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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第2話 笑わせてはいけない神様

 玄関の向こうで、誰かが笑っていた。


 くすくす、という笑い方ではない。


 げらげら、でもない。


 もっと軽い。


 階段の踊り場で、友達にくだらない冗談を言われた時に、思わず口から漏れるような笑い声。


 普通の笑い声だった。


 だからこそ、怖かった。


「水無月さん?」


 扉の向こうで、黒瀬依子が言った。


「ねえ、いるんでしょう? お願い、開けて。私、本当におかしいの。朝起きたら、スマホの写真が変になってて、昨日のメッセージも消えてて、それなのに頭の中だけ、誰か一人分の空席があるみたいで」


 黒瀬の声は、いつもの彼女からは想像できないくらい弱っていた。


 いつもの黒瀬依子は、講義中に教授が「この分野はまだ未解明で」と言った瞬間、嬉しそうに目を輝かせるような女だ。オカルト研究会所属。都市伝説が飯の種。怪談を聞くと怖がるより先に録音許可を取ろうとする。


 その黒瀬が、玄関の向こうで泣きそうになっている。


 僕は、ドアノブに手をかけた。


「透真さん」


 しずくが、すぐ横で囁いた。


 半透明の彼女は、いつの間にか僕の背後まで来ていた。足音がしない。床に触れていないから当然なのだが、当然という言葉をこの部屋で使うこと自体、もうだいぶ危うい。


「開けない方がいいです」


「でも、黒瀬が」


「はい。黒瀬依子さんです」


「知ってるんですか?」


「第2話からの登場人物です」


「だからその言い方、心臓に悪いんですって」


「心臓があるだけ良いですよ。私にはありません」


「そういう返しを今しないでください。反応に困るから」


 扉の外で、また笑い声がした。


 今度は少し近い。


 黒瀬が小さく息を呑む音が聞こえた。


「……水無月さん。今、私の後ろで誰か笑った?」


 僕は返事をしなかった。


 返事をしなかったのではなく、できなかった。


 机の上の遺言が、まだ目に焼きついている。


 次に死ぬ神様を、絶対に助けてください。

 助けたら、あなたが一人減ります。


 意味がわからない。


 いや、正直に言うと、意味は少しだけわかる。


 だから怖い。


 完全に意味不明なものより、少しだけ輪郭が見える恐怖の方が、ずっと嫌だ。


「しずくさん」


「はい」


「黒瀬を中に入れたら、どうなりますか」


「わかりません」


「神様なのに?」


「半分死んでいますので」


「すごく都合よく半分を使いますね」


「便利です」


「自覚あるんだ」


 僕は深く息を吸った。


 玄関の向こうでは黒瀬が、もうノックもせずに黙っている。その沈黙が、逆に焦りを煽った。


 人間は扉越しの沈黙に弱い。


 声が聞こえているうちは、まだ何か言い訳ができる。今は忙しいとか、寝ていたとか、体調が悪いとか。でも、向こうが黙ると、その人がそこに立っているという事実だけが残る。


 僕はドアを開けた。


 黒瀬依子が立っていた。


 髪は少し乱れていた。いつもは肩のあたりで綺麗に跳ねている茶色がかった黒髪が、今日は寝癖なのか湿気なのか、あちこち向いている。眼鏡の位置も少しずれている。服は大学でよく見る薄いグレーのパーカーにロングスカート。ただ、足元だけが妙だった。


 片方だけ、靴下が違う。


 右足は白。


 左足は紺。


 本人も気づいていないのか、気づく余裕がなかったのか。


 僕はその小さな違和感に、なぜか胸が詰まった。


 世界が壊れても、人は靴下を間違える。


 そういうところだけ、妙に生々しい。


「……水無月さん」


 黒瀬は僕を見るなり、ほっとした顔をした。


 次の瞬間、顔をしかめた。


「なにその顔」


「え」


「徹夜明けみたいな顔してる」


「朝起きたら神様が死んでいたので」


「ごめん、今の私なら普通に信じそうだから、冗談ならやめて」


「冗談じゃないです」


「なおさらやめて」


 黒瀬はそこまで言って、僕の肩越しに部屋の中を見た。


 白いワンピースの半透明美少女。


 床に落ちている透明な傘。


 机の上の遺言。


 食べかけのプリン。


 そして、さっきまで雨が逆に降っていたせいで、妙に湿った空気。


 黒瀬は、口を開けた。


 閉じた。


 もう一度開けた。


「……水無月さん」


「はい」


「女の子連れ込んでるの?」


「そこからですか」


「だって、そこからでしょ普通!」


 黒瀬は急に元気になった。


 いや、元気というより、混乱の逃げ道を見つけた顔だった。


「朝から女の子が部屋にいるんだけど! しかも白ワンピ! しかも裸足! しかも濡れてる! 何その、いかにも訳ありですみたいな女! オカルト以前に生活倫理が怖いんだけど!」


「違います」


「違うって何が? 女の子じゃないの?」


「神様です」


「もっと嫌!」


 黒瀬は頭を抱えた。


「待って、待って。私、今かなり限界なの。昨日から誰か一人いなくなってる気がして、でも誰も覚えてなくて、写真も消えてて、駅前のパン屋のおばさんに『三人でよく来てたよね』って言われたのに、誰と三人だったか思い出せなくて、それで水無月さんなら何か覚えてるかもって来たのに、なんで部屋に神様がいるの? 普通、こういう時は同級生がコーヒー出してくれる場面じゃないの?」


「コーヒーはありません」


「そこじゃない!」


 しずくが、黒瀬に向かって丁寧に頭を下げた。


「初めまして。雨宮しずくです。第1話のヒロインです」


「水無月さん」


「はい」


「この人、今なんて言った?」


「第1話のヒロインだそうです」


「あなたも流すな!」


 黒瀬は靴を脱ぐことも忘れて、部屋に一歩入ってきた。


 そして、濡れた床に気づいて足を止める。


「床、濡れてる」


「さっきまで雨が降っていたので」


「室内で?」


「はい」


「天井から?」


「床から」


「……」


 黒瀬は僕を見た。


 僕も黒瀬を見た。


 しずくはプリンを見ていた。


「水無月さん」


「はい」


「私、帰っていい?」


「来たばかりですよ」


「来たことを後悔する速度では人生最速だと思う」


 その時、玄関の外で、三度目の笑い声がした。


 黒瀬の顔から、冗談を言う余裕が消えた。


 僕も息を止めた。


 しずくだけが、静かに玄関の方を見ていた。


「来ました」


「何がですか」


「明日の神様です」


「明日って、今日来るんですか」


「明日の神様なので」


「説明になってないです」


「神様はだいたい説明になっていません」


「それは今日よくわかりました」


 玄関のドアが、まだ開いている。


 外の廊下には誰もいなかった。


 少なくとも、見える範囲には。


 朝のアパートの廊下。白っぽい壁。錆びた手すり。斜め向かいの部屋の前に置かれた傘立て。下の道路を走る車の音。どこかの部屋から、テレビの占いコーナーの音声がかすかに聞こえる。


 普通の日常。


 そのど真ん中で、見えない誰かが笑っている。


「水無月さん」


 黒瀬が小声で言った。


「私の後ろ、何かいる?」


「見えません」


「いるかいないかを聞いてる」


「見えないものがいるかどうかを聞かれると、かなり難しいです」


「今そういう理屈っぽさ求めてない!」


 黒瀬が半泣きで怒った。


 その人間臭い怒り方に、なぜか僕は少し安心した。


 怖い時に、怖いと言える人がいる。


 怒りながらでも、理不尽に突っ込んでくれる人がいる。


 それだけで、部屋の中が少しだけ現実に戻った気がした。


 その瞬間。


 黒瀬の後ろに、男の子が立っていた。


 小学生くらいに見えた。


 黄色いレインコート。


 膝までの長靴。


 手には、壊れたビニール傘。


 顔は幼い。けれど目だけが妙に古かった。何百年も、誰かの笑い声を集めてきたみたいな目。


 その男の子が、にこにこと笑っている。


「あ」


 僕が声を漏らすと、黒瀬が固まった。


「……今、私の後ろ見て『あ』って言った?」


「言いました」


「言わないでよ」


「すみません」


「謝らないで。謝られると、いることが確定するから」


 黒瀬の肩が小さく震えていた。


 男の子は、黒瀬のすぐ後ろから顔を出し、僕に向かって手を振った。


「おはよー」


 明るい声だった。


 無邪気で、少し鼻にかかった声。


「おはよう、昨日のひと」


「……昨日の人?」


 僕が聞き返すと、男の子はけらけら笑った。


 笑った。


 その瞬間、僕は全身が冷たくなった。


 遺言。


 明日の神様を、絶対に笑わせないでください。

 笑わせたら、人間が一人減ります。


「笑った」


 黒瀬が震えた声で言った。


「今、笑ったよね」


「はい」


「笑わせないでって書いてあったんじゃないの?」


「僕、まだ何も言ってないです」


「存在だけで笑わせるタイプなの?」


「初対面でそこまで言われると傷つきます」


「傷ついてる場合じゃないでしょ!」


 男の子はますます楽しそうに笑った。


「あはは。やっぱり面白いねえ。人間って、すぐ責任の押し付け合いをする」


 しずくが僕の前に出た。


 半透明の白いワンピースが、朝の光を少しだけ透かす。


「笑守様」


「やあ、雨宮しずく。半分になったんだって?」


「はい。おかげさまで」


「おかげさまって言う相手、僕じゃないと思うけどなあ」


 笑守と呼ばれた男の子は、玄関の敷居をまたいで部屋に入ってきた。


 黒瀬は慌てて横に避ける。


 その動きがあまりに素直で、笑守はまた口元を緩めた。


「怖い?」


「怖いに決まってるでしょ!」


 黒瀬が叫んだ。


「朝から記憶は変だし、友達は変な女の子連れ込んでるし、神様とか言い出すし、黄色いレインコートの子どもが急に現れるし! 怖くない方がおかしいでしょ! むしろあんたたち、なんでそんなに平然としてるの!?」


「僕も怖いです」


 僕は言った。


 黒瀬がこっちを向く。


「え」


「怖いですよ。普通に」


「……そうなの?」


「はい。朝からずっと怖いです。ただ、怖いことが多すぎて、どこから怖がればいいかわからないだけで」


 黒瀬は一瞬だけ黙った。


 それから、少しだけ眉を下げた。


「そっか」


「はい」


「じゃあ、あんたも被害者なんだ」


「たぶん」


「たぶんって何」


「加害者かもしれないらしいので」


「話を増やすな!」


 黒瀬が本気で怒鳴った。


 その怒鳴り声が、僕の胸の変なところに刺さった。


 僕は、怒られるのが嫌いだ。


 誰だって嫌いだと思う。


 でも、今の黒瀬の怒りは、責める怒りじゃなかった。


 怖いから怒っている。


 意味がわからないから怒っている。


 そしてたぶん、僕が一人で変なことを抱え込もうとしているのが気に入らなくて怒っている。


 そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。


「仲良いねえ」


 笑守が言った。


「いいなあ。人間って、怖い時でも喧嘩できるんだ」


「笑守様」


 しずくの声が低くなった。


「ここで笑わないでください」


「もう笑ってるよ」


「これ以上です」


「これ以上笑うと、どうなるんだっけ?」


 笑守は、わざとらしく首を傾げた。


 その仕草が、子どもっぽすぎて不気味だった。


「人間が一人減ります」


「そうそう」


 笑守は嬉しそうに頷いた。


「でもさ、減る人間って、まだ登場してないんだよね?」


 机の上の遺言と同じことを言った。


 僕は背中に汗をかいた。


「登場って何ですか」


 黒瀬が言った。


「ねえ、さっきから気持ち悪いんだけど。第1話とか第2話とか、登場とか。私たち、何に数えられてるの?」


 笑守は黒瀬を見た。


 にこりと笑う。


「読まれているもの」


 部屋の空気が、少し曲がった。


 曲がった、としか言いようがなかった。


 壁がぐにゃりと歪んだわけではない。床が傾いたわけでもない。でも、僕たちの立っている場所が、一瞬だけ紙の上になった気がした。


 紙。


 白い紙。


 まだ何も書かれていない場所。


 僕は自分の足元を見た。


 濡れたフローリングがある。


 でも、その木目の下に、うっすら横書きの罫線が見えた。


「透真さん」


 しずくが呼んだ。


「意味を見すぎないでください」


「見すぎると?」


「意味が向こうから見返してきます」


「そういうことを言われると、余計に見たくなるんですが」


「人間は本当に面倒ですね」


「今さらです」


 笑守が、壊れたビニール傘をくるくる回した。


 傘の骨が一本、かちりと鳴る。


「じゃあ、遊ぼうよ」


「遊ぶ?」


「うん。僕を笑わせなかったら、君たちの勝ち。僕を笑わせたら、人間が一人減る」


「もう笑ってますよね」


「これは笑顔。笑うのとは違う」


「子どもの屁理屈だ」


「神様のルールだよ」


 笑守は、楽しそうに言った。


 黒瀬が小さく手を挙げた。


「質問」


「どうぞ、人間の女の子」


「私たちが勝ったら?」


「次の神様が死ぬ」


「勝っても死ぬの!?」


「神様は毎朝死ぬからね」


「ゲームとして欠陥だらけじゃない!」


「人間のゲームだって、だいたい誰かが負けるようにできてるでしょ」


「程度の問題!」


 黒瀬のツッコミが思ったより鋭かったのか、笑守の頬が少し緩んだ。


 危ない。


 今のは危ない。


 僕は慌てて黒瀬の袖を引いた。


「黒瀬、あまり面白いこと言わないでください」


「私の恐怖由来の叫びを、面白いこと扱いしないでくれる?」


「でも今、ちょっと笑いそうでした」


「この神様、笑いのツボ浅すぎない!?」


「黒瀬さん」


 しずくが真剣な顔で言った。


「その調子だと、世界が三分持ちません」


「私のせいなの!?」


 黒瀬は納得いかなそうに叫んだ。


 その叫び声にも、笑守は口元を押さえた。


 まずい。


 この神様、笑いに弱い。


 笑わせてはいけない神様というより、笑いを我慢できない神様だ。


「とにかく」


 僕は言った。


「みんな、真面目な話だけしましょう」


「真面目な話?」


 黒瀬が僕を見る。


「はい。笑いが起きない話を」


「例えば?」


「……税金」


「大学生の朝に?」


「レポートの締切」


「嫌な気持ちにはなるけど、笑いはしないね」


「大家さんへの家賃振込」


「現実が急に殴ってきた」


 黒瀬が渋い顔をした。


 笑守はつまらなそうに頬を膨らませる。


「えー。人間ってもっと面白いのに」


「今日だけは面白くありません」


 僕は言った。


「僕たちは全員、すごくつまらない人間です」


「それ、自分で言って悲しくならない?」


 黒瀬が小声で言った。


「なります。でも人が一人消えるよりはいいです」


「……まあ、それはそう」


 黒瀬は唇を噛んだ。


 そして、少しだけ声を落とす。


「ねえ、水無月さん」


「はい」


「一人減るってさ」


「はい」


「その一人って、昨日まで私たちと一緒にいた人なのかな」


 僕は答えられなかった。


 黒瀬の手が震えている。


 彼女はそれを隠すように、パーカーの袖をぎゅっと握った。


「顔が思い出せないの。名前も。声も。でも、いた感じだけ残ってる。昨日、三人で駅前のパン屋に寄った気がする。私、チョココロネ買って、水無月さんはカレーパンで、もう一人は……」


 黒瀬はそこで言葉を詰まらせた。


「もう一人は、何を買ったんだっけ」


 部屋が静かになった。


 笑守も、しずくも、何も言わない。


 黒瀬は悔しそうに目を伏せた。


「思い出したいのに、思い出せない。悲しいのかどうかもわからない。だって、誰だったかもわからないんだよ。なのに、胸の中だけすごく空いてる。これ、何? 私、何を失くしたの?」


 黒瀬の声が震えた。


 その震え方が、あまりにも普通の人間だった。


 大切なものをなくしたのに、それが何だったか思い出せない人間。


 悲しむ相手の名前すらわからなくて、それでも悲しいということだけは身体が覚えている人間。


 笑守は、初めて少しだけ笑顔を消した。


「人間って、変だよね」


 彼は言った。


「覚えてないのに、痛がるんだ」


「痛いに決まってるでしょ」


 黒瀬が言った。


 今度は怒鳴らなかった。


 ただ、まっすぐに言った。


「名前を忘れたくらいで、いなかったことになるわけないじゃん」


 笑守の目が細くなった。


「へえ」


 しずくが、小さく息を呑んだ。


「黒瀬さん、それ以上は」


「だってそうでしょ!」


 黒瀬は止まらなかった。


 たぶん、止まれなかったのだと思う。


「神様だか何だか知らないけど、勝手に人間を減らすな! こっちは、誰かわからない相手のことで朝から泣きそうになってるの! 覚えてないのに、寂しいの! 意味わかんないけど、意味わかんないまま傷ついてるの! それを遊びにするな!」


 黒瀬の言葉は、部屋の空気をまっすぐ貫いた。


 笑いではなかった。


 怒りだった。


 悲しみだった。


 人間の、かなり面倒で、かなり厄介で、けれどたぶん一番捨ててはいけない部分だった。


 笑守は、じっと黒瀬を見ていた。


 それから、ふっと口元を歪めた。


「すごいなあ」


 彼は言った。


「泣きそうなのに、怒ってる」


 まずい。


 僕はそう思った。


 遅かった。


 笑守が、笑った。


 さっきまでの軽い笑いではない。


 腹の底から、本当に面白いものを見つけたみたいに。


「あははははははははは!」


 その笑い声が、部屋の中で弾けた。


 同時に、机の上の遺言が燃えた。


 炎ではない。


 文字だけが燃えた。


 紙は白いまま、書かれた文字が黒く焦げ、灰になって空中へ浮かぶ。


 黒瀬が口元を押さえた。


「私のせい?」


「違います」


 僕は即座に言った。


「でも、私が」


「違う」


 自分でも驚くくらい強く言った。


「笑ったのは、あいつです」


 笑守は笑い続けている。


 壊れた傘を抱えて、黄色いレインコートを揺らしながら、涙が出るほど笑っている。


「ごめん、ごめん。だってさあ、人間、やっぱり面白いよ。忘れてるのに怒るんだもん。名前も顔も思い出せない相手のために、そんなに必死になれるんだもん」


 彼は笑いながら、玄関の方を指さした。


「じゃあ、減らすね」


 世界が、一瞬だけ止まった。


 本当に止まった。


 時計の秒針も。


 外を走る車の音も。


 冷蔵庫の低い唸りも。


 黒瀬の呼吸も。


 止まらなかったのは、僕と、しずくと、笑守だけだった。


 そして、部屋の真ん中に、誰かの輪郭が現れた。


 人の形。


 僕たちと同じくらいの年齢。


 制服ではない。大学生らしい私服。手にはパン屋の紙袋。中から、メロンパンの甘い匂いがした。


 顔は見えない。


 靄がかかっている。


 でも、いた。


 確かに、そこにいた。


 黒瀬の言っていた、もう一人。


「待って」


 僕は手を伸ばした。


「まだ名前を」


 その人影が、こちらを向いた気がした。


 顔は見えない。


 なのに、笑っているような気がした。


 そして、消えた。


 最初から何もなかったみたいに。


 床に、パン屋の紙袋だけが落ちた。


 中にはメロンパンが一つ入っていた。


 黒瀬の時間が戻った。


 彼女は、何かに気づいたように瞬きをした。


「……あれ」


 黒瀬は部屋の中を見回した。


「私、今、何を言ってた?」


「黒瀬」


「え、なに? なんでそんな顔してるの」


「覚えてないんですか」


「何を?」


 黒瀬は本気でわからない顔をしていた。


 さっきまで怒っていたことも。


 泣きそうだったことも。


 誰か一人分の空席を抱えていたことも。


 全部。


 消えた。


 ただ、彼女の目尻だけが少し赤かった。


 泣いた理由を忘れたまま、涙の跡だけが残っている。


「水無月さん?」


 黒瀬は困ったように笑った。


「私、なんで朝からあんたの部屋にいるの?」


 その笑顔が、やけに痛かった。


 僕は床に落ちた紙袋を拾った。


 メロンパン。


 昨日、誰かが買ったもの。


 誰か。


 名前のない誰か。


 まだ登場していなかった誰か。


 笑守は、もう笑っていなかった。


 彼は満足そうに、壊れた傘を肩に担ぐ。


「一人減りました」


 しずくが、静かに言った。


「笑守様。あなたは」


「責める?」


「はい」


「珍しいね。雨宮しずくが怒るなんて」


「私も、半分は人間に近づいているので」


 しずくの声は静かだった。


 でも、その静けさの奥に、確かに怒りがあった。


 笑守は楽しそうに目を細めた。


「いいね。みんな変わっていく。だから人間は面白い。だから神様は死んでも見に来ちゃう」


「あなたも死ぬんですか」


 僕が聞いた。


 笑守は僕を見た。


「うん。もうすぐ」


「死ぬ前に、何か遺言は」


「あるよ」


 彼は壊れたビニール傘を、僕に差し出した。


 僕は受け取らなかった。


 受け取るのが怖かった。


 笑守は少しだけ困った顔をした。


 その表情が、急に子どもらしく見えた。


「受け取ってよ。僕、そろそろ笑えなくなるから」


「笑えなくなる?」


「うん。神様はね、自分の役目を終えると、自分の一番大事なものから失うんだ。雨宮しずくは雨を失った。僕は笑いを失う」


「それで、死ぬんですか」


「死ぬよ。笑えない笑いの神様なんて、もういないのと同じだから」


 初めて、笑守の声が寂しそうに聞こえた。


 黒瀬は不安そうに僕と笑守を見比べている。


 彼女は何も覚えていない。


 でも、空気の重さだけは感じているらしい。


「ねえ、水無月さん」


「はい」


「あの子、死ぬの?」


「たぶん」


「……止められないの?」


 僕は答えに詰まった。


 止めたいのか。


 止めるべきなのか。


 さっき一人を消した神様だ。


 でも、今目の前にいるのは、笑えなくなることに怯えている子どもにも見える。


 人間は面倒だ。


 神様も面倒だ。


 世界は雑で、意味はすぐ割れて、何を選んでも誰かが傷つく。


「透真さん」


 しずくが言った。


「助けたら、あなたが一人減ります」


 机の上の遺言。


 次に死ぬ神様を、絶対に助けてください。

 助けたら、あなたが一人減ります。


「僕が一人減るって、どういう意味ですか」


「わかりません」


「またですか」


「でも、たぶん」


 しずくは僕を見た。


「今のあなたではなく、昨日のあなたか、明日のあなたか、まだ小説になっていないあなたのどれかが消えます」


「……全部嫌ですね」


「はい」


 僕は笑守を見た。


 黄色いレインコートの神様は、もう笑っていなかった。


 笑い方を忘れかけた顔で、僕を見ている。


「ねえ、昨日のひと」


「僕は水無月透真です」


「うん。じゃあ、水無月透真」


 笑守は言った。


「僕の最後の笑いを、君にあげる」


 その瞬間、彼の身体が透け始めた。


 足元から、細かい光の粒になっていく。


 黒瀬が思わず一歩近づいた。


「ちょ、ちょっと待って。え、これ本当に消えるやつ? 水無月さん、これ私どういう感情で見ればいいの?」


「僕もわかりません」


「わかってよ! こういう時、主人公っぽい人がわかってないと困るでしょ!」


「僕が主人公かどうかも怪しいらしいです」


「もう! そういう話は後!」


 黒瀬は笑守の前にしゃがみ込んだ。


 見えているのか、見えていないのか。


 いや、今の黒瀬には見えている。


 消えた誰かのことは忘れても、目の前の神様は見えている。


「ねえ、君」


 黒瀬は不器用に言った。


「私、さっき何か忘れたんだよね?」


 笑守は答えなかった。


「忘れたことも忘れそうなんだけどさ。でも、たぶん大事なことだったんだよね?」


「……うん」


「そっか」


 黒瀬は唇を噛んだ。


 それから、無理やり笑った。


 泣きそうな顔で。


「じゃあ、覚えてなくてごめんって、その人に言っといて」


 笑守は目を見開いた。


「覚えてないのに?」


「覚えてないからだよ」


 黒瀬は言った。


「覚えてたら、自分で言うでしょ」


 笑守の口元が震えた。


 笑いそうになったのか。


 泣きそうになったのか。


 どちらにも見えた。


「人間って」


 笑守は、小さく言った。


「ほんと、ずるいなあ」


 それが、彼の最後の言葉だった。


 黄色いレインコートが、ふわりと空気に溶けた。


 壊れたビニール傘だけが残った。


 黒瀬の手の中に。


「……え」


 黒瀬は傘を見下ろした。


「なんで私が持ってるの」


「渡されたんだと思います」


「誰に?」


 黒瀬は首を傾げた。


 また忘れていた。


 笑守のことを。


 今、目の前で消えた神様のことを。


 黒瀬の記憶から、彼はもう消えている。


 けれど彼女は、壊れた傘を離さなかった。


 理由がわからないまま、大事そうに握っていた。


 しずくが静かに言った。


「笑守様も、死にました」


「……はい」


「でも、完全には消えていません」


「なぜですか」


「黒瀬さんが、理由を忘れても傘を持っているからです」


 黒瀬は不安そうに眉を寄せた。


「ねえ、何の話?」


「大事な話です」


「私だけ置いていかないでよ」


 その声が、少し震えていた。


 覚えていないのに、置いていかれることだけは怖い。


 僕は、黒瀬の手元を見た。


 壊れた傘。


 床の紙袋。


 メロンパン。


 そして、机の上。


 新しい遺言が置かれていた。


 今度の字は、僕の筆跡ではなかった。


 丸くて、少し跳ねた、子どもみたいな字。


 そこには、こう書かれていた。


 猫に謝ってください。

 謝らなかった場合、あなたたちは昨日の三人目を二度殺します。


 黒瀬が、僕の横から紙を覗き込んだ。


「猫?」


「はい」


「なんで猫?」


「わかりません」


「また?」


「またです」


 黒瀬は深く息を吸った。


 そして、壊れた傘を抱えたまま、ものすごく嫌そうな顔で言った。


「水無月さん」


「はい」


「私、今日一限あるんだけど」


「僕もです」


「行けると思う?」


「かなり厳しいです」


「だよね」


 黒瀬は天井を見上げた。


 朝日は、相変わらず窓から差し込んでいる。


 部屋は明るい。


 明るいのに、僕たちの立っている場所だけ、何かが一人分暗かった。


「ねえ」


 黒瀬が言った。


「私、何を忘れたの?」


 僕は答えられなかった。


 代わりに、床に落ちた紙袋を拾い、メロンパンを黒瀬に渡した。


「これ、たぶん」


 言いかけて、言葉が止まる。


 たぶん、何だ。


 誰かのもの。


 昨日までいた誰かのもの。


 でも、名前がない。


 顔がない。


 声がない。


 そんなものを、どうやって渡せばいい。


 黒瀬は黙ってメロンパンを受け取った。


 それを見た瞬間、彼女の目から涙が一粒落ちた。


「……なんで」


 黒瀬は、自分の涙に驚いていた。


「なんで私、泣いてるの」


 しずくが、小さく呟いた。


「人間は、忘れても残るんですね」


 僕は何も言えなかった。


 外では、朝の町が普通に動いている。


 誰かが出勤し、誰かが学校へ行き、誰かがコンビニでコーヒーを買い、誰かが寝坊して走っている。


 その世界から、一人減った。


 誰も知らない。


 誰も覚えていない。


 でも、僕の部屋にはメロンパンが残っている。


 黒瀬の手には壊れた傘が残っている。


 僕の中には、名前のない空白が残っている。


 そして机の上には、新しい遺言。


 猫に謝ってください。


 意味はわからない。


 でも、もう無視できない。


 僕はスマホを見た。


 表示はまだ、おかしかった。


【第2話 未読】


 読んだはずなのに。


 僕は画面を伏せた。


「行きましょう」


 僕が言うと、黒瀬が鼻をすすった。


「どこへ」


「猫に謝りに」


「普通の大学生活、どこ行ったの」


「一人減ったので、たぶん一緒に消えました」


「そういうこと言うの、やめて」


「すみません」


「謝る相手、私じゃなくて猫なんでしょ」


 黒瀬は目元を袖で乱暴に拭いた。


 泣いた理由を忘れたまま、怒って、困って、それでも立っている。


 その横で、しずくが嬉しそうに微笑んだ。


「では、行きましょう。猫は時間に厳しいので」


「猫ってそうなの?」


「王様なので」


「猫の王様が出てくるの?」


 黒瀬が本気で嫌そうな顔をした。


 僕は玄関に向かった。


 靴を履く。


 ドアを開ける。


 朝の光が廊下に満ちていた。


 その廊下の手すりの上に、黒い猫が一匹座っていた。


 金色の目で、僕たちを見ている。


 首には、小さな紙が結ばれていた。


 そこには、たった一言。


 遅い。


 黒瀬が、かすれた声で言った。


「……猫、字書けるの?」


 しずくが答えた。


「王様なので」


 僕はもう、何も言わなかった。


 意味がわからない、と言ったら、また何かが割れる気がしたからだ。


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