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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第12話 母さんは、僕を産んでいない

『うちには、子供はいません』


 電話口の母さんは、そう言った。


 声は、僕の知っている母さんの声だった。


 少し早口で、語尾が弱くて、困った時に一度だけ息を吸う癖がある。

 僕が小学生の頃、熱を出した朝に学校へ電話していた声。

 中学生の頃、僕が傘を忘れて帰ってきた時に「また?」と言った声。

 大学に合格した時、嬉しそうなのに「仕送り、大丈夫かな」とすぐ現実の心配をした声。


 その母さんが、僕を知らない。


 子供はいない、と言った。


 自分の胸の奥で、何かがゆっくり沈んでいくのがわかった。


 絶望という言葉は、たぶん少し派手すぎる。

 もっと地味だった。


 タンスの奥にしまっていた古い服を、気づかないうちに捨てられていたような。

 冷蔵庫に残しておいたプリンを、誰かに食べられていたような。

 卒業アルバムの集合写真から、自分だけ薄くなっていたような。


 怒るほど派手ではない。

 泣くほど整理もできていない。

 ただ、内側から静かに空洞になる。


 それが、母さんに忘れられるということだった。


「……子供が、いない?」


 僕は同じ言葉を繰り返した。


 スマホはスピーカーになっている。


 大学の正門前。

 学生たちは普通に通り過ぎていく。

 誰もこちらを見ない。

 いや、何人かは見ている。けれど、すぐに視線を逸らす。


 黒瀬依子が、僕の右肩に手を置いていた。


 指先が、たまに僕の服をすり抜ける。

 そのたびに、彼女は顔を歪めて、もう一度強く掴み直す。


 しずくは左側にいた。


 さっき買った白いスニーカーを履いている。

 白いワンピースに、真新しい白い靴。

 普通なら少し浮いて見えるはずなのに、今の彼女には妙に似合っていた。


 でも、その顔は青ざめている。


『ええ。ごめんなさいね。何かの間違いじゃないかしら』


 母さんは、電話の向こうで申し訳なさそうに言った。


 その「申し訳なさそう」が、余計につらかった。


 母さんは冷たいわけではない。

 知らない相手に、ちゃんと礼儀正しくしている。

 困らせないように、柔らかく断ろうとしている。


 つまり今の僕は、母さんにとって、知らない相手なのだ。


「母さん」


『あの』


 母さんが困ったように言った。


『そう呼ばれるのは、少し……』


 喉が詰まった。


 母さんと呼ぶことすら、許されない。


 僕は、スマホを持つ手に力を入れた。


 黒瀬が横から小さく言う。


「水無月さん」


「はい」


「息して」


「しています」


「してない顔してる。吸って。はい」


 黒瀬が、まるで小学生に教えるみたいに自分で息を吸って見せた。


「吸う」


 僕は息を吸った。


「吐く」


 吐いた。


「もう一回」


「黒瀬、今電話中です」


「電話中でも呼吸はするの。母親案件で消えかけてる人間に遠慮してる場合じゃない」


 電話口で、母さんが不思議そうに言った。


『どなたか一緒にいらっしゃるんですか?』


 黒瀬は、スマホに向かって身を乗り出した。


「います!」


「黒瀬」


「黙って。ここは私が喋る」


 彼女は本気だった。


 怒っている。


 でも、僕のために怒ってくれている。


「初めまして。黒瀬依子と申します。水無月透真さんの友人です」


『水無月……透真さん』


 母さんは、その名前をゆっくり繰り返した。


 その瞬間、僕の視界が少し白くなった。


 名前を呼ばれた。


 母さんの声で。


 でも、その呼び方は、息子の名前を呼ぶものではなかった。


 初めて聞く名前を確かめる声だった。


 黒瀬が、僕の肩を掴む手に力を込める。


「この人はいます」


『……はい?』


「水無月透真さんはいます。ここにいます。私の隣にいます。今、ちょっと存在が不安定で、名前も学生証から消えてて、スマホの連絡先も朝になってて、かなり面倒な状態ですけど、います」


『ええと』


 母さんは、完全に困っていた。


 それはそうだ。


 いきなり知らない女子大生が電話口で「あなたの知らない息子は存在が不安定です」と言い出したら、困らない方がおかしい。


 黒瀬自身も、自分が無茶を言っていることはわかっているのだろう。

 でも、止まらなかった。


「証明はできません。私も全部わかってるわけじゃありません。でも、この人が今、あなたに忘れられて、かなり傷ついてます。だからせめて、知らないって切らないでください」


『……傷ついて』


 母さんの声が、少し変わった。


 ほんの少しだけ。


 それは、知らない相手でも泣いているなら放っておけない人の声だった。


『その方は、泣いているんですか?』


 黒瀬が僕を見る。


「泣いてないです」


 僕は言った。


 黒瀬は即座に返した。


「泣いてない顔じゃない」


「泣いてはいません」


「泣いてないけど、泣く手前で変に固まってる」


「説明が細かいですね」


「こういうのは細かく言わないと伝わらないの!」


 電話口で、母さんが小さく息を呑んだ。


『泣く手前で固まる……』


 僕は、はっとした。


 母さんの声が、少し震えている。


『昔、そういう夢を見たことがあります』


「夢?」


『ええ。雨の日に、男の子が階段の上で泣きそうになっている夢です。でも、その子は泣かないんです。ずっと我慢していて、私が手を伸ばすと、遠くなってしまう』


 黒瀬の手が、僕の肩で止まった。


 しずくが、小さく呟く。


「雨の日の空白」


 母さんは続けた。


『変でしょう。私、子供なんていないのに。なのに雨の日になると、子供の傘を買わなきゃって思うことがあるんです。スーパーでプリンを見ると、三個入りを買いそうになることもある』


 プリン。


 その言葉に、僕の胸が詰まった。


『でも、家に帰って冷蔵庫を開けると、どうして買ったのかわからなくなる。だから最近は、買わないようにしているんです。食べる人がいないから』


「母さん」


 僕は、もう一度呼んでしまった。


 電話の向こうで、母さんは黙った。


 今度は、すぐに拒まなかった。


 長い沈黙。


 大学の正門前を、誰かが笑いながら通り過ぎる。

 その笑い声が、あまりにも普通で、逆に腹が立ちそうだった。


 世界はいつだって、自分の痛みと関係ないところで普通に動いている。


『あなたは』


 母さんが、ゆっくり言った。


『本当に、私の子供なんですか?』


 その問いは、ナイフのようだった。


 母さんは責めていない。

 ただ、本当にわからないのだ。


 だから余計に痛い。


 僕は、答えようとして、言葉に詰まった。


 本当に?


 僕は本当に、母さんの子供なのか。


 第一話では、明日産まれる予定だと言われた。

 今は、子供はいないと言われている。

 母さんの記憶には、雨の日の男の子だけがいる。

 それは、僕なのか。

 それとも、僕という名前がつく前の何かなのか。


「……わかりません」


 僕は言った。


 黒瀬がこちらを見る。


 しずくも。


「わからないんです。でも、僕はあなたを母さんだと思っています」


 電話口の向こうで、母さんが息を吸った。


「小さい頃、雨の日に迎えに来てもらった記憶があります。団地の階段で、黄色い傘を持っていて、母さんに手を引かれて帰りました」


『団地……』


「僕はその日、友達をいないことにしました」


 しずくが、隣で目を伏せる。


 僕は続けた。


「母さんを困らせたくなくて。自分が変な子だと思われたくなくて。雨の日にだけいる女の子を、いないって言いました」


『女の子……』


「しずくさんです」


 母さんは黙った。


 電話越しに、どこかで時計が鳴る音がした。


 古い壁掛け時計の音。


 実家のリビングにある時計だ。


 僕はその音を覚えていた。


 母さんが忘れても、音は残っている。


『しずく』


 母さんが、その名前を呟いた。


 しずくの身体が、びくりと震えた。


 彼女の白いスニーカーのつま先が、朝の光の中で小さく揺れる。


『あの雨の日の子』


 母さんの声は、遠くなっていた。


『私、見えていなかったのに。どうして名前を知っているのかしら』


 黒瀬が小さく言う。


「思い出しかけてる?」


 しずくは首を横に振った。


「記憶ではありません」


「じゃあ何?」


「たぶん、後悔です」


 母さんが、電話口で苦しそうに笑った。


『おかしいですね。私、急に泣きそうです』


「母さん」


『その呼び方が、怖いのに、嫌じゃないんです』


 声が震えている。


『私は、本当にあなたを産んでいないはずなんです。母子手帳もないし、写真もないし、戸籍にも子供はいない。夫もいない。私はずっと一人で暮らしてきたはずなんです』


「……はい」


『でも』


 母さんは言った。


『部屋に、子供用の黄色い傘があるんです』


 僕は、息を止めた。


『捨てようと思っても、捨てられないんです。誰のものかわからないのに。骨が曲がって、シールも剥がれかけていて、もう使えないのに』


 黄色い傘。


 怪獣のシール。


 あの日、僕が持っていた傘。


『それから、時々、玄関で言いそうになるんです』


「何を」


『おかえり、って』


 言えなかった「おかえり」の神様を思い出す。


 冷めた味噌汁。

 エプロン。

 帰る場所。


『でも、誰も帰ってこないから、言わずに飲み込むんです。そうすると、なぜか胸が痛くなる』


 黒瀬は、もう泣きそうだった。


 しずくも、何かを堪えている。


 僕は、スマホを握ったまま立っていた。


 母さんの声が、僕の存在を削っているのか、繋ぎ止めているのかわからなかった。


 でも、今この電話を切ってはいけない。


 それだけはわかった。


「母さん」


『はい』


「僕は、あなたに産まれていないかもしれません」


 黒瀬が、こちらを見た。


「でも、あなたのところに帰りたかった子供ではあると思います」


 電話の向こうで、母さんが小さく泣いた。


 声を殺すような泣き方だった。


 昔、僕が熱を出した夜、台所で一人で泣いていた時のような。


 僕はその記憶を持っている。


 でも、それは本当にあったことなのか。


 もう、そこはわからない。


『私』


 母さんが、震える声で言った。


『私は、その子を置いてきたんでしょうか』


「置いてきた?」


『雨の日に』


 しずくが、はっと顔を上げた。


『階段の上で泣いていた男の子を。私は、連れて帰ったつもりだった。でも、本当は、何かを置いてきたのかもしれない』


 胸が冷えた。


 母さんの言葉が、第一章で見たあの記憶と重なる。


 母さんは幼い僕の手を引いて帰った。

 でも、階段の上にはしずくが残っていた。

 白い猫が残っていた。

 そして、もしかすると。


 僕自身の一部も、そこに残っていたのかもしれない。


『あなた』


 母さんは言った。


『もしかして、あの雨の日に置いてきた子?』


 世界が止まった気がした。


 大学の正門前の人の流れが遠くなる。

 車の音も、足音も、全部水の中に沈む。


 僕は、自分の指先を見た。


 透けている。


 さっきよりもはっきりと。


 黒瀬が僕の手を掴もうとして、失敗した。


「水無月さん!」


「黒瀬」


「やばい、今、触れない!」


 彼女は何度も僕の手を掴もうとした。


 指がすり抜ける。


 しずくが僕の腕に手を伸ばす。


 今度は、しずくの指だけが触れた。


 冷たい。


 雨のような指。


「透真さん」


 しずくの声が震える。


「返事をしてください。今、黙ると、階段に戻ってしまいます」


「階段に」


「はい。あの日に置いてきた子として、戻されます」


 黒瀬が叫んだ。


「戻るな!」


 周囲の学生が、何人か振り返る。


 でも、すぐに首を傾げて通り過ぎていく。


 たぶん、彼らには黒瀬が一人で叫んでいるように見えているのだろう。


 それでも黒瀬は構わなかった。


「水無月透真! 戻るな! 今ここにいるでしょ! 私の横にいるでしょ! 名前が消えてても、学生証が空欄でも、母親に忘れられてても、今ここにいるなら、ここにいろ!」


 黒瀬の声が、朝に刺さる。


 しずくも言った。


「透真さん。帰る場所は、過去だけではありません」


「でも」


「私も、あなたに否定された場所に戻ることはできます。でも、今ここにいます」


 彼女は、僕の腕に触れたまま言った。


「白いスニーカーを履いて、黒瀬さんに靴紐を心配されながら、今ここにいます」


 黒瀬が涙声で言う。


「そうよ。せっかく靴買ったんだから、しずくさんを置いて消えたら許さないから」


「理由が」


「何でもいいの! 生きる理由なんて、最初は靴代でもいいの!」


 僕は、少しだけ笑いそうになった。


 こんな時に。


 母さんに産まれていないと言われて、雨の日に置いてきた子かもしれないと問われて、自分が消えかけている時に。


 黒瀬の靴代発言で笑いそうになる。


 それが、たぶん人間なのだと思った。


 僕はスマホに向かって言った。


「母さん」


『……はい』


「僕は、置いてきた子かもしれません」


 しずくの指が、僕の腕に強く触れる。


「でも、今は大学の正門前にいます」


『大学……』


「友達がいます」


 黒瀬が、唇を噛んだ。


「僕を怒ってくれる人がいます」


「怒ってくれる人って何よ」


 黒瀬が泣きながら小声で突っ込む。


「それから、雨の日の女の子もいます」


 しずくが僕を見た。


「彼女は今、靴を履いています」


『靴?』


「はい。白いスニーカーです」


 母さんは、電話の向こうで泣きながら笑った。


『何の話か、全然わからないわ』


「僕もです」


『でも』


 母さんは、少しだけ息を整えた。


『あなたは今、そこにいるんですね』


「はい」


 僕は言った。


 言った瞬間、指先の透け方が少しだけ戻った。


 黒瀬がすぐに僕の手を掴む。


 今度は触れた。


「触れた」


 彼女が小さく言った。


「よし。確保」


 母さんが電話口で言った。


『私は、あなたを産んでいないかもしれません』


「はい」


『でも、雨の日に男の子を置いてきたことを、後悔している気がします』


「はい」


『それがあなたなら』


 母さんの声が震えた。


『ごめんなさい』


 その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが崩れた。


 泣くつもりはなかった。


 泣く場面なのかどうかもわからなかった。


 でも、喉の奥が熱くなった。


 目の奥が痛くなった。


 僕は、母さんに謝ってほしかったのだろうか。


 それとも、母さんを許したかったのだろうか。


 わからない。


 でも、電話口の「ごめんなさい」は、確かに僕のどこかに届いた。


「母さん」


『はい』


「僕も、ごめんなさい」


『何を?』


「しずくを、いないことにしたこと」


 隣で、しずくが静かに目を伏せる。


「それから、自分が寂しかったことまで、なかったことにしたこと」


 母さんは何も言わなかった。


 ただ、電話の向こうで泣いている気配だけがした。


 黒瀬が、そっと僕の肩を叩いた。


 今度は平手ではない。


 優しい、確認みたいな叩き方だった。


『あの』


 母さんが、少し落ち着いた声で言った。


『もし、よかったら』


「はい」


『雨の日に、また電話をください』


 胸が、また少し痛んだ。


『私はあなたを覚えていられるか、わかりません。電話を切ったら、忘れてしまうかもしれません。でも、雨の日なら、少し思い出せる気がします』


「雨の日」


『はい』


『それから』


「はい」


『黄色い傘は、捨てないでおきます』


 僕は、何とか声を出した。


「ありがとうございます」


『変ですね』


「はい」


『知らない人に、こんなことを言うなんて』


「はい」


『でも、知らない人ではない気もします』


 通話が、ぷつりと切れた。


 スマホの画面には、通話終了の文字。


 着信履歴には、未登録番号。


 母さんの名前は残っていない。


 でも、通話時間だけが残っていた。


 六分四十二秒。


 また、六時四十二分の数字。


 黒瀬がそれを見て、眉をひそめる。


「嫌な偶然」


「偶然ではないでしょうね」


「でしょうね。でも、嫌なものは嫌」


 しずくが、僕の腕から手を離した。


 少しだけ疲れた顔をしている。


「しずくさん、大丈夫ですか」


「はい。ただ、透真さんに触れたら、少し身体が重くなりました」


「重く?」


「はい」


 彼女は自分の手を見た。


 指先が、さっきよりもはっきりしている。


 半透明ではあるが、確かに濃くなっていた。


「人間に近づいているのかもしれません」


 黒瀬がすぐに言う。


「それ、いいこと? 悪いこと?」


「わかりません」


「また」


「でも」


 しずくは、白いスニーカーのつま先を見た。


「今は、少し嬉しいです」


 黒瀬は困ったように笑った。


「じゃあ、今はそれでいいか」


「はい」


 僕は空を見上げた。


 朝の空。


 雨は降っていない。


 なのに、どこか雨の匂いがした。


 母さんは僕を産んでいないと言った。

 でも、雨の日に男の子を置いてきたことを後悔していた。


 僕は水無月透真なのか。

 雨の日に置いてきた子なのか。

 朝なのか。


 わからない。


 でも、今は大学の正門前にいる。


 黒瀬が隣にいる。

 しずくがいる。

 白いスニーカーがある。

 黄色い傘は、母さんの家に残っている。


 それだけで、さっきよりは少しだけ世界に引っかかっている気がした。


 その時、スマホが震えた。


 画面には、新しい通知。


【第12話 母さんは、僕を産んでいない】


 その下に、次の表示。


【第13話 履修名簿にない同級生】


 黒瀬がそれを見て、深く息を吐いた。


「次は大学ね」


「はい」


「行く?」


「行きます」


「よし」


 彼女は、目元を袖で拭いた。


「私、大学でめちゃくちゃ騒ぐから」


「ほどほどに」


「無理」


「即答ですね」


「水無月さんが存在ごと消えかけてるのに、ほどほどとか言ってる場合じゃない」


 しずくが、少し不安そうに言った。


「大学で、透真さんの席がないかもしれません」


「だったら椅子を持ってくる」


 黒瀬は言った。


「名簿に名前がなかったら、欄外に書く。教授が知らないって言ったら説明する。周りが変な目で見たら、見返す」


「黒瀬さんは、強いですね」


「怖いだけ」


「それはもう聞きました」


「じゃあ、怖いけどやる」


 黒瀬は、僕を見た。


「水無月さん」


「はい」


「母親に忘れられた直後に講義室行くの、普通にしんどいと思う」


「はい」


「しんどかったら言って」


「言えば、どうしますか」


「一緒にサボる」


 僕は少しだけ笑った。


「現実的ですね」


「現実的な逃げ道は大事よ」


 黒瀬はそう言って、大学の中へ歩き出した。


 しずくも、その横を歩く。


 僕も続いた。


 正門をくぐる。


 その瞬間、学生証が財布の中で震えた。


 取り出す。


 空白だった名前欄に、ほんの小さく文字が浮かんでいた。


 仮在籍:朝


 黒瀬がそれを見て、むっとした。


「朝じゃない」


 彼女はペンを取り出し、学生証の上に無理やり書いた。


 水無月さん。


 しずくが、その下に小さく書き足した。


 透真さん。


 インクはすぐに薄くなった。


 でも、完全には消えなかった。


 仮在籍:朝

 水無月さん

 透真さん


 ひどい学生証だった。


 身分証としては最悪だ。


 でも、今の僕には、それが少しだけ誇らしかった。


「行きましょう」


 僕が言うと、黒瀬が頷いた。


「行こう」


 しずくも、白い靴で一歩踏み出した。


 その時、どこか遠くから猫の鳴き声が聞こえた。


 にゃあ。


 頭の中に、意味が届く。


 まだ預かっている。


 僕は小さく息を吐いた。


「ありがとうございます」


 誰に言ったのか、自分でもよくわからなかった。


 猫か。

 母さんか。

 黒瀬か。

 しずくか。

 それとも、まだ階段の上で泣いている子供の僕か。


 でも、言えなかった「ありがとう」は、言えた時点で少しだけ神様を救う。


 第一章で、それを知った。


 だから僕は、もう一度だけ呟いた。


「ありがとうございます」


 朝は、まだ終わらない。


 でも、僕は今、大学へ向かって歩いている。


 産まれていないかもしれない母の子として。


 雨の日に置いてきた子として。


 そして、黒瀬としずくに呼ばれた時だけ、どうにか水無月透真でいられるものとして。


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