第1話 朝起きると、神様が死んでいた
朝起きると、僕の部屋で知らない女の子が死んでいた。
……いや。
最初に言っておくと、僕はまだこの時点では、彼女が本当に死んでいるのかどうかを判断できていなかった。
人はたぶん、朝の六時四十二分に目を覚まして、自分の部屋の床に白いワンピース姿の美少女が倒れていた場合、まず「死んでいる」とは思わない。
泥棒。
酔っ払い。
隣人。
知らない親戚。
あるいは、寝ぼけた自分の脳が生み出した、かなり完成度の高い幻覚。
選択肢はいくつかある。
ただ、そのどれにも当てはまらない要素が三つあった。
一つ。
女の子の胸に、透明な傘が刺さっていた。
二つ。
僕の部屋の中だけ、雨が降っていた。
三つ。
その雨は、床から天井へ向かって落ちていた。
「……」
僕は布団の中で、ゆっくり瞬きをした。
一回。
二回。
三回。
状況は変わらない。
むしろ、三回瞬きをしたせいで、床から天井へ落ちていく雨粒が三つほど目に入ってきて、余計に現実味が増した。
僕の六畳一間は、いつもより少しだけ青かった。
安物のカーテンの隙間から朝日が入っている。昨日干し忘れたパーカーが椅子の背に引っかかっている。机の上にはレポートの資料と、半分だけ飲んだ麦茶のペットボトル。スマホの充電コードは、昨日と同じように足元でだらしなく絡まっている。
そこまでは、いつもの朝だった。
問題は、そのいつもの朝のど真ん中に、神話の事故物件みたいなものが横たわっていることだった。
「……あの」
僕は声を出した。
かすれた。
喉がやけに乾いていた。
いや、部屋の中で雨が降っているのに喉が乾くのも妙な話だが、妙な話を一つずつ気にしていたら、たぶん今日中に何もできない。
「あの、起きられますか」
女の子は動かない。
白いワンピースは濡れていた。長い黒髪も、頬に張りつくほど濡れている。裸足の足先は、僕の本棚の前に投げ出されていた。
知らない女の子の足が自分の本棚の前にある。
この時点でかなりおかしい。
なのに僕は、まず本棚に目が行った。
昨日、通販で届いたばかりの文庫本が濡れていないか心配になったのだ。
人間というのは、本当にどうしようもない。
「ええと……救急車?」
僕は布団から出ようとして、足を止めた。
床が濡れている。
正確には、床の表面を水が覆っている。けれどその水は、足元に溜まっているというより、床から細い糸になって空へ引き上げられているように見えた。
雨が下から上へ降っている。
改めて考えても、言葉の並びが気持ち悪い。
僕はスマホを手に取った。
圏外。
「……三階なのに?」
僕の部屋は駅から徒歩十分の学生向けアパートだ。通信環境だけは悪くない。少なくとも昨日までは、布団の中で動画を見て寝落ちできる程度には繋がっていた。
画面上部には、見慣れない表示が出ていた。
【第0話 投稿前】
「は?」
日付の位置に、そんな文字が出ていた。
僕はスマホを軽く振った。
直らない。
電源ボタンを押す。
画面が消える。
もう一度押す。
【第0話 投稿前】
「……スマホまで寝ぼけてる」
「寝ぼけているのは、世界の方です」
声がした。
静かな、濡れた声だった。
僕はゆっくり顔を上げた。
床に倒れていた女の子が、目を開けていた。
雨みたいな色の目だった。
青とも灰色とも言えない。透明に近いのに、底がない。覗き込むと、たぶんこちらの名前を忘れそうな目。
「おはようございます」
女の子が言った。
「……おはようございます」
思わず返した。
返してから、僕は自分の社会性を少し恨んだ。
知らない女の子が胸に透明な傘を刺したまま床に倒れているのに、挨拶を返している場合ではない。
「すみません」
彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「私、死んでいます」
「死んでいる人は、あまり自分でそういう報告をしないと思うんですが」
「神様なので、そのあたりは少し雑なんです」
「神様」
「はい」
「ええと……どちらの?」
「雨の日だけ存在する神様です」
僕は窓の外を見た。
晴れていた。
梅雨明け前とは思えないくらい、空は青い。向かいのマンションのベランダでは、誰かの洗濯物が呑気に揺れている。下の道路を、自転車に乗った高校生が二人、笑いながら通り過ぎていった。
部屋の中だけが雨。
窓の外は晴れ。
「今日は晴れですけど」
「だから死んでいるんです」
「なるほど」
僕は頷いた。
そして、今の会話の中に「なるほど」と言える部分が一つもなかったことに気づいた。
「ええと、水無月透真さん、で合っていますか?」
「……合っていますけど」
「よかった。部屋を間違えたらどうしようかと」
「神様でも部屋を間違えるんですか」
「間違えますよ。神様は万能ではありません。だいたい万能なら、死ぬ前に他人の部屋で倒れたりしません」
「それは、まあ……確かに」
変に説得力があった。
納得していいのかどうかは別として。
女の子は少しだけ身体を起こそうとして、顔をしかめた。胸に刺さった透明な傘が、かすかに音を立てる。ガラスが擦れるような音だった。
血は出ていない。
代わりに、傘の先から雨が落ちている。
いや、落ちているというより、湧いていた。
「動かない方がいいんじゃないですか」
「優しいですね」
「いや、胸に傘が刺さっている人に対する最低限の反応です」
「人ではありません」
「神様に対しても最低限の反応です」
「それは助かります。最近、神様への態度が雑な人が多いので」
彼女はそう言って、また小さく笑った。
笑うと、雨粒が少し明るくなった。
僕はその現象を見なかったことにした。
見たことにすると、話がまた一つ増えるからだ。
「名前は?」
「私ですか」
「はい。神様って呼び続けるのも、なんというか、距離感が難しいので」
「雨宮しずく、と呼ばれていました」
「呼ばれていました?」
「今は、あまり呼ばれません。雨の日だけ存在する神様なので。最近の人は、雨の日に空を見ませんから」
その言い方が、少しだけ寂しそうだった。
僕は返事に困った。
神様が死んでいることより、死んでいる神様が寂しそうにすることの方が、なんだかずっと困る。
「水無月さん」
「透真でいいです」
「では、透真さん」
雨宮しずくは、僕の名前を確かめるように呼んだ。
その瞬間、部屋の雨が一瞬だけ止まった。
静かになった。
あまりにも静かで、僕は自分の心臓の音を聞いた。
「私の遺言を、叶えていただけませんか」
「遺言」
「はい」
「……僕が?」
「はい」
「神様って、もっと偉い神様に遺言を頼んだりしないんですか」
「偉い神様は忙しいんです。世界を終わらせたり、終わらせなかったり、そういうことで」
「すごく雑な管理ですね」
「世界はだいたい雑に管理されています」
彼女は真顔で言った。
妙に困る。
冗談なのか本気なのか、区別がつかない。
「それで、遺言って何ですか」
僕が聞くと、しずくは安心したように息を吐いた。
死んでいるはずなのに、息を吐く。
もう何も突っ込まないことにした。
「プリンを食べてください」
「……」
「プリンです」
「聞き返してないです」
「では、なぜ黙ったのですか」
「神様の遺言として、あまりにもコンビニ寄りだったので」
「コンビニのプリンでも構いません」
「ありますけど」
「あるんですか」
「昨日買いました」
「よかった」
しずくは本当に嬉しそうに微笑んだ。
胸に傘が刺さったまま、床に横たわったまま、死んでいると自己申告したまま、安い三個入りプリンの存在を心から喜んでいる。
僕は、少しだけ泣きそうになった。
理由はわからない。
怖いからかもしれないし、眠いからかもしれないし、意味がわからなすぎて感情の置き場所を間違えたのかもしれない。
僕は冷蔵庫を開けた。
中には昨日買ったプリンがあった。
三個入り。
税込百二十八円。
神様の最期に出すには、かなり庶民的だ。
「高いやつじゃなくていいんですか」
「安いプリンがいいんです」
「なぜ」
「高いプリンは、少し緊張します」
「神様も?」
「神様ほど、緊張します。だって人間が本気で作ったものって、時々神様より強いので」
僕はプリンを一つ取り出した。
冷蔵庫の光が、やけに白く見えた。
「食べるのは、僕でいいんですか」
「はい」
「あなたは食べられないんですか」
「死んでいるので」
「でも喋ってますよね」
「喋るのは、食べるより簡単です」
「僕は逆だと思ってました」
「人間はだいたい逆です」
この会話は何なんだ。
僕はプリンの蓋を開けた。
ぺり、と安っぽい音がした。
部屋の中に甘い匂いが広がる。
雨の匂いと混じって、変な朝の匂いになった。
「食べる前に、一つ確認していいですか」
「どうぞ」
「これ、食べたらどうなりますか」
しずくは、少し考えた。
その間にも、床から天井へ雨粒が落ち続けている。
「昨日になります」
「……誰が?」
「透真さんが」
「僕が昨日になる?」
「はい」
「昨日の僕は?」
「今日になります」
「今日の僕は?」
「明日を殺します」
僕はプリンを持ったまま固まった。
「すみません。説明が下手ですか?」
「下手というか、たぶん上手に説明されてもわからない種類の話です」
「では、簡単に言います」
「お願いします」
「食べないと、明日の神様が笑います」
「笑うと?」
「人間が一人減ります」
「減るって、死ぬんですか」
「いいえ」
しずくは首を横に振った。
「最初からいなかったことになります」
部屋の雨音が、急に大きく聞こえた。
最初からいなかったことになる。
死ぬより怖い言葉だと思った。
死ぬなら、悲しむ人がいる。墓がある。写真が残る。名前がどこかに残る。少なくとも、誰かの中で「あの人はいた」と言える。
最初からいなかったことになる。
それは、悲しまれる権利すら失うということだ。
「……なんで僕なんですか」
僕は聞いた。
声が少し低くなった。
「僕、神様と関係ないです。普通の大学生です。昨日もレポート書いて、スーパー行って、値引きの惣菜買って、帰って、洗濯物畳まずに寝ただけです。神様の遺言を叶えるような人生じゃない」
「普通の人は、自分のことをそこまで普通だと説明しません」
「今そこ突っ込むところですか」
「大切です」
しずくは僕を見た。
雨みたいな目で。
「透真さんは、普通になりたかった人です」
僕は息を止めた。
胸の奥を、冷たい指で触られたような気がした。
「何を……」
「覚えていませんか」
「何を」
「最初の雨の日を」
最初の雨の日。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かがざらついた。
幼い頃の記憶。
団地の階段。
黄色い傘。
誰かの笑い声。
雨の日にだけ遊ぶ女の子。
母さんの声。
――そんな子、いるわけないでしょう。
「……知らない」
僕は言った。
言った瞬間、部屋のどこかで何かが割れた。
皿ではない。
ガラスでもない。
スマホでもない。
もっと柔らかい、でも取り返しのつかないものが割れる音。
ぱきん、と。
しずくの顔から、少しだけ表情が消えた。
「透真さん」
「はい」
「今の言葉は、あまり使わない方がいいです」
「知らない、ですか」
「はい」
「なぜ」
「知らないと言われたものは、死にやすくなります」
僕は何も言えなかった。
しずくは困ったように笑った。
「大丈夫です。私はもう死んでいるので」
「大丈夫じゃないです」
思ったより強い声が出た。
しずくが目を丸くする。
僕自身も驚いた。
「死んでるから大丈夫って、おかしいでしょう」
「そうですか?」
「そうです。かなりおかしいです。死んでるなら、むしろ大丈夫じゃない側の代表です」
「代表」
「神様代表かもしれないけど、とにかく大丈夫ではないです」
言いながら、自分でも何に怒っているのかわからなかった。
朝から知らない神様が死んでいる。
雨が逆に降っている。
プリンを食べろと言われている。
食べたら昨日になる。
母さんに電話もしていないのに、母さんの声が頭の奥でしている。
全部おかしい。
なのに一番腹が立ったのは、目の前の女の子が自分の死を雑に扱ったことだった。
しずくは、少しだけ黙った。
それから、小さく言った。
「透真さんは、変ですね」
「この状況で僕だけを変扱いするの、かなり勇気ありますよ」
「人間は、死んでいる神様に怒らないものだと思っていました」
「僕も今日までそう思っていました」
しずくは笑った。
今度の笑顔は、さっきより少しだけ人間っぽかった。
「では、お願いします」
彼女は言った。
「私の死を、少しだけ無駄にしないでください」
ずるい言い方だと思った。
そんなふうに言われたら、断れない。
僕はプリンを見た。
黄色い表面が揺れている。
スプーンを刺すと、柔らかく沈んだ。
「……食べます」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「これ食べた後に、できるだけわかるように説明してください。昨日になるとか、明日を殺すとか、第0話とか、全部です」
「わかりました」
「本当に?」
「できるだけ」
「神様の“できるだけ”って、信用していいんですか」
「人間の“あとでやる”よりは信用できます」
「耳が痛い」
僕はプリンを一口食べた。
甘かった。
普通に甘かった。
安いプリン特有の、少し人工的で、でも安心する甘さ。
その瞬間。
窓の外の空が裏返った。
「……っ」
声が出なかった。
青空の裏側に、夜が貼りついていた。
太陽の裏に月があった。
道路を歩いていたサラリーマンの影だけが、本人より一歩先に横断歩道を渡った。向かいのマンションの洗濯物が、干される前の形に戻っていく。カーテンの隙間から差していた朝日が、一度折り畳まれて、また伸びた。
スマホが鳴った。
画面を見る。
母さん。
僕は震える指で通話ボタンを押した。
「もしもし」
『……どちら様ですか』
母さんの声だった。
間違いなく、母さんの声。
でも、距離があった。
電話の距離ではない。
時間の距離だった。
「透真だけど」
沈黙。
長い沈黙。
雨が床から天井へ落ちる音だけがする。
『透真は』
母さんは、不思議そうに言った。
『明日、産まれる予定ですけど』
通話が切れた。
僕はスマホを見た。
日付は昨日になっていた。
いや、違う。
画面にはこう表示されていた。
【第0話 投稿前】
「……しずくさん」
「はい」
「僕は今、何にいるんですか」
僕は「どこ」とは聞けなかった。
ここが自分の部屋であることは、嫌になるほどわかっていたからだ。
問題は場所ではない。
僕が今いるもの。
時間なのか、夢なのか、物語なのか、それとももっと別の何かなのか。
しずくは少し考えた。
そして、死体の顔で、やさしく笑った。
「まだ小説になっていない場所です」
その直後、彼女の身体が崩れた。
雨になった。
白いワンピースも、濡れた髪も、雨みたいな目も、全部細い水の線になって床から天井へ落ちていく。
「しずくさん!」
僕は手を伸ばした。
触れなかった。
指先をすり抜けて、冷たい雨だけが残る。
透明な傘が床に落ちた。
からん、と乾いた音がした。
部屋の雨が止んだ。
静かだった。
あまりにも静かだった。
僕はその場に座り込んだ。
手には、食べかけのプリン。
床には、透明な傘。
机の上には、いつの間にか一枚の紙が置かれていた。
恐る恐る手に取る。
丸っこい字で、こう書いてある。
明日の神様を、絶対に笑わせないでください。
笑わせたら、人間が一人減ります。
なお、減る人間は、まだ登場していません。
「……まだ登場していないって何だよ」
誰に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。
その時だった。
「ところで、透真さん」
背後で声がした。
僕は、首の骨が鳴るくらい勢いよく振り返った。
死んだはずの雨宮しずくが、僕のベッドに腰掛けていた。
ただし、半透明だった。
向こう側の壁が透けて見える。僕の干し忘れたパーカーも、彼女の身体越しにぼんやり見えた。
「私、半分だけ死に損ねたみたいです」
しずくは、少し困ったように言った。
「神様って、そういうことあるんですか」
「ありません」
「じゃあ、あなたは何なんですか」
「第1話のヒロインです」
「……何の?」
「このお話の」
やめてほしい。
今、かなりやめてほしいことを言われた。
僕は両手で顔を覆った。
冷静になりたい。
でも、冷静になるための足場がもうない。
現実が濡れている。
時間がずれている。
神様が半透明で、ベッドに座っている。
しかも、ヒロインを自称している。
「透真さん」
「はい」
「プリン、二個目を食べてもいいですか?」
「……食べられるんですか」
「半分だけ死に損ねたので、半分くらいは」
「神様の身体、そういう計算なんですか」
「たぶん」
「たぶんで冷蔵庫を開けないでください」
しずくは、しゅんとした。
半透明なのに、落ち込み方だけは妙に生々しい。
僕はため息をついた。
「……一個だけですよ」
「ありがとうございます」
「あと、勝手にベッドに座らないでください。そこ、僕の寝床です」
「すみません。死んだあとに座る場所の作法を知らなくて」
「それは僕も知らないので、強く言えないですけど」
しずくはベッドから立ち上がろうとして、すかっと床に足を沈めた。
「あ」
「沈んでます」
「半分なので」
「便利なのか不便なのかわからないな」
僕は冷蔵庫から二個目のプリンを出した。
こんな状況で神様にプリンを出している自分を、少し遠くから眺めている気分だった。
たぶん、人間の心は本当に危ない時、わざと細かい作業に逃げるのだと思う。
蓋を開ける。
スプーンを渡す。
しずくは受け取ろうとして、スプーンをすり抜けさせた。
「……」
「……」
「透真さん」
「はい」
「食べさせていただけますか」
「死んでる神様に?」
「半分です」
「半分死んでる神様に?」
「はい」
僕は天井を見た。
さっきまで雨が落ちていった天井は、何事もなかったみたいに白い。
「朝から情報量が多すぎる」
「慣れます」
「慣れたくないです」
それでも僕は、プリンをスプーンですくった。
しずくの口元に近づける。
彼女は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「……なんか、普通のラブコメみたいですね」
「胸に傘が刺さって死んだ神様が半透明でプリンを食べさせられている状況を、普通のラブコメと言っていいかは議論の余地があります」
「透真さんは細かいですね」
「世界が雑すぎるんです」
しずくはプリンを食べた。
正確には、プリンが彼女の口元で少しだけ光って、半分ほど消えた。
「おいしいです」
「それはよかった」
「透真さん」
「はい」
「私、あなたのことを好きになってもいいですか」
スプーンを落としかけた。
「……いきなり何ですか」
「人間は、命を助けられると好きになることがあると聞きました」
「あなた、死んでますよね」
「半分です」
「助けたことになるんですか」
「半分くらいは」
「感情まで半分計算で進めないでください」
しずくは首を傾げた。
「では、好きにならない方がいいですか」
「そういう聞き方をされると、ものすごく答えづらいです」
「なぜですか」
「人間の心は、はいかいいえで処理できないことが多いからです」
「不便ですね」
「神様に言われたくないです」
しずくは少し笑った。
その笑顔は、さっきまでの神様らしい静けさとは違って、年相応の女の子みたいだった。
そのせいで、余計に怖くなった。
この子は本当に何なんだろう。
神様なのか。
死体なのか。
ヒロインなのか。
僕が昔、否定した何かなのか。
考えようとした時、部屋の扉がノックされた。
こん、こん。
普通の音だった。
普通すぎて、心臓が跳ねた。
しずくがプリンを食べる動きを止める。
「誰か来ましたね」
「そうですね」
「出ない方がいいです」
「なぜ」
「第1話では、まだ出る予定ではない人です」
「その言い方、やめてもらえますか」
こん、こん。
もう一度、ノック。
僕は玄関を見た。
扉の向こうから、人の気配がする。
「水無月さん」
若い女の声だった。
聞き覚えがあるような、ないような。
「いますよね? 黒瀬です。大学の、黒瀬依子です」
黒瀬依子。
同じ講義をいくつか取っている同級生だ。
オカルト研究会に入っていて、いつも妙な都市伝説の話をしている。僕とは、まあ、友達と言っていいのかどうか悩むくらいの距離だった。
少なくとも、朝から僕の部屋に来るような関係ではない。
「水無月さん、開けてください」
声が震えていた。
「お願い。私、今朝からずっと変なんです」
僕はしずくを見た。
しずくは真顔で首を横に振った。
でも、扉の向こうの黒瀬は続けた。
「昨日まで一緒にいた人の名前が、誰も思い出せないんです。写真にも写ってないし、履修登録にもいない。でも、私だけ覚えてる気がするんです」
息を呑んだ。
遺言の言葉が頭をよぎる。
笑わせたら、人間が一人減ります。
なお、減る人間は、まだ登場していません。
「水無月さん」
扉の向こうで、黒瀬が泣きそうな声を出した。
「私たち、昨日まで三人で話してましたよね?」
僕は返事ができなかった。
しずくは、僕の隣で静かに言った。
「透真さん」
「……はい」
「明日の神様は、もう笑っています」
その瞬間、玄関の向こうで、誰かが笑った。
黒瀬ではない。
僕でもない。
しずくでもない。
まだ登場していない誰かの笑い声だった。
机の上の遺言が、ひとりでに裏返る。
そこには、僕の筆跡でこう書かれていた。
次に死ぬ神様を、絶対に助けてください。
助けたら、あなたが一人減ります。
僕は、自分の字を見ながら思った。
どうやら僕の朝は、今日からまともではなくなるらしい。
いや。
もしかすると、まともだった朝なんて、最初から一度もなかったのかもしれない。




