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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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18/34

第18話 消えた三人目の部屋

 鍵というものは、小さいくせに重い。


 金属としての重さではない。


 もちろん、手のひらに乗せれば、ただの古い鍵だ。

 銀色の表面は少し曇っていて、端に細かい傷がある。

 キーホルダーには、黒く塗り潰された名前と、かろうじて読める部屋番号。


 二〇七号室。


 それだけ。


 なのに、黒瀬依子はその鍵を両手で握っていた。


 まるで、落としたら誰かがもう一度消えてしまうとでもいうように。


 食堂を出たあと、僕たちはしばらく無言だった。


 大学の廊下は相変わらず普通だった。

 昼前のざわめき。

 階段を駆け下りる学生。

 友人同士の笑い声。

 掲示板の前で休講情報に喜ぶ誰か。


 その普通さの中で、黒瀬だけが少し浮いて見えた。


 泣いた跡のある目。

 強く結ばれた唇。

 鍵を握る手。


 怒っているようにも、怖がっているようにも、祈っているようにも見える。


「黒瀬」


 僕が声をかけると、彼女は少し遅れて顔を上げた。


「何」


「大丈夫ですか」


「大丈夫って答えたら嘘になるけど、大丈夫じゃないって答えたら立ち止まりそう」


「では、別の答えで」


「行く」


 黒瀬は即答した。


「大丈夫かどうかは置いとく。行く」


「はい」


「水無月さん」


「はい」


「いや」


 彼女は一瞬だけ迷った。


 そして、小さく言い直した。


「ミナト」


 胸の奥が、また揺れた。


 食堂で、消えた三人目が僕をそう呼んだ。


 ミナト。


 水無月のミナ。

 透真のト。

 港のような名前。


 僕の中にあったはずなのに、僕自身が知らなかった呼び方。


「はい」


 僕が返事をすると、黒瀬は少しだけ目を伏せた。


「……変な感じ」


「僕もです」


「でも、呼べる」


「はい」


「呼べる名前が増えるの、怖いけど、少し安心する」


「僕もそう思います」


 しずくが隣で静かに言った。


「ミナトさん」


 その呼び方に、黒瀬がぴくりと反応した。


「しずくさんも呼ぶの?」


「駄目でしたか」


「駄目じゃないけど」


 黒瀬は少し考え込む。


「何か、少しだけ悔しい」


「悔しい?」


「それ、たぶんあいつの呼び方だから」


 しずくは、はっとした顔をした。


「すみません」


「いや、いいの。別に所有権とかないし。名前に所有権とか言い出したら白紙先生が喜びそうで嫌だし」


「でも、黒瀬さんにとって大切な呼び方なのですね」


「大切っていうか」


 黒瀬は鍵を見下ろした。


「まだわからない。けど、勝手に胸が痛い。だから、たぶん大切だったんだと思う」


 しずくは、小さく頷いた。


「では、私は今は透真さんと呼びます」


「うん」


 黒瀬は少しだけ安心したように息を吐いた。


「ありがとう」


「はい」


「しずくさん、こういう時、ほんと素直に引いてくれるよね」


「引く?」


「距離を取ってくれるって意味」


「人間関係の距離ですね」


「そう。さっき名前会議でやったやつ」


 しずくは真剣に頷いた。


「名前は距離なのですね」


「たぶんね」


 黒瀬は、ちらりと僕を見た。


「水無月さん、ミナト、透真さん、欄外、朝。距離、多すぎ」


「僕も整理できていません」


「整理しなくていいのかもね」


「黒瀬がそれを言うんですか」


「私も少し学習してるの」


 彼女はノートを軽く叩いた。


「全部きれいに記録しようとすると壊れる。名前も、きれいに一つにしようとすると誰かが死ぬ。だから、ぐちゃぐちゃのまま持つ」


「かなり難しいですね」


「難しい。でも、今のところそれしかない」


 しずくが、自分の手の甲を見た。


 共有。

 欄外受理。


 その文字は、少し薄くなっている。

 けれど、まだ消えてはいない。


「ぐちゃぐちゃのまま持つ」


 彼女は繰り返した。


「人間は、かなり器用なのですね」


「器用というか、諦めが悪いだけ」


 黒瀬はそう言って、歩き出した。


 目指す場所は、大学の北側にある学生向けアパートだった。


 正確には、大学の敷地外にある古い二階建ての建物。

 築年数はかなり経っている。

 家賃が安いので、遠方から来た学生がよく住んでいるらしい。


 僕も前を通ったことはある。


 でも、中に入った記憶はない。


 いや、ないはずだった。


 アパートが近づくにつれて、胸の奥に奇妙なざわめきが生まれた。


 懐かしい。


 知らない場所なのに。


 見覚えがないはずなのに。


 外階段の錆びた手すり。

 一階の自販機。

 郵便受けの上に貼られた「チラシお断り」の雑なシール。

 駐輪場に倒れかけた青い自転車。


 全部、初めて見る。


 なのに、知っている気がする。


「水無月さん」


 黒瀬が僕を見た。


「今、顔が変」


「またですか」


「うん。思い出しそうな顔」


「この場所、知っている気がします」


「やっぱり」


「でも、来た記憶はありません」


「今朝、その台詞だいたい危ないやつ」


 しずくが、アパートを見上げた。


「ここは、誰かの生活が残っている場所です」


「生活?」


「はい」


 彼女は、少し眉を寄せる。


「読まれなかった恋文や、メロンパンの袋より、もっと濃いです。ここには、毎日が残っています」


 黒瀬の手が、鍵を握り直す。


「毎日」


「はい」


「それ、一番きついかも」


 彼女は小さく言った。


「手紙とか写真とか、一個ずつならまだ覚悟できる。でも、部屋って、その人がずっといた場所でしょ。生活して、寝て、食べて、くだらないもの置いて、たぶん散らかして」


「はい」


「それが残ってたら、私、どうしたらいいんだろ」


「泣いてもいいと思います」


 しずくが言った。


 黒瀬は少しだけ笑った。


「しずくさん、最近そればっかり」


「黒瀬さんがずっと我慢しているので」


「してる」


「はい」


「バレてる?」


「かなり」


 黒瀬は、困ったように目を逸らした。


「神様って人の我慢に敏感なの?」


「私は、黒瀬さんに少し敏感になったのだと思います」


「それは……」


 黒瀬は言葉に詰まった。


「ちょっと嬉しいから困る」


 そう呟いて、彼女は外階段を上がった。


 二階。


 廊下は狭く、古いコンクリートに細いひびが入っている。

 風が吹くと、どこかの部屋の洗濯物が揺れる。

 昼なのに、二階の廊下は少し薄暗い。


 二〇一。

 二〇二。

 二〇三。


 部屋番号を一つずつ通り過ぎる。


 黒瀬の歩幅が、少しずつ小さくなる。


 二〇六。


 そして。


 二〇七。


 扉の前で、僕たちは止まった。


 表札はない。


 郵便受けには、何も入っていない。

 チラシすらない。


 ドアノブの下に、鍵穴がある。


 黒瀬は鍵を持ち上げた。


 手が震えている。


「開けるよ」


「はい」


 僕が答える。


 しずくも頷く。


 黒瀬は鍵を鍵穴に差し込んだ。


 抵抗はなかった。


 するりと入る。


 回す。


 かちり。


 あまりにも普通の音がした。


 その普通さに、黒瀬の顔が一瞬歪んだ。


「普通に開くの、嫌だね」


「はい」


「もっと、神様っぽい変な音とかしてくれたら、まだ覚悟できたのに」


「現実は、普通の音で開くことが多いです」


「ほんとに嫌」


 黒瀬はドアノブに手をかけた。


 そして、少しだけ僕を見る。


「ミナト」


「はい」


「私が中で変になったら、止めて」


「はい」


「しずくさんも」


「はい」


「あと、私が記録しすぎそうになったら」


「共有します」


 僕が言うと、黒瀬は小さく頷いた。


「うん」


 ドアが開いた。


 部屋の中から、空気が漏れた。


 それは、誰かの生活の匂いだった。


 古い畳。

 洗剤。

 少しだけ湿った本。

 コンビニのパン。

 飲みかけのコーヒー。

 そして、メロンパンの甘い匂い。


 黒瀬が、息を止めた。


「……いる」


 彼女は言った。


「誰もいないのに、いる」


 部屋はワンルームだった。


 六畳くらい。


 小さなキッチン。

 ユニットバス。

 窓際にベッド。

 机。

 本棚。

 床に置かれたクッション。


 男子大学生の部屋、という言い方が一番近い。


 散らかっているが、汚くはない。

 机の上にはペンやノートが積まれている。

 本棚には漫画と専門書が混ざっている。

 ベッドの上には、畳まれていない毛布。

 床にはコンビニのレシートが数枚。


 普通の部屋だった。


 それが、痛かった。


 神様の部屋ではない。

 異界でもない。

 誰かが昨日まで生活していたような部屋。


 でも、その誰かだけがいない。


「靴」


 黒瀬が小さく言った。


 玄関に、スニーカーが一足あった。


 黒いスニーカー。


 少し汚れている。


 サイズは僕と同じくらいか、少し大きい。


 その横に、折り畳み傘。

 さらに横に、コンビニの袋。


 袋の中には、メロンパンの空き袋が二つ入っていた。


 黒瀬はしゃがみ込んだ。


 メロンパンの袋に触れる。


 指先が震えている。


「本当に、好きだったんだ」


「メロンパンが?」


「うん」


 彼女は笑おうとした。


 でも、うまく笑えなかった。


「そんなに好きなら、もっとまともな好物にすればいいのに」


「メロンパンもまともでは」


「そうだけど。何か、こう、思い出すたびにメロンパンなのが腹立つ」


「腹立つんですか」


「腹立つ」


 黒瀬は袋を握った。


「こんな甘い匂いで残るなって思う」


 しずくが、部屋の中を見回していた。


「ここには、名前がありません」


「名前?」


「はい。物はあるのに、持ち主の名前だけが抜けています」


 確かにそうだった。


 机の上のノート。


 表紙には、名前欄がある。

 でも、そこだけ黒く塗り潰されている。


 本棚の教科書。

 裏表紙に書かれているはずの名前が、黒いインクで消されている。


 郵便物。

 宛名の名前部分だけが読めない。


 レシート。

 会員番号の横にあった名前が黒く潰れている。


 すべてが、誰かのものだと叫んでいる。


 でも、その誰かの名前だけがない。


「ひどい」


 黒瀬が言った。


「名前だけ抜くの、ひどい。靴もある。毛布もある。レシートもある。メロンパンもある。なのに名前だけないって、そんなの、逆にいるって言ってるようなものじゃん」


「はい」


「なのに、思い出せない」


 彼女は立ち上がった。


 涙はまだこぼれていない。


 でも、目は赤い。


「探す」


「はい」


「でも、勝手に触っていいのかな」


 その迷い方が、妙に黒瀬らしかった。


 今まで神様にも遺言にもかなり強引に突っ込んできた彼女が、誰かの部屋では立ち止まる。


「本人が来るなって言っていました」


 僕が言うと、黒瀬は唇を噛んだ。


「言ってた」


「でも、鍵を落としました」


「わざとかな」


「たぶん」


「来るなって言いながら、鍵を渡すの、性格悪い」


「そうですね」


「嫌なやつ」


 彼女は、少しだけ笑った。


「やっぱり、嫌なやつだったんだと思う」


 僕たちは部屋の中に入った。


 しずくは、白いスニーカーでそっと畳を踏んだ。


「靴」


 黒瀬がすぐに言う。


「あ」


 しずくは慌てて戻ろうとした。


「すみません」


「いや、玄関狭いし、今さら神様が靴脱ぐルールを学んでるの、ちょっと可愛いけど」


「脱ぎます」


 しずくは真面目に靴を脱いだ。


 かかとの絆創膏が少しずれている。


 黒瀬がそれを見て、小さくため息をついた。


「あとで貼り直し」


「はい」


「こういう時でも靴ずれは進行するのね」


「人間は大変です」


「ほんとに」


 そのやり取りで、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。


 でも、すぐに重く戻る。


 机の上に、写真立てがあった。


 倒れている。


 黒瀬が、それをそっと起こした。


 写真。


 三人で写っていた。


 大学の中庭らしき場所。


 黒瀬が腕を組んで少し怒った顔をしている。

 僕が困ったように笑っている。

 そして、真ん中にもう一人。


 顔だけが黒く塗り潰されている。


 肩にはメロンパンの袋を引っかけていた。


 距離が近い。


 黒瀬と、その人の距離が近い。


 黒瀬は写真を見つめたまま、動かなくなった。


「……私」


「はい」


「この写真、撮られたの、覚えてない」


「はい」


「でも、この日の服、覚えてる」


 彼女は、写真の中の自分を指差した。


「このカーディガン、春先に買ったやつ。袖が少し長くて、邪魔で、でも色が好きでよく着てた。水無月さんに、袖が長いですねって言われて、余計なお世話って返した気がする」


「言いそうですね」


「言った気がする」


 黒瀬の指が、黒塗りの顔に触れた。


「この人には、何て言われたんだろう」


 写真の黒塗りが、ほんの少しだけ薄くなった。


 口元だけが見える。


 笑っている。


 黒瀬が、息を呑む。


「……嫌な笑い方」


 それは何度目かの言葉だった。


 でも、今回は少し違った。


 怒っているのに、懐かしそうだった。


 しずくが写真を見て、そっと言った。


「三人だったのですね」


「うん」


 黒瀬は頷いた。


「たぶん、三人だった」


「私は?」


 しずくが聞く。


 黒瀬は少し迷って、写真を見た。


「この写真には、いない」


「はい」


「でも、たぶん関係ないわけじゃない。あの人、水無月さんをミナトって呼んで、しずくさんを信じるなってメモを書いてたんでしょ」


「まだ見ていませんが、プロット上は」


 僕が言いかけて、黒瀬に睨まれた。


「何か変なこと言おうとした?」


「いえ」


「今、“プロット上”って言いかけなかった?」


「言っていません」


「怪しい」


 しずくが真面目に僕を見る。


「透真さん、第四の壁を触りましたか」


「触っていません」


「第四の壁とは何ですか」


「しずくさん、そこは流しましょう」


 黒瀬が、少しだけ笑った。


「今の助かった。泣きそうだったから」


「それならよかったです」


 黒瀬は写真を机に置いた。


「探そう」


 机の引き出しを開ける。


 一段目。


 ペン。

 付箋。

 クリップ。

 学生証。


 黒瀬が学生証を取り出した。


 名前欄は、真っ黒だった。


 顔写真も黒く塗られている。


 学籍番号だけが読める。


「名前も顔もない学生証」


 黒瀬が呟く。


「水無月さんよりひどい」


「僕の学生証は顔だけ残っていますからね」


「何その比較。悲しい」


 二段目。


 レシートの束。


 パン屋のものが多い。


 チョココロネ。

 カレーパン。

 メロンパン。

 メロンパン。

 メロンパン。

 たまにクリームパン。


 黒瀬が、レシートを一枚ずつ見る。


「メロンパン多すぎ」


「本当に好きだったんですね」


「好きだったのか、誰かに買ってたのか」


 その言葉で、黒瀬の手が止まった。


 レシートの中に、同じ時間帯に買われたものがあった。


 メロンパン。

 ブラックコーヒー。

 ミルクティー。

 チョココロネ。


 黒瀬が、震える声で言った。


「ミルクティー、私かも」


「黒瀬はミルクティーが好きなんですか」


「好き。甘いやつ。疲れてる時に飲む」


「では」


「買ってくれてたのかな」


 彼女はレシートを握った。


「私が怒ってて、あいつがメロンパン買って、自分の分だけかと思ったらミルクティーも出してきて。私が、物で機嫌取れると思うなって言って。でも飲む、みたいな」


「かなり具体的ですね」


「今、勝手に浮かんだ」


「記憶ですか」


「わからない」


 黒瀬は唇を噛んだ。


「わからないけど、すごく腹立つ。たぶん合ってる気がする」


 しずくが、静かに言った。


「怒りから戻る記憶もあるのですね」


「私らしいでしょ」


「はい」


「そこは否定してほしかった」


「でも、黒瀬さんらしいです」


 黒瀬は、少しだけ苦笑した。


 三段目。


 そこにはノートがあった。


 黒い表紙。


 表紙には名前が書かれていたはずの場所が、やはり黒く塗り潰されている。


 黒瀬は、そのノートに触れたまま動けなくなった。


「日記?」


「たぶん」


「見ていいのかな」


「本人は来るなと言っていました」


「でも鍵は渡した」


「はい」


「日記見るの、かなり踏み込むよね」


「はい」


「もし私の日記を誰かに見られたら、かなり嫌」


「僕も嫌です」


「しずくさんは?」


「私は日記を書いたことがありません」


「そっか」


「でも、遺言帳は少し日記に似ています」


「それは嫌な日記だね」


 黒瀬はノートを握ったまま、深呼吸した。


「見る」


「はい」


「あとで謝る」


「誰に」


「本人に。思い出したら」


 彼女はノートを開いた。


 一ページ目。


 文字は読めた。


 ただし、名前だけが黒く塗られている。


 ――今日、黒瀬がまた怒っていた。


 黒瀬の肩が震えた。


 彼女は読み上げる。


「今日、黒瀬がまた怒っていた。理由は、ミナトが講義中に『意味がわからない』と言ったから。黒瀬は『意味がわからないで済ませるな』と怒った。俺は横で笑ったら、黒瀬に睨まれた」


 僕は、胸の奥が冷えた。


 意味がわからない。


 僕がその言葉を言うたび、世界の意味が一つ減る。


 それを、彼は知っていたのか。


 黒瀬は続けた。


「でも、黒瀬が怒るのは、たぶん怖いからだ。ミナトが何でもなさそうな顔で変なことを受け入れるのが怖いんだと思う。俺も少し怖い。あいつは、自分が消える時も、たぶん『そういうものです』みたいな顔をしそうだから」


 黒瀬が、僕を見た。


「……言いそう」


「否定できません」


「やめてよ、本当に」


 彼女は日記に目を戻した。


「だから俺は、ミナトのことをミナトと呼ぶことにした。水無月でも透真でもなく、ミナト。港。帰ってくる場所みたいな名前。あいつが自分を朝だと思い始めたら、俺が港に戻す。黒瀬はたぶん、そんな洒落たことを言うと怒る」


 黒瀬の目から、涙が落ちた。


「怒るわよ」


 彼女は震える声で言った。


「何か、かっこつけてて腹立つ」


 ページをめくる。


 次のページ。


 ――黒瀬に恋文を書いた。


 黒瀬の手が止まった。


「……」


 しずくが、そっと黒瀬の背に手を置く。


「無理に読まなくても」


「読む」


 黒瀬は即答した。


「ここまで来て、読まない方が無理」


 彼女は読み始めた。


「黒瀬に恋文を書いた。たぶん渡せない。黒瀬はこういうのを重いと言う。絶対に言う。しかも怒る。でも、怒りながら読んでくれる気もする。読んでくれたら、それでいいと思う」


 黒瀬は恋文の封筒を鞄から出した。


 差出人の黒塗りは、まだ消えていない。


「読んだわよ」


 彼女は日記に向かって言った。


「怒りながら読んだわよ。最悪だったわよ。重かったわよ。でも、読んだ」


 ページの文字が、少しだけ滲んだ。


 黒瀬の涙かと思ったが、違った。


 日記そのものが泣いているように見えた。


 ページをめくる。


 次のページ。


 ――しずくを信じるな。


 空気が、変わった。


 しずくの手が、黒瀬の背から離れる。


 黒瀬も、僕も、文字を見た。


 しずくを信じるな。


 何度も書かれている。


 しずくを信じるな。

 しずくを信じるな。

 しずくを信じるな。

 しずくを信じるな。


 黒瀬の記録癖を思わせるほど、何度も。


 しずくの顔が青ざめた。


「私」


「待ってください」


 僕は言った。


「まだ続きを」


 黒瀬が頷き、読み進める。


「しずくを信じるな。これは、しずくが悪いという意味じゃない。たぶん違う。あの子は嘘をつくというより、消したいものを消してしまう。自分が痛いものを、誰かが壊れる前に隠してしまう。それは優しさに見えるし、実際に優しさも混じっている。でも、優しい削除は一番危ない」


 しずくは、唇を噛んだ。


 第一章の第7話。


 彼女が消した話。


 透真がしずくを殺した話。


 黒瀬が自分の死に方を思い出しかけた話。


「……合っています」


 しずくが小さく言った。


「私は、痛いものを消しました」


 黒瀬は、少しだけ振り返った。


「しずくさん」


「はい」


「今は消さないで」


「はい」


「痛くても、ここに置いて」


「はい」


 黒瀬は再び日記を見た。


「ミナトは、しずくを疑えない。というより、疑うと自分が壊れると思っている。黒瀬は逆に疑いすぎる。俺は、その間でパンを買うくらいしかできない」


 黒瀬が、泣きながら少し笑った。


「パンを買うくらいしかできないって何よ」


「大事だったのでは」


 僕が言うと、黒瀬は目をこすった。


「大事だったのかもね。腹立つけど」


 ページをめくる。


 次のページには、赤いペンで大きく書かれていた。


 第7話で全員死ぬ。


 部屋の空気が一気に冷えた。


 第7話。


 存在しない第7話。


 僕がしずくを殺し、黒瀬を殺し、三人目を殺した話。


 黒瀬は、声を震わせながら読んだ。


「第7話で全員死ぬ。ミナトは朝を終わらせようとする。しずくはそれを止めない。黒瀬は止めようとする。俺は、たぶん間に合わない」


 その先は、文字がかすれていた。


 でも、読める。


「俺の役目は、黒瀬を泣かせないことじゃない。たぶん、泣いても戻ってこられる場所を残すことだ」


 黒瀬の呼吸が乱れた。


 僕は、思わず彼女に手を伸ばした。


「黒瀬」


「大丈夫」


「大丈夫では」


「大丈夫じゃないけど、読む」


 彼女は続けた。


「もし俺の名前が消えるなら、依子には思い出させるな。あいつは全部覚えようとする。全部覚えたら、一人になる。だから、俺の名前だけは最後まで黒く塗っておく」


 しずくが小さく息を吸った。


 僕も、胸が締めつけられた。


 黒瀬は、震える声で最後の行を読んだ。


「俺の名前を思い出すな。思い出したら、依子が泣く」


 黒瀬は、そこでノートを閉じた。


 部屋が静まり返った。


 外から、遠くの車の音が聞こえる。

 どこかの部屋でテレビの音がしている。

 誰かが階段を上がる足音もする。


 世界は相変わらず普通に動いている。


 でも、この部屋の中だけ時間が止まっていた。


 黒瀬はノートを胸に抱いた。


 強く。


 まるで、もう二度と奪われたくないみたいに。


「馬鹿じゃないの」


 彼女は言った。


 低く、震える声で。


「泣くに決まってるでしょ」


 涙が落ちた。


 一粒ではなかった。


 次々に。


「名前を思い出さなくても泣いてる。恋文読んでも泣いた。メロンパン見ても泣いた。写真見ても泣いた。日記読んでも泣いてる。あんたが隠しても、全然意味ないじゃない」


 しずくが、黒瀬の隣に膝をついた。


「黒瀬さん」


「馬鹿」


 黒瀬はノートに向かって言った。


「本当に馬鹿。私が泣くから思い出すなって、何それ。私の涙を勝手に守るな。泣くかどうかくらい、私に決めさせてよ」


 僕は、何も言えなかった。


 言えば、たぶん薄くなる。


 黒瀬の感情に、僕の説明はいらなかった。


 彼女はしばらく泣いた。


 怒りながら。


 ノートを抱きしめながら。


 声を殺そうとして、でも少し漏らしながら。


 しずくはその背中を撫でていた。


 ぎこちない手つきだった。

 でも、ちゃんと触れていた。


 僕は窓のそばに立ち、部屋を見回した。


 ベッドの横に、小さなホワイトボードがあった。


 そこには、黒く塗り潰された名前の横に、いくつかのメモが残っている。


 黒瀬に渡す。

 ミナトを止める。

 しずくを信じるな。

 第7話で全員死ぬ。

 メロンパン買う。

 牛乳。

 依子、ミルクティー。

 ミナト、カレー。

 しずく、プリン?


 最後の「しずく、プリン?」に、しずくが気づいた。


「私にも」


「はい」


「プリンを買おうとしていたのでしょうか」


「たぶん」


 しずくは、その文字を見つめた。


「信じるなと書きながら、プリンを買おうとしていたのですね」


 黒瀬が、涙声で笑った。


「本当、嫌なやつ」


「はい」


「警戒してるのに優しいとか、そういうの一番面倒」


「人間らしいです」


 しずくが言うと、黒瀬は泣きながら頷いた。


「うん。すごく人間っぽい」


 その時、机の上の写真立てが倒れた。


 ぱたん、と音がする。


 僕たちは一斉に振り向いた。


 写真が、裏返っている。


 黒瀬がそっと手を伸ばし、写真立てを取った。


 裏側に、紙が挟まっていた。


 古いメモ。


 黒瀬がそれを取り出す。


 そこには、短い文字。


 207号室に来たなら、次はロッカーを見ろ。

 鍵は、依子が持ってる。

 ミナト、止めるな。

 止めたら依子が一人で行く。


 黒瀬が、涙を拭きながら笑った。


「わかってるじゃん」


「黒瀬のことを?」


「うん」


 彼女はメモを握った。


「私、止められたら一人で行くと思う」


「でしょうね」


「即答しないで」


「すみません」


 しずくが、メモの下の方を指差した。


「まだあります」


 そこには、小さく追記があった。


 ロッカーには、俺の名前の一文字目がある。

 でも、読むな。

 読んだら、依子が自分の死に方を思い出す。


 黒瀬の顔から、血の気が引いた。


「自分の死に方」


 第6話から続いていた言葉。


 第7話を探すと、黒瀬依子が自分の死に方を思い出す。


 ここへ来て、また戻ってきた。


 僕は、メモを見つめた。


「行かないという選択肢は」


「ない」


 黒瀬は即答した。


 声は震えている。


 でも、目は決まっていた。


「怖いですか」


「怖い」


「なら」


「怖いから行く」


 黒瀬は言った。


「怖いまま置いていくと、もっと怖くなる。私、自分の死に方なんて知りたくない。でも、あいつが何を隠したのかは知りたい」


 しずくが、心配そうに黒瀬を見る。


「黒瀬さん」


「大丈夫じゃないよ」


 黒瀬は先に言った。


「でも、一人じゃないでしょ」


 しずくは、少しだけ目を見開いた。


 それから、静かに頷いた。


「はい」


 僕も言った。


「一緒に行きます」


 黒瀬は、ノートと写真とメモを鞄にしまった。


 メロンパンの袋も。


 レシートの束は、少し迷ってから一枚だけ取った。


 ミルクティーが書かれているレシート。


「全部持っていくと、記録しすぎる気がするから」


 彼女は言った。


「今日はこれだけ」


「良い判断だと思います」


「本当?」


「はい」


 黒瀬は、少しだけ安心した顔をした。


 でも、部屋を出る前に、彼女はもう一度振り返った。


 誰もいない部屋。


 でも、誰かがいた部屋。


 靴。

 ベッド。

 机。

 メロンパンの袋。

 黒く塗られた名前。


「また来る」


 黒瀬は言った。


「名前を思い出したら、ちゃんと謝りに来る。日記見たことも、恋文読んだことも、怒りに来る」


 返事はなかった。


 でも、机の上に置かれた空のメロンパン袋が、かさりと揺れた。


 黒瀬は泣きそうな顔で笑った。


「ほんと、嫌なやつ」


 僕たちは二〇七号室を出た。


 鍵を閉める音がする。


 かちり。


 入る時と同じ普通の音。


 でも、出る時の方がずっと重かった。


 廊下に出ると、僕のスマホが震えた。


【第18話 消えた三人目の部屋】


 その下に、次の通知。


【第19話 黒瀬依子が泣く日】


 黒瀬がそれを見て、眉を寄せた。


「もう泣いてるんだけど」


「そうですね」


「次も泣くの?」


「たぶん」


「嫌だなあ」


 彼女は笑った。


 泣きながら。


「でも、泣くなら泣くで、ちゃんと泣く。怒って誤魔化すのも、たぶんそろそろ限界だから」


 しずくが、黒瀬の手を握った。


「一緒にいます」


「うん」


 黒瀬は握り返した。


 僕も、そっと手を出した。


 黒瀬は少しだけ迷ってから、その手も掴んだ。


 触れた。


 すり抜けなかった。


「ミナト」


「はい」


「ロッカー、行くよ」


「はい」


「止めないで」


「止めません」


「でも、私が壊れそうになったら止めて」


「はい」


「面倒なお願いしてるね、私」


「友達なので」


 黒瀬は、少しだけ笑った。


「それ、便利な言葉になってきた」


「便利ですが、本当です」


「うん」


 階段を下りる。


 空は少し曇っていた。


 雨はまだ降っていない。


 でも、遠くで雷のような音がした。


 黒瀬の鞄の中で、黒い日記が一度だけ震えた。


 まるで、まだ名前のない誰かが、こちらを見ているようだった。


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