表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/34

第22話 私が書いた透真さん

 雨の中に入ると、世界の音が変わりました。


 玄関を出たはずでした。


 透真さんの部屋から、黒瀬さんと一緒に、白い猫を追って廊下へ出たはずでした。


 けれど、足を一歩踏み出した瞬間、そこはもうアパートの廊下ではありませんでした。


 団地の階段。


 古い灰色の壁。

 少し欠けた手すり。

 雨で濡れたコンクリート。

 階段の隅に溜まった落ち葉。

 踊り場の天井から、ぽたぽたと落ちる水。


 匂いがありました。


 濡れた鉄。

 湿った土。

 古い傘。

 子供の靴についた泥。

 雨の日の団地の、少し寂しい匂い。


 私は、その匂いを知っていました。


 忘れていたのに。


 いいえ。


 忘れたふりをしていたのかもしれません。


「ここ」


 透真さんが、低い声で言いました。


 彼は階段の下を見ています。


 表情が硬い。


 第二章で、彼はこの場所を思い出しました。

 幼い頃、雨の日だけ見える私を「いない」と言った場所。

 彼のお母様に手を引かれ、私を置いて帰った場所。


 でも、今見えているこの場所は、少し違います。


 これは透真さんの記憶ではなく、私の記憶です。


 その証拠に、視界の端に小さな手が見えました。


 私の手。


 幼い私の手です。


 白いワンピースの袖から出た、小さな指。

 その手には、白い猫が抱かれていました。


 猫は濡れていません。


 雨の中にいるのに、毛先の一本も濡れていません。


 そして、その猫の金色の目は、今の私たちを見ていました。


「……白い猫」


 黒瀬さんが、私の隣で呟きました。


 彼女は傘を持っていません。


 それなのに、雨に濡れていませんでした。


 この記憶は、私たちを濡らすためではなく、見せるために降っているようです。


 黒瀬さんは少し顔をしかめました。


「記憶の中って、傘なしで濡れないのね。便利だけど、便利だと逆に不安になる」


「黒瀬さんは、不便の方が安心しますか」


「場合によるけど、今朝に関しては、不便な方が現実感ある」


 彼女は自分の手の甲を見ました。


 そこには、まだ「し」と書かれています。


 私の名前から抜けた一文字。


 黒瀬さんが預かってくれている文字。


 私も、自分の手の甲を見ました。


 共有。

 欄外受理。

 そして、かすれた「し」。


 ここに来てから、少し熱いです。


 この場所が、私の欠けた名前に反応しているのでしょうか。


「しずくさん」


 透真さんが私を呼びました。


 私は胸が少し痛みます。


 でも、嬉しい痛みでもあります。


「はい」


「大丈夫ですか」


「怖いです」


「はい」


「でも、見ます」


 私は階段の踊り場を見ました。


 幼い私は、そこに立っています。


 小さな白い猫を抱いて。

 雨の中で。

 黄色い傘を持った男の子を見つめて。


 幼い透真さん。


 今よりずっと小さい。

 髪は雨で少し濡れていて、両手で黄色い傘を握っています。

 傘には、剥がれかけた怪獣のシールが貼ってあります。


 彼は私を見ています。


 見えている。


 その事実だけで、幼い私の胸がどれほど温かかったのか、今の私にも伝わりました。


『しずく』


 幼い透真さんが言いました。


 その声は、今の透真さんとは違います。


 まだ高くて、少し頼りない声。


 でも、私を呼んでくれる声でした。


 私の「し」が、そこにはちゃんとありました。


 雨宮しずく。


 私は、その名前でそこにいました。


『今日もいた』


 幼い透真さんは、安心したように笑いました。


 幼い私は、白い猫を抱き直します。


『雨の日だから』


『晴れの日は?』


『いない』


『ずっと?』


『うん』


『じゃあ、晴れの日は何してるの?』


 幼い私は困っていました。


 今の私には、その気持ちがわかります。


 晴れの日に何をしているのか、私自身にもわからなかったのです。


 雨の日だけ存在するというのは、晴れの日に眠っていることではありません。

 晴れの日には、私が世界のどこにも置かれていないということです。

 目を閉じているのではなく、目そのものがない。

 寂しいのではなく、寂しがる私がいない。


 だから、幼い私は答えられませんでした。


『わかんない』


『そっか』


 幼い透真さんは、それ以上聞きませんでした。


 子供なのに、変なところで優しいです。


 今の透真さんと似ています。


 黒瀬さんが、小声で言いました。


「小さい頃からそうなんだ」


「何がですか」


 今の透真さんが聞きます。


「踏み込まないところ。聞いていいことと悪いことを、子供なのに変に考えてる」


「そうでしょうか」


「そう。で、考えすぎて大事なところも聞けなくなるタイプ」


「黒瀬、記憶の中の子供にも辛口ですね」


「子供だからって、未来の水無月さんの原型でしょ」


 透真さんは少し困った顔をしました。


 その顔も、幼い彼とよく似ていました。


 雨が強くなります。


 階段の下から、女の人の声がしました。


『透真』


 幼い透真さんが振り返ります。


 お母様です。


 若い頃のお母様。


 傘を持ち、心配そうに階段の下からこちらを見上げています。


『そんなところで何してるの。濡れるでしょう』


 幼い透真さんは、少し慌てました。


 私を見ます。

 お母様を見ます。

 もう一度、私を見ます。


 その顔。


 その一瞬の揺れ。


 私は覚えています。


 見えているものと、見えてはいけないものの間で、子供が立ち尽くす顔。


『誰と話してたの?』


 お母様が聞きました。


 幼い透真さんは、何かを言おうとしました。


 しずく、と。


 言おうとしたのだと思います。


 けれど、お母様の顔が曇りました。


 心配。


 困惑。


 怖さ。


 その全部が混ざった顔です。


『誰もいないじゃない』


 その言葉で、幼い透真さんの肩が小さく震えました。


 私は白い猫を抱いたまま、彼を見ていました。


 このあと、彼が何を言うか、私はもう知っています。


 知っているのに、胸が痛みます。


 今の透真さんも、隣で息を止めました。


「……ここから」


 彼が言います。


 黒瀬さんが、彼の手を掴みました。


 ちゃんと触れています。


「今の水無月さんが言ったわけじゃない」


「でも、僕です」


「それもそう。でも今の水無月さんは、ここにいる。謝るならあとで。今は見て」


「はい」


 黒瀬さんは、言い方が少し乱暴です。


 でも、乱暴な優しさです。


 私は、その優しさを少し好きです。


 幼い透真さんが、口を開きます。


『……いない』


 その言葉が、雨の中に落ちました。


『しずくなんて、いない』


 瞬間。


 幼い私の胸に、透明な傘が刺さりました。


 痛みはありませんでした。


 正確には、痛みを感じる前に、私は死んだのだと思います。


 白い猫が、私の腕の中で目を開きました。


 金色の目。


『返せ』


 猫の声がしました。


 返せ。


 最初の朝を返せ。


 名前を返せ。


 幼い透真さんは、お母様に手を引かれて階段を下りていきます。


 彼は振り返りません。


 振り返れなかったのだと思います。


 私が死んだことにも、気づかなかったのかもしれません。


 いいえ。


 気づいていて、見ないふりをしたのかもしれません。


 どちらにしても、子供には重すぎます。


 私は、今ならそう思えます。


 でも、幼い私はそう思えませんでした。


 胸に透明な傘が刺さったまま、踊り場に立っていました。


 白い猫は、私の足元に降りました。


 幼い私は、泣きませんでした。


 泣けなかったのです。


 雨の日だけの神様は、雨に濡れても泣いていることにならないから。


 ただ、私は小さなノートを取り出しました。


 いつ持っていたのか、わかりません。


 でも、確かに持っていました。


 白い表紙のノート。


 雨に濡れても滲まないノート。


 ページを開きます。


 そこは白紙でした。


 何も書かれていない。


 だから、私は書きました。


 透真さん。


 一文字ずつ。


 透真さん。

 透真さん。

 透真さん。


 何度も。


 何度も。


 雨が降り続けます。


 私は透明な傘が刺さったまま、ノートに名前を書き続けます。


 幼い字でした。


 下手で、少し歪んでいて、でも必死でした。


 しずく、という自分の名前は書きませんでした。


 透真さん。


 私をいないと言った男の子の名前だけを書き続けました。


 今の私は、その光景を見て胸が痛みました。


「私」


 声が震えます。


「怒っていたのでしょうか」


 黒瀬さんは少し考えました。


「怒ってたと思う」


「はい」


「でも、怒りだけじゃないと思う」


「何でしょうか」


「置いていかれたくない、かな」


 その言葉で、喉の奥が痛くなりました。


 置いていかれたくない。


 そうです。


 私は、彼に否定されたことよりも、彼が帰ってしまったことが悲しかったのかもしれません。


 お母様に手を引かれて、雨の階段から出ていったこと。


 私はそこに残ったこと。


 晴れの日には、彼が私を忘れること。


 それが怖かった。


「だから書いたんだ」


 黒瀬さんが言いました。


「忘れられないように」


「はい」


「しずくさんも、記録してた」


「はい」


「私と同じ」


 黒瀬さんは、自分のノートを思い出したように少し顔をしかめました。


「忘れたくないから書くの、やっぱり怖いね」


「はい」


「でも、悪いだけじゃない」


 私は黒瀬さんを見ました。


 彼女は、幼い私のノートを見ています。


「昨日の私なら、自分が記録で壊れかけたから、書くのは危ないってすぐ言ったかもしれない。でも、今は少し違う。書いたから残ったものもある。恋文も、日記も、レシートも、欄外も」


 黒瀬さんは私を見る。


「問題は、書くことじゃなくて、一人で全部閉じ込めること」


 私は、その言葉を胸に置きました。


 一人で全部閉じ込めること。


 幼い私は、ノートに透真さんを書き続けました。


 誰にも見せずに。


 白い猫だけが、それを見ていました。


 透真さんは、苦しそうにその光景を見ています。


「僕が否定したから」


「透真さん」


「僕が、しずくさんをいないことにしたから、しずくさんは僕を書いた」


「それだけではありません」


 私は言いました。


 今度は、はっきりと。


「透真さんが私を否定する前から、私はあなたを書いていた気がします」


「前から?」


「はい」


 幼い私のノートが、風もないのにめくれました。


 ページが戻ります。


 最初のページ。


 そこには、先ほどの文字より少しだけ丁寧な字で書かれていました。


 雨の日に、男の子が来ました。

 名前は、まだ知りません。

 でも、私を見ました。

 だから、また来てほしいです。


 次のページ。


 男の子は、透真と言いました。

 お母さんが、そう呼んでいました。

 私は、透真さん、と書くことにしました。

 さんをつけると、少し遠くて、少し優しいです。


 黒瀬さんが、小さく言いました。


「さんをつける理由、そこなんだ」


「はい」


 私は自分でも驚きました。


 私の「透真さん」は、最初から距離のある名前だったのです。


 近づきたいけれど、近づきすぎると消えてしまう。

 雨の日だけの私には、その距離が必要だった。


 ページがさらにめくれます。


 透真さんは、晴れの日には来ません。

 でも、雨の日には来ます。

 私は雨の日を待っています。

 晴れの日が、少し嫌いです。


 次。


 透真さんが、プリンを好きだと言いました。

 私はプリンを知りません。

 でも、透真さんが好きなら、いつか食べてみたいです。


 私は、息を呑みました。


 プリン。


 第1話の遺言。


 プリンを食べてください。


 それは、ここから始まっていたのでしょうか。


 私が幼い頃に書いた「いつか食べてみたい」という願いが、神様の遺言になったのでしょうか。


 黒瀬さんも同じことに気づいたようです。


「プリン、ここ?」


「たぶん」


 透真さんが言います。


「第1話の遺言は、しずくさんの願いだった?」


「わかりません」


 私は震える声で言いました。


「でも、そうかもしれません」


 ノートはさらにめくれます。


 透真さんが帰る時、私は少し寂しいです。

 でも、透真さんには帰る場所があります。

 私は、帰る場所がある人が好きです。

 帰る場所がある人は、また来られるからです。


 黒瀬さんが、苦い顔をしました。


「子供のしずくさん、すごいこと書くね」


「私には、よくわかりません」


「いや、わかる。帰る場所がある人が好きって、かなり寂しい言葉だよ」


 透真さんは、黙っていました。


 たぶん、母さんのことを思い出しているのだと思います。


 雨の日に置いてきた子。

 言えなかったおかえり。

 黄色い傘。


 ノートのページは、あの日に近づいていきます。


 私の字が少しずつ乱れていきました。


 透真さんのお母さんは、私を見ません。

 私は、いないのでしょうか。

 透真さんが見ているなら、いるのでしょうか。

 透真さんが見なくなったら、私はどうなるのでしょうか。


 次。


 透真さんが、私を見ない日が来たら、私は透真さんを書きます。

 透真さんが私を忘れても、私は透真さんを忘れません。

 忘れないために書きます。

 書けば、透真さんは雨の日に戻ってきます。


 黒瀬さんの表情が変わりました。


「ちょっと待って」


「はい」


「書けば戻ってくるって、誰が教えたの?」


 私は答えられませんでした。


 幼い私が、自分で思いついたのでしょうか。


 それとも。


 白い猫が、幼い私の足元で尻尾を揺らしました。


 今の白い猫も、階段の手すりに座ってこちらを見ています。


 黒瀬さんが猫を睨みました。


「猫」


 白い猫は、にゃあと鳴きました。


 頭の中に意味が届きます。


 教えていない。


「本当?」


 黒瀬さんが言うと、白い猫はもう一度鳴きました。


 拾っただけ。


「何を拾ったの」


 猫は、幼い私のノートを見ました。


 置いていかれた名前。


 黒瀬さんが舌打ちしました。


「また預かるとか拾うとか、猫の管轄広すぎ」


 白い猫は、少しだけ誇らしげに尻尾を立てました。


 私はノートを見つめます。


 ページは、あの日に辿り着きました。


 透真さんが私をいないと言いました。


 そのページの字は、とても小さくなっています。


 透真さんが、私をいないと言いました。

 私は、いないのかもしれません。

 でも、透真さんが私をいないと言うなら、私は透真さんを書きます。

 透真さんが私を否定する前に、私が透真さんを物語にしました。


 雨の音が止まりました。


 階段も。

 団地も。

 白い猫も。

 幼い私も。

 透真さんも。

 黒瀬さんも。


 すべてが、その一文の前で止まりました。


 透真さんが私を否定する前に、私が透真さんを物語にしました。


 私はその文字を見つめました。


 呼吸の仕方がわからなくなりました。


 心臓が打っています。


 とくん。


 とくん。


 私が人間に近づいたせいで、その音がうるさいくらい聞こえます。


「私が」


 声が出ました。


 でも、自分の声ではないようでした。


「透真さんを、物語にした」


 黒瀬さんが、すぐに私の肩を掴みました。


 しっかりと。


「しずくさん、今すぐ自分を責めるの禁止」


「でも」


「禁止。まず読む。確認する。謝るのも自罰も後」


「はい」


「水無月さんも、作り物だったんだとか言って遠くなるの禁止」


 透真さんは、苦しそうに笑いました。


「言おうとしていました」


「だと思った」


「黒瀬は鋭いですね」


「今日何度目よ」


 黒瀬さんは私と透真さんの間に立つようにしました。


「二人とも、こういう時すぐ自分のせいにするから面倒。いい? 今ここでわかったのは、幼いしずくさんが透真さんを物語にした、と書いていたこと。それだけ。実際にどこまで何が起きたかは、まだ確認中」


「でも、私が」


「しずくさん」


 黒瀬さんの声が少し強くなりました。


「子供だった」


 私は、言葉を失いました。


「子供が、置いていかれたくなくてノートに名前を書いた。それは怖いことに繋がったかもしれない。でも、最初から誰かを支配しようとしたわけじゃない」


「……はい」


「ただし」


 黒瀬さんは、私の目を見る。


「だから全部許されるわけでもない」


 胸が痛みます。


 でも、この痛みは必要です。


「はい」


「そこから逃げない。私も逃げない。水無月さんも逃げない。三人で見る」


 透真さんが、静かに頷きました。


「はい」


 私は、もう一度ノートを見ました。


 その一文の下に、まだ続きがありました。


 透真さんは、神様の死体を見つける人になります。

 毎朝、私の代わりに見つけます。

 私が死んでも、透真さんが見つけてくれるなら、私は朝に残れます。


 透真さんの顔が、真っ青になりました。


 黒瀬さんが、怒りで息を呑みます。


「……係」


 彼女が言いました。


「神様の死体を見つける係」


 ノートの文字が滲みます。


 けれど、消えません。


 私は、その文字を見て、理解してしまいました。


 透真さんは、偶然毎朝神様の死体を見つけていたのではないのかもしれません。


 私が書いた。


 私が、幼い寂しさで。


 私が死んでも、透真さんに見つけてほしいから。


 私の代わりに、神様の死体を見つける人にした。


「透真さん」


 私は、彼を呼びました。


 声が震えていました。


「私」


「まだ」


 透真さんが言いました。


「謝らないでください」


 私は唇を噛みました。


「でも」


「謝られたら、僕はたぶん許そうとしてしまいます」


 透真さんは、ひどく苦しそうな顔をしていました。


「まだ、許せるかどうかもわからないのに」


 その正直さが、私の胸を刺しました。


「はい」


 私は頷きました。


「では、謝りません」


「はい」


「でも、逃げません」


「はい」


 黒瀬さんが、ノートを見つめながら言いました。


「次、ここだね」


「はい」


「神様の死体を見つける係。これを見ないと駄目」


 白い猫が、手すりの上で鳴きました。


 にゃあ。


 雨がもう一度降り始めます。


 ただし、今度の雨は空からではありません。


 ノートの文字から降っています。


 文字が雨になり、階段を濡らし、私たちの足元に流れます。


 その雨の中に、次の文章が浮かびました。


 次の朝、透真さんの背中を見てください。


 私は透真さんを見ました。


 彼の背中。


 シャツの布地の下に、何かが浮かび上がっているように見えます。


 黒瀬さんが、息を止めました。


「水無月さん」


「何ですか」


「背中」


 透真さんは、自分では見えません。


 私は震える手を伸ばしました。


 触れるか、迷いました。


 すると透真さんが言いました。


「見てください」


「いいのですか」


「一人では見えないので」


 黒瀬さんが、静かに言いました。


「私も見る」


「はい」


 私は、透真さんの背中に手を伸ばしました。


 雨の中で。


 団地の階段で。


 幼い私が書いたノートの前で。


 彼のシャツの背中に、文字が浮かび始めます。


 私の字でした。


 幼い、でも確かに私の字。


 神様の死体を見つける係。


 私は、息ができませんでした。


 透真さんは、目を閉じました。


 黒瀬さんが、低い声で言いました。


「人を係にするな」


 その声は怒っていました。


 でも、泣きそうでもありました。


「人を、当番みたいに扱うな」


 雨が強くなります。


 白い猫は、ノートの上に前足を置きました。


 そして、頭の中に声を届けます。


 次は、係の話。


 私は頷きました。


 怖いです。


 自分が何をしたのか、知りたくありません。


 でも、知ります。


 私は主人公だったのかもしれません。


 透真さんを物語にしたのかもしれません。


 それでも、今は一人で主人公になりません。


 透真さんがいます。

 黒瀬さんがいます。

 白い猫がいます。

 名前の欠けた私がいます。


 私は、幼い自分のノートを閉じました。


 その表紙に、雨粒で文字が浮かびます。


 第23話 神様の死体を見つける係


 次の朝は、もう始まっていました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ