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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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19/34

第19話 黒瀬依子が泣く日

 泣く場所を選べる人間は、たぶん強い。


 けれど、泣く場所を選べなくなった時の人間の方が、もっと本当なのかもしれない。


 黒瀬依子は、ずっと怒っていた。


 神様の死体に怒った。

 遺言に怒った。

 笑うと人が消える神様に怒った。

 猫の王様に怒った。

 僕が自分を責めすぎることにも怒った。

 世界が勝手に名前を消すことにも怒った。

 大学の名簿に僕がいないことにも怒った。

 記録が勝手に暴走することにも怒った。


 怒ることで、立っていた。


 だから僕は、少しだけ忘れていた。


 怒っている人間は、傷ついていないわけではない。


 怒れるくらい、まだ動けるだけなのだ。


「ロッカーって、どこの?」


 学生アパートから大学へ戻る道で、黒瀬が言った。


 声は落ち着いているように聞こえた。


 でも、指先は鍵を握ったまま白くなっていた。


「大学の空きロッカー、と第18話のプロットには」


 僕はそこで口を閉じた。


 黒瀬が、じろりと僕を見る。


「今、何か変なこと言いかけたよね」


「気のせいです」


「最近の水無月さん、たまに向こう側を見てる時あるから怖い」


「向こう側」


「読者とか、話数とか、そういうやつ」


 しずくが、真剣な顔で僕を見る。


「透真さん。あまり触りすぎると、指が戻らなくなります」


「第四の壁の話ですか」


「はい」


「しずくさん、用語を覚えましたね」


「黒瀬さんから聞きました」


「教えた覚えないんだけど」


 黒瀬は眉を寄せた。


「私、そんな話した?」


「しました。第十八話の部屋で」


「さらっと話数で言わないで!」


 しずくは、はっと口元を押さえた。


「すみません」


「いや、しずくさんが悪いんじゃないけど。何か、話が進むごとにこっち側も変になってる気がする」


「最初からかなり変でした」


 僕が言うと、黒瀬は少しだけ笑った。


「それはそう」


 笑った。


 でも、すぐに消えた。


 彼女の視線は、手の中の古い鍵に戻る。


 二〇七号室の鍵。


 そこから出てきたメモには、こうあった。


 ロッカーには、俺の名前の一文字目がある。

 でも、読むな。

 読んだら、依子が自分の死に方を思い出す。


 自分の死に方。


 その言葉は、黒瀬の背中にずっと刺さっているようだった。


「黒瀬」


「何」


「本当に行きますか」


「行く」


「確認です」


「確認されても行く」


「怖いですよね」


「怖い」


 彼女は即答した。


「死に方なんて知りたいわけない。普通に嫌。できれば知らないまま帰って、唐揚げ食べて、しずくさんの靴ずれ貼り直して、メロンパンの人のことは明日考えることにしたい」


「それでも行くんですね」


「行く」


 黒瀬は、唇を噛んだ。


「だって、あいつが隠してる。泣くから思い出すなって、勝手に決めてる。私、そういうのが一番嫌」


「優しさかもしれません」


「わかってる」


「はい」


「わかってるから、余計に嫌なの。悪意なら怒ればいい。馬鹿にされたなら殴ればいい。けど、優しさで隠されると、怒りづらい。怒りづらいのに腹が立つ。腹が立つのに、ちょっとだけありがたい。そういうぐちゃぐちゃが一番きつい」


 しずくが、黒瀬の横を歩きながら言った。


「私も、そうでした」


 黒瀬が彼女を見る。


「第七話を消したこと?」


「はい」


 しずくは、白いスニーカーのつま先を見ながら歩く。


 かかとの絆創膏は、二〇七号室を出る前に黒瀬が貼り直した。

 それでも、時々足を庇うように歩いている。


「私は、透真さんが壊れないようにと思って、第七話を消しました。黒瀬さんが自分の死に方を思い出さないようにとも思っていました」


「うん」


「でも、それは私が見たくなかったからでもありました」


 黒瀬は何も言わない。


 しずくは続ける。


「痛いものを隠す時、自分の痛みと誰かの痛みは、きれいに分けられません。私はそれを、まだうまくできません」


「できる人、少ないと思うよ」


 黒瀬は言った。


「大人でも無理じゃない? 守ってるつもりで支配してたり、気遣ってるつもりで逃げてたり、よくあるし」


「人間は難しいですね」


「難しい。神様も難しいけど、人間も大概ひどい」


 そこで、黒瀬は少しだけ笑った。


「だから、しずくさんだけが悪いわけじゃない」


 しずくは、目を伏せた。


「ありがとうございます」


「まだ許したわけじゃないよ」


「はい」


「でも、隣にはいてほしい」


 しずくが顔を上げる。


 黒瀬は前を向いたまま言った。


「今日、たぶん私、かなり駄目になる。怒れなくなるかもしれない。そういう時、しずくさんが隣にいてくれると、ちょっと助かる」


 しずくは、少しだけ泣きそうな顔になった。


「はい」


「あと、足痛かったら言って」


「はい」


「何でこの流れで靴ずれ確認するのか、自分でもわかんないけど」


「嬉しいです」


「ならよし」


 大学の北側には、学生用のロッカー棟があった。


 サークル棟と講義棟の間にある古い建物だ。


 体育会系の部室に近いせいか、いつも少し汗と古い木材と消毒液の匂いがする。

 雨の日には湿気がこもる。

 晴れの日でも、どこか薄暗い。


 僕はその建物に入ったことが、ある気がした。


 でも、やはり記憶はない。


 黒瀬は入口で立ち止まった。


「ここ」


「来たことがありますか」


「ある。オカルト研究会の備品ロッカーがこっちにあるから」


「備品」


「古いビデオカメラとか、変な本とか、誰が持ってきたかわからない塩とか」


「塩」


「幽霊対策って言われたけど、賞味期限切れた調味料だった」


「オカルト研究会、大丈夫ですか」


「大丈夫じゃないから面白いの」


 黒瀬は、そう言ってから、少しだけ目を伏せた。


「たぶん、あいつも何回か来てる」


「一緒に?」


「わからない。でも、今、そう思った」


 ロッカー棟の廊下は、ひんやりしていた。


 壁際に金属製のロッカーが並んでいる。


 一〇一。

 一〇二。

 一〇三。


 番号が続いている。


 どれも古い。

 塗装が剥げている。

 誰かが貼ったシールの跡。

 鍵穴の周りの傷。

 たまに貼られた付箋。


 黒瀬は、鍵のキーホルダーを見た。


 二〇七号室の鍵とは別に、小さな銀色の鍵が一つ増えていた。


 いつ増えたのか、誰も見ていない。


 キーホルダーには、やはり黒く塗り潰された名前。


 ただし、部屋番号ではなく、ロッカー番号が書かれていた。


 B−17。


「B列」


 黒瀬が呟く。


 僕たちはロッカーの列を進む。


 A列。

 B列。


 B−17は、奥の方にあった。


 他のロッカーより少しだけ古い。


 扉の表面には、剥がれかけたメロンパンのシールが貼られていた。


 黒瀬が、それを見た瞬間に目を細めた。


「……ダサ」


 涙声だった。


「何でメロンパンのシールなんか貼るの。大学生でしょ。小学生か」


 返事はない。


 でも、ロッカーの中から、かすかに紙の擦れる音がした。


 黒瀬は鍵を差し込んだ。


 回す。


 かちり。


 また、普通の音。


「普通の音ばっかり」


 黒瀬は低く言った。


「ほんと、腹立つ」


 ロッカーを開ける。


 中には、思ったより多くのものが入っていた。


 古いノート。

 ファイル。

 折り畳み傘。

 パン屋の紙袋。

 未開封のミルクティー。

 黒瀬のものらしい紺色のハンカチ。

 僕のものらしいボールペン。

 白いリボン。


 最後のリボンを見て、しずくが息を呑んだ。


「私の?」


「覚えがありますか」


「ありません。でも、雨の日に使った気がします」


 白いリボンは少し湿っていた。


 ロッカーの中なのに、雨の匂いがする。


 黒瀬は、ハンカチに触れた。


「これ、私の」


「そうなんですか」


「うん。なくしたと思ってた。端に小さい染みがある」


「なぜここに」


「貸したのかな」


「誰に」


「……あいつに」


 黒瀬の声が、また震えた。


「たぶん、怪我したか、飲み物こぼしたか、何かして。私が怒りながら貸した。返せって言って、返ってこなくて、忘れてた」


 彼女はハンカチを握りしめた。


「何で返さないのよ」


「返せなかったのでは」


「わかってる」


「はい」


「わかってても言いたいの。返しなさいよ、馬鹿」


 しずくが、ロッカーの奥を指差した。


「黒瀬さん。あれ」


 奥に、小さな封筒があった。


 表には、黒瀬依子へ、と書かれている。


 差出人の名前はない。


 黒瀬は封筒を見つめた。


「また手紙」


「開けますか」


 僕が聞くと、彼女は深く息を吸った。


「開ける」


 封筒の中には、写真が一枚と、折り畳まれた紙が一枚入っていた。


 まず写真。


 黒瀬が取り出す。


 それは、四人で写っている写真だった。


 場所は、雨の日の大学の中庭。


 僕。

 黒瀬。

 顔の黒く塗られた三人目。

 そして、しずく。


 しずくは半透明ではなかった。


 白いワンピースを着て、黒瀬の傘に半分入っている。

 僕は少し離れて、困ったように笑っている。

 三人目はメロンパンの袋を掲げている。

 黒瀬は怒った顔で、でも傘を全員に向けている。


 黒瀬が、写真を見たまま固まった。


「四人」


 しずくが呟く。


「私も、いたのですね」


「第七話?」


 黒瀬の声は震えていた。


「これ、第七話の写真?」


 写真の裏を見る。


 そこには、日付ではなく、こう書かれていた。


 第七話の前日。


 黒瀬は、目を見開いた。


「前日」


「第七話で全員死ぬなら、その前日」


 僕が言う。


 黒瀬は写真を握りしめた。


「私、この時、怒ってる」


「いつもでは」


「うるさい」


 けれど、その声には力がない。


「でも、楽しそう」


 彼女は写真の自分を見つめた。


「怒ってるのに、楽しそう。何これ。腹立つ。私、こんな顔してたんだ」


 しずくが写真を覗き込む。


「黒瀬さんは、傘を持っています」


「うん」


「全員を入れようとしています」


「……傘、小さいのにね」


 黒瀬は鼻をすすった。


「無理じゃん。四人なんて入らない。絶対誰か濡れる」


「でも、入れようとしています」


「うん」


「それが黒瀬さんです」


 黒瀬は、何か言い返そうとした。


 でも言えなかった。


 代わりに、折り畳まれた紙を開く。


 そこには、短い文章があった。


 依子へ。


 まず謝る。

 日記を読ませることになると思う。ごめん。

 部屋に来るなと言ったけど、たぶん来ると思ってた。

 ロッカーにも来ると思ってた。

 止めても来るから、もう最初から置いておく。


 黒瀬が、涙声で笑った。


「わかってるじゃん」


 読み進める。


 俺の名前の一文字目は、このロッカーにある。

 でも、本当はまだ読んでほしくない。

 読むと、依子は第七話を少し思い出す。

 依子がどう死んだかを思い出す。

 それは、たぶん俺が一番見たくないものだ。


 黒瀬の手が震える。


 僕は、彼女の横に立った。


 しずくも、反対側に立つ。


 黒瀬は続けた。


 でも、依子は「泣くから思い出すな」と言われたら怒る。

 絶対怒る。

 だから、怒っていい。

 怒って、泣いて、それでも読め。


 黒瀬の涙が、紙に落ちた。


 黒い文字が少し滲む。


 怒っていい。

 泣いていい。


 その言葉は、彼女の一番弱い場所に触れたようだった。


「ずるい」


 黒瀬は言った。


「何これ。ずるい」


 紙の最後には、一文字だけ書かれていた。


 あ


 ひらがなの「あ」。


 黒瀬は、その一文字を見た。


 瞬間、彼女の顔が真っ白になった。


「……あ」


 声が漏れた。


 それは名前ではなかった。


 名前の一文字目。


 けれど、黒瀬にとっては十分すぎた。


 彼女の目から、涙が一気に溢れた。


「あ、から始まる」


「黒瀬」


「あ……あさ、じゃない。朝じゃない。違う。あいつの名前」


 彼女は頭を押さえた。


 呼吸が乱れる。


「嫌だ、待って。何か、来る」


 しずくが黒瀬の手を握る。


「黒瀬さん」


「待って、待って、待って。私、見たくない。見たいけど、見たくない」


 ロッカーの奥で、雨の音がした。


 建物の中なのに。


 しずくが、はっとしてロッカーを見る。


「第七話の記憶です」


「来るのですか」


 僕が聞く。


「はい。名前の一文字目を読んだから」


 黒瀬の身体が震える。


 彼女は、写真と紙を握ったまま、その場にしゃがみ込んだ。


「私、死ぬの?」


「今は死にません」


 しずくが言う。


「でも、思い出します」


「どう死んだか」


「はい」


 黒瀬は、笑おうとした。


 失敗した。


「最悪」


 彼女は言った。


「本当に最悪。人の死に方を思い出すって何。しかも自分の。普通、そういうのって死ぬ直前に走馬灯で見るやつでしょ。大学のロッカー前で見るものじゃないでしょ」


「黒瀬」


 僕は膝をついた。


「僕たちがいます」


「うん」


「一緒に見ます」


「嫌」


 黒瀬は即答した。


 でも、すぐに首を振る。


「違う。嫌だけど、一人はもっと嫌」


「はい」


「見て。私が変になったら、戻して」


「はい」


「しずくさん」


「はい」


「痛かったら、隠さないで」


 しずくの目が揺れた。


「はい」


「ミナト」


 その呼び方に、僕の胸が揺れる。


「はい」


「私が死ぬところを見ても、自分だけ悪いって顔しないで」


「……難しいです」


「正直」


「でも、努力します」


「うん。それでいい」


 雨の音が大きくなった。


 ロッカーの奥が、暗くなる。


 いや、暗いのではない。


 そこに、別の朝が開いている。


 第七話。


 存在しないはずの第七話。


 黒瀬の目が虚ろになった。


 彼女は、どこか遠くを見ている。


「雨」


 彼女が呟く。


「大学の中庭。四人。傘、小さい。私が怒ってる。あいつが笑ってる。メロンパン濡れるって騒いでる。しずくさんが、雨の中で少し透けてる。ミナトが、変な顔してる」


 僕の喉が詰まる。


 黒瀬は続ける。


「ミナトが言うの。朝を終わらせればいいって。神様が死ぬ朝を止めるには、朝にいるものを全部消せばいいって」


 しずくが、唇を噛んだ。


「私は」


 黒瀬は震える声で言う。


「私は怒った。ふざけるなって。何でそうやってすぐ全部終わらせようとするのって。しずくさんも、自分が死ねばいいみたいな顔してて、それにも怒った。あいつは、メロンパンの袋を握って、笑ってた。笑ってたけど、怖がってた」


 雨の音が、さらに近づく。


 ロッカー棟の廊下が、雨に濡れ始めた。


 現実の廊下に、存在しない雨が落ちている。


 いや、上へ落ちている。


 床から天井へ。


「私、ミナトの腕を掴んだ」


 黒瀬が、自分の手を見る。


「今みたいに。でも、その時はすり抜けなかった。強く掴めた。止めようとした。ミナトが泣きそうな顔してた。なのに、謝るみたいに笑って」


 僕は、息が苦しくなる。


「言った」


 黒瀬の涙が止まらない。


「ごめん、黒瀬って」


 その言葉が、ロッカー棟に落ちた。


 ごめん、黒瀬。


 僕が言ったのだろう。


 第七話の僕が。


 そして。


「私、刺された」


 黒瀬は、自分の胸に手を当てた。


 しずくが息を呑む。


「透明な傘で」


 僕の視界が揺れた。


 透明な傘。


 しずくの胸に刺さっていたもの。

 押し入れの僕にも刺さっていたもの。


 第七話では、黒瀬にも。


「痛かった?」


 しずくが、震える声で聞いた。


 黒瀬は、少しだけ考えた。


「痛かった」


 涙が落ちる。


「でも、それより腹が立った」


 彼女は泣きながら笑った。


「私、刺されても怒ってた。ミナトに、馬鹿って言った。あんた、ほんと馬鹿って。死ぬ直前まで怒ってた」


 僕は、何も言えなかった。


 言葉が、喉の奥で砕けていた。


 黒瀬は、涙を拭かない。


 もう拭く余裕もない。


「それで、あいつが」


「三人目が?」


「うん」


 黒瀬は、写真を抱きしめた。


「あいつが、私の前に立った。たぶん、次に消されるのは自分だってわかってた。なのに、私の顔見て笑った」


 嫌な笑い方。


 ずっとそう言っていた笑い。


「依子は、怒ってる時が一番生きてるって」


 恋文と同じ言葉。


 黒瀬はしゃくり上げた。


「死にかけてる私に言うことじゃないでしょ」


 しずくが、涙を浮かべながら黒瀬の背中を撫でる。


「はい」


「最低でしょ」


「はい」


「でも、たぶん、それで私、少し戻れたの」


「戻れた?」


「死ぬのが怖かった。刺されて、消えそうで、でも怒ってるって言われて、自分がまだ私だって思えた」


 黒瀬は、顔を覆った。


「それなのに、あいつの名前が思い出せない」


 声が崩れた。


「何でよ」


 怒りではない。


 今度は、ただの泣き声だった。


「何で私、そこまでしてもらって、名前も覚えてないの。恋文も読んで、日記も読んで、写真も見て、死に方まで思い出したのに。何で名前だけ出ないの」


 黒瀬は泣き崩れた。


 膝から力が抜ける。


 僕としずくが支える。


 今度は、ちゃんと触れた。


 黒瀬は、しずくの肩に顔を伏せた。


 もう怒鳴らない。


 突っ込まない。


 強がらない。


 ただ、泣いていた。


「私、誰を好きだったの?」


 小さな声。


「誰に怒ればいいの?」


 しずくの白いワンピースが、黒瀬の涙で濡れていく。


「誰を忘れたの?」


 僕は、黒瀬の背中に手を置いた。


 彼女は震えていた。


 怒ることで立っていた人が、怒れなくなる瞬間を、僕は初めて見た。


 黒瀬は弱かった。


 強いから怒っていたのではない。


 弱いところを守るために怒っていたのだ。


 しずくが、黒瀬を抱きしめた。


 ぎこちなく。


 けれど、しっかりと。


「黒瀬さん」


「……何」


「名前を思い出せなくても、黒瀬さんがその人を大切にしていたことは、ここにあります」


「どこに」


「泣いているところに」


 黒瀬は、しずくの肩で少しだけ笑った。


「しずくさん、それ、ずるい」


「ずるいですか」


「泣いてるところにあるって言われたら、泣くしかないじゃん」


「泣いていいです」


「またそれ」


「はい」


 黒瀬は、今度こそ声を上げて泣いた。


 ロッカー棟の廊下。


 雨の匂い。

 古い金属の匂い。

 メロンパンの袋。

 黒く塗られた写真。

 ひらがなの「あ」。


 その全部に囲まれて、黒瀬依子は泣いた。


 周囲の学生はいなかった。


 いや、いたのかもしれない。

 でも、誰もこちらへ来なかった。


 この廊下だけが、第七話の裏側に入り込んでいるようだった。


 僕は、黒瀬に言う。


「黒瀬」


「……何」


「僕は、たぶん第七話であなたを殺しました」


 しずくが、はっと僕を見る。


 黒瀬も、泣き腫らした目で僕を見た。


「今それ言う?」


「言うべきだと思いました」


「水無月さん、たまに本当に不器用」


「はい」


「謝るの?」


「謝ります。でも、それだけでは終わりにしません」


 黒瀬は、涙でぐちゃぐちゃの顔で僕を睨んだ。


「じゃあ、どうするの」


「もう一度あなたを殺すような僕にならないように、僕の名前を一人で決めません」


「それ、繋がってる?」


「たぶん」


「たぶんか」


「第七話の僕は、全部を終わらせるために一人で決めたのだと思います。朝を終わらせる。神様を死なせない。そのために、朝にいるものを全部消す。そういう極端な答えを、一人で選んだ」


 僕は、黒瀬の手にある紙を見る。


 あ。


 一文字目。


「だから、もう一人で選びません。僕の名前も、朝の終わらせ方も、しずくさんのことも、黒瀬の記録も、その人の名前も」


 黒瀬は、目を伏せた。


「……遅いよ」


「はい」


「第七話の私には、間に合ってない」


「はい」


「でも、今の私には、少し間に合ってる」


「はい」


 黒瀬は、鼻をすすった。


「じゃあ、許すかどうかは保留」


「保留でお願いします」


「保留、多いなあ、私たち」


「人間らしいので」


「便利な言葉にしすぎ」


 しずくが、小さく笑った。


 その笑いで、ロッカー棟の雨が少し弱くなった。


 黒瀬は、手紙をもう一度見た。


 俺の名前の一文字目は、このロッカーにある。


 あ。


 黒瀬は、その文字を指でなぞる。


「……あ」


 声に出した。


 すると、ロッカーの奥から、もう一枚小さな紙が滑り落ちた。


 そこには、こう書かれていた。


 次は、泣いたあとで来い。

 泣く前の依子には、まだ読めない。


 黒瀬は、その紙を見て、また泣きそうになって、でも今度は少し笑った。


「何なの、あいつ」


「かなり黒瀬のことをわかっていますね」


「腹立つ」


 紙の裏に、場所が書かれていた。


 大学裏のパン屋。

 閉店後の裏口。

 メロンパンは売り切れ。


 黒瀬が眉を寄せる。


「パン屋」


「最初のレシートの店でしょうか」


「たぶん」


 しずくが言った。


「そこに、次の記憶があるのかもしれません」


 黒瀬は、しばらく黙っていた。


 そして首を横に振った。


「今日は、すぐ行かない」


 僕は少し驚いた。


「いいんですか」


「うん」


 黒瀬は、涙を拭いた。


「今行くと、たぶん私、記録したくなる。泣いたばっかりで、怖くて、何でも残そうとして、また暴走する気がする」


「はい」


「だから、少し休む。泣いたあとで来いって書いてあるし」


「泣いたあとですね」


「うん。でも、泣いた直後じゃない。ちゃんと息できるようになってから」


 しずくが、嬉しそうに頷いた。


「それは、とても大事だと思います」


「でしょ」


 黒瀬は立ち上がった。


 足元が少しふらつく。


 僕としずくが支える。


「ありがとう」


 彼女は素直に言った。


 珍しい。


 自分でもそう思ったのか、黒瀬は少しだけ気まずそうに目を逸らした。


「今の、記録しないで」


「なぜ」


「恥ずかしいから」


 僕が言うと、しずくが小さく手を挙げた。


「心に記録しました」


「しずくさん、それが一番恥ずかしい」


「すみません」


「謝らないで。いや、謝って。いや、違う。もういい」


 黒瀬は、少しだけ笑った。


 まだ目は赤い。


 声も掠れている。


 でも、怒りだけではない顔になっていた。


 泣いたあとの、少し空っぽで、少し柔らかい顔。


 僕は、その顔を見て思った。


 泣くことは、世界を壊さない記録なのかもしれない。


 涙は紙に残らない。

 録音にも残りにくい。

 でも、泣いた人の中に確かに残る。


 黒瀬は、ロッカーを閉めた。


 鍵をかける。


 かちり。


 やっぱり普通の音だった。


「普通の音、少し嫌じゃなくなった」


 黒瀬が言った。


「なぜですか」


「普通の音で閉じられるなら、また普通の音で開けられる気がするから」


「良い考えですね」


「泣いたから少し賢くなった」


「涙で賢くなるんですか」


「知らない。今作った」


 しずくが微笑んだ。


「黒瀬さんは、今も黒瀬さんです」


「うん」


 黒瀬は頷いた。


「怒ってなくても?」


「はい」


「泣いてても?」


「はい」


「ぐちゃぐちゃでも?」


「はい」


 黒瀬は、少しだけ照れたように笑った。


「なら、よし」


 その時、僕のスマホが震えた。


【第19話 黒瀬依子が泣く日】


 その下に、次の通知。


【第20話 僕がいない朝】


 黒瀬が画面を覗き込み、顔をしかめた。


「次、最終回っぽいタイトル」


「第二章の」


「水無月さんが、ほぼ消える回?」


「おそらく」


「嫌だなあ」


「はい」


「でも、今なら少しわかる」


「何がですか」


 黒瀬は、手の中の紙を見た。


 あ。


 三人目の名前の一文字目。


「泣いても、次に行ける」


 彼女は言った。


「だから、次も行く」


 しずくが頷く。


「一緒に」


「うん」


 僕も頷いた。


「一緒に」


 ロッカー棟を出ると、空は曇っていた。


 雨はまだ降っていない。


 けれど、遠くの空に、ひとすじだけ白い光が見えた。


 朝なのか、昼なのか、夜の前触れなのか、もうわからない。


 黒瀬は、鍵を鞄にしまい、代わりにメロンパンの袋を取り出した。


 空っぽの袋。


 それを見て、小さく言った。


「あ、から始まる名前」


 風が吹いた。


 袋がかさりと鳴る。


 それは返事ではなかった。


 でも、黒瀬は少しだけ笑った。


「まだ思い出さない」


 彼女は言った。


「でも、忘れたままにもしてやらない」


 その言葉は、怒りではなく、約束に聞こえた。


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