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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第11話 名前のない学生証

 自分の名前が消えていくところを、目の前で見る経験は、たぶん普通の人生にはない。


 少なくとも、僕はなかった。


 財布から取り出した学生証。


 大学名。

 学部。

 顔写真。

 学籍番号。

 発行日。


 そこまでは残っている。


 なのに、名前だけが薄くなっていた。


 水無月透真。


 そう書かれていたはずの場所から、まず「水」の左側が消えた。

 次に「無」の点が消えた。

 「月」は、しばらく粘った。

 でも、それも朝日で乾く水滴みたいに、じわじわ薄くなっていく。


 僕はそれを、ただ見ていた。


 不思議と悲鳴は出なかった。


 怖すぎると、人間は声を出す前に観察してしまうらしい。

 あるいは、僕がもう人間から少し遠くなっているだけかもしれない。


「水無月さん!」


 黒瀬依子の声がした。


 彼女は、机を挟んで僕の向かいに立っている。


 壊れたビニール傘を片手に持ち、もう片方の手で僕の腕を掴んでいた。いや、掴もうとしていた。


 その指が、ときどき僕の腕をすり抜ける。


 完全にすり抜けるわけではない。

 触れる。

 掴める。

 でも次の瞬間、指先だけが空を切る。


 黒瀬はそのたびに、顔を歪めた。


「ちょっと、やめてよ」


「僕がやっているわけでは」


「わかってる! わかってるけど、やめてって言いたいの!」


 彼女は泣きそうに怒っていた。


 第一章で何度も見た表情だ。


 怖いから怒る。

 痛いから怒る。

 逃げ出したいのに逃げないために怒る。


 黒瀬依子という人間は、怒ることで世界に踏みとどまっている。


 その顔を見て、僕は少しだけ安心した。


 まだ、彼女は僕を見ている。


「黒瀬」


「何」


「僕、見えていますか」


「見えてる」


「声は?」


「聞こえてる」


「腕は?」


「触れる。たまに触れない。腹立つ」


「腹立つんですね」


「腹立つわよ! 人の腕が勝手に幽霊仕様になるな!」


 そう言って、黒瀬はもう一度僕の腕を掴んだ。


 今度はしっかり触れた。


 彼女は、ほっとしたように一瞬だけ息を吐いた。

 でもすぐに、その顔を引き締める。


「安心させてから消えるの、一番性格悪いからね」


「僕の意思ではありません」


「知ってる。でも水無月さんに怒るしかないじゃん。現象に怒っても返事しないし」


「それはそうですね」


「そうですね、じゃない!」


 黒瀬は僕の腕を握ったまま、学生証を睨んだ。


 名前は、もう半分ほど消えている。


 水無月透真。


 そのうち、「透真」だけがかろうじて残っていた。


 でも、その「透」のしんにょうも薄くなり始めている。


 しずくが、学生証の横に膝をついていた。


 彼女の身体は、第一章の時よりも少しだけ濃く見えた。


 半透明ではある。

 向こう側の机の脚は透けている。

 けれど、髪の輪郭や、指先や、白いワンピースの裾には、前より現実の重さがある。


 神様でなくなっている。


 いや、人間に近づいている。


 どちらの言い方が正しいのか、僕にはわからない。


「透真さん」


 しずくは、名前を呼んだ。


 その瞬間、学生証の「透」の文字が一段薄くなった。


 しずくの顔が凍る。


 黒瀬も、それを見た。


「今」


「はい」


 しずくの声が震えた。


「私が呼んだから」


 机の上に、紙が現れた。


 もう、驚く余裕はなかった。


 白い紙。

 黒い文字。

 僕の字ではない。

 雨が乾いた跡のような、滲んだ字だった。


 名前を呼ばないでください。

 呼ぶたびに、彼は少しずつ存在しなくなります。


 黒瀬が、紙を手に取った。


 読んだ。


 そして、低い声で言った。


「無理」


「黒瀬さん」


 しずくが顔を上げる。


 黒瀬は紙を机に叩きつけた。


「無理。呼ぶなって? じゃあ何? この人が消えかけてるのを、黙って見てろってこと? 名前を呼ぶなって、存在を確認するなってことでしょ。そんなの無理」


「でも、呼ぶと消えます」


「呼ばなくても消えるでしょ!」


 黒瀬の声が部屋に響いた。


 遺言帳が、机の端で小さく震えた。


 それでも黒瀬は止まらない。


「第一章で散々見たじゃん! 神様の言うことも、遺言の言うことも、未来の水無月さんの字も、全部正しいとは限らない。呼ぶなって書いてあるなら、呼ばれたくない理由があるってことでしょ。だったら私は呼ぶ」


「黒瀬、待ってください」


「待たない」


 黒瀬は僕を見た。


 怒っている。


 でも、その奥にあるのは恐怖だった。


 僕が消えることへの恐怖。


 僕を忘れることへの恐怖。


 第一章で消えた三人目と同じように、僕が「いたはずの空席」になることへの恐怖。


「水無月透真」


 彼女は言った。


 はっきりと。


 その瞬間、学生証から「透真」の文字が一気に薄くなった。


 しずくが悲鳴のように息を吸う。


 僕の指先が、少しだけ透けた。


 黒瀬の手が、僕の腕をすり抜ける。


「っ……!」


 黒瀬の顔が歪んだ。


 それでも彼女は、もう一度言った。


「水無月透真」


「黒瀬!」


 僕は思わず声を荒げた。


「やめてください!」


「やめない!」


「僕が消えます!」


「黙って消えるよりまし!」


「ましじゃない!」


「ましよ!」


 黒瀬は泣きそうに叫んだ。


「呼ばれないまま消える方が、ずっと嫌! 私、もう嫌なの。誰かがいたのに、名前も顔も声もわからなくなるのが嫌なの。忘れてから泣くのが嫌なの。だから、消えるならせめて名前くらい呼ばせてよ!」


 その言葉は、乱暴だった。


 無茶だった。


 そして、たぶん正しかった。


 名前は、消えないためだけにあるわけではない。


 消える時に、そこにいたと叫ぶためにもある。


 黒瀬は、震える手でスマホを取り出した。


「連絡先」


「え?」


「水無月さんの連絡先、まだあるか見る」


 彼女は画面を操作した。


 指先が震えている。


 検索欄に「み」と打つ。

 表示されない。

 「水」と打つ。

 何も出ない。

 「透」と打つ。

 何も出ない。


 黒瀬の顔が白くなった。


「ない」


 彼女は呟いた。


「さっきまであった。絶対あった。昨日……いや、昨日がどこかもわかんないけど、私は水無月さんとメッセージしてた。講義の時間とか、オカルト研究会の変な資料とか、送った。送ったはずなのに」


 検索欄に、なぜか一件だけ表示された。


 名前は、こうなっていた。


 朝


 黒瀬は、画面を見たまま固まった。


「……朝?」


 僕も画面を見る。


 アイコンは空白。


 電話番号は、僕の番号に似ている。

 けれど、下四桁が「0642」になっていた。


 六時四十二分。


 最初の朝の時間。


 黒瀬は、スマホを握りしめた。


「ふざけないでよ」


 声が低い。


「名前を消して、朝って何。人のこと、現象みたいに登録しないでよ」


「黒瀬」


「水無月さんは朝かもしれない。神様が死ぬ場所かもしれない。名前が消えかけてる変な存在かもしれない。でも、私にとっては水無月さんなの。勝手に雑な概念にするな」


 彼女はスマホの編集画面を開いた。


 名前欄に指を置く。


 朝。


 それを消して、新しく入力する。


 水無月透真。


 しかし、確定した瞬間、文字が崩れた。


 水無月透真

 ↓

 水無月

 ↓

 透真

 ↓

 朝


 また「朝」に戻る。


「……っ」


 黒瀬は歯を食いしばった。


 もう一度入力する。


 水無月透真。


 また消える。


 もう一度。


 消える。


 もう一度。


 消える。


「黒瀬、もう」


「黙って!」


 彼女は泣きながら入力し続けた。


「機械に負けてたまるか! 神様にも負けたくないけど、スマホにまで負けるのは嫌!」


「そこなんですか」


「そこよ! 人間の意地なんて、だいたいくだらないところから始まるの!」


 黒瀬は、何度も何度も僕の名前を入力した。


 そのたびに、僕の輪郭が揺れる。


 呼ばれるたびに、存在が薄くなる。

 でも、同時に、何かが繋ぎ止められている気もした。


 痛い。


 呼ばれると痛い。

 でも、呼ばれないより、ずっといい。


 しずくが、黒瀬の横に座った。


「黒瀬さん」


「何」


「私も、入力していいですか」


 黒瀬が顔を上げる。


「しずくさんが?」


「はい」


「スマホ触れるの?」


「たぶん、今なら」


 しずくは恐る恐る、黒瀬のスマホに指を伸ばした。


 半透明だった指先が、画面に触れる。


 文字入力のカーソルが動いた。


 しずく自身が驚いた顔をする。


「触れました」


「感動してる場合じゃないわよ。ほら、入力」


「はい」


 しずくは、ゆっくり入力した。


 透真さん。


 確定。


 文字が揺れた。


 消えかけた。


 けれど、完全には消えなかった。


 連絡先の名前欄には、奇妙な表示が残った。


 朝/透真さん


 黒瀬が息を呑む。


「残った」


「はい」


「私の水無月透真は消えたのに、しずくさんの透真さんは残るんだ」


 黒瀬の声に、ほんの少しだけ寂しさが混じった。


 しずくが慌てて首を振る。


「違います。黒瀬さんの呼び方が弱いのではありません」


「別に、そうは言ってない」


「言っていませんが、少し思いました」


「……ちょっとだけね」


 黒瀬は拗ねたように目を逸らした。


「だって、なんか悔しいじゃん。私は何回入力しても朝に戻ったのに、しずくさんの“透真さん”は残るんだもん」


 しずくは、少し考えた。


 そして言った。


「黒瀬さんの“水無月さん”は、まだ世界と戦っています」


「戦ってる?」


「はい。私の“透真さん”は、たぶん私の中だけの呼び方です。でも黒瀬さんの“水無月さん”は、大学やスマホや名簿や人間社会の中に透真さんを置こうとしている名前です」


 黒瀬は黙った。


「だから、世界に消されやすいのだと思います」


「……なるほど」


 彼女は少しだけ口元を歪めた。


「私の方が難しい仕事してるってこと?」


「はい」


「よし。そういうことにする」


 黒瀬は、妙に満足げに頷いた。


 それから、またスマホを編集した。


 今度は、名前欄にこう入力した。


 水無月さん/透真さん/朝


 確定。


 文字は数秒揺れた。


 朝へ戻ろうとする。

 透真さんだけ残ろうとする。

 水無月さんが消えかける。


 でも、三つ並んだ名前は、どうにか画面に残った。


 水無月さん/透真さん/朝


 黒瀬は小さく息を吐いた。


「勝った?」


「勝ったというより、保留に近いです」


 僕が言うと、黒瀬は笑った。


「保留、便利ね」


「人間らしいので」


「そうね。決められない時は、決めないで抱える。かなり人間っぽい」


 しずくが、画面の名前を見つめていた。


「水無月さん/透真さん/朝」


「長いですね」


「はい」


「電話帳の名前としては不便です」


「でも、消えるよりいいです」


 しずくの言葉に、黒瀬が頷く。


「そう。消えるよりいい」


 僕の学生証を見る。


 名前欄は、完全な空白になっていた。


 水無月透真の文字は、どこにもない。


 ただ、学生証の顔写真だけが残っている。


 顔写真の僕は、ぼんやりした顔でこちらを見ていた。


 黒瀬が、それを見て眉をひそめる。


「名前空欄の学生証って、ただの不審物じゃない?」


「僕自身も、だいぶ不審者です」


「自覚あるならよろしい」


 彼女はそう言ってから、急に真顔になった。


「でも、大学行こう」


「今からですか」


「うん」


「僕、名前が消えています」


「だから行くの」


 黒瀬は立ち上がった。


 壊れた傘を手に取り、恋文を鞄にしまい、メロンパンの袋を大事そうに折り畳む。


「部屋の中にいたら、部屋の中だけで消えていく。外に出る。大学へ行く。水無月さんがいた場所へ行く。席とか、講義とか、履修とか、そういう面倒くさい現実にぶつける」


「現実にぶつける」


「そう。神様とか朝とか遺言とか、そういう大きいものに、小さい現実をぶつけるの」


 しずくが少し不安そうに言う。


「外に出ると、透真さんはもっと消えるかもしれません」


「ここにいても消えるなら、同じ」


 黒瀬は即答した。


「それに、私が大学で叫ぶ」


「何をですか」


「この人はいます、って」


「かなり目立ちますね」


「目立てばいい。存在が薄いなら、騒ぐしかないでしょ」


 強引な理屈だった。


 でも、黒瀬らしかった。


 しずくは少しだけ笑う。


「黒瀬さんは、本当に強いですね」


「怖いだけ」


「怖くても動けるなら、強いです」


「しずくさんまで黒瀬攻略法を覚えてきた」


「攻略?」


「褒めると私が黙るって思ってるでしょ」


「少し」


「正直」


 黒瀬は照れたように咳払いした。


 僕は、空白の学生証を財布にしまった。


 名前がない。


 それだけで、財布が軽く感じる。


 人間の名前は、重いのだと思った。


 文字としては数グラムにもならない。

 でも、なくなると急に身体が軽くなる。

 軽くなりすぎて、どこかへ飛ばされそうになる。


「水無月さん」


 黒瀬が呼んだ。


 その呼び名で、僕の輪郭が少し揺れた。


 でも、消えなかった。


「はい」


「今から大学行く。途中で消えそうになったら言って」


「自分でわかりますかね」


「わからなくても言って」


「無茶ですね」


「無茶でも言って。あと、私が忘れそうになったら、しずくさんが私を叩いて」


 しずくが目を丸くする。


「私が?」


「そう」


「叩いたことありません」


「優しくでいいから」


「優しく叩くとは」


「こう」


 黒瀬は、自分の頬をぺちっと軽く叩いた。


「このくらい」


 しずくは真剣な顔で頷いた。


「わかりました。黒瀬さんが透真さんを忘れそうになったら、優しく頬を叩きます」


「言葉にされると変な約束ね」


「でも、大切です」


「うん。大切」


 そのやり取りを聞いて、僕は少しだけ笑った。


 笑える。


 まだ笑える。


 それが嬉しいのか怖いのか、よくわからなかった。


 玄関へ向かう。


 折れて死んだ玄関マットは、まだそこにあった。


 黒瀬がそれを見て、少しだけ手を合わせた。


「玄関マットさん、行ってきます」


「黒瀬、律儀ですね」


「しずくさんの話聞いたら、雑に踏めなくなった」


 しずくが嬉しそうに微笑む。


「ありがとうございます」


「玄関マットに感謝されてるみたいで複雑」


 ドアを開ける。


 外は、朝だった。


 夜は消えている。


 けれど、完全に元の朝ではない。


 廊下の手すりに、猫が一匹座っていた。


 黒い猫。


 王様の使いかどうかはわからない。


 その首には、小さな紙が結ばれている。


 僕が近づくと、紙がひとりでに裏返った。


 名前なし。


 黒瀬がそれを読んで、顔をしかめた。


「喧嘩売ってる?」


 猫は、しっぽをゆらりと揺らした。


 黒瀬は一歩前に出た。


「この人は水無月さんです」


 猫は、じっと黒瀬を見た。


「透真さんでもあります」


 しずくが続けた。


 猫は、今度はしずくを見た。


 僕は、少し迷った。


 自分で自分の名前を言えば、また消えるかもしれない。


 でも、言わなければ、本当に消えるかもしれない。


 僕は息を吸った。


「僕は、水無月透真です」


 その瞬間、胸の奥が冷えた。


 視界が一瞬だけ白くなる。


 足元が浮く。


 黒瀬が僕の腕を掴む。


 今度は、ちゃんと触れた。


「はい、確保」


「確保」


「今ちょっと消えかけたでしょ」


「消えかけました」


「やっぱり。危ない自己紹介するな」


「でも、言っておきたかったので」


「それは、まあ」


 黒瀬は視線を逸らす。


「少しわかる」


 猫の首の紙が、また裏返った。


 今度は、別の文字。


 預かる。


「……また猫に何か預けられたんですか」


 僕が言うと、しずくが頷いた。


「名前を少し、預かってくれるのだと思います」


「猫が?」


「はい」


「猫、管理範囲広いですね」


「王様の配下なので」


 黒瀬が、猫に向かって軽く頭を下げた。


「じゃあ、よろしくお願いします。雑に扱ったら怒ります」


 猫は、ふいっと顔を逸らした。


 黒瀬が小声で言う。


「偉そう」


「猫なので」


「それはそう」


 僕たちはアパートの階段を下りた。


 外の町は、普通に朝だった。


 いや、普通に見える朝だった。


 通勤する人。

 犬の散歩をする老人。

 コンビニの前でコーヒーを飲むサラリーマン。

 小学生のランドセル。

 自転車のブレーキ音。


 誰も僕を見ない。


 いや、違う。


 誰も僕を見ていないのではない。


 見ても、認識していない。


 通行人の肩が僕にぶつかりかけた。


 僕が避ける。


 相手は、何もなかったように歩いていく。


「今の人、見えてませんでしたね」


 僕が言うと、黒瀬がすぐに怒った。


「見えてなかったんじゃない。見ようとしてなかっただけ」


「違いがありますか」


「ある。大あり。見えないって言うと、こっちが消えたみたいになるでしょ。見ようとしてないなら、悪いのは向こう」


「かなり強引ですね」


「強引でも、そういうことにする」


 黒瀬は僕の隣を歩いた。


 いつもより少し近い。


 たぶん、僕が消えないように。


 しずくは反対側を歩いている。


 今の彼女は、少しだけ足音がする。


 ぺた、ぺた、と小さな音。


 裸足だからだ。


「しずくさん」


 黒瀬が言った。


「靴、どうする?」


「靴」


「外、裸足で歩いてる。普通に危ない」


 しずくは自分の足元を見た。


 本当に初めて気づいたような顔だった。


「神様なので、今まで気にしていませんでした」


「半分人間寄りになってきてるなら、気にして。ガラスとか踏んだら普通に危ないから」


「痛いのでしょうか」


「痛いよ」


「それは、少し怖いです」


「でしょうね。だから靴」


 黒瀬は周囲を見回した。


「コンビニでスリッパ……いや、外でスリッパは変か。駅前に靴屋あったっけ」


「あります」


 僕が答える。


 黒瀬は僕を見た。


「覚えてる?」


「はい」


「よし。地理記憶は残ってる」


「確認項目が増えましたね」


「増えたわよ。名前、身体接触、スマホ登録、地理記憶、しずくさんの靴。朝からタスク管理が地獄」


 しずくが、少し申し訳なさそうに言う。


「ご迷惑をおかけします」


「迷惑っていうか、もうチームの問題でしょ」


「チーム」


「そう。水無月さん消滅対策チーム」


「名前が直接的ですね」


「わかりやすい方がいいの」


 黒瀬はそう言ってから、少しだけ笑った。


「略して水消し対策」


「消す方向に聞こえます」


「じゃあ却下」


 そんなくだらない会話をしながら歩く。


 それだけで、僕の輪郭は少し濃くなった気がした。


 誰かと並んで歩く。

 誰かにくだらない名前をつけられる。

 靴の心配をする。

 コンビニで何を買うか考える。


 そういう小さな現実が、僕を世界に引っかけてくれる。


 駅前の靴屋で、しずく用の安いスニーカーを買った。


 サイズを測る時、店員はしずくを見て少し不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。


 見えているのか、見えていないのか。


 たぶん、半分だけ見えているのだろう。


「白でいいですか」


 しずくがスニーカーを手に取って聞いた。


「白ワンピースですし、合うと思います」


 僕が言うと、黒瀬が横から言った。


「水無月さん、そういう普通の感想言えるんだ」


「どういう意味ですか」


「朝とか神様とか言ってるより、今の方がかなり人間」


「それはよかったです」


「しずくさん、どう?」


 黒瀬が聞くと、しずくは白いスニーカーを履いて、ゆっくり立ち上がった。


 少しふらつく。


 僕が手を伸ばしかけ、黒瀬も同時に手を伸ばした。


 しずくは、二人の手を見て、少しだけ笑った。


「歩きやすいです」


「よかった」


 黒瀬はほっとしたように言った。


「これで神様も外を歩ける」


「ありがとうございます」


「お礼はいいから、足痛くなったら言って」


「はい」


 店員がレジで言った。


「お会計、三千九百八十円です」


 黒瀬が財布を出そうとする。


 僕も財布を出す。


 しかし、僕の財布から出したクレジットカードは、名義欄が空白になっていた。


 店員が怪訝な顔をする。


「こちら、名義が……」


 黒瀬がすかさず現金を出した。


「私が払います」


「黒瀬」


「あとで返して。消えなかったら」


「不穏な条件ですね」


「消えないで返せって意味」


 黒瀬は、ぶっきらぼうに言った。


 店を出て、大学へ向かう。


 しずくは白いスニーカーで歩きながら、時々足元を見ている。


 初めて靴を履いた神様。


 それだけ聞くと少し幻想的だが、本人は真剣に靴紐の結び目を気にしている。


「これ、ほどけたらどうすればいいですか」


「結び直します」


「人間は大変ですね」


「神様も今朝だいぶ大変です」


「はい」


 しずくは頷く。


「でも、歩くのは少し楽しいです」


 その言葉を聞いて、黒瀬が微妙に嬉しそうな顔をした。


 大学の正門が見えてきた。


 いつもの門。


 いつもの掲示板。


 いつもの学生たち。


 でも、僕の胸は重くなる。


 ここに僕の名前が残っているのか。


 僕の席があるのか。


 僕を知っている人がいるのか。


 黒瀬が、僕の不安に気づいたように言う。


「大丈夫とは言わない」


「はい」


「たぶん大丈夫じゃないから」


「正直ですね」


「でも、私が騒ぐ」


「それは頼もしいです」


「でしょ」


 しずくも、小さく頷いた。


「私も、覚えています」


 その言葉を聞いた瞬間、彼女の顔が一瞬だけ曇った。


「しずくさん?」


「……今」


「はい」


「透真さんの名前が、一瞬、遠くなりました」


 黒瀬の表情が硬くなる。


「遠く?」


「はい。聞こえているのに、意味が少しぼやけるような」


「それ、まずいんじゃない?」


「はい」


 しずくは、自分の胸に手を当てた。


「でも、まだ覚えています」


 黒瀬は、真剣な顔で言った。


「じゃあ、練習しよう」


「練習?」


「名前呼びの」


 黒瀬は、大学の正門前で僕を指差した。


「この人は?」


 しずくは少し戸惑いながら言った。


「透真さん」


「もう一回」


「透真さん」


「もう一回」


「透真さん」


 呼ばれるたびに、僕の輪郭が少し揺れる。


 でも、完全には消えない。


 黒瀬が自分にも言い聞かせるように言った。


「水無月さん」


 少し揺れる。


「水無月さん」


 また揺れる。


「水無月透真」


 胸の奥が冷えた。


 でも、黒瀬は僕の腕を掴んだ。


「はい、いる」


 彼女は強く言った。


「水無月透真はいる」


 その言葉は、大学の正門前の朝に落ちた。


 周囲の学生が数人、こちらを見る。


 黒瀬は気にしない。


「水無月透真はいる」


「黒瀬、目立っています」


「目立ってる方がいいの!」


 しずくも、小さく言った。


「透真さんは、います」


 その瞬間、僕の空白の学生証が財布の中で震えた。


 取り出す。


 名前欄は空白のまま。


 でも、顔写真の下に、小さく文字が浮かんでいた。


 仮在籍。


 黒瀬がそれを見て、眉を寄せた。


「仮在籍?」


「仮、でも在籍です」


 しずくが言う。


 黒瀬は、少しだけ笑った。


「じゃあ、今日のところは勝ち」


「かなり低い勝利条件ですね」


「低くても勝ちは勝ち」


 僕たちは門をくぐった。


 その瞬間、スマホが震えた。


 画面を見る。


【第11話 名前のない学生証】


 その下に、新しい通知。


【第12話 母さんは、僕を産んでいない】


 僕の足が止まった。


 同時に、スマホに着信が入る。


 母さん。


 表示には、そう出ていた。


 けれど、その名前もすぐに揺れた。


 母さん

 ↓

 水無月様

 ↓

 未登録番号

 ↓

 雨の日の女


 黒瀬が、画面を見て息を呑む。


「出る?」


 僕は、着信画面を見つめた。


 母さん。


 僕を明日産む予定だと言った人。


 あの雨の日に、しずくを「いない」と言わせた人。


 そして、もしかしたら僕をもう産んでいない人。


 指が震える。


 しずくが横から静かに言った。


「一人で出ないでください」


 黒瀬も頷く。


「スピーカーにして。私たちも聞く」


「いいんですか」


「いい悪いじゃない。水無月さんが消えかけてる時に、家族案件を一人で抱えさせる方が危ない」


 僕は頷いた。


 通話ボタンを押す。


 スピーカーにする。


 数秒の沈黙。


 そして、電話口から母さんの声がした。


『もしもし』


「……母さん」


 僕は言った。


 電話の向こうで、長い沈黙があった。


 その沈黙だけで、僕はすでに答えを知ってしまった気がした。


『すみません』


 母さんは、丁寧な声で言った。


『どちら様ですか?』


 黒瀬が、僕の隣で息を止めた。


 しずくが、胸の前で手を握る。


 僕は、スマホを持つ手に力を込めた。


「水無月透真です」


 名前を言った瞬間、視界が少し白くなる。


 でも、黒瀬が僕の肩に手を置いた。


 しずくが、反対側から僕の袖に触れようとする。


 今度は、ほんの少しだけ触れた。


 電話口で、母さんは困ったように言った。


『水無月……透真さん?』


「はい」


『ごめんなさい。私、その名前に覚えがなくて』


 胸の奥に、冷たい穴が開いた。


『うちには』


 母さんは続けた。


『子供はいません』


 大学の正門前。


 朝の光の中で。


 僕は、自分の足元が消えていくような感覚を覚えた。


 黒瀬が、僕の肩を強く掴んだ。


「いる」


 彼女が小さく言った。


「いるから」


 電話口で、母さんが不思議そうに呟いた。


『でも』


「……でも?」


『雨の日になると、男の子の声が聞こえることがあるんです』


 しずくが、はっと顔を上げた。


『おかしいですよね。私、子供なんて産んでいないのに』


 母さんは、遠くを見るような声で言った。


『その子、いつも階段の上で泣いているんです』


 僕は、何も言えなかった。


 第一章は終わった。


 でも、僕が殺した最初の神様は、まだ階段の上にいる。


 そして、僕自身も。


 たぶん、あの日からずっと、帰れないままだった。


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