表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/34

第10話 僕が最初に殺した神様

 言えなかった「おかえり」の神様は、エプロンをしていた。


 玄関の外。


 夜になった廊下。


 読まれなかった神様たちが、こちらを見ている。その中で、その神様だけが背を向けていた。


 色の薄いエプロン。


 手には、冷めた味噌汁の椀。


 顔は見えない。


 でも、声だけは知っていた。


「透真」


 その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。


 母さんの声だ、と思った。


 けれど、母さんそのものではない。


 母さんに言われたかった言葉。

 母さんに言われなかった言葉。

 母さんが言えなかったかもしれない言葉。

 あるいは、僕が聞き取らなかった言葉。


 その全部が、エプロン姿の神様の声になっていた。


「おかえり」


 神様は、こちらに背を向けたまま言った。


 たった四文字。


 それだけで、僕の足元がぐらついた。


「……ただいま」


 反射で言いそうになって、僕は口を閉じた。


 なぜか、言ってはいけない気がした。


 黒瀬依子が、僕の横顔を見て眉を寄せる。


「水無月さん?」


「はい」


「今、すごく危ない顔してた」


「そうですか」


「うん。帰りたい人の顔」


 その言い方が妙に胸に刺さった。


 僕はどこに帰りたいのだろう。


 この部屋か。


 生まれる前か。


 雨の日の団地か。


 それとも、神様が死なない朝か。


 しずくが、僕の袖を掴もうとして、やはり指がすり抜けた。


 彼女は一瞬だけ悔しそうな顔をしたあと、僕の前に立った。


 半透明の白いワンピースが、夜の廊下の光を受けて淡く揺れる。


「透真さん。返事をしてはいけません」


「ただいま、ですか」


「はい」


「言うと、どうなりますか」


「帰ってしまいます」


「どこへ」


「最初の朝へ」


 黒瀬が息を呑んだ。


「最初の朝って、猫が返せって言ってたやつ?」


「はい」


 しずくは頷いた。


「透真さんが最初に神様を殺した朝です」


 言えなかった「おかえり」の神様は、ゆっくりこちらを向いた。


 顔は、母さんではなかった。


 それなのに、どこか母さんに似ていた。


 目元。


 口元。


 疲れた時の肩の落とし方。


 台所で背中を向けている時の、声をかけづらい空気。


 母さんそのものではないのに、母さんに帰りたくなる形をしていた。


 神様は、味噌汁の椀を僕へ差し出した。


「冷めちゃったけど」


 その言い方で、僕は駄目になりそうだった。


 ずるい。


 神様はいつもずるい。


 死体で現れたり、恋文を刺してきたり、押し入れに僕を詰めたり、猫を王様にしたり、そういうわけのわからない姿をしているくせに、最後の最後でやけに人間の弱いところを突いてくる。


 冷めた味噌汁。


 おかえり。


 ただいま。


 たぶん、人間を壊すのに大掛かりな奇跡はいらない。


 聞きたかった普通の言葉が一つあれば、それで十分なのだ。


「水無月さん」


 黒瀬が、僕の腕を掴んだ。


 今度は強く。


 爪が少し食い込むくらい。


「帰らないで」


「まだ何も」


「今、行きかけてた」


「……そうかもしれません」


「素直でよろしい。でも行くな」


「理由は?」


「私が困る」


 即答だった。


 黒瀬は自分で言ってから、少しだけ気まずそうに目を逸らした。


「あと、しずくさんも困る。たぶん、メロンパンの人も困る。神様たちも困る。私たち、まだ何も終わってない」


「黒瀬」


「それに」


 彼女は、恋文の封筒を胸に抱いたまま言った。


「帰る場所が本当にある人は、そんなに悲しそうな顔で帰ろうとしない」


 その言葉は、平手打ちより痛かった。


 僕は何も言えなくなった。


 しずくが静かに言った。


「黒瀬さんは、本当に透真さんの人間係ですね」


「その役職、定着させないで」


「とても大切です」


「大切でも変なの」


 黒瀬はそう言いながら、僕の腕を離さなかった。


 言えなかった「おかえり」の神様は、僕たち三人を見ていた。


 その表情は、怒っているようにも、安心しているようにも見えた。


「透真」


 神様が言った。


「あなたは、帰り方を忘れたのではありません」


 味噌汁の椀から、湯気が立ち始める。


 冷めていたはずなのに。


「あなたは、帰る場所を否定しました」


 その瞬間、夜の廊下が消えた。


 部屋も消えた。


 黒瀬の手の感触も、しずくの気配も、一瞬遠くなった。


 そして、雨の音がした。


 ざあざあ、ではない。


 小さな子供が黄色い長靴で水たまりを踏むような、ぱしゃ、ぱしゃという音。


 僕は、団地の階段に立っていた。


 幼い僕がいた。


 いや、僕は幼い僕を見ているのではない。


 幼い僕になっていた。


 手には、黄色い傘。


 傘の柄に、小さなシールが貼ってある。

 昔好きだった怪獣のシール。

 角がめくれていて、そこに雨水が入り込んでいる。


 団地の階段は、湿ったコンクリートの匂いがした。


 母さんの声が遠くから聞こえる。


「透真、早く帰ってきなさい」


 でも、僕は帰らなかった。


 階段の踊り場に、女の子がいたからだ。


 白いワンピース。


 長い濡れた髪。


 雨みたいな目。


 小さなしずくが、膝を抱えて座っていた。


 その隣に、小さな白い猫がいた。


 白い猫は、尻尾を丸めて、僕をじっと見ている。


「また来たの?」


 幼いしずくが言った。


「うん」


 幼い僕は答えた。


「雨だから」


「雨の日しか来ないね」


「しずくだって、雨の日しかいないじゃん」


「うん」


 しずくは、少しだけ笑った。


「私は、雨の日だけだから」


 その笑顔を、僕は知っていた。


 忘れていた。


 忘れたふりをしていた。


 でも、知っていた。


 階段の下から、母さんの足音が近づいてくる。


「透真?」


 幼い僕は、びくりと肩を揺らした。


 しずくが、白い猫を抱き上げる。


「帰った方がいいよ」


「でも」


「お母さん、怒るよ」


「怒られるの嫌だ」


「じゃあ、帰って」


「しずくは?」


「私は、雨が止むまでいる」


「また明日もいる?」


「雨なら」


「晴れだったら?」


「いない」


 幼い僕は、なぜか泣きそうになった。


 晴れの日に会えないことが寂しかったのか。

 雨の日にしかいない友達が、友達ではない気がして怖かったのか。

 それとも、母さんに説明できないものを持っていることが、子供心に後ろめたかったのか。


 わからない。


 でも、幼い僕は、しずくを好きだった。


 恋ではない。


 友情とも少し違う。


 雨の日にだけ世界が自分に許してくれる秘密。


 そういうものとして、しずくを大事にしていた。


 階段の下に、母さんが現れた。


 若い母さん。


 今より少し疲れていなくて、でも目の奥に、もう疲れの種みたいなものがある。


「透真、何してるの」


「遊んでた」


「誰と」


 幼い僕は、しずくを見る。


 しずくは母さんを見ていない。


 白い猫も、静かにしている。


「しずくと」


「しずく?」


 母さんは階段を上がってきた。


 踊り場を見た。


 しずくのいる場所を見た。


 でも、母さんの目には何も映っていなかった。


「誰もいないじゃない」


 幼い僕は、しずくを見る。


 しずくは、少しだけ困ったように笑った。


 その笑顔が、今のしずくと同じだった。


「いるよ」


「いないわよ」


「いるって」


「透真」


 母さんの声が少し硬くなった。


「そういうこと、外で言わないの」


「そういうこと?」


「見えないお友達とか、そういうの」


「見えないんじゃないよ。いるんだよ」


「いないの」


 母さんは、疲れた顔で言った。


「そんな子、いるわけないでしょう」


 その言葉が、階段に落ちた。


 雨の音が、一瞬だけ止まった。


 幼いしずくが、白い猫を抱く手に力を込める。


 猫が小さく鳴いた。


 僕は、何か言おうとした。


 いる。


 しずくはいる。


 雨の日だけだけど、いる。


 白い猫もいる。


 僕は一人で遊んでいたんじゃない。


 僕は変じゃない。


 言えばよかった。


 たぶん、それだけで何かが変わった。


 でも、幼い僕は母さんの顔を見た。


 疲れた顔。


 困った顔。


 少し怖い顔。


 僕が「いる」と言い張れば、母さんはもっと困る。

 もっと疲れる。

 もっと僕を変な子だと思う。


 幼い僕は、そこで間違えた。


 いや、子供に間違いという言葉を使うのは酷かもしれない。


 でも、やはり間違えたのだと思う。


「……いない」


 幼い僕は言った。


「しずくなんて、いない」


 その瞬間。


 しずくの胸に、透明な傘が刺さった。


 音はなかった。


 血も出なかった。


 ただ、しずくが目を見開いた。


 白い猫が、僕を見た。


 その目が、金色に変わっていた。


 返せ。


 猫の声が、頭の中で響いた。


 最初の朝を返せ。


 雨が、空へ落ち始めた。


 階段から空へ。


 水たまりから雲へ。


 僕の黄色い傘の先から、真上へ。


 母さんは何も気づかない。


 ただ、幼い僕の手を掴んで言う。


「ほら、帰るわよ」


 幼い僕は、しずくを見た。


 しずくは、倒れていく。


 白い猫が、その横で小さく鳴く。


 僕は、言えなかった。


 ごめん。


 ただいま。


 また明日。


 何一つ言えなかった。


 その代わりに、僕は母さんに手を引かれて階段を下りた。


 踊り場に、しずくを置いて。


 雨の日だけ存在する神様を、いないことにして。


 僕は、帰った。


 その日から、僕の朝は少しずつおかしくなったのだ。


 気がつくと、僕は自分の部屋に戻っていた。


 夜の部屋。


 黒瀬の手が、まだ僕の腕を掴んでいる。


 しずくは、泣いていた。


 半透明の頬に、雨粒のようなものが流れている。


 それが涙なのか雨なのか、僕にはわからなかった。


 言えなかった「おかえり」の神様は、玄関に立っていた。


 味噌汁の椀を持ったまま。


「思い出しましたか」


 神様が言った。


 僕は、うまく息ができなかった。


「僕が」


 声が震える。


「僕が、最初にしずくさんを殺したんですね」


 しずくが首を横に振った。


「違います」


「違わないでしょう」


「違います」


 彼女は強く言った。


 今まで聞いたことのない強さだった。


「あれは、透真さんが子供だったからです」


「でも」


「子供は、世界を守れません」


 しずくの声は震えていた。


「お母さんの顔も、雨の日の友達も、自分が変な子だと思われる怖さも、全部抱えて、正しく選ぶなんてできません」


「でも、僕は否定した」


「はい」


「それで、あなたは死んだ」


「はい」


「なら、僕が殺したんです」


 しずくは、言葉を詰まらせた。


 黒瀬が、僕の腕を掴む力を強めた。


「水無月さん」


「はい」


「今、自分だけ悪者になろうとしてる」


「事実です」


「違う。事実を使って、自分を殴ってる」


 黒瀬の声は怒っていた。


「それは反省じゃない。逃げに近い」


「逃げ?」


「そう。自分が全部悪いって言うと、楽になる時がある。もう誰にも怒られなくていいし、誰かと一緒に考えなくていいし、ずっと自分を責めてれば、何かしてる気になれる」


 僕は何も言えなかった。


 黒瀬は泣きそうな顔で続けた。


「でも、それをやられると、こっちは手が出せないの。怒りたいのに、本人が先に自分を殴ってるから。慰めたいのに、慰めたらこっちが甘やかしてるみたいになるから」


「黒瀬」


「だから、ちゃんと一緒に抱えてよ。自分だけの罪みたいな顔しないで。しずくさんだって、たぶん怒りたいことと許したいことがぐちゃぐちゃなんだから」


 しずくが、静かに目を伏せた。


「はい」


 彼女は言った。


「私は、透真さんを許したいです」


 胸が締めつけられた。


「でも、少しだけ怒っています」


 その言葉は、許すよりずっと優しかった。


 僕は、うまく顔を上げられなかった。


 しずくは僕の前に立つ。


 半透明の指を、僕の頬へ伸ばす。


 触れられないはずの指が、今度はほんの少しだけ触れた。


 冷たかった。


 雨みたいに。


「いないと言われたことは、痛かったです」


「……はい」


「忘れられたことも、痛かったです」


「はい」


「でも、透真さんが私を覚えていなかった間も、私は雨の日にいました」


「え?」


「私は、何度も死にました。でも、全部消えたわけではありません」


 しずくは、涙とも雨ともつかない雫を頬に乗せたまま笑った。


「透真さんが、雨の日に少し寂しくなるたびに。コンビニで安いプリンを買うたびに。誰かに『そんな子いない』と言われている人を見るたびに。私は少しだけ戻っていました」


 僕は、何も言えなかった。


「だから、今日ここに来られたんです」


「僕の部屋に死体として?」


「はい」


「それは、来られたと言っていいんですか」


「かなり雑な再会でした」


 しずくは、少しだけ困ったように笑った。


 黒瀬が鼻をすすった。


「そこで笑うの、ずるい」


「すみません」


「しずくさんも、自分の死を雑に扱う癖あるよね」


「神様なので」


「女の子でもあるんでしょ」


「……はい」


「じゃあ、雑にしない」


 黒瀬はそう言って、少しだけ照れたように目を逸らした。


「死んだことも、怒ってることも、許したいことも、ちゃんと言っていいと思う。私も、たぶんその方が楽」


 しずくは、黒瀬を見た。


「黒瀬さんは、優しいですね」


「違う。怖いから喋ってるだけ」


「それを、たぶん優しいと言います」


「神様の定義、たまに甘い」


「半分人間寄りなので」


「都合いいなあ」


 言えなかった「おかえり」の神様が、味噌汁の椀を床に置いた。


 その椀から、温かい湯気が立っていた。


「透真」


 神様が言った。


「あなたは、帰る場所を否定しました」


「はい」


「けれど、帰る場所は、否定されただけでは消えません」


「では、どこに」


「言えなかった言葉の中に残ります」


 神様は、味噌汁の椀を指差した。


「飲んでください」


 黒瀬が即座に言った。


「待って。これ、飲んだらどうなる系?」


「帰ります」


 神様が答える。


「どこに?」


「今度は、今いる場所へ」


 黒瀬が眉を寄せる。


「どういうこと?」


「おかえりは、過去へ戻す言葉ではありません」


 神様は言った。


「今いる場所を、帰る場所にする言葉です」


 僕は、椀を見た。


 味噌汁の匂いがした。


 豆腐とわかめ。


 母さんがよく作っていた味噌汁に似ている。


 でも、きっと母さんそのものではない。


 言えなかった「おかえり」の味だ。


 僕は椀を持った。


 温かい。


 手のひらに、ちゃんと熱が伝わる。


「飲んでもいいですか」


 僕は二人に聞いた。


 しずくと黒瀬。


 黒瀬は少し驚いた顔をした。


「私たちに聞くの?」


「勝手に帰らないで、と言われたので」


 黒瀬は、少しだけ口元を緩めた。


「よろしい」


「黒瀬さん、偉そうですね」


「今だけ偉いの」


 しずくが小さく笑った。


「飲んでください、透真さん」


「はい」


 僕は味噌汁を飲んだ。


 温かかった。


 普通だった。


 あまりにも普通で、泣きそうになった。


 豆腐は少し崩れていて、わかめは柔らかすぎて、味噌は少し濃い。


 完璧ではない。


 だから、帰ってきた感じがした。


 飲み終えると、部屋の夜が少し薄くなった。


 窓の外に、朝の色が戻り始める。


 言えなかった「おかえり」の神様の身体が、湯気のように薄くなっていく。


「待ってください」


 僕は言った。


「あなたも死ぬんですか」


「はい」


「読まれたから?」


「言われたからです」


「おかえりを?」


「はい」


 神様は、穏やかに笑った。


「帰る場所は、見つかった瞬間に、案内役を必要としなくなります」


「そんなの」


 言葉が詰まる。


 神様は、どいつもこいつも、少し綺麗な言い方で死のうとする。


 そのたびに腹が立つ。


 悲しいのに、怒りたくなる。


 僕の代わりに、黒瀬が言った。


「ほんと、神様って死に方を美化しがち」


 神様は、目を丸くした。


「美化していますか」


「してる。めちゃくちゃしてる。案内役を必要としなくなるとか言えば聞こえはいいけど、目の前で消えられる側は普通に寂しいの」


「そうですか」


「そうです」


 黒瀬は腕を組んだ。


「だから、死ぬならせめて、ちゃんと寂しがられてから死んで」


 しずくが、小さく頷く。


「それは大切ですね」


「でしょ」


 言えなかった「おかえり」の神様は、少しだけ困ったように笑った。


 その顔は、やっぱりどこか母さんに似ていた。


「では、寂しがっていただけますか」


 僕は頷いた。


「寂しいです」


「ありがとうございます」


「でも」


 僕は、椀を握ったまま言った。


「帰ってきました」


 神様は、初めて心から安心したように笑った。


「おかえりなさい」


 その言葉を最後に、神様は湯気になって消えた。


 椀だけが残った。


 中は空っぽだった。


 窓の外に、朝が戻った。


 六時四十七分。


 時計がまた一分進んでいる。


 廊下にいた読まれなかった神様たちの姿は薄くなっていた。全員が消えたわけではない。けれど、少しだけ遠くなったように見える。


 朝が夜を押し戻している。


 僕はしずくを見た。


「しずくさん」


「はい」


「僕は、あなたに謝りたいです」


 しずくは少しだけ目を伏せた。


「はい」


「でも、謝って済むことではないと思います」


「はい」


「だから、謝るだけでは終わりにしません」


 僕は、言葉を探した。


 綺麗に言いすぎないように。


 神様っぽくならないように。


 人間の、少し不器用で、足りない言葉で。


「雨の日に、あなたがいることを忘れません」


 しずくの目が揺れた。


「晴れの日に、あなたがいないことも、なかったことにしません」


「……はい」


「それから、もし僕がまたあなたを否定しそうになったら」


 僕は黒瀬を見る。


「叩いてください」


 黒瀬が即座に顔をしかめた。


「だから私をリセットボタン扱いするなって」


「すみません」


「でも、必要なら叩く」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。複雑だから」


 しずくが、静かに笑った。


 その笑顔は、第1話で死体として目を開けた時より、ずっと人間に近かった。


 いや。


 人間に近いという言い方も、少し違うのかもしれない。


 神様のままでも、死体のままでも、半透明のままでも。


 彼女は、目の前にいる女の子だった。


 その時、遺言帳がひとりでに開いた。


 僕たちは同時に身構える。


 ページがぱらぱらとめくれる。


 プリン。

 笑わせるな。

 猫。

 死体。

 第1話。

 第6話。

 第7話。

 読者。

 恋文。

 おかえり。


 そして、新しいページで止まった。


 そこには、僕の字でこう書かれていた。


 第一章の最後に、雨宮しずくを否定してください。


 しずくの顔が凍った。


 黒瀬が低く言った。


「……は?」


 僕は遺言帳を見つめる。


 字は、僕の字だった。


 今の僕より少し大人びた、未来の僕の字。


 さらに下に、文字が浮かぶ。


 否定しなければ、次の朝は来ません。

 否定すれば、雨宮しずくは本当の意味で生まれます。


 黒瀬が、壊れた傘を握りしめた。


「何それ。否定したら生まれるって、どういう屁理屈?」


 しずくは、震えていた。


「透真さん」


「はい」


「私は」


 彼女は言いかけて、唇を噛んだ。


「否定されるのが、怖いです」


「はい」


「でも、生まれるという言葉も、怖いです」


「はい」


「私は、今ここにいるのに」


「はい」


 僕は遺言帳を閉じた。


 ばたん、と音がする。


「今は選びません」


 黒瀬が、ほっとしたように息を吐く。


「保留?」


「はい」


「人間らしい」


「黒瀬のおかげです」


「そういうの、急に言わない」


 しずくが、少しだけ笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


 机の上に、スマホが震えた。


 画面に文字が浮かぶ。


【第10話 読了】


 その下に、次の文字。


【第一章 神様の死体がある朝 完了】


 黒瀬が小さく呟いた。


「完了って言われても、何一つ終わった気がしないんだけど」


「同感です」


 さらに文字が浮かんだ。


【第二章 僕がいない朝】


 その瞬間、僕の学生証が机の上で震えた。


 水無月透真。


 その名前のうち、「水無月」の文字が薄くなる。


「……え」


 黒瀬が目を見開く。


 今度は、スマホではなく、部屋そのものが文字を失い始めた。


 表札。

 郵便物。

 学生証。

 講義ノート。

 スマホの連絡先。


 水無月透真という名前が、少しずつ消えていく。


 しずくが、青ざめた。


「始まってしまいました」


「何が」


 僕が聞く。


 しずくは、震える声で言った。


「透真さんがいない朝です」


 黒瀬が僕の腕を掴む。


 けれど、その手が少しだけ僕をすり抜けた。


 彼女の顔が歪む。


「水無月さん?」


「はい」


「今、触れなかった」


 僕は自分の手を見た。


 透けてはいない。


 でも、輪郭が少しだけ曖昧になっている。


 机の上の遺言帳が、勝手に開く。


 白紙のページに、最後の一文が浮かんだ。


 明日の朝、あなたを否定します。


 僕は、その文字を見て思った。


 どうやら次に死ぬ神様は、僕の名前らしい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ