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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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13/34

第13話 履修名簿にない同

 大学という場所は、意外と人間の存在を雑に扱う。


 出席番号。


 学籍番号。


 履修登録。


 座席表。


 学生証。


 名前。


 それらがあれば、そこにいることになる。

 逆に言えば、それらがなければ、そこにいてもいないことにされる。


 今朝の僕にとって、それはかなり切実な問題だった。


 母さんは、僕を産んでいなかった。


 学生証からは名前が消えた。


 黒瀬のスマホの連絡先では、僕は「朝」になっていた。


 そして今、僕たちは大学の講義棟へ向かっている。


 黒瀬依子は、僕の半歩前を歩いていた。


 壊れたビニール傘を鞄に差し、恋文の封筒を内ポケットにしまい、メロンパンの袋を丁寧に折り畳んで持っている。


 普通に見れば、少し荷物の多い女子大生だ。


 でも、今の彼女は戦場へ向かう人の顔をしていた。


「黒瀬」


「何」


「そんなに気合いを入れなくても」


「入れるわよ」


 彼女は振り返らずに言った。


「大学って、たぶんこの世界でかなり厄介な場所よ」


「神様より?」


「神様は理不尽だけど、少なくとも理不尽ですって顔で出てくるでしょ。大学は違う。事務的な顔で人を消す」


「それは怖いですね」


「怖いわよ。履修登録されてません、名簿にありません、出席扱いできません、単位出ません。全部、丁寧な言葉で殺してくる」


 しずくが横で小さく頷いた。


「人間社会の遺言ですね」


「しずくさん、今の表現だいぶ嫌」


「すみません」


「でも合ってる」


 講義棟の入口には、いつものように学生たちが流れ込んでいた。


 眠そうにスマホを見ながら歩く人。

 友達と笑っている人。

 片手にコンビニのコーヒーを持つ人。

 イヤホンをつけたまま階段を上がる人。


 その誰もが、僕を見ない。


 いや、視線は通る。


 でも、認識されない。


 すれ違う男子学生の肩が、僕の肩にぶつかりかけた。

 僕が避ける。

 相手は何も言わずに通り過ぎる。


 まるで、僕の方が空気の動きに合わせて勝手に避けたみたいだった。


「今の人、謝りもしなかった」


 黒瀬が低く言った。


「ぶつかってはいませんから」


「ぶつかりかけたでしょ」


「見えていなかったなら仕方ないです」


「仕方なくない」


 彼女は足を止め、通り過ぎた男子学生の背中を睨んだ。


「見えてない方が悪い。見えづらいから見ない、なんて許したら、消えていく側ばっかり遠慮することになる」


 その言葉が、妙に胸に残った。


 消えていく側ばかり遠慮する。


 たぶん、僕はもう遠慮し始めている。


 ぶつかりそうになったら避ける。

 名前を呼ばれなくても黙る。

 席がなくても立つ。

 誰にも知られていなくても、そういうものだと受け入れようとする。


 消えるというのは、ただ透明になることではない。


 消えかけている自分が、邪魔にならないように自分から退くことなのかもしれない。


 しずくが、僕の顔を覗き込んだ。


「透真さん」


「はい」


「今、遠くなりました」


「僕が?」


「はい。遠慮した顔をすると、少し遠くなります」


 黒瀬がすぐに振り返った。


「ほら。遠慮禁止」


「禁止されましても」


「禁止。消滅しかけてる人間に謙虚さはいらない。図々しくいて」


「図々しい僕は、あまり想像できません」


「じゃあ練習。今から講義室に入ったら、普通に座る。席がなくても座る」


「席がなければ床に?」


「違う。椅子を奪う」


「それはさすがに」


「冗談よ。半分」


「半分本気なんですね」


「必要なら椅子くらい運ぶ」


 しずくが真面目に言った。


「私も運びます」


「しずくさん、靴を履いたばかりなので無理しないでください」


「靴を履いたからこそ、椅子を運べる気がします」


「その自信の持ち方、少し変です」


 黒瀬が小さく笑った。


 その笑いに、ほんの少しだけ朝の普通さが戻る。


 講義室は三階だった。


 階段を上がる途中、僕は自分の足音が少し薄いことに気づいた。


 黒瀬の足音は、こつこつとしっかり響く。

 しずくの新しいスニーカーは、きゅっと小さな音を鳴らす。

 僕の足音だけが、紙の裏側で鳴っているみたいに軽い。


 それを言うと、黒瀬がまた怒りそうだったので黙った。


 しかし、しずくが気づいた。


「透真さん、足音が小さいです」


「しずくさん」


「はい」


「そういうことは、たまには気づかないふりをしても」


「駄目です」


 しずくは即答した。


「消えそうなことは、言います」


「黒瀬に似てきましたね」


「良いことですか?」


「たぶん」


 黒瀬が振り返って言った。


「良いことよ。私に似ると少し口うるさくなるけど、生存率は上がる」


「自分で言いますか」


「言う。今朝の私はかなり働いてる」


「確かに」


「でしょう」


 講義室の前に着いた。


 ドアは開いている。


 中には、すでに学生たちが半分ほど座っていた。

 前方のスクリーンには講義タイトルが映っている。

 教授はまだ来ていない。

 ざわざわとした話し声。

 椅子を引く音。

 キーボードを叩く音。

 ペットボトルの蓋を開ける音。


 普通の大学の朝。


 その普通さが、今の僕には一番怖かった。


「行くよ」


 黒瀬が言った。


 僕は頷いた。


 講義室に入る。


 いつもなら、僕は黒瀬の二列後ろ、窓側から三番目の席に座っていた。


 いや、座っていたはずだ。


 そこには、別の学生が座っていた。


 見覚えのある男子だった。


 名前は知らない。

 同じ講義で時々見る顔。

 いつも眠そうにしている。


 彼は、僕の席だった場所で普通にノートパソコンを開いていた。


 黒瀬が立ち止まった。


「……そこ」


 低い声だった。


 男子学生は顔を上げる。


「え?」


「そこ、水無月さんの席」


 講義室のざわめきが、少しだけ小さくなった。


 男子学生は困ったように笑う。


「いや、席とか決まってないよね?」


 正論だった。


 この講義は自由席だ。


 決まった席などない。


 でも、人間は自由席でもだいたい同じ場所に座る。


 そして、その積み重ねが「その人の場所」になる。


 黒瀬は、その積み重ねを守ろうとしていた。


「決まってないけど、いつも座ってたの」


「誰が?」


 男子学生が聞いた。


 黒瀬の顔が固まる。


 彼には見えていない。


 僕は、彼のすぐ横に立っているのに。


 黒瀬は、僕を指差した。


「この人」


 男子学生は、僕の方を見た。


 いや、僕のいる方向を見た。


 視線が僕を通り抜ける。


 そして、しずくで止まった。


「あれ、誰?」


 彼には、しずくが見えているらしい。


 半分だけ。


 彼は白いワンピースの女の子が立っていることには気づく。

 でも、その隣の僕には気づかない。


 しずくが、少し困ったように頭を下げた。


「雨宮しずくです」


「え、あ、どうも……」


 男子学生は戸惑いながら会釈した。


 黒瀬が、悔しそうに唇を噛む。


「しずくさんは見えるのに」


 その言葉には、しずくを責める響きはなかった。


 ただ、理不尽への怒りがあった。


 僕は小さく言った。


「黒瀬、いいです。別の席に」


「よくない」


「でも、自由席です」


「そういう正論で自分を消すなって言ってるの!」


 黒瀬が怒鳴った。


 講義室中の視線が、今度こそこちらに集まる。


 僕には集まらない。

 黒瀬としずくに集まる。


 その事実が、また少し僕を薄くした。


 黒瀬が慌てて僕の腕を掴む。


 触れた。


「水無月さん」


「はい」


「今、薄くなった」


「すみません」


「謝らない。ここにいるって言って」


「ここにいます」


「もっと」


「ここにいます」


「もう一回」


「ここにいます」


 黒瀬は頷いた。


 男子学生は、完全に引いていた。


「黒瀬さん……だよね? 大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


 黒瀬は即答した。


「でも、私は今、大丈夫じゃないなりに大事なことをしてる」


「ええと」


「その席、譲って」


 男子学生は困った顔をした。


「いや、でも」


「お願い」


 黒瀬の声が少し変わった。


 怒鳴りではない。


 お願いだった。


「私、今、友達が消えかけてるの。あなたには見えてないかもしれないけど、ここにいるの。その人、いつもその席に座ってたの。たぶん、席なんてどうでもいいって言う人だけど、私はどうでもよくない。だから譲って」


 講義室が静かになった。


 男子学生は、訳がわからないという顔をしていた。


 それでも、黒瀬の必死さだけは伝わったらしい。


 彼は気まずそうに荷物をまとめた。


「……まあ、いいけど」


「ありがとう」


 黒瀬はすぐに言った。


 男子学生は席を移動する。


 その瞬間、窓側から三番目の席が空いた。


 黒瀬が僕を見る。


「座って」


「はい」


 僕は椅子に座った。


 その瞬間、身体が少し重くなった。


 足が床に触れる感覚。

 机の角が腕に当たる感覚。

 椅子の硬さ。


 さっきまで薄かった輪郭が、少し戻る。


 黒瀬が、ほっとしたように息を吐いた。


「よし」


「ありがとうございます」


「お礼はあとで。まだ名簿がある」


「はい」


 しずくが、僕の横に立っていた。


 空席はない。


 黒瀬は周囲を見回す。


「しずくさん、座る?」


「私は立っていても」


「靴買ったばかりなんだから座って」


「でも、席が」


 黒瀬は近くの空いている椅子を一つ引っ張ってきた。


 ぎい、と大きな音がする。


 周囲の学生がまた見る。


 黒瀬は気にしない。


「はい」


「ありがとうございます」


 しずくが椅子に座る。


 白いスニーカーが、床につく。


 彼女も、座った瞬間に少しだけ輪郭が濃くなったように見えた。


「座るのって、大事なんですね」


 しずくが呟く。


 黒瀬が頷く。


「大事。人間は座った場所に少し存在を置くから」


「黒瀬、たまに神様みたいなこと言いますね」


「やめて。私まで神様枠に入れないで」


 その時、教授が入ってきた。


 五十代くらいの男性教授。

 丸い眼鏡。

 少し猫背。

 いつも講義の最初に出席確認をする。


 教授は教卓に資料を置き、マイクをつけた。


「では、始めます。まず出席を取りますね」


 黒瀬が、僕の隣で息を止めた。


 僕も、背筋が冷たくなる。


 出席。


 名前。


 名簿。


 大学が人間を確認する時間。


 教授はパソコンを開き、履修名簿を表示した。


 スクリーンには映っていない。

 教授の手元だけ。


 でも、なぜか僕にはその名簿が見えた気がした。


 名前が並んでいる。


 黒瀬依子。


 他の学生たち。


 見覚えのある名前。


 でも、水無月透真はない。


 僕の名前があるはずの場所には、空欄すらない。


 行そのものがない。


 黒瀬が、小声で言った。


「水無月さん」


「はい」


「名前、呼ばれなかったら私が言う」


「はい」


「止めないで」


「止めません」


 教授が名前を読み上げていく。


「青木さん」


「はい」


「井上さん」


「はい」


「黒瀬さん」


「はい」


 黒瀬は返事をした。


 その声はいつもより硬かった。


 教授は次の名前へ進む。


 僕の名前は出ない。


 講義室の空気が、普通のまま進んでいく。


 普通に名前を呼ばれ、普通に返事をして、普通に出席扱いされる学生たち。


 僕だけが、その普通の列から外れている。


 やがて、教授は名簿の最後まで読み終えた。


「はい、では全員ですね」


「違います」


 黒瀬が立ち上がった。


 講義室中の視線が、また集まる。


 教授が顔を上げた。


「黒瀬さん?」


「一人、呼ばれてません」


「え?」


「水無月透真さんが呼ばれてません」


 教授は、名簿を確認した。


「水無月……?」


「はい」


「この講義の履修者にはいませんね」


 その言葉が、思ったより痛かった。


 履修者にはいない。


 大学の言葉は冷たい。


 その人は存在しません、とは言わない。

 ただ、登録されていません、と言う。


 黒瀬は拳を握った。


「います」


「黒瀬さん」


「ここにいます」


 教授は困った顔をした。


「ええと、履修登録を忘れているのかな。後で事務に確認してもらえれば」


「違います」


 黒瀬は僕を指差した。


「今、ここに座っています」


 教授の視線が、僕の方へ向いた。


 一瞬、目が合った気がした。


 でも、その視線はすぐに横へ流れた。


 僕の隣に座るしずくで止まる。


「そちらの方は?」


 教授が言う。


「雨宮しずくです」


 しずくが丁寧に頭を下げた。


 教授はさらに困った顔になった。


「雨宮さんも名簿にはありませんが……」


 黒瀬がすぐに言った。


「今はしずくさんの話ではありません」


「黒瀬さん、少し落ち着いて」


「落ち着いていたら人が消えるんです!」


 講義室がざわついた。


 誰かが小さく笑った。


 誰かが「何あれ」と囁いた。


 その全部が、黒瀬に刺さっているのがわかった。


 彼女は恥ずかしいはずだ。


 怖いはずだ。


 このあと噂になるかもしれない。

 変な人扱いされるかもしれない。

 オカルト研究会だからついに本格的におかしくなったと言われるかもしれない。


 それでも、彼女は座らなかった。


「黒瀬」


 僕は言った。


「もういいです」


「よくない」


「僕はここに座れています」


「名前がない」


「でも、座れています」


「名前がないの!」


 黒瀬が、僕を見た。


 目が赤い。


「席だけじゃ駄目なの。名前がないと、あとで消える。私、知ってる。名前がないものから先に消える。だから、今ここで言わないと駄目なの」


 しずくが、静かに立ち上がった。


「教授」


 彼女が言った。


 声は小さいのに、講義室全体に通った。


 教授だけでなく、学生たちも彼女を見る。


「水無月透真さんは、ここにいます」


「……君たちは一体」


「証明はできません」


 しずくは言った。


「ですが、証明できないものが存在しないとは限りません」


 黒瀬が、少し驚いたようにしずくを見た。


 しずくは続けた。


「私は、ずっとそうでした。見えないからいないと言われました。覚えていないからいないことにされました。でも、いないと言われた側にも痛みはあります」


 講義室が静かになる。


 しずくの言葉は、神様の言葉ではなかった。


 人間に近づき始めた女の子の言葉だった。


「だから、今ここで、誰か一人だけでも、彼がいると言ってください」


 教授は困っていた。


 心底困っていた。


 目の前の女子学生二人が、見えない誰かの存在を訴えている。

 普通なら、対応に困る。


 でも、教授は完全に馬鹿にすることはしなかった。


 しばらく黙ったあと、眼鏡を押し上げて言った。


「……水無月透真さん、という学生がいるのですか」


 黒瀬が即答する。


「います」


 しずくも言う。


「います」


 教授は、少しだけ教室を見回した。


 学生たちはざわついている。


 彼はため息をつき、出席簿の余白に何かを書いた。


「では、欄外に記録しておきます」


 黒瀬の顔が変わった。


「欄外」


「正式な出席にはできません。名簿にないので。ただ、黒瀬さんと雨宮さんがそう証言した、という記録は残します」


 教授は、少し困ったように付け加えた。


「私は、こういうことに詳しくはありませんが……見えないものを完全にないと断言するのは、研究者として少し乱暴ですから」


 黒瀬が、泣きそうな顔になった。


「ありがとうございます」


 声が震えていた。


 教授は咳払いした。


「ただし、講義の妨げにならないように」


「はい」


「あと、雨宮さんは履修者ですか?」


 しずくが困った顔をする。


「神様です」


 講義室が凍った。


 黒瀬が頭を抱えた。


「しずくさん、そこは誤魔化して!」


「すみません」


 教授は、眼鏡の奥で目を瞬かせた。


「……なるほど」


「なるほどで済ませるんですか」


 黒瀬が思わず突っ込む。


 教授は少しだけ笑った。


「大学には、いろいろな学生がいますから」


「神様はさすがに幅広すぎません?」


「私もそう思います」


 その返しに、教室の何人かが小さく笑った。


 今度の笑いは、馬鹿にするようなものではなかった。


 緊張が少しだけ解ける笑いだった。


 僕は、自分の手を見た。


 さっきより、少し濃い。


 教授が欄外に書いた。


 その事実が、僕を少しだけこの講義室に繋ぎ止めている。


 黒瀬は椅子に座った。


 座った瞬間、深く息を吐く。


「疲れた」


「ありがとうございます」


「まだ早い。講義終わるまで消えないで」


「はい」


 しずくも椅子に座る。


「黒瀬さん、かっこよかったです」


「やめて。今言われると泣く」


「では、あとで言います」


「あとでも泣くかもしれない」


「では、泣いてください」


「しずくさん、たまに力技」


 教授は講義を始めた。


 内容は、現代文学における語り手の信頼性についてだった。


 最悪のタイミングだった。


「語り手が語る内容は、必ずしも事実とは限りません」


 教授が言う。


 黒瀬が僕を見る。


 僕も黒瀬を見る。


 しずくも僕を見る。


「……僕を見ないでください」


 黒瀬が小声で言った。


「いや、今のは見るでしょ」


「透真さんは、信頼できない語り手なのですか」


 しずくが真面目に聞く。


「自分では判断できません」


「その返事がもう怪しい」


 黒瀬が言う。


「でも、信頼できない語り手って、悪いことだけではないのでは」


 しずくが首を傾げる。


「なぜですか」


「完全に信頼できる人間なんて、たぶんいないからです。僕も、黒瀬も、しずくさんも、自分のことを全部正しく語れるわけではありません」


 黒瀬が、少しだけ黙った。


「まあ、それはそう」


「だから、信頼できないなら、一人で語らなければいいのかもしれません」


「複数人で?」


「はい」


 僕は、欄外に書かれた僕の名前を想像した。


 黒瀬としずくが証言した、という記録。


「僕一人の語りが信用できないなら、黒瀬としずくさんに訂正してもらう」


 黒瀬が、少し笑った。


「訂正多そう」


「多いでしょうね」


「神様っぽいこと言い始めたら、私が赤ペン入れる」


「しずくさんは?」


「私は、雨で滲ませます」


「それ、消えませんか」


「少しだけ」


「怖いですね」


 そんな小声の会話をしていると、教授がこちらを見た。


「そこ、静かに」


 黒瀬がすぐに頭を下げる。


「すみません」


 僕も頭を下げようとした。


 教授の視線が、一瞬だけ僕に止まった。


 本当に一瞬。


 でも、確かに止まった。


「……欄外の方も」


 教授が小さく言った。


 黒瀬が目を見開く。


 しずくも。


 僕は、声が出なかった。


 教授はすぐに講義へ戻った。


 今のは何だったのか。


 見えたのか。


 聞こえたのか。


 ただ、黒瀬たちの芝居に合わせただけなのか。


 わからない。


 でも、欄外の方。


 それは僕のことだった。


 名前ではない。


 でも、呼ばれた。


 僕は、少しだけ息がしやすくなった。


 講義の途中、黒瀬がノートを取っていた。


 最初は普通に講義内容を書いていた。


 語り手の信頼性。

 一人称の限界。

 記憶と物語。

 事実と解釈。


 けれど、だんだん筆が変な方向へ動き始める。


 黒瀬自身も、それに気づいていない。


 僕は、彼女のノートを覗き込んだ。


 そこには、びっしりと同じ文章が書かれていた。


 水無月透真を忘れるな。

 水無月透真を忘れるな。

 水無月透真を忘れるな。

 水無月透真を忘れるな。

 水無月透真を忘れるな。


 紙一面に。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


「黒瀬」


 僕が呼ぶと、彼女は顔を上げた。


「何?」


「ノート」


「え?」


 黒瀬は自分のノートを見た。


 そして、固まった。


 ペン先が震える。


「……私、書いた?」


「たぶん」


「覚えてない」


 彼女の顔から血の気が引いていく。


「私、今、講義メモ取ってた。教授の話を書いてた。なのに」


 水無月透真を忘れるな。


 何十行も。


 何百字も。


 黒瀬の字で。


 しずくが、静かに言った。


「記録が始まっています」


 黒瀬が、小さく息を呑んだ。


「三回目の版」


 読了神が言っていた。


 黒瀬依子が敵だった版。


 すべてを記録し、誰にも忘れさせなかった結果、世界が壊れた版。


 黒瀬はペンを落とした。


 からん、と音がした。


 教授がこちらを見る。


 でも、今度は黒瀬も謝らなかった。


 彼女は、自分のノートを見つめたまま震えていた。


「私、また敵になるの?」


 その声は、とても小さかった。


 さっきまで講義室で立ち上がり、教授に食ってかかり、僕の存在を欄外に記録させた人と同じとは思えないほど。


 弱かった。


「黒瀬」


 僕は言った。


「敵になるかどうかは、まだ決まっていません」


「でも、これ」


「記録です」


「世界を壊すやつでしょ」


「一人で全部記録すれば、そうなるのかもしれません」


「じゃあ、どうするの」


 黒瀬が僕を見た。


 目が潤んでいる。


 怒る力が、少し抜けかけていた。


「どうすれば、忘れずにいられて、世界を壊さずに済むの」


 僕は、ノートを見た。


 水無月透真を忘れるな。


 その文字の密度は、祈りみたいだった。


 呪いにも見えた。


 でも、たぶん最初は祈りだったのだと思う。


 誰かを忘れたくない。


 それだけの、かなり人間臭い祈り。


「一緒に覚えます」


 僕は言った。


 黒瀬が瞬きをする。


「第二章の前に、約束しました。黒瀬が一人で覚えると壊れるなら、僕も覚えます。しずくさんも」


 しずくが頷く。


「はい。私も覚えます」


「でも、しずくさんも忘れそうになってるじゃん」


 黒瀬の声は震えている。


「それでもです」


 しずくは、黒瀬のノートにそっと手を置いた。


 今の彼女は、紙に触れられる。


「忘れそうでも、覚えようとします」


 黒瀬は唇を噛んだ。


「覚えようとするだけで、足りる?」


「足りないかもしれません」


 しずくは正直に言った。


「でも、一人で完璧に覚えるより、三人で少しずつ間違えながら覚える方が、たぶん人間に近いです」


 黒瀬は、泣きそうな顔で笑った。


「神様に、人間に近いって言われるの変な感じ」


「私も、少し変な感じです」


 僕は、黒瀬のノートの空いた端にペンで書いた。


 水無月透真を忘れるな。


 その下に、続けて書く。


 ただし、一人で全部背負うな。


 黒瀬が、それを読んで少しだけ目を伏せた。


「水無月さんの字だ」


「はい」


「消えないかな」


「わかりません」


「じゃあ、消える前に見る」


 黒瀬は、その一文をじっと見つめた。


 しずくも、その横に小さく書いた。


 透真さんは、ここにいました。

 黒瀬さんも、ここにいました。

 私も、ここにいました。


 黒瀬が、堪えきれないように笑った。


「しずくさん、急に作文みたい」


「変ですか」


「変じゃない。ちょっと泣く」


「泣いてもいいです」


「講義中だから駄目」


「人間は大変ですね」


「ほんとにね」


 講義は続いている。


 教授は、黒板に「不確かな語り」と書いた。


 僕は、それを見ながら思った。


 僕の語りは不確かだ。


 黒瀬の記録も危うい。


 しずくの記憶も揺れている。


 でも、不確かだからこそ、一人ではなく三人でいる意味があるのかもしれない。


 講義終了のチャイムが鳴った。


 学生たちが一斉に立ち上がる。


 ざわめきが戻る。


 教授は資料を片付けながら、こちらを見た。


「黒瀬さん」


「はい」


「後で少し来なさい」


 黒瀬の顔がこわばる。


「……はい」


 教授は続けた。


「欄外の件も含めて、確認したいことがあります」


 僕は息を止めた。


 教授は、確かに欄外の件と言った。


 つまり、何か残っている。


 教授の中に。


 名簿の余白に。


 僕の存在が、ほんの少しだけ。


 黒瀬が小声で言った。


「行く?」


「行きます」


「一緒に?」


「はい」


「見えてないかもしれないけど?」


「欄外なので」


 黒瀬は、少しだけ笑った。


「欄外、便利ね」


「保留に続く人間らしい場所ですね」


 しずくが、白いスニーカーの紐を結び直しながら言った。


「欄外は、消されなかった余白です」


「しずくさん、またいいこと言った」


「そうですか?」


「うん。でも今は教授に呼ばれてるから、感動してる暇ない」


 僕たちは講義室を出た。


 教授の研究室へ向かう廊下。


 黒瀬はノートを胸に抱えている。


 その表紙には、さっき書いた文字が透けて見えていた。


 水無月透真を忘れるな。


 ただし、一人で全部背負うな。


 しずくの書いた文字は、少しだけ滲んでいる。


 でも、消えていない。


 スマホが震えた。


 画面を見る。


【第13話 履修名簿にない同級生】


 その下に、次の通知。


【第14話 黒瀬依子の記録癖】


 黒瀬がそれを見て、苦い顔をした。


「うわ。次、私?」


「はい」


「嫌だなあ」


「怖いですか」


「怖い」


 黒瀬は正直に言った。


「自分が敵になるかもしれない話なんて、怖いに決まってる」


 しずくが、彼女の横に並ぶ。


「一緒に怖がります」


「うん」


 黒瀬は、少しだけ笑った。


「その言い方、けっこう好き」


 廊下の窓の外で、朝の空が少しだけ曇った。


 雨が降る気配はまだない。


 でも、遠くで猫が鳴いた。


 にゃあ。


 頭の中に、意味が届く。


 欄外に置け。


 僕は小さく頷いた。


 存在できないなら、欄外でいい。


 名簿に載らないなら、余白でいい。


 誰かがそこに書いてくれるなら。


 僕は、まだ少しだけ、ここにいられる。


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