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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第15話 雨宮しずくが人間に近づく日

 雨宮しずくの手首で、脈が打っていた。


 とくん。


 小さな音だった。


 聞こえたわけではない。

 でも、見えた。


 白い手首の内側。

 薄い皮膚の下で、何かが確かに動いている。


 それは、神様にはたぶん必要のないものだった。


 心臓。


 血。


 体温。


 痛み。


 生きているものが、勝手に背負わされる面倒な仕組み。


 しずくは、自分の手首をじっと見つめていた。


 購買前のベンチ。


 黒瀬依子が貼った絆創膏が、しずくのかかとに少し浮いている。

 白いスニーカーの履き口に、肌が赤くなっているのが見えた。


 今朝まで半透明だった足。


 雨の日だけ存在する神様の足。


 それが今は、靴ずれを起こしている。


「……動いています」


 しずくが、小さく言った。


 自分の手首を押さえながら。


「ここが」


「脈ですね」


 僕が言うと、しずくは顔を上げた。


「これが、脈」


「はい」


「人間は、ずっとこれが動いているのですか」


「基本的には」


「止まると?」


 黒瀬が即答した。


「死ぬ」


「黒瀬さん」


「いや、ごめん。でも変にぼかすのも違うかなって」


 しずくは、少しだけ目を丸くした。


 それから、自分の手首をもう一度見た。


「止まると死ぬものが、ずっと動いているのですね」


「そう言われると怖いですね」


「かなり怖いよ」


 黒瀬はベンチの隣に腰を下ろし、買ったばかりの絆創膏の箱を鞄にしまった。


「でも、普段は気にしない。気にしてたら生活できないし」


「人間は、怖いことを忘れるのが上手です」


「上手っていうか、忘れないとやってられないだけ」


 黒瀬はそう言ってから、ふと僕を見る。


「……忘れるって言葉、今はちょっと嫌だけど」


「はい」


「でも、全部覚えてても壊れるんだよね」


「教授もそう言っていました」


「厄介すぎる」


 彼女は手の甲を見た。


 そこには、油性ペンで書いた「共有」の文字がある。


 僕の手にも、かすれた同じ文字がある。

 しずくの手にも。


 三人の手に、同じ言葉。


 たぶんそれは、今朝の僕たちにとって小さな契約だった。


 全部を一人で持たない。

 怖さも、記憶も、名前も。


 しずくは、その「共有」の字を指でなぞった。


「黒瀬さん」


「何?」


「この文字、消えますか」


「油性だから、しばらくは残ると思う。まあ、手洗ったり擦ったりしたら薄くなるけど」


「薄くなる」


「でも、完全に消える前にまた書けばいい」


「また書く」


「そう。何度でも」


 しずくは、その言葉を大事そうに受け取った。


「何度でも書けば、消えても大丈夫なのですね」


 黒瀬は一瞬だけ黙った。


 その顔に、ほんの少し苦いものが浮かぶ。


「……大丈夫かどうかは、わかんない」


「はい」


「でも、消えたら終わり、よりはまし」


「はい」


「何度でも書くのは、ちょっと面倒だけどね」


「面倒」


「うん。でも人間関係ってだいたい面倒だから」


 黒瀬は僕としずくを交互に見た。


「名前呼んだり、忘れないようにしたり、でも記録しすぎないようにしたり、靴ずれ見たり、消えそうな人を掴んだり。面倒だらけ」


「黒瀬は、面倒なのが嫌ですか」


 僕が聞くと、彼女は少し考えた。


「嫌」


 即答だった。


 けれどすぐに、付け加える。


「でも、面倒じゃない関係って、たぶん薄い」


「薄い」


「うん。水無月さんみたいに消えかけてるって意味じゃなくて」


「わかっています」


「わかってるならいいけど。面倒だから、そこにいるって感じがする。しずくさんが靴ずれしたら絆創膏を貼る。水無月さんが消えかけたら名前を呼ぶ。私が記録しすぎたら二人が止める。面倒だけど、そういう面倒がないと、たぶん友達って言えない」


 しずくは、じっと黒瀬を見ていた。


「友達」


「そう」


 黒瀬は少し照れたように視線を逸らした。


「もう友達でしょ。ここまで来て、違うって言われたら私が困る」


「困るのですか」


「困る」


「なぜですか」


「……しずくさん、本当にそういうところ真っ直ぐ聞くよね」


「すみません」


「謝らなくていいけど」


 黒瀬は、少しだけ頬を赤くした。


「今さら他人って言われたら、私が寂しいから」


 しずくは目を丸くした。


 それから、ゆっくり笑った。


「嬉しいです」


「だからそういう素直なの、ほんと反応に困る」


「でも、嬉しいです」


「二回言わないで。照れるから」


 その時、しずくの頬にほんのり赤みが差した。


 僕はそれを見て、息を止めた。


 黒瀬も気づいた。


「しずくさん」


「はい?」


「顔、赤い」


「顔?」


 しずくは自分の頬に触れた。


 指先が頬に触れる。


 すり抜けない。


 本当に、触れている。


「熱いです」


「照れてる」


「これが、照れる」


「たぶん」


「人間は、感情で顔の温度が変わるのですか」


「変わる。厄介だけど」


「厄介ですね」


 しずくは、少しだけ困ったように笑った。


「でも、嫌ではありません」


 僕は、その笑顔を見ていた。


 嬉しいはずだった。


 しずくが人間に近づいている。


 触れられるようになり、痛みを知り、体温を持ち、照れる。

 第一話で半分だけ死に損ねていた彼女が、今はこうして購買前のベンチに座り、靴ずれを気にしている。


 それは、たぶん良いことだ。


 良いことのはずだ。


 なのに、胸の奥が冷たかった。


「水無月さん」


 黒瀬が僕を見る。


「また変な顔」


「そうですか」


「うん。嬉しいのに怖い顔」


「鋭いですね」


「朝からずっと水無月さんの変な顔を見てるから、だいぶわかるようになってきた」


「嫌な熟練度ですね」


「ほんとにね」


 しずくが、僕を見る。


 その目は、少し前よりもはっきりしている。

 雨の向こうにある目ではなく、目の前にいる人の目だった。


「透真さん」


 彼女が呼んだ。


 僕の名前。


 その呼び声に、僕の輪郭が少しだけ揺れる。


 けれど、さっきより痛みは少ない。


 しずくの声が、僕を消すのではなく、繋ぎ止める方向に変わっている気がした。


「私は、人間に近づいているのですね」


「はい」


「透真さんは、それが怖いですか」


 僕は、すぐに答えられなかった。


 黒瀬が横から言う。


「ここで嘘ついたら怒る」


「怖いです」


 僕は正直に言った。


 しずくの目が少し揺れた。


「なぜですか」


「しずくさんが人間になることが嫌なわけではありません」


「はい」


「でも、それが僕を覚えている代償なら怖いです」


 しずくは、自分の手首に触れた。


 脈が打っている場所。


「私が透真さんを覚えるほど、神様ではなくなる」


「たぶん」


「神様でなくなると、透真さんを覚えていられなくなるかもしれない」


「はい」


「矛盾していますね」


「かなり」


 黒瀬が苦い顔をする。


「この世界、報酬と罰の設計が性格悪すぎる」


「本当に」


「覚えてるから人間になる。でも人間になると忘れる。何その嫌がらせ。バランス調整した人、呼んでほしい。私が怒る」


 しずくが少しだけ笑った。


「黒瀬さんは、神様の設計者にも怒るのですね」


「怒る。相手が誰でも、雑な仕様には怒る」


「頼もしいです」


「頼もしいかなあ」


 黒瀬は、しずくのかかとの絆創膏を確認する。


「歩ける?」


「はい。少し痛いですが、歩けます」


「無理しないでね」


「はい」


 しずくは立ち上がった。


 白いスニーカーが、床に触れる。


 その瞬間、彼女の身体がふらりと揺れた。


「しずくさん!」


 僕と黒瀬が同時に手を伸ばした。


 僕の手が、しずくの腕に触れた。


 触れた。


 今度は、すり抜けなかった。


 冷たくもない。


 温かい。


 ほんの少しだけ、体温がある。


 しずくも、驚いたように僕を見る。


「透真さん」


「触れました」


「はい」


 黒瀬が、僕たちの手元を見て、ぽつりと言った。


「おお」


「黒瀬」


「いや、なんか、急にラブコメっぽい瞬間が来たから」


「今、それを言う場面ですか」


「言う場面でしょ。朝から死体、神様、母親不在籍、履修名簿なし、記録暴走って続いたんだから、手が触れたくらいでラブコメ判定しても罰は当たらない」


 しずくの顔がまた赤くなった。


「ラブコメ」


「しずくさん、そこ拾わなくていい」


「私は、透真さんとラブコメなのですか」


「本人に直球で聞かないで!」


 黒瀬が慌てた。


 僕も、返答に困った。


「ええと」


「透真さん」


「はい」


「ラブコメとは、何をするものですか」


「僕に聞くのは間違っていると思います」


「経験ないですもんね、水無月さん」


 黒瀬がすかさず言う。


「黒瀬もないでしょう」


「私は今そういう話をしてない」


「ずるいですね」


「人間なので」


 しずくが、小さく笑った。


 その笑い声は、以前よりも透明ではなかった。


 ちゃんと空気を震わせている。


 僕は、彼女の腕から手を離した。


 離すのが、少し惜しいと思った。


 その感情に気づいて、自分で少し驚いた。


 黒瀬がじっと僕を見ている。


「何ですか」


「水無月さん、今かなり人間だった」


「どういう意味ですか」


「内緒」


「黒瀬」


「言ったらしずくさんがまた赤くなりそうだから、今は言わない」


 しずくが不思議そうに首を傾げる。


 その仕草も、前よりずっと人間らしい。


 その時、しずくが急に眉を寄せた。


「……あれ」


「どうしました」


 僕が聞くと、彼女は僕を見た。


 でも、その目がわずかに迷っていた。


「透真さん」


「はい」


「透真さん、ですよね」


 購買前の空気が凍った。


 黒瀬が立ち上がる。


「しずくさん?」


「すみません」


 しずくは自分の胸に手を当てた。


「今、一瞬、名前が」


「忘れたの?」


 黒瀬の声が震える。


「完全にではありません。でも、遠くなりました」


「遠くなるって」


「名前の意味が、少しだけ。音としては残っているのに、誰のことかわからなくなりかけるような」


 僕は、手の甲を見た。


 共有。


 その文字が、少し薄くなっている。


「しずくさんが人間に近づいたから」


 僕が言うと、しずくは目を伏せた。


「たぶん」


 黒瀬は、すぐにスマホを取り出した。


「共有記録を確認する」


 録音アプリを開く。


 共有記録。


 そこには、三人の記録が残っているはずだった。


 けれど、再生ボタンを押すと、音声が歪んだ。


『記録二。雨宮しずくです。足が痛いです。でも、嬉しいです。人間は、痛い時に誰かが心配してくれると、少し痛みが変わるようです』


 そこまでは、しずくの声だった。


 次の瞬間、音声が途切れる。


『――さんは、ここにいます』


 名前が抜けていた。


 透真さん。


 その部分だけ、音がない。


 黒瀬の顔が青ざめる。


「共有記録からも抜けてる」


「僕の名前だけ?」


「たぶん」


「黒瀬の記録では?」


 黒瀬は、急いで自分の録音を再生した。


『記録一。現在、大学講義棟二階廊下。水無月さんは見えている。声も聞こえる――』


 水無月さん。


 そこは残っている。


 黒瀬は息を吐きかけた。


 けれど、次の瞬間、その音声が繰り返された。


『水無月さんは見えている。水無月さんは見えている。水無月さんは見えている』


「また?」


 黒瀬が顔をしかめる。


 だが、今回は暴走ではなかった。


 音声は三回で止まる。


 画面に文字が浮かぶ。


 黒瀬依子の記録では、彼はまだ見えています。

 雨宮しずくの記憶では、彼の名前が薄れ始めています。


 しずくが、真っ青になった。


「私のせいです」


「違う」


 黒瀬が即座に言った。


「まだ何も言ってないのに」


「しずくさんがその顔をしたら、先に否定することに決めた」


「でも」


「でもじゃない。人間に近づくのが悪いことなら、靴ずれしたのも、照れたのも、手が触れたのも、全部悪いことになる。それは嫌」


 しずくは唇を噛んだ。


「でも、透真さんの名前を忘れるくらいなら」


「忘れたら、また呼ぶ」


 黒瀬は言った。


「私が呼ぶ。水無月さん本人にも名乗らせる。しずくさんにも何度でも思い出してもらう。一回薄くなったら終わり、なんてルールは採用しない」


「採用しない」


「そう。勝手に却下」


 黒瀬は僕を見る。


「水無月さんも言って」


「何を」


「しずくさんが忘れかけても、怒らないって」


 しずくが、びくりとした。


 僕は彼女を見た。


 雨の日にだけ存在した神様。

 僕に否定された少女。

 今は白いスニーカーを履き、靴ずれに絆創膏を貼り、脈を打っている女の子。


「怒りません」


 僕は言った。


「本当に?」


 しずくが聞く。


「はい。寂しいとは思います」


 彼女の目が揺れる。


「怖いとも思います。でも、怒りません。しずくさんが僕を忘れそうになるのは、しずくさんが僕を覚えようとしてくれた結果でもあるから」


「……」


「それに、僕も忘れました」


 しずくが顔を上げる。


「雨の日のあなたを。白い猫を。あの階段を。自分が否定したことを」


 僕は言った。


「忘れた僕が、忘れかけたしずくさんを責めるのは、かなり勝手です」


 黒瀬が小さく頷いた。


「人間は勝手だけど、そこまで勝手だと私が怒る」


「はい」


 しずくは、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく言った。


「私は、忘れたくありません」


「はい」


「透真さんの名前を、忘れたくありません」


「はい」


「でも、忘れそうです」


 その声が、ひどく人間だった。


 弱くて、怖くて、自分の中の変化に追いつけていない声。


 黒瀬が、そっとしずくの手を取った。


 しずくの手は、もう黒瀬にも普通に触れた。


 黒瀬は少し驚いた顔をしたが、そのまま握った。


「しずくさん」


「はい」


「じゃあ、練習」


「名前呼びのですか」


「そう」


 黒瀬は僕を指差した。


「この人は?」


 しずくは、少しだけ息を吸った。


「透真さん」


「もう一回」


「透真さん」


「もう一回」


「透真さん」


 呼ばれるたびに、しずくの顔に苦しさが混じる。


 名前を掴もうとしている。


 離れそうなものを、指先で必死に握っている。


「もう一回」


 黒瀬が言う。


「透真さん」


「もう一回」


「透真さん」


「無理しすぎでは」


 僕が言うと、黒瀬は首を横に振った。


「無理はしてる。でも必要な無理」


「しずくさんがつらそうです」


「つらい時に一人でやらせないために、私が横で言ってる」


 しずくは、握られた黒瀬の手を見た。


 そして、もう一度僕を見る。


「透真さん」


 その声は、さっきより少しはっきりしていた。


「はい」


「透真さん」


「はい」


「透真さん」


「はい」


 しずくは、目に涙を浮かべた。


「よかった」


「はい」


「まだ、呼べます」


 黒瀬も、ほっとしたように肩を落とした。


「よし」


 その瞬間、共有記録に新しい音声が勝手に追加された。


 しずくの声だった。


『透真さん。透真さん。透真さん。まだ呼べます』


 画面に文字が出る。


 共有記録:更新。


 黒瀬が画面を見て、少しだけ眉をひそめた。


「勝手に更新されるのは嫌だけど、今のは残ってほしい」


「難しいですね」


「本当に」


 しずくは、手の甲の「共有」の文字を見た。


 その横に、小さな脈が浮いている。


 人間に近づくこと。

 名前を忘れかけること。

 それでも、呼び直すこと。


 その全部が、今のしずくの中で同時に起きていた。


 購買の時計が、十時を少し回った。


 第一章の六時四十二分から、ずいぶん遠くへ来た気がする。

 でも、朝はまだ終わっていない。


 僕たちは購買前のベンチに並んで座った。


 黒瀬が真ん中。


 僕が右。


 しずくが左。


「何か食べよう」


 黒瀬が突然言った。


「今ですか」


「今。しずくさん、人間に近づいてるなら、お腹空くかもしれないでしょ」


 しずくが、自分のお腹に手を当てた。


「お腹」


「空いてる?」


「わかりません」


「じゃあ試す」


 黒瀬は購買で買った小さなクリームパンを取り出した。


「半分食べる?」


「食べられるでしょうか」


「神様時代はプリン食べてたでしょ」


「あれは遺言でした」


「今回はおやつ」


「おやつ」


 しずくは、その言葉を少し楽しそうに繰り返した。


 黒瀬がパンを半分に割る。


 片方をしずくへ渡す。


 しずくは、慎重にそれを受け取った。


 落とさない。


 すり抜けない。


 ちゃんと持っている。


 そして、小さくかじった。


 しばらく無言。


 黒瀬が身を乗り出す。


「どう?」


 しずくは、目を見開いた。


「甘いです」


「うん」


「プリンとは違います」


「まあ、パンだからね」


「でも、少し似ています」


「どこが?」


「嬉しい味がします」


 黒瀬は、口を押さえた。


「しずくさん、そういうの本当にやめて。購買前で泣きたくない」


「すみません」


「謝らなくていいけど!」


 僕も、少し笑った。


 しずくがクリームパンをもう一口食べる。


 その頬が、ほんの少しふくらむ。


 神様がクリームパンを食べている。


 それだけで、朝の異常が少しだけ許せる気がした。


 だが、その平穏は長く続かなかった。


 しずくがパンを飲み込んだ瞬間、胸に手を当てた。


「……あ」


「どうしました」


「胸が」


 しずくの顔が青ざめる。


 僕と黒瀬が同時に立ち上がる。


「痛い?」


 黒瀬が聞く。


「いえ」


 しずくは困惑した顔で、自分の胸を押さえた。


「動いています」


「心臓?」


「たぶん」


 彼女の身体が、また少し濃くなった。


 白いワンピースの向こう側が、ほとんど透けていない。


 髪が風で揺れる。


 頬に血色がある。


 そして、彼女の胸の奥で、確かに心臓が打っている。


 とくん。


 とくん。


 黒瀬は息を呑んだ。


「しずくさん」


「はい」


「今、かなり人間」


「はい」


「嬉しい?」


 しずくは、しばらく考えた。


 そして、正直に言った。


「嬉しいです」


 その直後、彼女の目から涙が落ちた。


「でも、怖いです」


「うん」


「透真さんの名前が、また少し遠くなりました」


 僕は、胸が締めつけられるのを感じた。


 しずくは、泣きながら笑った。


「人間になるのは、こんなに忙しいのですね」


「忙しい?」


「嬉しいのに怖くて、甘いのに痛くて、覚えたいのに忘れそうで、泣いているのに少し楽しいです」


 黒瀬が、静かに言った。


「それ、かなり人間だよ」


「そうですか」


「うん。かなり面倒で、かなり人間」


 しずくは、涙を拭こうとして、自分の指が頬に触れることにまた少し驚いた。


 そして、泣きながら笑った。


「透真さん」


「はい」


「私は、人間になりたいです」


 その言葉は、静かだった。


 でも、今朝のどんな遺言よりも重かった。


「でも、あなたを忘れたくありません」


「はい」


「だから」


 しずくは僕を見た。


「もし私が透真さんの名前を忘れたら、何度でも教えてください」


「はい」


「怒らずに」


「はい」


「少し寂しそうには、してもいいです」


「いいんですか」


「はい。その方が、忘れてはいけない気がするので」


 黒瀬が横で呟いた。


「しずくさん、要求が細かくなってきた」


「人間に近づいたので」


「いいね。面倒になってきた」


「褒めていますか」


「かなり」


 その時、僕のスマホが震えた。


 画面を見る。


【第15話 雨宮しずくが人間に近づく日】


 その下に、新しい通知が浮かぶ。


【第16話 白紙先生】


 黒瀬が画面を覗き込み、眉をひそめる。


「白紙先生?」


 しずくが、クリームパンを持ったまま固まった。


「知っているんですか」


 僕が聞くと、しずくは小さく頷いた。


「白紙先生は、まだ書かれていないものを管理する人です」


「人?」


「たぶん、人ではありません」


「先生なのに?」


 黒瀬が言う。


「先生って人間じゃない場合もあるの?」


「今朝の流れなら十分あります」


「嫌な納得」


 購買前の掲示板に、一枚の白い紙が貼られていた。


 さっきまで、そんなものはなかった。


 紙には、何も書かれていない。


 完全な白紙。


 しかし、近づくと、白紙の中心に文字が浮かび始めた。


 次の講義

 担当:白紙先生

 内容:自分の名前を書けない人のための名前入門


 黒瀬が、乾いた声で言った。


「絶対に嫌な授業」


「はい」


 僕が頷くと、白紙の下にさらに文字が浮かんだ。


 持ち物:まだ決まっていない自分


 しずくが、僕の袖を掴んだ。


 今度は、完全に触れた。


「透真さん」


「はい」


「白紙先生に名前を書かされてはいけません」


「書くと、どうなるんですか」


「名前が固定されます」


「良いことでは?」


 黒瀬が聞く。


 しずくは首を横に振った。


「一つの名前に固定された透真さん以外が、死にます」


 僕は、何も言えなかった。


 水無月透真。

 雨宮透真。

 朝。

 欄外。

 置いてきた子。

 黒瀬に呼ばれる水無月さん。

 しずくに呼ばれる透真さん。


 そのどれか一つを選べば、他が死ぬ。


 黒瀬が、僕の手の甲の「共有」を見た。


「また選ばせる気ね」


「そのようです」


「ほんと、名前に厳しい世界」


 しずくが、手首の脈を押さえながら言った。


「透真さん」


「はい」


「私があなたの名前を忘れそうになっている時に、あなたが自分の名前を一つに決めるのは危険です」


「なぜですか」


「私が、選ばれなかった名前のあなたを忘れてしまうからです」


 黒瀬が低く呟いた。


「つまり、水無月透真を選んだら、雨宮透真とか朝とか欄外の水無月さんが死ぬ。雨宮透真を選んだら、水無月さんが危ない。朝を選んだら、人間としての水無月さんが消える」


「はい」


「じゃあ、また保留?」


 僕は白紙を見た。


 白紙先生。


 まだ書かれていないものを管理する存在。


 その授業が、僕を待っている。


「今回は、保留だけでは済まない気がします」


「嫌な予感する?」


「かなり」


 黒瀬は小さく息を吐いた。


「じゃあ、三人で行く」


「もちろんです」


 しずくが、僕の袖を握ったまま言った。


「私も行きます」


「靴ずれは?」


 黒瀬が聞く。


「痛いです」


「心臓は?」


「動いています」


「名前は?」


 しずくは、僕を見た。


 少しだけ迷った。


 ほんの一瞬。


 それでも、彼女は言った。


「透真さん」


 僕は頷いた。


「はい」


 黒瀬も言う。


「水無月さん」


「はい」


 僕は、自分の手の甲を見た。


 共有。


 その文字は少し薄くなっている。


 でも、まだ残っている。


 僕たちは白紙の掲示へ向かった。


 その白紙の向こう側から、誰かの声が聞こえた。


「名前のない方から、お入りください」


 優しい声だった。


 優しすぎて、怖かった。


 黒瀬が小さく言った。


「先生の声って、だいたい優しい時ほど怖いよね」


「偏見では」


「経験則」


 しずくが、僕の袖を握る手に力を込めた。


 心臓が、とくん、と鳴った気がした。


 神様だった彼女の心臓。


 僕の消えかけた名前。


 黒瀬の共有記録。


 その全部を持ったまま、僕たちは白紙の授業へ向かった。


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