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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第21話 雨宮ずくの朝

 雨が降っていました。


 空から、ちゃんと下へ。


 それだけのことが、私には少し不思議でした。


 雨は上へ落ちるものだと思っていたわけではありません。

 けれど、私たちの朝では、雨は何度も間違った方向へ落ちました。

 床から天井へ。

 水たまりから雲へ。

 死体から遺言へ。

 昨日から明日へ。


 だから、窓の外で雨が普通に落ちているのを見ると、私はかえって落ち着かなくなります。


 普通というものは、とても怪しい。


 黒瀬さんなら、たぶんそう言います。


 私はベッドの端に座っていました。


 自分の部屋ではありません。


 透真さんの部屋です。


 いえ。


 水無月さんの部屋です。


 ミナトさんの部屋です。


 欄外の方の部屋です。


 朝の部屋です。


 どの呼び方を選んでも少し違って、どれも少し正しい。


 第二章の最後、私たちはそう決めました。

 名前は一つにしない。

 呼ぶ人との関係ごとに持つ。

 正式な答えではありません。

 白紙先生なら、たぶん採点不可にします。


 でも、未提出ではありません。


 私は、自分の手の甲を見ました。


 そこには黒瀬さんの字で「し」と書かれています。


 その下に、私自身の手で書き直した「共有」。

 さらに、その横に薄くなった「欄外受理」。


 「し」は、私の名前から抜け落ちた一文字です。


 雨宮しずく。


 だったはずです。


 でも今、私の名前は少し欠けています。


 雨宮ずく。


 口に出すと、とても変です。


 何かを言い損ねたみたいな名前。

 誰かが途中で息を止めたみたいな名前。

 小さな子供が、覚えたての言葉を間違えたみたいな名前。


 それでも、私はここにいます。


 手首には脈があります。

 胸の奥では心臓が動いています。

 かかとには、靴ずれがまだ少し痛いです。

 黒瀬さんが貼ってくれた絆創膏は、端がめくれています。


 私は、人間に近づいています。


 嬉しいです。


 怖いです。


 この二つは、同時にあります。


 昔の私なら、同時にあるものを一つにしようとしていたかもしれません。

 嬉しいなら嬉しいだけ。

 怖いなら怖いだけ。

 でも人間は、同時に持つようです。


 嬉しいのに怖い。

 好きなのに疑う。

 怒っているのに大切。

 忘れたいのに忘れたくない。


 面倒です。


 でも、その面倒さを私は少しだけ好きになり始めています。


「しずくさん」


 声がしました。


 私は顔を上げます。


 透真さんが、机のそばに立っていました。


 彼の輪郭は、昨日より濃く見えます。

 けれど完全ではありません。

 朝の光が彼の身体を少しだけ通り抜けているように見えます。


「はい」


 私は返事をしました。


 返事をしてから、少し安心します。


 呼ばれた。

 答えられた。

 まだ私は、私として返事ができる。


 でも透真さんは、ほんの少し眉を寄せました。


「今、名前を呼んでも大丈夫でしたか」


「大丈夫です」


「本当に?」


「少しだけ、胸の中がひっかかりました」


「大丈夫ではないのでは」


「でも、呼ばれない方がもっと嫌です」


 透真さんは困ったような顔をしました。


 この顔を、私は何度も見ています。


 困っているのに、少しだけ優しい顔。


 自分が傷つくことより、相手を傷つけることを先に怖がる顔。


 私は、その顔が好きです。


 好き、という言葉を使うと、胸が少し熱くなります。


 これは設定でしょうか。


 ヒロインとして配置されたから、好きなのでしょうか。


 それとも、今ここにいる私が、ちゃんと好きなのでしょうか。


 まだ、わかりません。


 でも、好きという感じはあります。


 それは今のところ、消えていません。


「透真さん」


「はい」


「私、今、好きという言葉について考えていました」


「そうですか」


「透真さんのことを好きなのは、設定かもしれません」


「……朝から重いですね」


「はい」


「黒瀬が聞いたら、まず朝ごはんを食べろと言いそうです」


「言いそうです」


 私は少し笑いました。


 透真さんも少し笑いました。


 その時、部屋の玄関から声がしました。


「言うわよ」


 黒瀬さんでした。


 鍵を使わず、普通に玄関から入ってきました。


 いえ、普通ではありません。


 この部屋の鍵を、黒瀬さんがいつ持っていたのか私は知りません。


 でも、彼女は当然のようにドアを開け、傘を畳みながら中へ入ってきました。


 濡れた髪。

 赤い目は、昨日ほどではありませんが、まだ少し腫れています。

 手にはコンビニの袋。


「朝から好きが設定かどうか会議する前に、食べる。人間は空腹で哲学するとろくな方向に行かない」


「黒瀬さん、おはようございます」


「おはよう、しずくさん。あと、水無月さんも」


「おはようございます」


 透真さんが答えました。


 黒瀬さんは、彼をじっと見ました。


「見えてる。聞こえてる。輪郭は八割くらい。昨日よりはまし。でも油断したら消えそう」


「健康診断みたいですね」


「存在診断よ」


 黒瀬さんはコンビニ袋を机に置きました。


 中から出てきたのは、おにぎり、卵サンド、プリン、ミルクティー、そしてメロンパンでした。


 メロンパンを見た時、部屋の空気が少しだけ止まりました。


 黒瀬さん自身も、少しだけ止まりました。


 でも、すぐに息を吐きます。


「買った」


「……はい」


 透真さんが、静かに言いました。


「いいんですか」


「いいかどうかは知らない。でも避けてたら、ずっと避けることになるから」


 黒瀬さんはメロンパンを見下ろしました。


「それに、あいつが好きだったかもしれないものを、怖いものにしたままにしたくない」


 声は少し震えていました。


 でも、昨日ロッカーで泣いていた時とは違います。


 ちゃんと立っています。


 怒りだけではなく、泣いたことも一緒に持って立っているように見えます。


 私は、黒瀬さんを見て思いました。


 この人は強い。


 でも、強いと言うと怒るかもしれません。


 だから、別の言葉を探しました。


「黒瀬さんは、泣いたあとも黒瀬さんですね」


「朝から何その確認」


「大切なので」


「……うん」


 黒瀬さんは少しだけ目を逸らしました。


「まあ、泣いたくらいで別人になってたまるかって感じはある」


「はい」


「でも昨日より、ちょっとだけ弱いかも」


「弱いですか」


「うん」


 黒瀬さんはメロンパンの袋を指で撫でました。


「でも、弱い方が覚えていられるものもある気がする」


 私はその言葉を、手の甲の「し」と一緒に覚えておこうと思いました。


 黒瀬さんは、プリンを私の前に置きました。


「しずくさんはプリン」


「ありがとうございます」


「あと、卵サンド半分食べる?」


「食べられるでしょうか」


「食べられるようになってるなら試す。無理だったら残していい。人間は残すこともある」


「残していいのですか」


「場合による。でも今日はいい」


「今日はいい」


「そう。今日は特例だらけだから」


 私はプリンの蓋を見つめました。


 第1話の遺言を思い出します。


 プリンを食べてください。


 ただし、食べた人間は昨日になります。


 あの時、私は死体でした。


 半分だけ死に損ねた神様でした。


 今は、自分でプリンの蓋を開けることができます。


 指先が蓋に触れます。


 ぺり、と音がして、蓋が剥がれました。


 その音が、あまりにも普通で、私は少し泣きそうになりました。


「しずくさん?」


 黒瀬さんがすぐに気づきます。


「どうしたの。開かなかった?」


「開きました」


「なら何で泣きそうなの」


「開いたからです」


 黒瀬さんは一瞬考えて、それから小さく頷きました。


「そっか」


「はい」


「じゃあ、泣いていいやつ」


「泣いていいのですか」


「プリンの蓋が開いて泣くの、ちょっと変だけど、今日の私たちなら全然あり」


 透真さんが言いました。


「プリンの蓋は、第一章から続く重要アイテムですから」


「水無月さん、急に評論家になるのやめて」


「すみません」


「でも、ちょっと合ってるのが腹立つ」


 私はスプーンでプリンをすくいました。


 口に入れます。


 甘い。


 冷たい。


 少しだけ卵の匂い。


 以前のプリンとは違いました。


 遺言の味ではありません。


 普通の、コンビニのプリン。


「おいしいです」


「よかった」


 黒瀬さんが、少し安心した顔をしました。


「人間になったら、味がわかるんですね」


「神様の時は違ったの?」


「意味が先に来ました」


「意味?」


「プリンなら、遺言。雨なら、死。猫なら、返せ。そういう意味が先に来て、味や匂いや痛みはあとでした」


「今は?」


「今は、プリンが甘いです」


 黒瀬さんは、しばらく私を見ていました。


 それから、少しだけ笑いました。


「それ、いいね」


「いいですか」


「うん。意味より先に甘いの、たぶん大事」


 私は、もう一口プリンを食べました。


 意味より先に甘い。


 それは、私が人間に近づいている証拠なのかもしれません。


 その時、透真さんが机の上のスマホを見ました。


 画面が勝手に光っています。


 私は少し身構えました。


 スマホの文字は、いつも大事なことを嫌なタイミングで知らせます。


 画面には、こう表示されていました。


【第三章 雨宮しずくが主人公だった世界】


 その下に、さらに文字が浮かびます。


【第21話 雨宮ずくの朝】


 雨宮ずく。


 自分の欠けた名前を表示されると、胸の奥が少し痛みました。


 黒瀬さんが、すぐに言います。


「嫌な表示。し、を抜くな」


 彼女は油性ペンを取り出し、スマホ画面に直接「し」と書こうとしました。


「黒瀬さん、画面に書くと」


「わかってる。書かない。今、書きたい気持ちを見せただけ」


「かなり書きそうでした」


「八割書く気だった」


 透真さんが苦笑します。


「黒瀬らしいですね」


「うるさい欄外」


「欄外がまた悪口に」


 私はスマホを見ました。


 次の文字が浮かびます。


 次の朝、語り手が変わります。


 もう、変わっています。


 私は、その文字を見て、息を止めました。


「語り手」


 黒瀬さんが言います。


「そういえば、何か今日、しずくさんが喋ってる感じする」


「喋っています」


「いや、会話じゃなくて。もっと奥の方で」


 黒瀬さんは自分の額を指で叩きました。


「地の文っていうの? 普段は水無月さんの淡々とした変な語りだったのに、今日はしずくさんの声が聞こえる感じ」


 透真さんが、少し不安そうに私を見ました。


「僕は、今、語っていないんですか」


「少なくとも、今の主語はしずくさんっぽい」


「主語」


「そう。物語の席替え」


「席替えで済む話でしょうか」


「済まないけど、そう言わないと怖いじゃん」


 私は自分の胸に手を当てました。


 心臓が動いています。


 とくん。


 とくん。


 そして、その奥に、もう一つ別の音があります。


 紙にペンを走らせる音。


 さらさら。


 さらさら。


 誰かが、私の中で何かを書いているような音。


「私」


 声が少し震えました。


「私が、書いているのでしょうか」


 透真さんも黒瀬さんも黙りました。


 部屋の外では雨が降っています。


 ちゃんと下へ。


 けれど、部屋の中だけ、少しだけ雨の方向が曖昧になりました。


 床に落ちたはずの雨音が、天井から返ってくるような気がします。


「しずくさん」


 透真さんが言いました。


「今、何が見えますか」


「見える、というより」


 私は目を閉じました。


 雨の匂い。

 団地の階段。

 黄色い傘。

 白い猫。

 幼い透真さん。


 でも、それは第一章で透真さんが思い出した記憶とは少し違いました。


 あの時、透真さんは母親に手を引かれて階段を下りました。

 私を置いて。


 今見えるのは、そのあとです。


 私は階段の踊り場に残っていました。


 白い猫を抱いています。


 胸にはまだ透明な傘は刺さっていません。


 私は泣いていませんでした。


 ただ、幼い透真さんが階段を下りていく背中を見ていました。


 そして、小さなノートを持っていました。


 濡れても滲まない、不思議なノート。


 そこに、私は書いていました。


 透真さん。


 何度も。


 何度も。


 透真さん。

 透真さん。

 透真さん。


「……私も」


 私は目を開けました。


「私も、透真さんの名前を書いていました」


 黒瀬さんの顔が変わります。


「しずくさんも?」


「はい」


「水無月さんを?」


「透真さんを」


 私は訂正しました。


 なぜ訂正したのか、自分でも少し不思議でした。


 でも、あのノートに書かれていたのは、水無月透真ではありません。


 透真さん。


 私が呼ぶ名前。


「私は、雨の日にだけ私を見つけてくれる男の子を、忘れたくありませんでした」


 透真さんは、机の端に手を置きました。


 その手が少しだけ透けています。


「それで、僕を書いたんですか」


「まだ、わかりません」


「はい」


「でも、書いていました。何度も。透真さんが帰ったあとも。透真さんが私をいないと言ったあとも」


 自分で言って、胸が痛みました。


 いないと言われた痛み。


 でも、それだけではありません。


 私が透真さんを書き続けた怖さ。


 忘れたくないから書く。

 読まれたいから書く。

 自分を見つけてくれる人を、紙の上に残す。


 それは、黒瀬さんの記録に似ています。


 黒瀬さんも、それに気づいたようでした。


「……私の記録癖と似てる」


「はい」


「しずくさんも、忘れたくなかったんだ」


「はい」


「それで、書いた」


「はい」


「書きすぎると、どうなるの?」


 私は答えられませんでした。


 でも、胸の奥のペンの音が強くなります。


 さらさら。


 さらさら。


 私が書いているのか。

 昔の私が書いているのか。

 それとも、私を主人公にした誰かが書いているのか。


 わかりません。


 透真さんが、静かに言いました。


「僕は、しずくさんに書かれたから、ここにいるんでしょうか」


「透真さん」


 黒瀬さんがすぐに割って入ります。


「その顔、駄目」


「どんな顔ですか」


「自分が作り物だったかもしれないって、静かに受け入れようとしてる顔」


「受け入れようとは」


「してる」


 黒瀬さんは卵サンドを僕に押しつけました。


「食べて」


「今ですか」


「今。作り物かどうか考える前に食べて。食べられるなら、とりあえず今ここにいる」


「かなり雑な存在証明ですね」


「雑でいいの。カレーでもサンドでも、食べるやつはだいたい現実」


 透真さんは少し迷ってから、卵サンドを受け取りました。


 食べます。


 噛む。

 飲み込む。


 黒瀬さんが真剣に確認します。


「味は?」


「卵です」


「雑!」


「マヨネーズが少し多いです」


「よし。人間」


 透真さんは、少しだけ笑いました。


 その笑顔を見て、私は安心しました。


 でも同時に、怖くなりました。


 もし私が彼を書いたのなら。

 この笑顔も、私が書いたのでしょうか。


 違うと思いたい。


 でも、完全には否定できません。


 私はプリンのスプーンを置きました。


「透真さん」


「はい」


「もし、私があなたを書いていたら、怒りますか」


 透真さんは、すぐには答えませんでした。


 黒瀬さんも黙ります。


 雨の音だけがします。


 やがて、透真さんは言いました。


「怒るかどうかは、まだわかりません」


「はい」


「でも、怖いです」


「はい」


「自分が誰かに書かれた存在かもしれないと思うのは、かなり怖い」


 胸が痛みました。


 私は謝ろうとしました。


 けれど、その前に黒瀬さんが言いました。


「しずくさん、すぐ謝らない」


 私は口を閉じます。


「まだ確定してない。あと、謝ると楽になる時がある。水無月さんにも言ったけど」


「はい」


「今は、謝る前に確認」


「確認」


「そう。何を書いたのか。何で書いたのか。書いた結果、何が起きたのか。そこを見ないでごめんなさいだけ言うのは、たぶん逃げ」


 黒瀬さんの言葉は、痛かったです。


 でも、必要な痛みでした。


 靴ずれに似ています。


 痛いけれど、自分の足があることを教えてくれる。


「わかりました」


 私は頷きました。


「謝るのは、確認してからにします」


「うん」


「でも、先に一つだけ言ってもいいですか」


「何?」


 私は透真さんを見ました。


「もし私があなたを書いていたとしても、あなたを物にしたかったわけではありません」


 言ってから、すぐに足りないと思いました。


「でも、それは言い訳かもしれません」


 黒瀬さんが、少しだけ頷きました。


「いいと思う」


「いいのですか」


「言い訳かもしれないって自分で言えるなら、まだ大丈夫」


 透真さんは、卵サンドを持ったまま言いました。


「僕も、もし自分が書かれた存在だとしても、今すぐしずくさんを嫌いにはなれません」


「本当ですか」


「嫌いになるかは保留、と昨日言いました」


「その保留、まだ続いていますか」


「はい」


「……少し不安です」


「僕も不安です」


「正直ですね」


「黒瀬に嘘をつくなと言われているので」


 黒瀬さんが腕を組みます。


「そう。嘘ついたら怒る」


「でも」


 透真さんは、私を見ました。


「保留できるということは、まだ関係が続いているということだと思います」


 胸の奥が、少し温かくなりました。


 保留は、逃げではない時もある。


 決めないことで、相手を置いていかずに済むこともある。


 私はそれを、透真さんから学んだのかもしれません。


 いえ。


 私が透真さんに書いたのでしょうか。


 また考えが戻りそうになった時、黒瀬さんがパンと手を叩きました。


「はい、朝ごはん会議」


「会議ですか」


「しずくさんの主人公疑惑については、朝ごはん食べながら整理する。水無月さん、スマホ見せて」


 透真さんがスマホを差し出します。


 画面にはまだ文字が残っていました。


【第21話 雨宮ずくの朝】


 黒瀬さんは眉をひそめます。


「まず、このタイトルが嫌」


「私も少し嫌です」


「よし。ここに“し”を書きたいけど画面には書かない。代わりに私のノートに書く」


 黒瀬さんはノートを開きました。


 ページの上に、こう書きます。


 第21話 雨宮しずくの朝

 ※公式表示は「雨宮ずく」だが、こちらでは「し」を預かっているため補完する。


「黒瀬さん」


「何」


「ありがとうございます」


「どういたしまして。あと、公式って言ったけど、この世界の公式はわりと信用ならないから」


「公式を疑うのですね」


「疑う。非公式の手書きの方が信用できる時もある」


 黒瀬さんは、次に箇条書きを始めました。


 一、語り手がしずくさんになっている。

 二、しずくさんの名前から「し」が欠けている。

 三、しずくさんも昔、透真さんの名前を書いていた。

 四、水無月さんは書かれた存在かもしれない。

 五、でも今は卵サンドを食べている。

 六、プリンは甘い。


「五と六、必要ですか」


 透真さんが聞きます。


「必要」


 黒瀬さんは即答しました。


「こういう時、抽象的な話だけにすると危ない。食べたもの、痛いところ、手の文字、そういう具体的なのを混ぜる」


「記録が上手になっていますね」


「昨日暴走したから学習したの」


 黒瀬さんは自分の手の甲を見ました。


 共有。

 欄外受理。

 し。


「一人で全部持たない。具体的なものも残す。あと、十回以上同じことを書き始めたら止める」


「はい」


 私は頷きました。


 その時、私の手のひらが熱くなりました。


「……あ」


「どうしたの」


 黒瀬さんがすぐに気づきます。


 私は手のひらを開きました。


 そこに、文字が浮かんでいました。


 黒い文字ではありません。


 雨粒が集まってできたような、透明な文字。


 あなたは、この物語の主人公でした。

 ただし、一度、主人公を譲っています。


 部屋の空気が止まりました。


 透真さんが、手に持っていた卵サンドをそっと置きます。


 黒瀬さんは、ノートにペン先を置いたまま固まりました。


「主人公を譲った」


 彼女が言います。


「誰に?」


 私は、その文字を見つめました。


 主人公でした。


 過去形。


 私は主人公だった。


 でも、一度、主人公を譲っている。


 誰に?


 そんなの、考えるまでもないのかもしれません。


 透真さん。


 私は、彼を見ました。


 彼も私を見ていました。


 その目には、不安と、少しの恐怖と、それでも逃げないための静かな力がありました。


「私が」


 声が震えます。


「透真さんに、主人公を譲ったのでしょうか」


 黒瀬さんが言いました。


「まだ決めない」


「はい」


「決めると、また何か死ぬ」


「はい」


「でも、逃げない」


「はい」


 私は、自分の手のひらの文字を見つめました。


 主人公。


 その言葉は、重いです。


 神様よりも、ヒロインよりも、死体よりも、少しだけ重い。


 主人公は、見つける人。

 選ぶ人。

 語る人。

 読まれる人。


 私は、それを一度持っていた。


 そして、誰かに譲った。


 それが透真さんなら。


 私は彼に何を渡したのでしょうか。


 物語でしょうか。


 朝でしょうか。


 神様の死体を見つける役でしょうか。


 それとも、死ぬことそのものでしょうか。


 雨が強くなりました。


 窓ガラスを叩きます。


 黒瀬さんが、深く息を吐きました。


「よし」


「何がよしなのですか」


「怖い時のよし」


「黒瀬さんのよしは、だいたい怖いです」


「私も怖い」


 彼女はノートを閉じました。


「今日は、しずくさんの記憶を見に行く」


「私の」


「そう。団地の雨の日。幼い水無月さん。白い猫。しずくさんのノート。そこに何が書いてあったのか確認する」


「どうやって」


 透真さんが聞きます。


 黒瀬さんは、少し考えました。


「雨に聞く」


「急に詩的ですね」


「違う。しずくさんが雨宮なんだから、雨に関係あるでしょ」


「かなり雑です」


「雑でいいの。あと、白い猫にも聞く」


 その瞬間、窓の外で猫の声がしました。


 にゃあ。


 私たちは一斉に窓を見ました。


 雨の中、ベランダの手すりに白い猫が座っていました。


 濡れていません。


 雨の中にいるのに、一滴も濡れていません。


 白い猫は、こちらを見ていました。


 金色の目。


 第一章の記憶にいた猫。


 名前を預かっている猫。


 私の「し」と、消えた三人目の「あ」を持っているかもしれない猫。


 黒瀬さんが立ち上がりました。


「来た」


 白い猫の首には、小さな紙が結ばれていました。


 紙には、こう書かれています。


 次は、書いた方の記憶。


 黒瀬さんが、窓を開けました。


 雨の匂いが部屋へ入ってきます。


 白い猫は、部屋には入らず、私だけを見ました。


 頭の中に声が届きます。


 返せ。


 でも、第一章の猫たちの声とは少し違いました。


 怒りだけではありません。


 これは、確認でした。


 何を返すのか。

 誰に返すのか。

 そもそも私は、何を持っていったのか。


 私は立ち上がりました。


 かかとの靴ずれが、少し痛みます。


 その痛みが、私を今に繋ぎ止めました。


「行きます」


 私が言うと、透真さんも立ち上がりました。


「僕も」


 黒瀬さんも言います。


「私も」


 白い猫は、また鳴きました。


 にゃあ。


 紙の裏側に、新しい文字が浮かびます。


 書いた者だけが、最初の行を読める。


 黒瀬さんが眉をひそめます。


「また一人で行け系?」


「そのようです」


「却下」


 即答でした。


 私は少しだけ笑いました。


「でも、書いた者だけが読めるそうです」


「一緒に行って、読む時だけしずくさんが読む。以上」


「それでいいのでしょうか」


「いいの。白紙も猫も神様も、すぐ一人にしようとする。私たちはそれに乗らない」


 透真さんが頷きました。


「主人公を一人にしない」


 黒瀬さんが、少し驚いたように彼を見ました。


「それ、今思いついた?」


「はい」


「いいね」


 私は、その言葉を胸の中で繰り返しました。


 主人公を一人にしない。


 私は、主人公だった。


 そして一度、譲った。


 でも、今度は一人で持たなくてもいいのかもしれません。


 白い猫が、ベランダの手すりから雨の中へ降りました。


 空中を歩くように。


 私たちは、急いで玄関へ向かいます。


 黒瀬さんはコンビニ袋からメロンパンを取り出し、鞄に入れました。


「持っていくんですか」


 透真さんが聞きます。


「うん」


「なぜ」


「何となく。あと、あいつが関係しそうだから」


「確かに」


 私はプリンの空き容器を見ました。


 持っていくべきでしょうか。


 迷っていると、黒瀬さんが言いました。


「しずくさん、それも持っていく?」


「いいですか」


「いいよ。意味より先に甘かったプリンでしょ。大事」


 私は空き容器を洗わず、そのまま小さな袋に入れました。


 少しだけ恥ずかしいです。


 でも、大事な気がしました。


 透真さんは卵サンドの残りを見ています。


「僕も持っていくべきでしょうか」


「食べてからにして」


 黒瀬さんが言いました。


「卵サンドは記念品じゃなくて朝ごはん」


「はい」


 透真さんは残りを食べました。


 急いで食べたので、少しむせました。


 黒瀬さんが背中を叩きます。


「水無月さん、急に人間っぽい」


「むせただけです」


「むせられるなら人間」


「判断が雑です」


「雑でいいの」


 私は、その二人を見ていました。


 胸の中に、何かがありました。


 温かくて、怖くて、少し痛いもの。


 もし私がこの人たちを書いたのなら。


 私は、この面倒な会話も書いたのでしょうか。


 いいえ。


 たぶん違います。


 書いたものは、もっと綺麗だった気がします。


 こんなふうに、卵サンドでむせたり、プリンの空き容器を持っていくか迷ったり、靴ずれを気にしたりはしなかった。


 だから、今ここにいる二人は、私の書いたものだけではない。


 そう信じたいです。


 玄関を出ると、廊下にも雨が降っていました。


 外ではなく、建物の中に。


 ただし、雨粒は私たちを濡らしません。


 白い猫が、階段の下で待っています。


 その先に、団地の階段が見えました。


 ここはアパートの廊下のはずです。


 でも、階段の下には、幼い日の団地があります。


 雨の日。


 黄色い傘。


 白い猫。


 そして、私が書いたノート。


 私は一歩踏み出しました。


 手の甲の「し」が、少しだけ熱くなります。


 黒瀬さんが私の隣に並びました。


「しずくさん」


「はい」


「怖い?」


「怖いです」


「よし」


「よし?」


「怖いって言えたから」


 透真さんも、反対側に並びました。


「僕も怖いです」


「水無月さんもよし」


 黒瀬さんは、少しだけ笑いました。


「怖い人が三人なら、まあ、何とかなるでしょ」


 私は頷きました。


 雨の中へ入ります。


 第三章は、私の朝です。


 でも、私はもう一人で主人公にはなりません。


 少なくとも、そう決めました。


 決めたことが守れるかは、まだわかりません。


 それでも、今は三人で歩いています。


 白い猫のあとを追って。


 私が書いたかもしれない、最初の行へ。


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