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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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16/34

第16話 白紙先生

 白紙の掲示板は、大学の購買前にあった。


 いや、掲示板自体は前からあった。


 休講情報。

 サークル勧誘。

 学生相談室の案内。

 落とし物のお知らせ。

 よくわからない映画研究会の自主制作上映会。


 そういう、大学にありがちな紙がごちゃごちゃ貼られている中に、一枚だけ完全な白紙があった。


 紙そのものは、何の変哲もない。


 A4。

 真っ白。

 端が少しだけ反っている。

 画鋲で四隅を留められている。


 なのに、その紙の前に立つと、目が離せなくなる。


 白いからではない。


 何も書かれていないのに、何かが書かれるのを待っているように見えるからだ。


 白紙は、空っぽではない。


 これから何かを奪うために、何もない顔をしている。


 そう思った。


「……嫌な紙」


 黒瀬依子が、僕の横でぼそっと言った。


「紙に嫌悪感を持つ朝になるとは思いませんでした」


「私も。神様の死体くらいからだいぶ予定外だけど、白紙が怖いってかなり末期よ」


 黒瀬の手の甲には、まだ油性ペンの文字が残っている。


 共有。


 さっきより少し薄くなっているが、消えてはいない。


 僕の手にも、同じ文字がある。

 かすれてはいるけれど、残っている。


 しずくの手にも。


 ただ、しずくの手はもうほとんど透けていなかった。


 白い指。

 手首の薄い血管。

 その下で、とくん、と脈が打っている。


 彼女は自分の胸元を片手で押さえ、もう片方の手で僕の袖を掴んでいた。


 触れている。


 すり抜けない。


 それが嬉しいのに、怖い。


 しずく自身も、そういう顔をしていた。


「透真さん」


 彼女は僕の名前を呼んだ。


 少しだけ慎重に。


 名前を落とさないように、両手で持っているような呼び方だった。


「はい」


「まだ、呼べます」


「はい」


「でも、白紙先生のところへ行くと、呼び方が変わるかもしれません」


「名前を固定されるからですか」


「はい」


 黒瀬が白紙を睨みつける。


「固定ってさ、普通は良いことっぽいのにね。存在が安定します、みたいな」


「ですが、選ばれなかった名前が死ぬそうです」


「そういう余計な仕様つけるなって話よ」


 黒瀬は腕を組んだ。


「名前なんて、人によって呼び方違うじゃん。水無月さん、透真さん、朝、欄外、置いてきた子。いや、後半はだいぶ嫌だけど。でも一人の人間って、いろんな呼ばれ方の合計でしょ。それを一個に固定って乱暴すぎる」


「黒瀬さん」


 しずくが彼女を見る。


「今の、とても大事な気がします」


「そう?」


「はい。名前は、一人で持つものではないのかもしれません」


「だよね」


 黒瀬は少し得意げになりかけて、すぐ真顔に戻った。


「いや、得意になってる場合じゃない。白紙相手に褒められて浮かれるの危険」


「白紙相手に浮かれる人は少ないと思います」


「水無月さん、油断しない。ああいう何も書いてないやつが一番怖いの。書かれてる紙は読めばいいけど、白紙はこっちに書かせようとしてくるから」


 その言葉に、白紙の中央に文字が浮かんだ。


 ご名答。


 黒瀬が肩を跳ねさせた。


「返事した!」


「見られていますね」


「嫌! 白紙に見られてるの、かなり嫌!」


 白紙の文字が、さらに続く。


 次の講義

 担当:白紙先生

 内容:自分の名前を書けない人のための名前入門

 場所:未定教室

 持ち物:まだ決まっていない自分


 その下に、新しい一文が浮かぶ。


 受講希望者は、白紙に触れてください。


 僕は白紙を見た。


「触れるべきでしょうか」


「触るしかない流れだと思うけど、触りたくなさがすごい」


 黒瀬は顔をしかめた。


「紙に触るだけで人生の方向性が変わるの、嫌すぎる」


「今朝はプリンで世界が変わりましたから」


「そうだった。プリンよりは紙の方がまだ真面目かもしれない」


「真面目でしょうか」


「いや、どっちも嫌」


 しずくが、僕の袖を少し強く握った。


「三人で触れましょう」


「三人で?」


「はい。透真さん一人で触れると、透真さん一人だけが白紙に入るかもしれません」


「それは困る」


 黒瀬が即答した。


「行くなら三人。水無月さんだけ先生に呼び出しとか、絶対ろくなことにならない」


「先生全般への不信が強いですね」


「今日の先生は一人まともだったけど、白紙先生は名前からして怪しい」


 僕たちは白紙の前に立った。


 僕の右手。


 黒瀬の左手。


 しずくの右手。


 それぞれの手の甲に、共有の文字。


 三つの手が、白紙に触れる。


 その瞬間、世界が一枚めくれた。


 音はなかった。


 ただ、視界が白くなる。


 白すぎて何も見えないのではない。

 白い場所に、僕たちが置かれた。


 気づくと、そこは教室だった。


 大学の教室に似ている。

 机と椅子が並んでいる。

 黒板がある。

 教卓がある。


 ただし、すべてが白い。


 机も、椅子も、黒板も、床も、壁も、天井も。


 黒板まで白い。


 白板と言うべきかもしれない。


 窓の外も白かった。


 空がない。

 景色がない。

 校舎もない。

 ただ、まだ描かれていない背景のような白が続いている。


「うわ」


 黒瀬が、正直な声を出した。


「落ち着かない」


「そうですね」


「全部白いと、汚したくなる」


「人間らしい反応ですね」


「たぶんね。あと、ここでカレー食べたら絶対怒られる」


「なぜ今カレーを」


「白すぎて逆にカレーのこと考えた」


 しずくが、小さく笑った。


「黒瀬さんは、怖い時によく変なことを言いますね」


「言う。言わないと怖いから」


「今も怖いですか」


「かなり」


 黒瀬は教室を見回した。


「だって、何もないんだもん。何もない場所って、逃げ場がない。物がごちゃごちゃしてる部屋の方がまだ安心する。散らかった机とか、死んだ玄関マットとか、プリンの空き容器とか」


「死んだ玄関マットを安心材料にするのはどうかと」


「今朝の基準では、だいぶ見知った顔よ」


 その時、教室の前方の扉が開いた。


 白い扉。


 音もなく。


 一人の人物が入ってきた。


 白いスーツ。


 白い靴。


 白い手袋。


 髪も白い。


 そして、顔がなかった。


 顔のある場所に、白い紙が貼られている。


 目も鼻も口もない。


 ただの白紙。


 それなのに、こちらを見ているとわかる。


 その人物は、教卓の前に立ち、丁寧に一礼した。


「おはようございます」


 声は、穏やかな中年男性のようだった。


 良い先生の声。


 怒鳴らず、急かさず、こちらが答えるまで待ってくれそうな声。


 だからこそ、怖かった。


「本日の担当を務めます、白紙です。皆さんからは、白紙先生と呼ばれています」


 黒瀬が小声で言った。


「自分で先生って言った」


「黒瀬、聞こえます」


「聞こえていい。私は今、警戒してますって意思表示してる」


 白紙先生は、顔のないまま微笑んだ気がした。


 微笑む場所はないのに。


「警戒は大切です。名前の授業では、特に」


「授業なんですか、これ」


 黒瀬が聞く。


「はい。授業です。試験はありませんが、採点はあります」


「最悪」


「出席は取りますが、名前のない方は欄外で結構です」


 僕は、少しだけ背筋が冷たくなった。


 白紙先生は、教卓の上に出席簿を置いた。


 白い出席簿だった。


「黒瀬依子さん」


「……はい」


「雨宮しずくさん」


「はい」


「欄外の方」


 僕は少し遅れて返事をした。


「はい」


「よろしい」


 白紙先生は頷いた。


「本日は、名前について学びます。名前とは、自分で名乗るもの。他者に呼ばれるもの。書類に記録されるもの。過去と結びつくもの。未来を固定するもの。そして時に、可能性を殺すものです」


 黒瀬が、すぐに手を挙げた。


「質問」


「どうぞ、黒瀬さん」


「最後の一文が物騒すぎます」


「名前とは、物騒なものです」


「先生がさらっと言うと余計怖い」


「人は名前によって救われます。ですが、名前によって閉じ込められることもあります」


 白紙先生は、白い黒板に白いチョークで文字を書いた。


 なぜ見えるのかはわからない。


 白い板に白い文字なのに、確かに読めた。


 水無月透真

 雨宮透真

 朝

 欄外

 置いてきた子

 誰かに呼ばれたもの


 僕の呼び名が並ぶ。


 黒瀬が、露骨に嫌そうな顔をした。


「人の名前を勝手に板書しないでほしい」


「名前は、呼ばれた時点で板書されます」


「何その怖い板書システム」


「世界は、常に板書しています」


「世界、教育熱心すぎる」


 しずくは黒板を見つめていた。


 特に、雨宮透真の文字を。


 その名前を見るたびに、彼女の胸の奥で何かが痛むのだろう。

 僕にもわかった。


 押し入れの死体。


 雨宮透真。


 しずくと結婚していたかもしれない別の僕。


 その名前は、僕のものではないはずなのに、僕の胸にも奇妙な重さを残す。


 白紙先生は、僕の方を向いた。


「欄外の方」


「はい」


「あなたは現在、自分の名前を固定できていません」


「そうらしいですね」


「困っていますか」


「困っています」


「では、書きましょう」


 白紙先生は、教卓の上から一枚の原稿用紙を取り出した。


 白い原稿用紙。


 マス目だけが薄く浮かんでいる。


「こちらに、自分の名前を書いてください」


 教室の空気が、変わった。


 黒瀬が即座に立ち上がる。


「待って」


「はい」


「書いたら、選ばれなかった名前が死ぬんですよね」


「正確には、書かれなかった可能性が閉じます」


「言い方を変えても死ぬってことですよね」


「はい」


「正直なのは評価するけど、却下」


 白紙先生は、黒瀬を見る。


 顔は白紙だ。


 それでも、黒瀬をじっと見ているのがわかる。


「黒瀬さん。あなたは、彼の名前を決める権利を持っていません」


「知ってます」


「では」


「でも、止める権利はあると思ってる」


「なぜ」


「友達だから」


 黒瀬は、ためらわずに言った。


「友達が変な契約書にサインしようとしてたら止める。名前の固定がどうとか、可能性が閉じるとか、先生っぽく言われても、要するに取り返しのつかないことなんでしょ。だったら止める」


 白紙先生は、少しだけ沈黙した。


「人間らしいですね」


「褒めてるんですか」


「半分は」


「もう半分は?」


「非効率です」


「でしょうね。でも、人間関係は非効率なの」


 黒瀬は腕を組んだ。


「効率だけで友達やってない」


 しずくも立ち上がった。


「私も、止めます」


「雨宮さん」


「はい」


「あなたは、彼に雨宮透真と名乗ってほしいのではありませんか」


 しずくの身体が、びくりと震えた。


 黒瀬が彼女を見る。


 僕も。


 しずくは、白いスニーカーのつま先を見下ろした。


「……少し」


 正直な声だった。


「少し、思います」


 黒瀬は何も言わなかった。


 白紙先生も待っている。


 しずくは続けた。


「雨宮透真という名前を見ると、胸が痛みます。私はその名前を知っている気がします。覚えていないのに、懐かしいです。もしかしたら私は、その名前の透真さんを愛していたのかもしれません」


 僕は、息を止めた。


 しずくは僕を見る。


 今の彼女の目は、神様の目でも、死体の目でもなく、一人の女の子の目だった。


「でも、今ここにいる透真さんに、その名前を押しつけるのは違うと思います」


「しずくさん」


「私は、雨宮透真さんを忘れたくありません。でも、今の透真さんが水無月透真さんでいたいなら、それを壊したくありません」


 白紙先生が静かに言った。


「では、あなたは何を望みますか」


 しずくは、少しだけ考えた。


「今は、選ばないでほしいです」


「保留ですか」


「いいえ」


 しずくは首を横に振った。


「一緒に迷ってほしいです」


 黒瀬が、小さく息を吐いた。


「しずくさん、それいい」


「そうですか」


「保留より面倒で、すごくいい」


 白紙先生は、白い顔を少し傾けた。


「迷いは、名前を不安定にします」


「はい」


「不安定な名前は、存在を危うくします」


「はい」


「それでも?」


 しずくは、僕の手の甲を見た。


 共有。


 薄くなった文字。


「一人で安全になるより、三人で少し危ない方がいいです」


 黒瀬が、ものすごく渋い顔をした。


「しずくさん、今のすごく良いけど、普通に危ないこと言ってる」


「はい。少し自覚があります」


「自覚あるならよし……ではないけど、よし」


 白紙先生は、教卓の上に原稿用紙を置いた。


「では、欄外の方。あなた自身はどう考えますか」


 僕は、原稿用紙を見た。


 白いマス目。


 名前を書くための場所。


 そこに水無月透真と書けば、きっと僕は少し安定する。


 母さんに産まれていないと言われても。

 学生証の名前が空白でも。

 履修名簿に載っていなくても。


 水無月透真と書けば、僕は水無月透真として固定される。


 でも、雨宮透真は死ぬのかもしれない。


 しずくと結婚していたかもしれない僕。

 押し入れで、しずくを愛していると言った僕。

 死体なのに、僕より礼儀正しかった僕。


 朝も死ぬのかもしれない。


 神様が死ぬ朝としての僕。

 雨の日に置いてきた子としての僕。

 欄外に置かれた僕。


 どれも、僕ではないと言いたい。


 でも、完全に僕ではないとも言えない。


 僕は、複数の間違った名前の中で、どうにか立っている。


「わかりません」


 僕は言った。


 黒瀬が、少しだけ頷いた。


 しずくも。


 白紙先生は黙っている。


「僕は、水無月透真でいたいです」


 黒瀬の目が揺れた。


「でも、雨宮透真をなかったことにはしたくありません」


 しずくの手が、胸元でぎゅっと握られる。


「朝であることも、欄外であることも、置いてきた子であることも、嫌です。でも、全部捨てたら、たぶん僕は僕ではなくなる」


 言葉にしてみると、ひどく矛盾していた。


 でも、今の僕にはそれ以上正確に言えない。


「だから、今ここで一つに決めるのは怖いです」


「怖い」


 白紙先生が、僕の言葉を繰り返した。


「名前を決めるのが怖いのですか」


「はい」


「なぜ」


「決めた名前以外の僕を、誰かが覚えているからです」


 しずくが顔を上げる。


 黒瀬も。


「僕一人なら、たぶん簡単でした。水無月透真と書けばいい。これが僕です、と言えばいい。でも、しずくさんは雨宮透真を痛みとして持っている。黒瀬は水無月さんを世界に書き込もうとしてくれる。猫は僕の名前を預かっている。母さんは、雨の日に置いてきた子を後悔している」


 僕は、原稿用紙を見つめた。


「僕の名前は、もう僕だけのものではないんです」


 白紙先生は、しばらく黙っていた。


 教室が静かになる。


 白い空間。


 白い机。

 白い黒板。

 白い出席簿。

 白い先生。


 その中で、僕たちの手の甲の「共有」だけが、黒い。


「良い回答です」


 白紙先生が言った。


「ですが、採点としては不可です」


 黒瀬が即座に噛みついた。


「何でよ!」


「問いは、自分の名前を書きなさい、です。考えを述べなさい、ではありません」


「国語の試験みたいなこと言わないで!」


「名前の授業ですから」


「名前の授業、厳しすぎる」


 白紙先生は、原稿用紙の横に万年筆を置いた。


「書いてください」


 空気が、少し重くなる。


 書け。


 書かないと、進まない。


 そんな圧がある。


 僕は万年筆を見た。


 黒い軸。

 白いペン先。


 ペン先が、わずかに震えている。


 僕の名前を書きたがっているように見えた。


「書かなかった場合は?」


 黒瀬が聞く。


「彼は未定のままです」


「それで?」


「未定のものは、いつか白紙へ戻ります」


「つまり消えるってこと?」


「はい」


 黒瀬は歯を食いしばった。


「じゃあ、書いても書かなくても地獄じゃん」


「名前とは、そういうものです」


「それ、絶対違うと思う」


 黒瀬は低い声で言った。


「先生は名前をきれいに扱いすぎてる。名前って、もっと雑でいいはず。あだ名とか、呼び間違いとか、昔の名前とか、呼ばれたくない名前とか、好きな人だけが呼ぶ名前とか、いろいろあっていいはずでしょ。何で一個にしようとするの」


 白紙先生は、黒瀬を見た。


「一つでなければ、書類に収まりません」


「書類に収まらない人間だっています!」


 黒瀬の声が、白い教室に響いた。


「欄外だっていいって、先生さっき言ったじゃん。欄外対応可って書いてあったじゃん。なら、名前も欄外でいいでしょ!」


 白紙先生は、初めて少しだけ動きを止めた。


 顔は白紙のまま。


 でも、明らかに一瞬、言葉に詰まった。


「……欄外の名前」


「そう」


 黒瀬は僕の手の甲を掴んだ。


 今度は、すり抜けなかった。


「水無月さんは一つに収まらない。しずくさんの透真さんでもある。猫が預かってる名前もある。母親が置いてきた子でもある。だったら欄外に書けばいい」


「黒瀬さん」


 しずくが言う。


「欄外は、正式ではありません」


「でも消されなかった」


 黒瀬は言った。


「正式じゃなくても、残った。教授の出席簿にも残った。欄外って、たぶん雑に見えて優しい場所なのよ」


 その言葉に、僕は息を呑んだ。


 欄外は、消されなかった余白。


 しずくがそう言っていた。


 黒瀬は、それを今、名前に使おうとしている。


 白紙先生は、教卓の上の原稿用紙を指差した。


「この原稿用紙に欄外はありません」


「じゃあ作る」


 黒瀬は万年筆を掴んだ。


 僕より先に。


 白紙先生が止めようとするより早く、彼女は原稿用紙の枠の外に線を引いた。


 がり、と音がした。


 白い原稿用紙の外側。


 マス目のない余白。


 そこに、黒瀬は書いた。


 水無月さん


 文字は、黒瀬の字だった。


 少し荒くて、少し怒っていて、でもはっきりした字。


 原稿用紙が震えた。


 白紙先生が言った。


「それは正式な回答ではありません」


「知ってる」


 黒瀬は万年筆をしずくへ渡した。


「しずくさん」


 しずくは、少し戸惑いながら万年筆を受け取った。


 そして、黒瀬の文字の下に書いた。


 透真さん


 しずくの字は、雨のように少し滲んだ。


 けれど、消えなかった。


 白紙先生の白い顔が、こちらを向く。


「雨宮さん。あなたも、正式な回答を拒否するのですか」


「はい」


「なぜ」


「私は、まだ名前を一つに選べません」


 しずくは、万年筆を握ったまま言った。


「でも、呼びたい名前はあります」


 黒瀬が、うん、と小さく頷いた。


 万年筆が、僕の前に戻ってくる。


 僕はそれを受け取った。


 白紙先生が静かに言った。


「あなた自身の名前です。最後は、あなたが書きなさい」


「はい」


 僕は、原稿用紙を見た。


 中央のマス目は空白のまま。


 欄外には、二つの名前。


 水無月さん。


 透真さん。


 その横に、僕はペンを置いた。


 何を書くべきか。


 水無月透真。


 そう書けばいいのかもしれない。


 でも、手が動かない。


 僕は迷った。


 迷って、迷って、迷ったまま書いた。


 欄外


 黒瀬が、少しだけ笑った。


「名前に欄外って書いた」


「今の僕に一番近いので」


「自虐?」


「現状認識です」


「じゃあ、まあ、よし」


 しずくが、原稿用紙を見つめる。


 水無月さん。

 透真さん。

 欄外。


 正式なマス目には、何も書かれていない。


 欄外だけが、黒くなっている。


 白紙先生は、その紙を手に取った。


 長い沈黙。


 教室全体が、採点結果を待っているようだった。


「不可です」


 先生は言った。


 黒瀬が顔をしかめる。


「また?」


「しかし」


 白紙先生は続けた。


「未提出ではありません」


 僕は、顔を上げた。


「未提出ではない」


「はい。欄外回答として受理します」


 黒瀬が、拳を握った。


「勝った?」


「勝ったというより、怒られながら通った感じですね」


「大学っぽい!」


 しずくが少しだけ笑った。


「欄外回答」


「はい」


 白紙先生は、白い出席簿を開いた。


 そこに、欄外として僕たちの回答を挟む。


「これにより、欄外の方はしばらく白紙へ戻りません」


 黒瀬が息を吐いた。


「しばらく」


「はい。永遠ではありません」


「そこは嘘でも安心させてほしかった」


「嘘は名前を濁します」


「先生、本当に面倒」


 白紙先生は、万年筆を片付けた。


「授業は以上です」


「え、もう?」


「本日の課題は提出されました」


「採点不可なのに?」


「欄外受理です」


 黒瀬は、微妙な顔をした。


「不合格だけど保留よりまし、みたいな?」


「近いです」


「近いんだ」


 しずくが、そっと僕に寄り添った。


 彼女の手が、僕の袖に触れる。


 温かい。


 そして、彼女は小さく僕を呼んだ。


「透真さん」


「はい」


「忘れませんでした」


「はい」


「少し、危なかったです」


「はい」


「でも、呼べました」


「ありがとうございます」


 しずくは、少しだけ照れた。


 その頬に、また赤みが差す。


 黒瀬がそれを見て、わざとらしく咳払いした。


「はいはい、ラブコメは白紙教室の外でお願いします」


「黒瀬さん」


「だって今、ちょっと空気が甘かった」


「甘い」


 しずくが困惑する。


「クリームパンの味ですか」


「しずくさん、その返しは可愛いけど違う」


 白紙先生が、不意に言った。


「雨宮さん」


「はい」


「あなたの名前も、いずれ問われます」


 しずくの表情が止まった。


「私の」


「はい。雨宮しずく。雨の日だけ存在する神様。第1話のヒロイン。読まれなかった神様。人間に近づく者。どれを名乗るか、いずれ選ぶことになります」


 黒瀬が、すぐに言う。


「また選ばせる」


「名前の授業ですから」


「先生、絶対友達少ないでしょ」


 白紙先生は黙った。


 黒瀬が少し焦る。


「え、そこ黙るの?」


「友達は、欄外にいます」


「……ちょっと良いこと言わないで。怒りづらくなる」


 白紙先生は、僕を見た。


「欄外の方」


「はい」


「次にあなた方がすべきことは、名前を選ぶ会議です」


「会議」


「はい。一人で決めるべきではないと、あなた方は主張しました。ならば、話し合いなさい」


 黒瀬が腕を組む。


「会議なら得意です。たぶん」


「黒瀬、得意なんですか」


「得意じゃない。でも仕切る人がいないとぐだぐだになるから、私がやる」


「助かります」


「議題は重すぎるけどね。名前会議って何よ。出生届でも出すの?」


 白紙先生が、扉の方を示した。


 白い扉が開く。


 向こう側には、大学の購買前の景色が見えた。


 戻れるらしい。


 僕たちは扉へ向かった。


 その直前、白紙先生が言った。


「最後に一つ」


 僕たちは振り返る。


「欄外回答は、読者に見つかりやすい」


 黒瀬の顔がこわばった。


「読者?」


「正式な行より、余白の書き込みに目を留める人は多いものです」


「それ、良いこと? 悪いこと?」


 白紙先生の白い顔に、文字が浮かんだ。


 どちらでも。


 その瞬間、教室がめくれた。


 僕たちは購買前に戻っていた。


 白紙の掲示は消えている。


 代わりに、掲示板の隅に小さな紙が貼られていた。


 欄外回答:受理


 その下に、三つの文字。


 水無月さん

 透真さん

 欄外


 黒瀬が、それを見て小さく笑った。


「正式じゃないけど、残った」


「はい」


「なら、今は勝ち」


 しずくも頷く。


「勝ちです」


 僕は、手の甲を見た。


 共有の文字は、まだ残っている。


 ただ、その横に新しい文字が増えていた。


 欄外受理。


「……また手に増えました」


 僕が言うと、黒瀬が自分の手を見る。


 彼女の手にも、同じ文字。


 しずくの手にも。


 黒瀬は呆れたように笑った。


「もう手の甲が掲示板になってきた」


「油性ペンを買い足しますか」


「そういう問題じゃない」


 その時、スマホが震えた。


【第16話 白紙先生】


 その下に、次の通知。


【第17話 僕の名前を選ぶ会議】


 黒瀬が深く息を吐いた。


「はい、来た。名前会議」


「どこでやりますか」


 僕が聞くと、黒瀬は周囲を見回した。


「食堂」


「食堂?」


「重い話をする時は、何か食べながらの方がいい。空腹で人生決めるとろくなことにならない」


 しずくが真剣に頷いた。


「クリームパンで学びました」


「しずくさん、そこに学びを得たのね」


 僕は少しだけ笑った。


 白紙先生の授業は終わった。


 名前は決まっていない。


 けれど、欄外に残った。


 それは、勝利と呼ぶには頼りない。


 でも、敗北ではない。


 少なくとも今の僕たちには、それで十分だった。


 食堂へ向かおうとした時。


 背後から、誰かの声がした。


 知らない声。


 でも、聞き覚えのある声。


『俺は、そいつを別の名前で呼んでた』


 黒瀬が、凍りついたように立ち止まった。


 僕もしずくも振り返る。


 購買の前。


 人混みの向こう。


 メロンパンの袋を持った人影が、一瞬だけ見えた。


 顔は、まだ黒く塗り潰されている。


 黒瀬の唇が震える。


「……何て呼んでたのよ」


 人影は答えなかった。


 ただ、袋を少し持ち上げる。


 そして、人混みに紛れて消えた。


 黒瀬は、その場で拳を握った。


「名前会議」


 彼女は言った。


「議題、一つ追加」


「何ですか」


 黒瀬は、泣きそうな顔で笑った。


「消えたあいつが、水無月さんを何て呼んでたか」


 僕は頷いた。


 名前はまだ決まらない。


 でも、呼び方が一つ増えた。


 それは危険かもしれない。


 けれど、今の僕には少しだけ嬉しかった。


 誰かが僕を、別の名前で呼んでいた。


 それだけで、僕はもう少しだけ消えずに済む気がした。


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