第14話 黒瀬依子の記録癖
教授の研究室は、古い紙の匂いがした。
廊下の突き当たりにある小さな部屋。
扉の横には、教授の名前が書かれたプレートが掛かっている。
ただ、その下に貼られた紙が少し奇妙だった。
研究室在室中。
その文字の下に、鉛筆で小さく書き足されている。
欄外対応可。
「……欄外対応可?」
黒瀬依子が、その紙を見て眉をひそめた。
「大学の先生って、そんなサービス始めたの?」
「たぶん、今朝からだと思います」
「水無月さん案件って、大学の掲示まで侵食するの?」
「僕に聞かれても」
「そうだった。聞く相手を間違えた」
黒瀬は深く息を吐いた。
講義室であれだけ騒いだ後なのに、彼女はまだ立っている。
ノートを胸に抱え、鞄の中には恋文の封筒、壊れた傘、メロンパンの袋。
普通の女子大生の荷物ではない。
しずくは、黒瀬の隣で白いスニーカーのつま先を見ていた。
さっきから、少し歩き方がぎこちない。
「しずくさん、靴ずれしていませんか」
僕が聞くと、彼女は顔を上げた。
「靴ずれ」
「足、痛くないですか」
「少しだけ、かかとが変です」
「痛いってことですね」
「これが痛いなのですね」
しずくは、妙に感心したように言った。
黒瀬がすぐに顔をしかめる。
「感心してる場合じゃないから。靴ずれは放っておくと本当に痛いよ。あとで絆創膏買う」
「すみません」
「謝らなくていい。靴を履いたばかりの神様に靴ずれ予防まで求めるのは酷だから」
「神様も靴ずれするんですね」
僕が言うと、黒瀬がこちらを睨んだ。
「水無月さん、今ちょっと他人事みたいな顔した」
「いえ」
「した。あなたも消えかけの存在なんだから、身体の不具合を他人事にしない。しずくさんは靴ずれ。水無月さんは存在ずれ」
「存在ずれ」
「今作った」
「嫌な造語ですね」
「でも合ってるでしょ」
合っている気がしたので、僕は黙った。
教授の研究室の中から、声がした。
「どうぞ」
黒瀬が僕を見る。
「入るよ」
「はい」
「水無月さん、消えそうになったら言う」
「はい」
「しずくさん、私が水無月さんを忘れそうになったら叩く」
「優しく、ですね」
「そう、優しく」
僕は思わず言った。
「研究室に入る前の確認事項としては、かなり特殊ですね」
「特殊な朝なんだから仕方ない」
黒瀬はドアを開けた。
研究室の中は、本で埋まっていた。
壁一面の本棚。
床に積まれた論文の束。
机の上には付箋だらけの資料。
窓際には、枯れかけた観葉植物がある。
教授は机の向こうに座っていた。
講義室では丸い眼鏡のせいで少し柔らかい印象だったが、研究室で見るとずいぶん疲れた人に見えた。
教授は、僕たち三人を見た。
いや、正確には黒瀬を見て、しずくを見て、それから僕のいるあたりを見た。
視線が、僕の輪郭に引っかかった気がした。
「黒瀬さん」
「はい」
「雨宮さん」
「はい」
「それから」
教授は少し黙った。
僕は息を止める。
「欄外の水無月さん」
黒瀬の肩が震えた。
しずくが、小さく目を見開く。
僕は、返事をするのが少し遅れた。
「……はい」
教授が、わずかに眉を上げた。
「声は、聞こえますね」
「見えますか」
僕が聞くと、教授は眼鏡を外して目頭を押さえた。
「見える、とは言い切れません。ただ、そこにいると仮定した方が、今朝の出来事を説明しやすい」
「研究者っぽい返事ですね」
黒瀬が呟いた。
教授は少し笑った。
「黒瀬さんよりは落ち着いているつもりです」
「私は朝から友達が消えかけてるので」
「それは、落ち着かなくて当然です」
黒瀬は、その返事に少しだけ黙った。
教授は机の上から、講義中に使っていた出席簿のコピーを取り出した。
そこには、確かに履修者の名前が並んでいる。
僕の名前はない。
でも、一番下の余白に、教授の字でこう書かれていた。
欄外:水無月透真?
黒瀬依子・雨宮しずくが存在を証言。
声らしきもの有り。視認不安定。
要確認。
黒瀬が、その紙を見て息を呑んだ。
「残ってる」
「ええ」
教授は頷いた。
「消えるかと思いましたが、残っています」
「先生、これ、いつ書いたんですか」
「講義中です」
「その時、どう思いました?」
「正直に言えば」
教授は紙を見下ろした。
「自分が疲れているのかと思いました」
「ですよね」
「ですが、研究というのは、見間違いかもしれないものをすぐ捨てないことでもあります」
しずくが、静かに教授を見た。
「見えないものを、完全にないと断言するのは乱暴だと、先ほどおっしゃいました」
「ええ。私の専門では、語り手が見ているものが真実かどうか、簡単には決めません。見間違いも、嘘も、記憶違いも、その人にとっては意味を持ちます」
「意味」
しずくが、その言葉を小さく繰り返した。
僕は少し身構えた。
意味がわからない、という言葉は危険だ。
でも今は、意味という言葉そのものが、部屋の中に慎重に置かれているように感じた。
教授は、黒瀬の抱えているノートに視線を移した。
「黒瀬さん。そのノートを見せてもらえますか」
黒瀬は一瞬、ノートを抱く腕に力を込めた。
「……嫌です」
即答だった。
教授は少し驚いた顔をした。
黒瀬自身も、自分の返事の強さに驚いたようだった。
「あ、すみません。嫌ですっていうか、その」
「無理にとは言いません」
教授は穏やかに言った。
「ただ、講義中にあなたがかなり動揺していたので」
「動揺はしています」
「でしょうね」
「でも、このノートは」
黒瀬は、ノートの表紙を見つめた。
「私が覚えておくためのものなので」
その声は、さっきまでよりずっと小さかった。
教授は、しばらく彼女を見てから頷いた。
「では、見せなくていいです。ただ、一つだけ言っておきます」
「何ですか」
「記録は、人を守ることもありますが、人を閉じ込めることもあります」
黒瀬の顔がこわばった。
その言葉は、彼女に刺さった。
僕にもわかった。
「……先生、それ、どういう意味ですか」
「昔、ある学生がいました」
教授は机の上の万年筆を指で触れた。
「すべてを記録しようとする学生でした。講義内容だけではなく、誰が何を言ったか、どんな表情をしたか、教室に何秒沈黙があったか、友人が何を忘れたかまで、すべてノートに書いていました」
黒瀬の表情が少しずつ白くなる。
「その人、どうなったんですか」
「途中から、記録されていないことを信じられなくなりました」
「……」
「人間は、記録されていない時にも生きています。けれど彼女は、記録にない時間を空白だと思うようになった」
教授は静かに続けた。
「最後には、自分の感情さえ、書いてからでなければ本物だと思えなくなった」
黒瀬は、ノートを胸に強く押し当てた。
「その学生、私ですか」
教授は眉をひそめた。
「いいえ。君ではありません。十年以上前の学生です」
「でも、この世界なら、私だったことになりませんか」
教授は答えに詰まった。
普通なら、そんな質問には笑って済ませるところだろう。
けれど彼は笑わなかった。
「……今朝の状況を踏まえるなら、否定しきれません」
「否定してほしかったです」
「すみません」
黒瀬は、泣きそうな顔で笑った。
「大人に真面目に謝られると、逃げ場がなくなる」
教授は、机の引き出しから一枚の小さなカードを取り出した。
「これは助言です。命令ではありません」
そう言って、黒瀬に渡す。
カードには、教授の字でこう書かれていた。
記録は一人で持つな。
黒瀬は、それを見て固まった。
「……水無月さんと同じこと言う」
僕は、彼女のノートに書いた一文を思い出した。
水無月透真を忘れるな。
ただし、一人で全部背負うな。
教授は少しだけ首を傾げる。
「水無月さんも、同じことを?」
「はい」
「では、たぶん大事なことなのでしょう」
しずくが、小さく頷いた。
「大事です」
黒瀬は、カードをノートに挟んだ。
その手が少し震えていた。
「先生」
「はい」
「もし、私が記録しすぎたら」
彼女は一度、言葉を切った。
「世界って壊れると思いますか」
教授は、ずいぶん長い間黙っていた。
窓の外で、学生の笑い声が聞こえる。
普通の大学の音。
その普通さが、今は薄い膜の向こうにあるみたいだった。
「世界という言葉を、どう定義するかによります」
「定義とかじゃなくて」
「ええ」
教授は、ゆっくり頷いた。
「あなたの世界は、壊れるかもしれません」
黒瀬は、唇を噛んだ。
「でも、記録しないと、忘れる」
「はい」
「忘れたら、誰かが消える」
「そう感じているのですね」
「感じてるだけじゃないです。実際に消えた人がいます」
黒瀬は、鞄の中のメロンパンの袋に触れた。
「名前も顔も思い出せないけど、いたんです。嫌なやつで、私に変な恋文を書いて、メロンパンを持ってて、私が怒ってる時が一番生きてるとか言う、ほんとに失礼な人が」
教授は、黙って聞いていた。
黒瀬は続ける。
「その人を忘れたくないんです。水無月さんも忘れたくない。しずくさんのことも、神様たちのことも。忘れたくないものが多すぎて、私、もうどうしたらいいかわからない」
その声は、怒鳴りではなかった。
叫びでもない。
ただの本音だった。
ごちゃごちゃで、整理されていなくて、泣きそうで、人間臭い本音。
教授は、ゆっくりと言った。
「忘れないことと、すべてを保存することは違います」
黒瀬が顔を上げる。
「違うんですか」
「違います。人間は、忘れながら覚えています」
「それ、ずるくないですか」
「ええ。かなりずるい」
教授は少し笑った。
「でも、そのずるさがないと、人は生きていけません」
研究室を出る時、教授はもう一枚、余白の紙をくれた。
「これは欄外用紙です」
「欄外用紙?」
黒瀬が聞き返す。
「名簿にないもの、まだ名前を確定できないもの、記録しすぎると壊れるもの。そういうものを一時的に置いておく紙です」
「先生、今日だけで適応力高すぎません?」
「大学教員は、だいたい不可解な学生に慣れています」
「不可解のレベル超えてません?」
「ええ、かなり」
教授は、僕の方を見た。
正確には、僕がいるあたりを。
「欄外の水無月さん」
「はい」
「君が本当にいるなら、黒瀬さん一人に記録させすぎないように」
「はい」
「それから、雨宮さん」
「はい」
「靴ずれには絆創膏を」
しずくが目を丸くした。
「見えているのですか」
「靴は見えます」
教授は真顔で言った。
「足は時々見えません」
黒瀬が思わず吹き出した。
「そこだけ見えるの、逆に怖い」
「私もそう思います」
教授はそう言って、研究室の扉を閉めた。
廊下に出ると、黒瀬はその場でしゃがみ込んだ。
「疲れた」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない。先生がまともで助かったけど、まともだから余計疲れた」
「どういうことですか」
「変な神様に変なこと言われるのも疲れるけど、まともな大人にまともなこと言われるのも疲れるの。逃げられないから」
しずくが、白いスニーカーのかかとを少し浮かせた。
「絆創膏、買いますか」
「買う。あと水無月さんの存在記録セットも作る」
「存在記録セット?」
嫌な予感がした。
黒瀬は立ち上がると、鞄からスマホ、ノート、ペン、付箋、講義資料、教授からもらった欄外用紙を取り出した。
「まず、録音」
「黒瀬」
「次に写真」
「黒瀬」
「動画も撮る。あと、現在時刻。場所。水無月さんの状態。しずくさんの透明度。私の記憶の状態。全部記録する」
「黒瀬」
僕が三度目に呼ぶと、彼女はぴたりと止まった。
それから、少しだけ怯えた顔で僕を見る。
「……もう、駄目?」
「まだ駄目ではありません」
「まだ?」
「でも、少し急ぎすぎています」
黒瀬は唇を噛んだ。
「だって、怖い」
「はい」
「今、記録しないと忘れる気がする。忘れたら、水無月さんが朝になって、しずくさんが雨になって、あの人がメロンパンだけになって、私だけがまた泣くかもしれない」
「はい」
「嫌なの」
「はい」
「はいばっかり言わないでよ」
「他に言葉が見つかりません」
黒瀬は、ノートを握りしめた。
その手が震えている。
僕は、教授にもらった欄外用紙を一枚取った。
「まず、ここに書きましょう」
「何を」
「全部ではなく、今一番失くしたくないことを一つだけ」
「一つだけ?」
「はい」
「水無月さんの名前?」
「それでもいいです」
「しずくさんのこと?」
「それでも」
「恋文の人?」
「それでも」
黒瀬は、しばらく黙った。
そして、ペンを持った。
欄外用紙に書く。
私は、今、怖い。
それだけだった。
黒瀬自身が、書いたあとに少し驚いた顔をした。
「……名前じゃなかった」
「はい」
「私、水無月さんを忘れないって書くと思った」
「僕も少し思いました」
「でも、怖いって書いた」
黒瀬は、その文字を見つめていた。
「怖いって、記録していいのかな」
「いいと思います」
しずくが言った。
「怖いことを記録しておくと、あとで怖かった自分を責めずに済みます」
黒瀬は、しずくを見た。
「しずくさん、今のすごく人間っぽい」
「そうですか」
「うん。たぶん、かなり」
しずくは少しだけ嬉しそうにした。
けれど次の瞬間、自分の足元を見て小さく顔をしかめる。
「かかとが痛いです」
「よし、絆創膏。あと休憩」
黒瀬は、記録セットをいったん鞄にしまった。
「大学の購買行こう。水無月さんも来る」
「はい」
「途中で消えそうになったら言う」
「はい」
「しずくさんは足が痛くなったら言う」
「はい」
「私が記録しすぎそうになったら、二人で止める」
「はい」
黒瀬は、最後に小さく付け加えた。
「でも、忘れろとは言わないで」
「言いません」
僕としずくは、ほぼ同時に答えた。
黒瀬は、少しだけ安心した顔をした。
購買へ向かう途中、黒瀬は結局また記録を始めた。
ただし、今度は少しだけ違った。
スマホで録音を開始する前に、僕たちに確認した。
「録るよ」
「はい」
「嫌だったら言って」
「わかりました」
録音開始。
黒瀬はスマホに向かって言った。
「記録一。現在、大学講義棟二階廊下。水無月さんは見えている。声も聞こえる。腕は触れる。学生証の名前は空白。連絡先は、水無月さん/透真さん/朝。しずくさんは白いスニーカーを履いていて、かかとが痛い」
「靴ずれまで記録されました」
しずくが少し恥ずかしそうに言う。
「大事な情報」
黒瀬は真面目に返した。
「あと、私は怖い」
そこで少し声が小さくなる。
「でも、一人で全部記録しないようにする。以上」
録音を止める。
黒瀬は、ふうっと息を吐いた。
「どう?」
「かなり良いと思います」
僕が言うと、黒瀬は疑わしそうにこちらを見た。
「本当に?」
「はい。怖いと言えたのが、特に」
「褒め方がカウンセラーっぽい」
「すみません」
「でも、悪くない」
しずくが、そっと手を上げた。
「私も記録したいです」
黒瀬が驚く。
「しずくさんが?」
「はい」
「何を?」
「今、足が痛いです。でも、少し嬉しいです。黒瀬さんが絆創膏を買ってくれるからです」
黒瀬は、ものすごく微妙な顔をした。
「それ、記録するほど?」
「はい」
「そっか」
黒瀬は、少しだけ照れたようにスマホを差し出した。
「じゃあ、録る?」
「はい」
しずくはスマホに向かって、少し緊張した声で言った。
「記録二。雨宮しずくです。足が痛いです。でも、嬉しいです。人間は、痛い時に誰かが心配してくれると、少し痛みが変わるようです」
黒瀬が、口元を押さえた。
「……やばい。今のは、ちょっと泣く」
「泣きますか」
「泣かない。購買前だから」
「人間は場所によって泣くのを調整するのですね」
「そう。めんどくさいでしょ」
「はい。でも、少しすごいです」
僕は二人を見ていた。
記録。
それは危険なものだ。
黒瀬を敵にするかもしれない。
世界を壊すかもしれない。
でも、記録は悪いだけではない。
今ここにいること。
怖いこと。
痛いこと。
嬉しいこと。
誰かが絆創膏を買ってくれること。
そういうものを少しだけ残すのは、たぶん祈りに似ている。
購買で絆創膏を買った。
黒瀬はついでに、付箋と油性ペンと小さなメモ帳を買った。
「増えてます」
僕が言うと、黒瀬は目を逸らした。
「必要最低限」
「付箋三色ありますが」
「色分けできると混乱しにくいでしょ」
「油性ペンは?」
「最悪、腕に書く」
「黒瀬」
「わかってる。まだ書かない。保留」
「保留なら」
「保留」
しずくが、購買前のベンチに座る。
黒瀬がしゃがんで、しずくのかかとに絆創膏を貼った。
「痛かったら言って」
「はい」
「貼るよ」
「はい」
「痛い?」
「少し」
「ごめん」
「大丈夫です」
その光景は、あまりにも普通だった。
女子大生が、友達の靴ずれに絆創膏を貼っている。
それだけなら、本当にどこの大学にもある風景だ。
でも片方は、雨の日だけ存在する神様だった。
もう片方は、世界を壊すほど記録してしまうかもしれない人間だった。
そして僕は、学生証の名前が空白の欄外存在だった。
普通は、異常の上に薄く乗っている。
黒瀬が絆創膏を貼り終え、立ち上がった。
「よし」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
しずくは、足を少し動かして確かめた。
「痛いですが、さっきより怖くありません」
「よかった」
その時、黒瀬のスマホが勝手に録音再生を始めた。
さっきの黒瀬の声。
『記録一。現在、大学講義棟二階廊下。水無月さんは見えている――』
黒瀬が慌ててスマホを止めようとする。
「何、勝手に」
でも、止まらない。
音声が少し歪む。
『水無月さんは見えている。見えている。見えている。見えている。見えている。見えている。見えている』
「やめて」
黒瀬の顔が青ざめる。
音声は繰り返す。
『見えている。見えている。見えている。見えている。見えている』
「やめて!」
黒瀬が叫んだ。
購買前の学生たちがこちらを見る。
スマホの画面に文字が浮かぶ。
記録を強化しますか?
はい/はい
黒瀬の手が震えた。
「選択肢、両方はいじゃん」
「触らないでください」
僕が言うと、黒瀬はスマホを落とした。
床に落ちたスマホから、録音が続く。
『水無月透真を忘れるな。水無月透真を忘れるな。水無月透真を忘れるな』
黒瀬のノートが鞄の中で勝手に開いた。
ページがめくれる。
白紙だった欄外用紙に、びっしり文字が浮かんでいく。
水無月透真を忘れるな。
雨宮しずくを忘れるな。
黒瀬依子を忘れるな。
恋文の差出人を忘れるな。
メロンパンを忘れるな。
黄色い傘を忘れるな。
白い猫を忘れるな。
朝を忘れるな。
神様の死体を忘れるな。
黒瀬が、両手で耳を塞いだ。
「私じゃない」
声が震えている。
「私、今は書いてない」
「黒瀬」
「私じゃない!」
叫びが、購買前に響く。
しずくが黒瀬の前に立った。
「黒瀬さん」
「違う、私じゃない。私、ちゃんと録る前に聞いた。怖いって言った。一人で全部背負わないって」
「はい」
「なのに、何で」
黒瀬は泣いていた。
「何で、勝手に強化されるの」
スマホの音声が、さらに歪む。
『記録を続けてください。記録を続けてください。記録を続けてください』
僕はスマホに手を伸ばした。
触れる。
だが、指先が画面をすり抜けた。
僕には止められない。
しずくも触れようとしたが、スマホには触れられなかった。
さっきまで触れられたものと、触れられないものの境目がわからない。
黒瀬だけが止められる。
でも、黒瀬は震えて動けない。
「黒瀬」
僕は言った。
「スマホを拾ってください」
「無理」
「できます」
「無理!」
「黒瀬依子」
名前を呼んだ。
彼女の肩が震えた。
「記録するかどうかを、記録に決めさせないでください」
黒瀬は、涙でぐちゃぐちゃの顔で僕を見る。
「水無月さん、私、怖い」
「はい」
「止めたら、忘れるかもしれない」
「はい」
「続けたら、壊すかもしれない」
「はい」
「どっちも嫌」
「では、第三の選択肢です」
黒瀬は、泣きながら笑った。
「また保留?」
「いいえ」
僕は言った。
「共有です」
黒瀬の目が揺れる。
「共有」
「その記録を、一人で持たないでください。僕にも、しずくさんにも渡してください」
「でも」
「黒瀬が全部覚えなくていい。黒瀬が全部記録しなくていい。僕のことは僕も持ちます。しずくさんのことはしずくさんも持ちます。黒瀬の怖さは、僕たちも一緒に持ちます」
しずくが頷いた。
「はい。持ちます」
黒瀬は、震える手でスマホを拾った。
画面にはまだ表示が出ている。
記録を強化しますか?
はい/はい
黒瀬は、しばらく画面を見つめた。
そして、油性ペンのキャップを外した。
「え、黒瀬?」
彼女はスマホ画面ではなく、自分の手の甲に書いた。
共有。
黒いインクで。
それから、僕の方を見る。
「水無月さん、手」
「僕に書けますか」
「やってみる」
黒瀬は僕の手の甲にペンを近づけた。
少しすり抜けた。
でも、何度か試すと、インクが薄く乗った。
共有。
僕の手に、かすれた文字が残る。
しずくも手を差し出した。
黒瀬は彼女の手にも書いた。
共有。
三人の手の甲に、同じ文字。
その瞬間、スマホの音声が止まった。
画面の文字が崩れる。
記録を強化しますか?
はい/はい
それが、別の表示に変わった。
記録を共有しますか?
はい/あとで
黒瀬が、涙を拭いた。
「あとで、あるじゃん」
「ありますね」
「最初から出せ」
黒瀬は、怒った声で言ってから、迷わず「はい」を押した。
スマホが震える。
僕のスマホにも通知が来た。
しずくの手のひらにも、なぜか小さな文字が浮かんだ。
共有記録を開始しました。
黒瀬は、その場にへたり込んだ。
「疲れた」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
「はい」
「でも、今のは勝った?」
「勝ちました」
しずくが言った。
「かなり」
黒瀬は、泣きながら少しだけ笑った。
「かなりなら、いいか」
その時、黒瀬のノートがもう一度開いた。
今度は、最後のページ。
そこに、黒瀬自身の字で一行が浮かぶ。
記録をやめたら、私は彼を愛していたことになる。
黒瀬の笑みが消えた。
「……何」
僕も、その一文を見た。
しずくも。
記録をやめたら、私は彼を愛していたことになる。
彼。
それは誰だ。
僕なのか。
消えた三人目なのか。
それとも、別の版で黒瀬が記録し続けた誰かなのか。
黒瀬は、ノートを見つめたまま動けなかった。
「私」
声がかすれていた。
「誰を?」
答えは出ない。
出るはずもない。
ただ、購買前の空気が少しだけ重くなる。
スマホが震えた。
【第14話 黒瀬依子の記録癖】
その下に、次の通知が浮かぶ。
【第15話 雨宮しずくが人間に近づく日】
しずくが、自分の手の甲の「共有」という文字を見つめた。
その指先には、もうほとんど透け感がなかった。
そして、彼女の手首で。
とくん、と小さく脈が打った。




