第20話 僕がいない朝
ロッカー棟を出た時、僕は少し軽くなっていた。
気分の話ではない。
体重の話に近い。
足が地面に触れている感覚が薄い。
風が身体の中を通り抜けるような気がする。
手の甲に書かれた「共有」と「欄外受理」の文字も、さっきより遠い。
黒瀬依子が泣いた。
怒ることで立っていた彼女が、怒れなくなって、泣いて、それでも立ち上がった。
それは大事なことだった。
とても大事なことだった。
だからだろうか。
世界は、次に僕を消すことにしたらしい。
「ミナト?」
黒瀬が振り返った。
彼女の目はまだ赤い。
泣いたあと特有の、少し腫れたまぶた。
髪も少し乱れている。
でも、その顔には、さっきまでとは違う硬さがあった。
泣いた人間の顔だ。
弱くなったのではない。
余計な力が抜けただけ。
「はい」
僕は返事をした。
声が少し遅れて出た。
黒瀬の表情が変わる。
「今、返事遅かった」
「そうですか」
「そう。あと、声が薄い」
「声が薄いとは」
「水で割ったみたいな声」
「嫌な表現ですね」
「今の水無月さんにぴったり」
黒瀬はすぐに僕の手を掴もうとした。
指がすり抜けた。
一度目。
二度目。
三度目。
四度目で、ようやく触れた。
彼女は息を呑む。
「……やばい」
「黒瀬」
「やばいって言ってる場合じゃないのに、やばいしか出てこない」
しずくも、僕の袖を掴もうとする。
今の彼女は、かなり人間に近い。
白いスニーカー。
絆創膏の貼られたかかと。
脈の打つ手首。
赤くなる頬。
クリームパンを食べた舌。
でも、その指先は僕の袖を一度だけすり抜けた。
しずくの顔が、真っ青になる。
「透真さん」
僕の名前を呼ぶ。
その呼び方は、確かに僕に届いた。
けれど、遠い。
遠い場所から手紙を受け取ったような感じだった。
「はい」
僕は答えた。
しずくは、ほっとする前に泣きそうになった。
「返事をしてください。何度でも」
「はい」
「透真さん」
「はい」
「透真さん」
「はい」
黒瀬も続ける。
「水無月さん」
「はい」
「ミナト」
「はい」
「欄外」
「はい」
「朝」
その呼び方だけ、胸の奥が冷えた。
足元が消えかける。
黒瀬が慌てて叫んだ。
「違う、今のなし! 朝はまだ駄目!」
「候補としては」
「候補でも今は駄目! 水無月さん! ミナト! 透真さん! この辺で踏ん張って!」
「踏ん張り方がわかりません」
「足に力入れて!」
「足が薄いです」
「本当に嫌な返事!」
黒瀬は僕の手を握り直した。
今度は、指先だけ触れる。
それでも彼女は離さなかった。
僕たちはロッカー棟の前に立っていた。
空は曇っている。
雨は降っていない。
しかし、地面に水たまりができていた。
空から落ちてきた水ではない。
僕の足元から、雨が滲み出している。
その雨は、地面に広がるのではなく、上へ向かって落ちていた。
ぽつ。
ぽつ。
地面から空へ。
「また逆さ雨」
黒瀬が言った。
「第1話みたい」
「はい」
しずくは、逆さに落ちる雨を見て震えた。
「これは、透真さんが朝に戻りかけている雨です」
「朝に戻るって何?」
「人間ではなく、神様が死ぬ場所に戻るということです」
「水無月さんが、場所になるってこと?」
「はい」
黒瀬は、露骨に嫌な顔をした。
「駄目。人を場所にしないで」
「もう、だいぶ場所寄りです」
僕が言うと、黒瀬は泣き腫らした目で睨んだ。
「本人が諦めるな」
「諦めてはいません」
「じゃあ、もっと嫌がって」
「嫌です」
「薄い!」
「嫌です」
「もっと!」
「嫌です!」
少し大きな声を出すと、胸の奥が痛んだ。
黒瀬が、ほんの少し笑った。
「よし。嫌がれるならまだ人間」
「判断基準が雑です」
「雑でいいの。神様や白紙先生みたいに細かい理屈で消されるくらいなら、雑に生き残った方がいい」
その時、僕のスマホが震えた。
画面を見る。
【第20話 僕がいない朝】
その下に、選択肢が表示された。
あなたの名前を選んでください。
水無月透真
雨宮透真
朝
黒瀬が、スマホを見た瞬間に声を荒げた。
「また三択!」
「増えていませんね」
「減ってるの! 欄外もミナトも透真さんも水無月さんも消されてる!」
しずくが震える声で言う。
「選んではいけません」
「でも、選ばないと」
僕が言うと、画面に次の文字が浮かぶ。
選択しない場合、未定のまま白紙へ戻ります。
黒瀬が、奥歯を噛んだ。
「白紙先生……」
「関係しているのでしょうか」
「絶対してる。あの先生、補講までしてきた」
スマホの画面が、さらに変わる。
水無月透真を選んだ場合
あなたは人間社会へ戻ります。
ただし、雨宮しずくが覚えている雨宮透真は消えます。
雨宮透真を選んだ場合
あなたは雨宮しずくの物語へ戻ります。
ただし、黒瀬依子が守っていた水無月透真は消えます。
朝を選んだ場合
神様は明日から死にません。
ただし、あなたは人間ではなくなります。
しずくが、僕の袖を掴んだ。
今度は触れた。
でも、彼女の手が震えている。
「透真さん」
「はい」
「雨宮透真を選ばないでください」
僕は彼女を見た。
「いいんですか」
「よくありません」
しずくの目に涙が浮かぶ。
「よくありません。私は、雨宮透真さんを失くしたくありません。押し入れで死んでいたあの人も、私を愛していたかもしれない人も、いなくなってほしくありません」
「はい」
「でも、今の透真さんを私の物語に閉じ込めるのは、もっと嫌です」
彼女は、白いワンピースの胸元を握りしめた。
とくん、と心臓が打つ音がした気がした。
「私は、人間になりたいです。でも、透真さんを人間でなくしてまで人間になりたいわけではありません」
黒瀬も言った。
「水無月透真を選ぶのも駄目」
「黒瀬」
「正直、選んでほしい気持ちはある」
彼女は、僕から目を逸らさなかった。
「私は、水無月さんを水無月さんとして大学に戻したい。名簿に載せたい。学生証に名前を戻したい。お母さんに、あなたの子ですって言いたい。教授にも欄外じゃなくて正式に書いてほしい」
「はい」
「でも、それでしずくさんの痛みとか、雨宮透真とか、朝としての責任が消えるなら、違う」
黒瀬は、泣いたあとの声で言った。
「私は、私の呼び方だけが勝つのは嫌」
僕は、二人を見る。
しずく。
黒瀬。
そして、スマホに表示された三択。
水無月透真。
雨宮透真。
朝。
一つ選べば、他が死ぬ。
選ばなければ、僕が白紙へ戻る。
いつもそうだ。
この世界は、選ばせる。
プリンを食べるか。
笑わせるか。
猫に謝るか。
死体を笑わせるか。
第7話を探すか。
名前を書くか。
選べば壊れる。
選ばなくても壊れる。
そして、人間はその間で、何とか雑に息をする。
「黒瀬」
「何」
「しずくさん」
「はい」
「僕は、たぶん一つを選びません」
黒瀬が頷いた。
「うん」
しずくも頷く。
「はい」
「でも、選ばないまま白紙に戻るのも嫌です」
「うん」
「だから」
僕は、スマホを見た。
選択肢は三つ。
水無月透真。
雨宮透真。
朝。
僕は、その画面に指を近づけた。
黒瀬が息を止める。
しずくの手に力が入る。
でも、僕は選択肢を押さなかった。
画面の余白に指を置いた。
スマホが震える。
文字入力欄が現れた。
欄外入力。
黒瀬が、泣きそうな顔で笑った。
「出た、欄外」
「白紙先生への意趣返しです」
「いいね。先生に提出してやろう」
僕は、震える指で文字を打とうとした。
でも、指が画面をすり抜ける。
僕の存在が薄すぎる。
スマホに触れない。
「駄目だ」
黒瀬がすぐに僕の手に自分の手を重ねた。
「一緒に」
しずくも、反対側から手を重ねる。
僕たち三人の手。
共有。
欄外受理。
薄れた文字が、ほんの少し濃くなる。
黒瀬が言う。
「私が打つ。でも文章は水無月さんが言って」
「はい」
「しずくさん、名前が遠くなったら呼んで」
「はい」
僕は、息を吸った。
自分の存在が、紙の端から剥がれかけているような感覚がある。
でも、黒瀬の手がある。
しずくの手がある。
だから、まだ少しだけ言葉が出る。
「僕は」
黒瀬が打つ。
僕は。
「黒瀬依子に水無月さんと呼ばれた時」
黒瀬の指が止まる。
彼女は一瞬だけ泣きそうになって、それでも打つ。
黒瀬依子に水無月さんと呼ばれた時、
「雨宮しずくに透真さんと呼ばれた時」
しずくの目から涙が落ちる。
雨宮しずくに透真さんと呼ばれた時、
「消えた三人目にミナトと呼ばれた時」
黒瀬の肩が震える。
消えた三人目にミナトと呼ばれた時、
「母さんの雨の日に置いてきた子である時」
文字が少し滲む。
母さんの雨の日に置いてきた子である時、
「神様の前で朝である責任を引き受ける時」
神様の前で朝である責任を引き受ける時、
「そして」
僕は、一度言葉を止めた。
黒瀬が振り返る。
「そして?」
しずくも僕を見る。
僕は、ロッカー棟の空を見上げた。
この話を読んでいる誰か。
いるのかどうかもわからない。
でも、第一章で「読者を逃がさないでください」と遺言は言った。
読まれない物語は死ぬ。
読者が閉じると、しずくが死ぬ。
なら、今ここで僕を見ている誰かも、僕の名前を少しだけ持っているのかもしれない。
「誰かに、まだ読まれている時」
黒瀬が、その言葉を打った。
誰かに、まだ読まれている時、
最後に僕は言った。
「僕は、水無月透真になる」
黒瀬が打つ。
僕は、水無月透真になる。
文章が完成した。
欄外入力欄に、長すぎる名前の条件が書かれている。
スマホは震え続けている。
画面に警告が出る。
名前が長すぎます。
名前は一つにしてください。
黒瀬が、即座に怒鳴った。
「嫌です!」
しずくも、涙声で言った。
「一つにはしません」
僕も言った。
「一つにしたら、誰かが死ぬので」
画面が真っ白になった。
白紙。
そこに、白紙先生の文字が浮かぶ。
欄外回答です。
採点不可。
ただし、未提出ではありません。
黒瀬が、笑った。
「またそれ」
白紙の文字は続く。
関係名として、暫定受理します。
その瞬間、僕の身体に重さが戻った。
足元が地面に触れる。
風が身体の中を通り抜けなくなる。
黒瀬の手が、完全に僕の手を掴む。
しずくの指も、袖ではなく僕の手首に触れている。
心臓の音がした。
僕のものなのか。
しずくのものなのか。
もうわからない。
「戻った?」
黒瀬が聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて、もっと自信持って」
「戻りました」
「よし」
黒瀬は、その場に座り込みそうになった。
僕としずくが支える。
「今度は黒瀬が消えそうですね」
「消えない。疲れただけ」
「泣いたあとに名前会議の延長戦でしたから」
「本当に疲れた。今日だけで人生三回分くらい疲れた」
しずくが、僕の手首を握ったまま言った。
「透真さん」
「はい」
「呼べます」
「はい」
「透真さん」
「はい」
「……よかった」
彼女は、笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「しずくさん?」
僕が呼ぶと、彼女は少しだけ首を傾げた。
「はい」
「どうしました」
「今」
しずくは、自分の胸に手を当てた。
「何かが、欠けました」
その瞬間、黒瀬の鞄の中で恋文の封筒が震えた。
黒瀬は慌てて封筒を取り出す。
黒瀬依子様。
差出人は、最初から黒塗りだった。
でも、今、その黒塗りがさらに濃くなっていた。
名前の一文字目すら、読み取れない。
さっきロッカーで見つけた「あ」。
黒瀬が持っていた紙を見る。
そこには、確かに「あ」と書かれていたはずだった。
しかし。
紙は白紙になっていた。
黒瀬の顔から血の気が引く。
「……あ、が」
声が震える。
「消えた」
僕は、胸が冷えるのを感じた。
僕の名前が関係名として暫定受理された。
その代償として。
黒瀬が取り戻したばかりの三人目の一文字目が消えた。
「嘘」
黒瀬は紙を裏返す。
何もない。
封筒を見る。
黒塗り。
日記を開こうとする。
鞄の中の黒い日記の表紙が、少しだけ重くなっていた。
黒瀬は震える手で開く。
さっき読んだページ。
俺の名前の一文字目は、このロッカーにある。
その行だけが、黒く塗り潰されていた。
黒瀬は、しばらく何も言わなかった。
泣かない。
怒らない。
ただ、紙を見ていた。
僕は、言葉を失った。
僕が戻った。
その代わりに、彼の名前が遠ざかった。
「黒瀬」
僕が言うと、彼女は顔を上げた。
泣いていなかった。
怒ってもいなかった。
その顔が、一番怖かった。
「水無月さん」
「はい」
「今、自分だけ悪いって顔しないでって、さっき言ったよね」
「はい」
「今も言う」
「……はい」
「しないで」
「でも」
「でもじゃない」
黒瀬は、紙を握った。
「これは、世界の性格が悪い。水無月さんが戻ったから、あいつの名前が消えた。そういうふうに見える。そう見せてる。でも、それをそのまま受け取ったら、また水無月さんは全部自分のせいにする」
「はい」
「だから、今は保留」
「保留」
「そう。怒るのも泣くのも後でする。今は、保留」
黒瀬は、白紙になった紙を丁寧に折った。
封筒に入れる。
「思い出した一文字が消えたなら、また探す」
「はい」
「恋文も残ってる。日記もある。写真もある。メロンパンもある。私が泣いたことも残ってる」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
「ここに」
しずくが、静かに言った。
「黒瀬さん」
「何」
「今の黒瀬さんは、とても強いです」
「やめて。泣きそうになる」
「泣いてもいいです」
「今日はもう泣いたから、少し休む」
「はい」
しずくは頷いた。
その時、僕は気づいた。
しずくの名前。
雨宮しずく。
その中の「し」が、僕のスマホの表示から消えていた。
連絡先。
共有記録。
画面にはこう表示されている。
雨宮ずく
「……しずくさん」
僕が呼ぶと、彼女は振り返った。
「はい」
普通に返事をする。
でも、手の甲の「共有」の文字の横に、小さな空白ができていた。
僕は言葉に詰まる。
黒瀬も画面を見た。
「し、がない」
しずくは、少しだけ困ったように笑った。
「私の名前も、欠けたのですね」
「笑うところじゃない」
黒瀬が言う。
声が震えている。
「しずくさん、自分のことになるとすぐ雑にする」
「すみません」
「謝らないで。いや、謝るなじゃなくて、もっと大事にして」
「はい」
しずくは、自分の胸に手を当てた。
「でも、不思議です」
「何が」
「名前が一文字欠けたのに、私はまだここにいます」
「それは、いいこと」
「はい」
彼女は僕を見た。
「透真さんが戻ったからです」
「僕のせいで、あなたの名前が欠けました」
「違います」
しずくは、はっきり言った。
「透真さんが戻ったから、私は自分の名前が欠けたことに気づけました。気づけたものは、また探せます」
黒瀬が、しずくを見た。
「しずくさん、今の、私の真似?」
「少し」
「かなり良かった」
「ありがとうございます」
「でも、名前の一文字は絶対探す」
「はい」
僕は、二人を見た。
黒瀬は三人目の一文字を失った。
しずくは自分の名前の一文字を失った。
僕は戻った。
勝ったとは言えない。
でも、全滅ではない。
それが今朝の僕たちに許された、ぎりぎりの成果だった。
スマホがまた震えた。
【第二章 僕がいない朝 完了】
その下に、白い文字。
【第三章 雨宮しずくが主人公だった世界】
しずくの表情が止まった。
「私が」
彼女は呟いた。
「主人公」
黒瀬が眉を寄せる。
「今度は、しずくさんの番?」
画面に、新しい文章が浮かぶ。
次の朝、語り手が変わります。
水無月透真は、雨宮しずくの物語に登場する「神様の死体を見つける係」になります。
僕は、息を止めた。
しずくは、画面を見つめたまま、震える声で言った。
「透真さん」
「はい」
「もし、次の章で私があなたを書いていたとしても」
「はい」
「私を、嫌いにならないでください」
黒瀬が、すぐに言った。
「そこは、疑うところでしょ」
「はい」
しずくは頷いた。
「疑ってください。でも、嫌いにならないでください」
その言い方が、ひどくしずくらしかった。
僕は答えた。
「嫌いになるかは、保留で」
しずくが目を丸くする。
黒瀬が吹き出した。
「そこ保留にする?」
「正直に言うと、まだ何が出てくるかわからないので」
「水無月さん、たまに優しさが変な方向に現実的」
しずくは少しだけ拗ねたような顔をした。
人間に近い表情だった。
「では、嫌いにならない努力をしてください」
「はい」
「私も、自分が何を書いたのか思い出す努力をします」
「はい」
黒瀬が、二人の間に割って入るように言った。
「私は、二人が急に物語とか主人公とか言い出しても、人間関係の面倒なところを忘れない係をやる」
「それは助かります」
「でしょ。物語とか神様とかになると、みんなすぐ死ぬとか消えるとか選ぶから。ご飯食べる、靴ずれ見る、泣いたら休む、名前は一人で決めない。そこを私が言う」
しずくが、そっと笑った。
「黒瀬さんは、私たちの人間係ですね」
「その役職、もう否定しづらくなってきた」
空から、雨が一粒だけ落ちた。
今度は、ちゃんと上から下へ。
しずくの頬に当たる。
彼女はその雨粒に触れた。
「雨です」
「はい」
「私は、雨宮ずくになってしまいました」
黒瀬が即座に言う。
「それ、自虐で言わない」
「すみません」
「名前欠けても、しずくさんはしずくさん。今は私が“し”を預かる」
「黒瀬さんが?」
「そう」
黒瀬は油性ペンを取り出し、自分の手の甲に大きく書いた。
し
その隣に、共有。欄外受理。
しずくは、それを見て目を潤ませた。
「ありがとうございます」
「預かるだけ。返すから」
「はい」
僕も、自分の手の甲に書いた。
し
しずくが、僕を見る。
「透真さんも」
「共有なので」
しずくは、少しだけ泣いた。
でも今度は、消える雨ではなく、人間の涙に見えた。
第二章は終わった。
僕は、完全には戻っていない。
黒瀬は、失った一文字をまた失った。
しずくは、自分の名前を一文字欠いた。
それでも、僕たちは三人で立っていた。
いや。
正確には、四人目の呼び方もどこかに残っている。
ミナト。
その名前が、まだ僕の胸の奥で鳴っている。
雨が降り始めた。
次の章は、雨宮しずくの物語になるらしい。
僕が主人公ではなくなる朝。
それが、もうすぐ来る。




