忘れたことも忘れていました。たぶん、忘れたまま平気な顔をしていました。誰かがいなかったことになっても、猫が覚えているなら、それは僕のせいです」
黒瀬が息を呑む音がした。
僕は顔を上げなかった。
「すみませんでした」
もう一度、頭を下げる。
その時、猫の王様が言った。
「預けろ」
「……何をですか」
「命を一つ」
黒瀬が叫んだ。
「はあ!? 猫に謝るって、そういう契約なの!?」
しずくが静かに言う。
「猫に謝るとは、命を一つ預けるという意味です」
「先に言って!」
「言うと、透真さんが謝れませんでした」
「そりゃそうでしょ! 命を預ける謝罪って何!? 重すぎるでしょ! 菓子折りで済ませてよ!」
黒瀬が本気で怒っていた。
たぶん僕のために。
その怒鳴り声が、砂利の上にうつ伏せた僕の背中に落ちてくる。
怖いのに。
何も覚えていないのに。
それでも怒ってくれる。
「黒瀬」
僕は顔を上げないまま言った。
「はい!?」
「ありがとうございます」
「今それ言う場面!? あと勝手に命預けないでよ! 自分の命を粗末にする主人公、読んでて腹立つから!」
「僕、主人公かどうかも」
「その話は後って言った!」
怒られた。
理不尽な朝の中で、やけに真っ当な怒られ方だった。
猫の王様が、僕の前まで歩いてきた気配がした。
額の近くに、柔らかいものが触れる。
肉球だった。
猫の王様が、僕の頭に前足を乗せている。
「命を預かった」
その瞬間。
町が死んだ。
音が消えた。
車の音。
自転車のブレーキ音。
犬の鳴き声。
遠くの電車。
コンビニの自動ドア。
人の足音。
全部。
消えた。
僕は顔を上げた。
公園の外を見た。
自転車に乗った主婦が、止まっている。
犬を連れた老人が、片足を前に出したまま動かない。
会社員のスマホ画面には、指が触れる直前で止まっている。
風も止まっていた。
木の葉が空中で静止している。
黒瀬が、震えた声で言った。
「……町が、止まった?」
「死にました」
しずくが答えた。
「一度だけ」
「町って死ぬの?」
「人間の暮らす場所ですから」
「意味わかんない……」
黒瀬が言いかけて、慌てて口を押さえた。
意味がわからない。
その言葉を言うと、何かが割れる。
彼女もそれを覚えていた。
たぶん、全部はわかっていない。
でも、危険な言葉として覚えていた。
猫の王様は、公園の中央に戻った。
公園中の猫が、一斉に町の方を向く。
そして鳴いた。
にゃあ。
にゃあ。
にゃあ。
その鳴き声に合わせて、止まった町のあちこちから、薄い影が浮かび上がった。
人の影ではない。
猫の影だった。
道路の隅。
ゴミ捨て場の裏。
アパートの階段。
学校のフェンス。
駅前のパン屋。
町のあちこちに、かつていた猫たちの影が現れる。
その中に、一匹だけ白い猫がいた。
小さな白い猫。
雨の日の団地の階段にいた猫。
僕は立ち上がった。
吸い寄せられるように、その白い猫を見る。
白い猫は、公園の入口に座っていた。
金色ではなく、薄い青の目をしている。
その目を見た瞬間、喉の奥から名前が出かけた。
ミ――。
そこまで。
そこから先が出ない。
白い猫は、僕を見て、小さく鳴いた。
その鳴き声の意味が、頭の中に入ってくる。
忘れてもいい。
でも、捨てないで。
僕は動けなかった。
黒瀬が隣に来た。
「水無月さん」
「……はい」
「その猫、知ってるの?」
「知っていた気がします」
「そっか」
黒瀬は、壊れた傘を抱えたまま、白い猫に向かって少し頭を下げた。
「私は、知らないけど」
彼女はそう言った。
「たぶん、水無月さんが忘れたことを、猫が覚えてくれてたんだよね。だったら、その……ありがとう、でいいのかな。違ったらごめん」
白い猫は、黒瀬を見た。
それから、ゆっくり瞬きした。
黒瀬が僕の袖を引く。
「今の、許された?」
「たぶん」
「猫、わかりにくい」
「でも、人間より正直かもしれません」
「それも腹立つなあ」
その瞬間、町に音が戻った。
車が走り出す。
自転車が進む。
犬が吠える。
会社員の指がスマホ画面を押す。
何事もなかったように、世界が動き出す。
ただ一つだけ、変わっていた。
公園の外を歩く人たちが、全員、一瞬だけ僕を見た。
そして、猫の声で言った。
「預かった」
次の瞬間には、普通の顔に戻っている。
黒瀬が青ざめた。
「今の、私だけ聞いた?」
「僕も聞きました」
「町中に命預けたの?」
「猫に預けたはずなんですが」
「猫の管理範囲、町全体なの!?」
「王様なので」
「もうそれで全部説明するのやめて!」
しずくが小さく笑った。
黒瀬がぎろっと見る。
「今、笑った?」
「少しだけ」
「笑いの神様の次に笑うの、心臓に悪いから本当にやめて」
「すみません。人間の会話が、少し好きになってきました」
「それは……まあ、悪いことじゃないけど」
黒瀬はそう言ってから、照れたように顔をそらした。
猫の王様が、紙の王冠を揺らした。
「帰れ」
頭の中に声が響く。
「今日の謝罪は受けた」
「今日の?」
僕が聞き返す。
「明日は知らぬ」
「明日も何かあるんですか」
「毎朝、神様が死ぬ」
猫の王様は言った。
「猫はそのたびに、失くしたものを拾う」
「失くしたものって」
「人間が忘れた名前。神様が落とした役目。物語からこぼれた朝」
しずくが、わずかに目を伏せた。
猫の王様は僕を見た。
「おまえは、こぼしすぎた」
胸の奥が冷えた。
「僕が?」
「おまえが」
金色の目が、まっすぐ僕を刺す。
「最初の朝を返せ」
そう言って、猫の王様は僕に背を向けた。
公園中の猫たちも、次々にどこかへ散っていく。
塀を越え、植え込みに潜り、車の下に消える。
あっという間だった。
残ったのは、僕たち三人と、ブランコに落ちた紙の王冠だけ。
黒瀬が、その王冠を拾おうとして、しずくに止められた。
「触らない方がいいです」
「また命とか預けるやつ?」
「今度は王位を預けられます」
「絶対嫌」
黒瀬は即座に手を引っ込めた。
僕は公園の入口を見た。
白い猫はいない。
いたはずの場所に、小さな白い毛が一つ落ちていた。
拾う。
指先に乗せると、すぐに溶けるように消えた。
黒瀬が、少し心配そうに僕を見た。
「水無月さん」
「はい」
「大丈夫?」
「大丈夫ではないです」
「だよね」
「でも、少し思い出しました」
「何を?」
「僕はたぶん、昔から、なかったことにするのが上手かったんです」
黒瀬は、少しだけ顔をしかめた。
「それ、自分で言うのきつくない?」
「きついです」
「じゃあ、今はそれくらいでいいんじゃない」
「え?」
「全部一気に思い出したら壊れるでしょ。今日だけで神様二人死んで、猫に命預けて、町が一回死んだんだから。もう十分すぎる。人間、一日に処理していい情報量ってものがある」
黒瀬は、壊れた傘を肩にかけるように持ち替えた。
「帰ろ。水無月さんの部屋に。あそこも全然安全じゃないけど、少なくとも座れる」
「黒瀬、大学は」
「休む」
「いいんですか」
「いいわけないでしょ。あとでレポート出すし、欠席理由も考えるし、たぶん単位も心配する。でも今は、あんたの部屋に戻って、お茶でも飲んで、メロンパンをどうするか考える方が先」
「メロンパン」
僕は思い出した。
消えた三人目が持っていた、メロンパン。
黒瀬はそれを大事そうに鞄の中に入れていた。
「食べるんですか」
「食べない」
「では?」
「置いとく」
「どこに」
「水無月さんの部屋」
「なぜ僕の部屋に」
「知らないよ」
黒瀬は少しだけ怒ったように言った。
「でも、あそこに置くべきな気がするの。私の部屋じゃなくて、パン屋でもなくて、ゴミ箱でもなくて、あんたの部屋。理由はわからない。でも、理由がわからないものを全部捨ててたら、また誰か消える気がする」
その言葉に、しずくが静かに頷いた。
「黒瀬さんは、強いですね」
「強くない。怖くて怒ってるだけ」
「それは、かなり強いです」
黒瀬は困ったように顔をそらした。
「神様に褒められても、どう反応していいかわからない」
「半分です」
「半分でも!」
僕たちは公園を出た。
町は普通だった。
普通すぎた。
コンビニの前ではサラリーマンが缶コーヒーを飲んでいる。小学生がランドセルを揺らして走っている。駅へ向かう人の流れがある。
さっきこの町が一度死んだことを、誰も知らない。
誰も覚えていない。
でも、僕にはわかる。
空気が少しだけ軽くなっている。
いや、違う。
何かを一つ、猫に預けた分だけ、僕の中が軽くなっている。
その軽さが怖かった。
失くしたことにすら気づかない軽さ。
アパートに戻る途中、黒瀬がぽつりと言った。
「ねえ、水無月さん」
「はい」
「もし私が、忘れてるだけでひどいことしてたら、どうする?」
「ひどいこと、ですか」
「うん。誰かを忘れたとか、見捨てたとか、なかったことにしたとか」
黒瀬は前を向いたまま言った。
壊れた傘を握る手に、少し力が入っている。
「私、さっきからずっと怖いの。自分が被害者なのか、加害者なのか、わかんない。忘れてるって便利じゃん。覚えてないなら、泣けるし、怒れるし、自分は悪くないって思える。でも本当にそうなのかなって」
僕は答えられなかった。
それは、僕自身にも刺さる問いだった。
僕は何を忘れたのか。
何をなかったことにしたのか。
しずくを一度殺したのは、僕なのか。
白い猫の名前を失くしたのは、僕なのか。
消えた三人目も、僕がこぼした何かなのか。
「わかりません」
僕は正直に言った。
「でも、黒瀬がひどいことをしていたとしても、今の黒瀬がそれを怖がっているなら、たぶんまだ間に合うと思います」
「何に?」
「謝ることに」
黒瀬は少し黙った。
それから、ふっと笑った。
「猫に?」
「猫にも」
「人間にも?」
「たぶん」
「神様にも?」
「必要なら」
「水無月さんにも?」
僕は少し考えた。
「僕には、別に」
「そういうところ」
黒瀬が呆れたように言った。
「そういうところが危ないんだって。自分には謝られなくていい、みたいな顔する人、だいたい一番面倒な壊れ方するから」
「詳しいですね」
「オカルト研究会だから」
「それ、オカルトなんですか」
「人間もだいたいオカルトよ」
妙に説得力があった。
アパートに着いた。
二階へ上がる。
廊下は何事もなかったように静かだった。
ただ、僕の部屋の前に、一枚の紙が落ちていた。
遺言かと思って身構えたが、違った。
パン屋のレシートだった。
印字はかすれている。
日付は昨日。
商品名は三つ。
チョココロネ。
カレーパン。
メロンパン。
黒瀬が、僕の隣で息を止めた。
「……三人で買ってたんだ」
「はい」
「私、チョココロネ?」
「たぶん」
「水無月さんはカレーパン?」
「たぶん」
「じゃあ、メロンパンは」
黒瀬は言いかけて、黙った。
名前は出ない。
顔も出ない。
でも、メロンパンは残っている。
レシートも残っている。
それは、完全に消えたわけではない証拠だった。
僕はレシートを拾って、丁寧に折った。
「部屋に置きましょう」
「うん」
黒瀬が小さく頷いた。
鍵を開ける。
ドアを開ける。
自分の部屋に戻った瞬間、僕は妙な違和感を覚えた。
部屋が、少し広い。
いや、六畳一間が急に八畳になったわけではない。
でも、何かが一つ分、余っている。
空気。
影。
場所。
誰かが座っていたはずの床。
誰かが笑っていたはずの隅。
僕は靴を脱いで部屋に入った。
しずくが、すぐに顔を上げた。
「透真さん」
「はい」
「押し入れを開けないでください」
その言葉を聞いた瞬間、黒瀬が硬直した。
「待って。今の言い方、開けろって意味じゃない?」
「黒瀬」
「だってそうでしょ! 押し入れを開けるなって言われて開けない主人公なんていないでしょ!」
「僕は主人公かどうか」
「それも後!」
黒瀬は僕の腕を掴んだ。
「開けるの?」
「開けない方がいいと言われました」
「じゃあ開けるんでしょ」
「なぜそうなるんですか」
「だって、開けないまま終われないじゃん」
黒瀬の声は震えていた。
怖がっている。
でも、逃げようとはしない。
しずくは悲しそうに僕を見ている。
「透真さん。たぶん、今見たら壊れます」
「何が」
「あなたの普通が」
僕は押し入れを見た。
部屋の奥。
いつも布団や段ボールを押し込んでいる場所。
昨日までは、何の変哲もない収納だった。
今は、そこだけが妙に暗い。
黒瀬が、僕の腕を離さなかった。
「水無月さん」
「はい」
「一人で開けないで」
その声が、思ったより優しかった。
だから僕は、少しだけ笑いそうになった。
もちろん笑わなかった。
笑いには、今朝からろくなことがない。
「わかりました」
僕は押し入れの前に立った。
しずくが息を呑む。
黒瀬が隣に立つ。
壊れた傘を、武器みたいに構えている。
「それで戦えるんですか」
「気持ちの問題」
「大事ですね」
「大事よ」
僕は押し入れの取っ手に手をかけた。
少し湿っていた。
猫に預けた命のせいなのか、部屋に残った雨のせいなのかはわからない。
引く。
襖が、がたん、と音を立てて開いた。
中には、僕がいた。
目を閉じて、膝を抱えるように座っている。
同じ顔。
同じ髪。
同じ服。
ただし、胸には透明な傘が刺さっていた。
黒瀬が、短く悲鳴を上げた。
しずくが、泣きそうな声で言った。
「……見つけてしまいましたね」
押し入れの中の僕が、ゆっくり目を開けた。
そして、僕を見て言った。
「お前、まだ主人公のつもりなのか?」
部屋の中で、レシートがひとりでに裏返った。
裏には、知らない筆跡でこう書かれていた。
次の朝までに、自分の死体を笑わせてください。
僕は思った。
猫に謝るだけで終わる朝なんて、最初から存在しなかったらしい。




