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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第17話 僕の名前を選ぶ会議

 大学の食堂は、普通にうるさかった。


 それが少しだけ救いだった。


 トレーを持つ音。

 券売機の電子音。

 カレーの匂い。

 唐揚げ定食を前にして「今日こそ野菜食うつもりだったのに」と嘆く男子学生。

 隅の席でレポートの締切を確認して絶望している女子学生。

 食器返却口の前で、味噌汁の椀だけ置き忘れて店員に呼び止められる人。


 どこにでもある大学の昼前。


 いや、正確にはまだ昼には早い。


 けれど、僕たちはすでに一日分どころか、一週間分くらい疲れていた。


 神様が死んだ。

 僕の名前が消えた。

 母さんは僕を産んでいなかった。

 講義室では欄外に記録された。

 黒瀬は記録で世界を壊しかけた。

 しずくは人間に近づき、僕の名前を忘れかけた。

 白紙先生には名前を書かされかけた。


 そのあとに食堂で会議をする。


 こうして並べると、かなり頭がおかしい。


 でも、食堂のカレーの匂いは、頭のおかしさを少しだけ現実に戻してくれた。


「会議には糖分と塩分が必要」


 黒瀬依子はそう言って、僕の前にカレーを置いた。


「なぜカレー」


「白紙教室でカレーのこと考えたから」


「理由が雑です」


「雑でいいの。きっちりしすぎると白紙先生みたいになる」


「それは避けたいですね」


「でしょ」


 黒瀬は自分用に唐揚げ定食を置き、しずくの前にはクリームパンとミルクティーを置いた。


 しずくは、トレーの上をじっと見つめている。


「これが、食堂」


「そう」


 黒瀬が割り箸を割りながら答えた。


「大学生の胃袋と財布と諦めが集まる場所」


「諦め」


「うん。今日は健康的にしようと思っても、唐揚げを見たら唐揚げにする。午後は眠くなるとわかっていてもカレーを食べる。締切が近いのに友達と喋る。そういう小さい諦めがいっぱいある」


「人間は、食堂で諦めるのですね」


「まあ、だいたいね」


 しずくは真剣に頷いた。


「勉強になります」


「しずくさん、絶対そのまま覚えないでね。私が雑なこと言ってるだけだから」


「でも、少し好きです」


「何が?」


「小さい諦め」


 しずくはミルクティーの紙パックを両手で持った。


 ストローの刺し方がわからず、少し困っている。


 黒瀬が横から手伝った。


「ここに刺す」


「ここ」


「そう。強めに」


「強めに」


 しずくは、おそるおそるストローを刺した。


 ぷす、と音がする。


 彼女は目を見開いた。


「刺さりました」


「よし」


「人間は飲み物にも傷をつけるのですね」


「その表現やめて。急に罪悪感が出る」


 黒瀬は唐揚げにレモンをかけながら言った。


 それを見て、しずくがさらに目を丸くする。


「黒瀬さん、それは」


「レモン」


「唐揚げに雨を降らせているのですか」


「酸っぱい雨ね」


「酸っぱい雨」


「しずくさん、興味津々だけど、これも人によって戦争になるから覚えておいて」


「戦争」


「唐揚げに勝手にレモンかける派と、かけるな派」


「人間は、そんなことで争うのですか」


「争う。かなり本気で」


 しずくは、少し考えてから言った。


「では、私は自分の唐揚げには自分で雨を降らせます」


「めちゃくちゃ平和的な結論」


 黒瀬が感心したように頷いた。


 僕はカレーを一口食べた。


 普通の味だった。


 やや甘くて、少しぬるくて、じゃがいもが大きい。

 特別おいしいわけではない。

 でも、今の僕にはその普通さがありがたかった。


 食べ物は、人間を現実に戻す。


 死体も神様も白紙先生も、カレーの湯気の前では少しだけ遠くなる。


「では」


 黒瀬が、唐揚げを一つ口に入れ、飲み込んでから言った。


「第一回、水無月さんの名前をどうするか会議を始めます」


「第一回なんですか」


「一回で終わる気がしないから」


「最初から長期戦ですね」


「名前だもん。そんな一回で決まらないでしょ」


 彼女はノートを開いた。


 表紙には、教授からもらった欄外用紙が挟まっている。

 その中には、黒瀬の字で書かれた「私は、今、怖い」がある。

 そして僕の字の「ただし、一人で全部背負うな」、しずくの字の「私も、ここにいました」がある。


 黒瀬は新しいページを開いた。


 上に大きく書く。


 名前会議。


「議長、黒瀬依子」


「自分で議長を」


「仕切る人がいないとぐだぐだになるから」


「書記は?」


 僕が聞くと、黒瀬は少し迷った。


「書記、共有」


「共有?」


「私一人で書くと危ないから。私が書くけど、水無月さんとしずくさんが見て、変だったら止める」


「わかりました」


「しずくさん、変だったら言ってね」


「はい。でも、どこからが変なのか」


「同じ文を十回以上書き始めたら変」


「わかりやすいです」


 黒瀬は、ノートに候補を書き出していった。


 一、水無月透真

 二、雨宮透真

 三、朝

 四、欄外

 五、置いてきた子

 六、透真さん

 七、水無月さん

 八、名前なし

 九、消えた三人目が呼んでいた名前


 書き終えたあと、彼女は自分で顔をしかめた。


「候補が重い」


「名前の候補一覧とは思えませんね」


「普通は、赤ちゃんの名前とかペンネームとかで悩むものなのに。朝とか欄外とか置いてきた子って何よ。役所に怒られるわ」


 しずくが、真剣に手を上げた。


「質問があります」


「どうぞ、しずくさん」


「役所は、朝という名前を怒るのですか」


「たぶん怒らないけど、事情は聞かれると思う」


「欄外は?」


「もっと聞かれる」


「置いてきた子は?」


「絶対に駄目」


「なるほど」


 しずくは深く頷いた。


「人間社会は、名前に厳しいのですね」


「厳しいというか、さすがに置いてきた子は本人がつらいでしょ」


「はい。つらいです」


 しずくの声が少し沈んだ。


 黒瀬がすぐに慌てた。


「あ、ごめん。責めたわけじゃなくて」


「わかっています」


 しずくはミルクティーを少し飲んだ。


「でも、置いてきた子という名前は、透真さんを責めるだけではなく、透真さんが置いてきた痛みも含んでいる気がします」


 僕はカレーのスプーンを止めた。


「置いてきた痛み」


「はい。透真さんが置いてきたのは、私だけではありません。白い猫も、あの雨の日の自分も、言えなかったごめんも、帰りたかった場所も」


 しずくは僕を見る。


「だから、置いてきた子は、名前というより傷です」


 黒瀬がノートに書き足した。


 置いてきた子=名前ではなく傷。


 そして、すぐにこちらを見る。


「書いてよかった?」


「はい」


「しずくさんも?」


「はい」


「よし」


 黒瀬は少し安心したように息を吐いた。


「こうやって確認しながら書けば、暴走しにくい気がする」


「良いと思います」


 僕が言うと、黒瀬は少しだけ笑った。


「水無月さんに褒められると、なんか変」


「なぜ」


「消えかけてる人に、現実の作業を褒められてるから」


「それは確かに変ですね」


 しずくがクリームパンを小さくちぎって食べながら言った。


「では、一つずつ考えましょう」


「そうね」


 黒瀬はペンで一番を指した。


「まず、水無月透真」


 それを聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ締まった。


 僕の名前。


 だったはずのもの。


 学生証から消えた名前。

 母さんに通じなかった名前。

 でも、黒瀬が何度も呼んでくれた名前。


「これは、普通に水無月さんの名前だよね」


 黒瀬が言う。


「普通、というのが今はだいぶ難しいですが」


「でも一番、社会に戻れる名前だと思う。大学の名簿とか、学生証とか、母親とか。そういうところに戻すなら、水無月透真が一番強い」


「強いですか」


「強い。少なくとも、私にとっては」


 黒瀬は、少しだけ目を逸らした。


「私は、水無月さんを水無月さんって呼んできたから。その呼び方が消えるのは嫌」


 しずくは静かに聞いていた。


 黒瀬は、しずくに気を遣うように続ける。


「でも、雨宮透真を否定したいわけじゃない」


「わかっています」


「本当?」


「はい」


「ならいいけど」


 黒瀬はノートに書いた。


 水無月透真=社会に戻る名前。黒瀬が守りたい名前。


 その字は、少しだけ慎重だった。


 次に、しずくが二番を見た。


「雨宮透真」


 声が小さくなる。


 その名前は、食堂の喧騒の中でも妙に静かに響いた。


「これは、私が痛む名前です」


「痛む」


 黒瀬が確認する。


「はい。覚えていないのに、知っている気がする名前です。押し入れの中の透真さん。私と結婚していたかもしれない透真さん。私を、人間ではなく神様でもなく、目の前の女の子として扱えと言った透真さん」


 僕は、あの死体の言葉を思い出した。


 しずくを、神様としてだけ扱うな。

 死体としても、ヒロインとしても、過去の妻としても、世界のバグとしても扱うな。

 全部間違っている。

 だが、全部少しずつ正しい。

 目の前にいる女の子として扱え。


 あの僕は、今の僕よりずっと大人だった。


 いや、死体だったから大人に見えただけかもしれない。


「雨宮透真は」


 しずくは、少しだけ言葉を探した。


「私が、失くしたくない名前です。でも、透真さんに背負わせたい名前ではありません」


 黒瀬がノートに書く。


 雨宮透真=しずくが痛む名前。失くしたくないが押しつけたくない。


「しずくさん、今のかなり大事」


「そうですか」


「うん。失くしたくないけど押しつけたくないって、すごく人間関係っぽい」


「人間関係は、難しいですね」


「難しいよ。好き勝手に押しつけるのも違うし、我慢して全部飲み込むのも違うし、ちょうどいいところがいつも面倒」


「でも、面倒だから友達」


「そう。よく覚えてた」


 しずくは少し嬉しそうにした。


 次に、黒瀬は三番を指した。


「朝」


 僕たちは全員、少し黙った。


 朝。


 スマホの連絡先で、僕がそう登録されていた名前。


 神様が死ぬ時間。

 世界が始まる装置。

 僕が最初からそうだったのかもしれないもの。


「これは、嫌」


 黒瀬が言った。


 かなりはっきり。


「僕もあまり好きではありません」


「でしょ。水無月さんを人間じゃなくて現象にする名前って感じがする」


「でも」


 しずくが言う。


「透真さんが朝であることを、完全に否定すると危ない気がします」


「どうして」


「神様たちが死ぬ場所を選んでいたのは、透真さんです。朝という名前を捨てると、その責任も捨ててしまうかもしれません」


 黒瀬は苦い顔をした。


「責任」


「はい」


「責任って言われると、捨てろって言いにくい」


「でも、透真さんを朝だけにするのは嫌です」


「それは私も」


 黒瀬はノートに書いた。


 朝=現象としての名前。責任はあるが、人間を薄くする。単独採用不可。


「単独採用不可」


 僕が読むと、黒瀬は頷いた。


「名前選考っぽいでしょ」


「就活みたいです」


「水無月さんの名前、書類選考されてる」


「嫌ですね」


「かなり」


 次。


 欄外。


 これは少しだけ空気が柔らかくなった。


 黒瀬が、ノートの欄外にわざと書く。


 欄外。


「欄外は、好き」


「名前としてですか」


「名前としては変だけど、場所として好き」


 黒瀬は言った。


「正式じゃない。名簿には載らない。答案としては不可。でも、未提出ではない。消されない余白。今の水無月さんには、かなり必要な場所だと思う」


 しずくも頷いた。


「欄外は、優しいです」


「うん」


「でも、欄外だけでは寂しいです」


「それもわかる」


 黒瀬は、少しだけ苦笑した。


「ずっと欄外にいろって言うのも、また別の押しつけだよね。正式じゃない場所で我慢しろってことになる」


「はい」


 僕は、二人の言葉を聞きながら思った。


 欄外は救いだ。


 でも、居場所ではあっても、名前そのものではないのかもしれない。


 ノートに書かれる。


 欄外=消されない余白。避難場所。だが最終的な名前ではない。


 次に、名前なし。


 黒瀬は、その項目を見た瞬間に顔をしかめた。


「却下」


「早いですね」


「名前なしは駄目。名前がないと、呼べない」


「呼ばなくても存在はできるのでは」


「できるかもしれない。でも私は呼びたい」


 黒瀬は、まっすぐ言った。


「私が呼びたいから、名前なしは却下」


 しずくも小さく頷いた。


「私も呼びたいです」


「しずくさん」


「はい」


「今の、ちょっと強くて良かった」


「強いですか」


「うん。可愛いだけじゃなくなってきた」


 しずくは照れたようにミルクティーを飲んだ。


 その頬が赤くなる。


 黒瀬はにやっとした。


「照れた」


「黒瀬さん」


「ごめんごめん」


 黒瀬はノートに書いた。


 名前なし=呼べないので却下。


「僕の意見は」


「水無月さんは、名前なしがいいの?」


「嫌です」


「じゃあ満場一致」


 次に、透真さん。


 しずくの呼び方。


 しずくは、少し緊張した顔になった。


「これは、私の呼び方です」


「うん」


 黒瀬が優しく促す。


「私は、透真さんと呼ぶと、透真さんを覚えられます。時々遠くなりますが、何度も呼ぶと戻ってきます」


「はい」


「でも、これは私の中の名前です。大学やお母様や黒瀬さんの前で、透真さんだけにしてしまうと、たぶん透真さんは私の物語に入ってしまいます」


 その言い方に、黒瀬が少し目を細めた。


「しずくさんの物語」


「はい。私は、透真さんを私の物語に閉じ込めたくありません」


 僕は、胸の奥が少し温かくなった。


「ありがとうございます」


「いえ」


 しずくは小さく笑った。


「でも、呼ぶのはやめません」


「はい」


「忘れそうになっても、呼びます」


「はい」


 黒瀬がノートに書く。


 透真さん=しずくの中の名前。覚えるための名前。閉じ込めないよう注意。


 次に、水無月さん。


 黒瀬の呼び方。


 黒瀬はペンを止めた。


「私の番か」


「はい」


「何か照れるな」


「しずくさんの時は平気そうでしたが」


「人のことは書けるの。自分のことになると面倒」


「人間ですね」


「うるさい欄外」


「欄外が悪口になっています」


 黒瀬は少しだけ笑った。


 それから真面目な顔になる。


「水無月さん、は、私がこの人を社会に置くための呼び方だと思う」


「社会に」


「うん。水無月透真だと、完全な名前。重いし、呼ぶたびに消えそうで怖い。でも水無月さんなら、大学の同級生として呼べる。講義室で呼べる。食堂で呼べる。教授に説明できる。私にとって、目の前にいる友達を、ちゃんとこっち側に置く呼び方」


 彼女は少しだけ目を伏せた。


「あと、少し距離がある」


「距離」


「うん。たぶん、その距離が大事。近づきすぎると、私、何でも記録しようとするかもしれない。離れすぎると忘れる。だから、水無月さんくらいが今はちょうどいい」


 しずくが静かに頷いた。


「距離のある名前」


「そう」


 黒瀬は、自分でノートに書いた。


 水無月さん=黒瀬が社会に置く呼び方。近すぎず遠すぎない名前。


 書いてから、黒瀬は少しだけ恥ずかしそうにペンを置いた。


「何か、自分で書くとすごく恥ずかしい」


「でも大事です」


 僕が言うと、黒瀬は目を逸らした。


「そういう時、まっすぐ言わないで」


「すみません」


「謝らなくていいけど」


 食堂のざわめきは続いている。


 僕たちのテーブルだけ、少し違う時間にいるようだった。


 カレーは半分ほど残っている。

 唐揚げは一つだけ残っている。

 しずくのクリームパンは、思ったよりきれいに食べられていた。


 彼女は、紙ナプキンで指先についたクリームを拭いている。


 その動作がぎこちなくて、でも嬉しそうだった。


「しずくさん、食べられましたね」


 僕が言うと、彼女は頷いた。


「はい。人間に近づいたおかげでしょうか」


「どうでしたか」


「甘かったです」


「それは聞きました」


「あと、手が汚れました」


「人間ですね」


「人間は、食べると汚れるのですね」


「食べ物によりますが」


「でも、黒瀬さんが紙をくれました」


「友達だからね」


 黒瀬がさらっと言った。


 しずくは、その言葉にまた少し照れた。


 食堂のテーブルの上に、ノートがある。


 そこには、僕の名前候補が並んでいる。


 どれも正しくて、どれも少し違う。


 僕はスプーンを置いた。


「僕の意見を言ってもいいですか」


 黒瀬がペンを構える。


「どうぞ、欄外の方」


「その呼び方、少し定着しそうで怖いです」


「便利なんだもん」


 しずくが、僕を見る。


「聞きたいです」


 僕はノートを見つめた。


「水無月透真でいたいです」


 黒瀬の手が少し止まる。


「はい」


「でも、それを正式な唯一の名前にするのは怖いです」


「うん」


「雨宮透真を消したくない。朝である責任も捨てたくない。欄外に救われたことも忘れたくない。しずくさんの透真さんも、黒瀬の水無月さんも、大事です」


 黒瀬が、僕の言葉を書いていく。


 少しゆっくり。


 一つずつ確認するように。


「だから、僕は」


 言いかけて、詰まった。


 何を言いたいのか、自分でもわからなかった。


 一つに決められない。


 でも決めないままでは消える。


 保留では足りない。


 共有だけでも足りない。


 欄外だけでも足りない。


「僕は、呼ばれた時に、その名前になりたいです」


 言ってから、自分でも驚いた。


 黒瀬が顔を上げる。


 しずくも。


「呼ばれた時に?」


「はい。黒瀬が水無月さんと呼ぶ時、僕は黒瀬の同級生で友達で、大学にいる水無月さんになる。しずくさんが透真さんと呼ぶ時、僕は雨の日を忘れない透真さんになる。正式な書類では水無月透真でいたい。神様の前では朝である責任を忘れない。欄外に置かれた時は、まだ決まらない自分を許す」


 自分で言いながら、かなり無茶なことを言っていると思った。


 でも、今の僕にはそれが一番近かった。


「一つの名前に全部を押し込めるのではなく、呼ばれる関係ごとに名前を持つ」


 しずくが、小さく息を吸った。


「それは」


「はい」


「とても不安定です」


「そうですね」


「でも」


 彼女は、少しだけ笑った。


「優しいです」


 黒瀬がノートに書いた。


 呼ばれた時に、その名前になる。


 書いてから、彼女は腕を組んだ。


「うん」


「どうですか」


「面倒」


「はい」


「すごく面倒。書類にできないし、白紙先生に怒られそうだし、大学事務には絶対通らないし、スマホの登録名も長くなる」


「そうですね」


「でも」


 黒瀬はペン先でノートを軽く叩いた。


「私たちらしい」


 その言葉で、胸の奥が少しだけ軽くなった。


「私たち」


「そう。神様の死体を見て、恋文読んで、欄外受理されて、共有って手に書いてる三人組らしい。普通じゃないけど、今さら普通に戻れないし」


 しずくが、少しだけ嬉しそうに言う。


「三人組」


「そこ拾うんだ」


「嬉しいので」


「また素直」


 黒瀬は照れ隠しのように唐揚げを食べた。


 最後の一個だった。


「あ」


 しずくが小さく声を上げる。


「食べたかった?」


 黒瀬が聞く。


「少し」


「早く言ってよ!」


「すみません。見ていたら、なくなりました」


「神様から人間になる時、食い意地も学んでいこうね」


「はい」


「次は分ける」


「ありがとうございます」


 名前会議の途中で唐揚げの取り分け問題が発生する。


 そういうくだらなさが、妙にありがたかった。


 黒瀬はノートの下に、暫定結論と書いた。


 そして、その横に大きく丸をつける。


 暫定結論

 水無月透真は、単独の名前として固定しない。

 呼ぶ人との関係ごとに、名前を共有する。

 黒瀬依子が呼ぶ時は「水無月さん」。

 雨宮しずくが呼ぶ時は「透真さん」。

 書類上は「水無月透真」を目指す。

 神様の前では「朝」である責任を忘れない。

 決めきれない部分は「欄外」に置く。

 消えた三人目の呼び方は、未確認。


 黒瀬は書き終えて、僕たちに見せた。


「どう?」


「良いと思います」


 僕が言うと、しずくも頷いた。


「私も」


 その瞬間、ノートの文字が淡く光った。


 黒瀬が身構える。


「何?」


 スマホが震える。


【名前会議:暫定結論を受理しました】


 黒瀬が、ものすごく嫌そうな顔をした。


「受理された」


「良いことでは」


「良いことだけど、世界に会議を見られてる感じが嫌」


「白紙先生の影響でしょうか」


「絶対そう」


 次の通知が浮かぶ。


【ただし、未確認の呼び方が一つ残っています】


 食堂の空気が、少し変わった。


 さっきまでのざわめきが遠くなる。


 メロンパンの袋が、黒瀬の鞄の中でかさりと鳴った。


 黒瀬が顔を強ばらせる。


「……来る?」


 しずくが、あたりを見回す。


「近いです」


「何が」


「消えた三人目の呼び方」


 僕は、食堂の入口を見た。


 人が行き交っている。


 その中に、一瞬だけ見えた。


 メロンパンの袋を持った人影。


 顔は黒く塗り潰されている。


 黒瀬が椅子を蹴るように立ち上がった。


「待って!」


 周囲の学生が驚いて見る。


 人影は振り返らない。


 黒瀬が追いかけようとする。


 僕も立ち上がった。


 しずくも。


 食堂の人混みの中を、人影はゆっくり歩いている。


 走っているわけではない。

 なのに、距離が縮まらない。


 黒瀬が叫んだ。


「ねえ! あなた、水無月さんを何て呼んでたの!」


 人影が、少しだけ足を止めた。


 食堂のざわめきが消える。


 いや、消えたのではない。


 僕たちの周りだけ、音が遠のいた。


 人影は、顔のないままこちらを向いた。


 そして、初めて声を出した。


『ミナト』


 胸の奥が、強く揺れた。


「……ミナト?」


 僕が呟く。


 黒瀬も、同じ言葉を繰り返した。


「ミナト」


 その瞬間、彼女の目に涙が浮かんだ。


「知ってる」


「黒瀬?」


「私、その呼び方、知ってる気がする」


 しずくが、小さく言った。


「水無月の“ミナ”と、透真の“ト”」


「港」


 黒瀬が震える声で言った。


「帰る場所みたいな名前」


 人影は、何も言わない。


 ただ、メロンパンの袋を持つ手に少し力を込めた。


 僕の中に、知らない記憶の欠片が落ちてくる。


 誰かが、笑いながら僕を呼ぶ。


 ミナト。


 なあ、ミナト。


 お前、また難しい顔してる。


 黒瀬が怒るぞ。


 そんな声。


 僕は、その声を知っている。


 でも、名前が出ない。


「あなたは」


 黒瀬が一歩前に出る。


「あなたの名前は?」


 人影は、首を横に振った。


『まだ思い出すな』


「何で!」


 黒瀬の声が割れた。


「ここまで来て、まだ駄目なの!? 恋文読んだ! あなたが私を好きだったのも読んだ! メロンパンも覚えてる! 水無月さんをミナトって呼んでたのも今聞いた! なのに、何で名前だけ駄目なの!」


 人影は、しばらく黙っていた。


 そして、言った。


『思い出したら、依子が泣く』


「もう泣いてる!」


 黒瀬は叫んだ。


「とっくに泣いてるわよ! ずっと泣いてる! 怒って誤魔化してるだけで、朝からずっと泣いてる! だから今さら、泣くから駄目なんて言わないで!」


 その叫びに、食堂の床が少しだけ波打った。


 人影の黒塗りの顔に、ひびが入る。


 ほんの少しだけ。


 口元が見えた。


 嫌な笑い方。


 でも、どこか優しい笑い方。


『知ってる』


 人影は言った。


『だから、まだだ』


 黒瀬は、唇を噛んだ。


 悔しさで泣いている。


 しずくが、黒瀬の背中にそっと手を置いた。


 完全に触れている。


「黒瀬さん」


「……何」


「今は、呼び方を思い出しました」


「うん」


「名前ではありません。でも、呼び方です」


「うん」


「それは、少しだけ届いたということではないでしょうか」


 黒瀬は、人影を睨んだまま涙を拭った。


「少しだけじゃ足りない」


「はい」


「足りないけど」


 彼女は、深く息を吸った。


「今は、少しだけ受け取る」


 人影が、わずかに頷いた。


 そして、僕を見た。


 顔はまだ黒く塗り潰されている。


 でも、その視線は確かに僕を捉えていた。


『ミナト』


「はい」


 僕は返事をした。


 その呼び方に、僕の輪郭が少しだけ濃くなった。


 黒瀬の水無月さんとも、しずくの透真さんとも違う。

 水無月透真とも違う。


 でも、僕の中に確かにある名前。


 誰かとの関係の中にあった名前。


『俺の部屋に来るな』


 人影は言った。


 黒瀬が顔を上げる。


「部屋?」


『来たら、思い出す』


「じゃあ行く」


『来るなって言っただろ』


「行くに決まってるでしょ!」


 黒瀬の即答に、人影は少しだけ笑った。


 その笑い方を見て、黒瀬はまた泣きそうになった。


『だよな』


 人影は、そう言った。


 そして、食堂の人混みの中へ消えていく。


 黒瀬が追いかけようとした瞬間、メロンパンの袋が床に落ちた。


 かさり、と。


 それは黒瀬の鞄の中にあったはずのものだった。


 いつの間にか、食堂の床に落ちている。


 袋の中から、一枚の鍵が出てきた。


 古い鍵。


 キーホルダーには、黒く塗り潰された名前。


 そして、部屋番号だけが読めた。


 207号室。


 黒瀬は鍵を拾った。


 手が震えている。


「……あいつの部屋」


 僕のスマホが震えた。


【第17話 僕の名前を選ぶ会議】


 その下に、次の通知。


【第18話 消えた三人目の部屋】


 黒瀬は鍵を握りしめた。


 涙を拭かずに、僕を見る。


「ミナト」


 その呼び方に、胸が揺れた。


「はい」


「行くよ」


「はい」


 しずくが、静かに頷く。


「私も行きます」


 黒瀬は、鍵を握ったまま食堂の出口へ向かった。


 名前はまだ思い出せない。


 でも、呼び方を一つ取り戻した。


 ミナト。


 誰かが僕を、そう呼んでいた。


 水無月さんでも、透真さんでも、朝でも、欄外でもない。


 消えた三人目だけが持っていた、僕の名前。


 それが、僕を少しだけ食堂の床に繋ぎ止めていた。


 そして同時に。


 黒瀬の背中を、もう後戻りできない場所へ押していた。


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