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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第23話 神様の死体を見つける係

 透真さんの背中に、私の字が浮かんでいました。


 神様の死体を見つける係。


 それは、とても幼い字でした。


 まっすぐ書こうとしているのに、少し右上がり。

 「神」のへんが大きすぎて、「様」が窮屈になっている。

 「死体」の「死」は、書くのが怖かったのか、線が震えている。

 最後の「係」は、何度か書き直した跡がありました。


 私の字です。


 幼い私の字。


 雨の日にだけ存在していた私が、団地の階段で、胸に透明な傘を刺されたまま書いた字。


 それが今、透真さんの背中に浮かんでいる。


 透真さんは、何も言いませんでした。


 背中に書かれた文字は自分では見えないはずです。

 でも、その重さだけは感じているようでした。


 彼の肩が、少しだけ下がっています。


 まるで、見えない荷物を背負わされた人みたいに。


「……係」


 黒瀬さんが、もう一度言いました。


 声が低い。


 怒っている声です。


 でも、その怒りは私だけに向いているわけではありませんでした。


 昔の私。

 この世界。

 役割という言葉。

 白紙先生。

 猫。

 神様。

 それから、透真さんがすぐに自分を役割として受け入れそうになるところ。


 全部に怒っているような声でした。


「係って何よ」


 黒瀬さんは、雨の団地の階段で拳を握りました。


「神様の死体を見つける係? 朝のゴミ捨て当番みたいに言わないでよ。人一人の人生に、そんな係名つけるな」


 白い猫は、手すりの上で黙っていました。


 雨は降っています。


 でも、私たちは濡れません。


 記憶の雨。

 文字の雨。

 書かれたものを見せるためだけの雨。


 私は透真さんの背中を見つめたまま、動けませんでした。


「私が」


 声が震えます。


「私が、透真さんにこれを書いたのですね」


 黒瀬さんがすぐに振り向きました。


「しずくさん、そこで自分だけ殴る方向に行かない」


「でも」


「でもじゃない」


 彼女の声が強くなります。


「さっきも言った。確認してから。謝るのも、自分を責めるのも、そのあと」


「はい」


「今の私、かなり厳しいこと言ってる自覚あるけど、ここでしずくさんが崩れたら、水無月さんも一緒に沈むから」


 透真さんが、小さく息を吐きました。


「黒瀬は、本当に僕の行動予測が上手になりましたね」


「嬉しくない熟練度だわ」


 黒瀬さんは、透真さんの背中を睨みました。


「水無月さんも、今すぐ『僕は係だったんですね』みたいな顔しない」


「顔に出ていますか」


「出てる。かなり出てる。係って言われた瞬間、半分くらい納得したでしょ」


「……しました」


「するな!」


 黒瀬さんの声が階段に響きました。


 幼い私が、ノートを抱えたままこちらを見ます。


 彼女には、今の私たちが見えているのでしょうか。


 わかりません。


 ただ、幼い私は、少しだけ怯えた顔をしました。


 黒瀬さんはそれに気づいて、少し声を落としました。


「ごめん。子供のしずくさんに怒鳴ったわけじゃない」


 幼い私は答えません。


 白い猫だけが、尾を一度振りました。


「でも、怒るよ」


 黒瀬さんは言いました。


「子供だったとか、寂しかったとか、それはわかる。でも、だからって透真さんを係にしていいわけじゃない。誰かを見つけてほしかったなら、そう言えばよかった。死体を見つける役にしなくてもよかった」


「黒瀬さん」


「わかってる」


 彼女は、自分の言葉に苦しそうな顔をしました。


「子供にそんなこと言っても無理だったのはわかってる。雨の日だけ存在する子供が、自分の寂しさをちゃんと言葉にできるわけない。それでも、私は怒る。怒らないと、今ここにいる水無月さんが、役割にされることを受け入れちゃうから」


 私は、黒瀬さんを見ました。


 怒ることで守っている。


 彼女は、本当にそういう人です。


 怖いものに怒る。

 悲しいものに怒る。

 大事な人が自分を軽く扱うことに怒る。


 私には、まだ上手にできません。


 私は痛いものを消してしまう。


 黒瀬さんは痛いものを怒って見張る。


 どちらが正しいのかは、まだわかりません。


 でも、今は彼女の怒りが必要でした。


 透真さんは、ゆっくり振り返りました。


 背中の文字は見えなくなります。


 けれど、その文字が消えたわけではありません。


 私にはわかります。


 彼の背中には、まだ私の役割が貼りついている。


「しずくさん」


 彼が私を呼びました。


 胸が痛みます。


 でも、逃げません。


「はい」


「僕は、怒るべきでしょうか」


 その問いは、思ったよりずっと静かでした。


 私は答えられません。


 黒瀬さんも、一瞬黙りました。


 透真さんは続けます。


「自分が係にされたことに、怒るべきなんだと思います。人間として。黒瀬の言う通り、人を係にするなと怒るべきなんでしょう」


「うん」


 黒瀬さんが言います。


「少なくとも私は怒ってほしい」


「でも」


 透真さんは、幼い私を見ました。


 胸に透明な傘が刺さったまま、ノートを抱える小さな私。


「僕は、あの子を見てしまうと、怒るより先に、申し訳ないと思ってしまいます」


 喉の奥が苦しくなりました。


「透真さん」


「僕が、あの子をいないことにした。それであの子は、僕を書いた。僕を係にした。順番だけで言えば、僕が先に傷つけたんです」


「水無月さん」


 黒瀬さんの声が低くなりました。


「それ、危ない言い方」


「わかっています」


「本当に?」


「はい」


 透真さんは、雨の中で困ったように笑いました。


「でも、僕の中にあるのは、本当に怒りだけではありません」


「怒りがないの?」


「少しはあります」


「少し?」


「はい」


「少しじゃ足りない」


「黒瀬の基準では、そうでしょうね」


「私の基準じゃなくても足りないわよ」


 黒瀬さんは、少し苛立ったように髪をかき上げました。


「じゃあ、言って。何に怒ってる?」


 透真さんは黙りました。


 雨の音が、その沈黙を埋めます。


 私は彼を見ていました。


 彼は、怒りを探しているようでした。


 自分の中にある怒りを、他人事みたいに、丁寧に探している。


 やがて、透真さんは言いました。


「僕が、僕の意思ではなく毎朝神様の死体を見つけていたかもしれないことに怒っています」


「うん」


「僕が、しずくさんの寂しさを背負う形で存在していたかもしれないことに怒っています」


「うん」


「でも、一番怒っているのは」


 彼は、少しだけ視線を落としました。


「僕がそれを知った瞬間、少し安心してしまったことです」


「安心?」


 黒瀬さんが眉を寄せます。


「はい」


 透真さんは、自分の手を見ました。


 薄くなった「共有」と「欄外受理」の文字。


「僕はずっと、自分が何者かわかりませんでした。水無月透真なのか、雨宮透真なのか、朝なのか、欄外なのか。名前を選べず、母さんにも産まれていないと言われて、大学にもいないことになって」


「うん」


「その時、係という役割が出てきた」


 彼の声は静かでした。


「神様の死体を見つける係。ひどい名前です。でも、役割があると、少し安心してしまうんです。僕はこれをすればいいんだ、と。自分が何者かわからなくても、やることが決まっていれば立てる気がする」


 私は、胸の奥を掴まれたような気がしました。


 役割。


 それは、人を縛るもの。


 でも同時に、人を支えることもある。


 だから厄介なのです。


「それが嫌です」


 透真さんは言いました。


「僕は、係にされたことにも怒っています。でも、係になれば楽だと思ってしまう自分にも怒っています」


 黒瀬さんは、しばらく黙っていました。


 それから、深く息を吐きます。


「……それは」


「はい」


「かなり人間っぽい」


「そうですか」


「うん。役割が嫌なのに、役割があると楽っていうの、すごく嫌な人間っぽさ」


 黒瀬さんは、少しだけ顔を歪めました。


「私もわかる。常識人役とか、ツッコミ役とか、記録する人とか、怒る人とか。そんな役割、勝手に押しつけられたら嫌なのに、いざそれがないと、自分が何すればいいかわからなくなる時がある」


「黒瀬さんも?」


「あるよ」


 彼女は少し拗ねたように言いました。


「私だって、ずっと怒ってるの疲れる。でも怒ってないと、私ってここにいていいのかなってなる時ある」


 その言葉は、小さな告白でした。


 私は黒瀬さんを見ました。


 彼女は照れたのか、すぐに視線を逸らします。


「今の、あんまり記録しないで」


「心に記録してもいいですか」


「しずくさん、それ一番恥ずかしいって前も言った」


「でも、大事なので」


「じゃあ、小さめに記録して」


「はい。小さめに」


 透真さんが、少しだけ笑いました。


 黒瀬さんは彼を睨みました。


「笑う元気があるなら、よし」


「判定が早いですね」


「存在診断の項目が増えたから」


「笑えるなら人間、ですか」


「そう。あと、怒れるなら人間。嫌がれるなら人間。むせるなら人間」


「むせるの項目、まだ残っているんですか」


「残ってる」


 そのくだらない会話で、少しだけ雨の音がやわらぎました。


 でも、透真さんの背中の文字は消えません。


 神様の死体を見つける係。


 幼い私のノートが、また開きました。


 白い猫が前足でページを押さえます。


 そこには、続きがありました。


 透真さんは、毎朝、神様の死体を見つけます。

 死んだ神様は、透真さんに遺言を渡します。

 透真さんが遺言を叶えると、私は少しだけ朝に戻れます。


 私は息を呑みました。


 黒瀬さんが、鋭い声で言います。


「しずくさんが戻るため?」


「はい」


「つまり、神様が死んで遺言を叶えるたび、しずくさんが少し戻ってた?」


 透真さんが呟きます。


「第一章で、しずくさんが半分だけ死に損ねたのは」


「私が、戻りたかったから」


 言葉にすると、身体が冷えました。


 戻りたかった。


 その願いは、悪いものでしょうか。


 私は雨の日だけ存在していました。

 晴れの日にはいませんでした。

 透真さんに否定されて、さらにいなくなりました。

 だから、戻りたかった。


 戻りたいと願うこと自体は、たぶん悪ではありません。


 でも、そのために誰かを係にした。


 死んだ神様たちを遺言にした。


 透真さんに毎朝、死体を見つけさせた。


 それは、願いでは済まない。


「黒瀬さん」


「何」


「私は、謝りたいです」


「まだ早い」


「はい」


 私は唇を噛みました。


「でも、謝りたいです」


「それは覚えておいて」


 黒瀬さんは言いました。


「謝りたい気持ちを消す必要はない。でも、謝って終わりにしないために、まだ持っておく」


「持っておく」


「うん。重いけど持っておく。私も、あいつの名前を思い出したい気持ちと、怖い気持ちを持ってる。水無月さんも、自分が係だったかもしれない怒りと安心を持ってる。しずくさんも、謝りたい気持ちを持っておく」


 私は頷きました。


「持っておきます」


 透真さんが、ノートの続きに目を落としました。


「まだあります」


 幼い私の字は、ページの下へ続いています。


 ただし、文字がだんだん乱れていました。


 透真さんは、私を見つけてくれます。

 私が死んでも、見つけてくれます。

 透真さんが見つけてくれるなら、私は死んでも一人ではありません。

 だから、透真さんは見つける人です。

 見つける係です。

 神様の死体を見つける係です。


 黒瀬さんが、拳を握りました。


「寂しい」


 怒りではなく、最初に出たのはその言葉でした。


「これ、すごく寂しい」


 私は、何も言えませんでした。


 黒瀬さんの声が震えます。


「死んでも一人じゃないって思いたかったんだ」


「はい」


「それで、水無月さんを係にした」


「はい」


「駄目だけど」


「はい」


「でも、寂しい」


 彼女は、幼い私を見ました。


 胸に透明な傘を刺したまま、必死にノートを書いている子供。


「子供のしずくさん、たぶん誰かに言ってほしかったんだよね。係にしなくても見つけるよって。死体にならなくても、いるって言うよって」


 胸が締めつけられました。


 言ってほしかった。


 私は、たぶん。


 透真さんに、そう言ってほしかった。


 でも、子供の透真さんには無理でした。


 彼もまた、子供でした。


 誰も正しく悪くないのに、取り返しのつかないことだけが起きている。


 それが、とても苦しい。


 その時、幼い透真さんの姿が階段の下から戻ってきました。


 さっき、お母様に手を引かれて帰ったはずの男の子。


 彼は雨の中、黄色い傘を握ったまま、階段を上ってきます。


 過去の出来事ではありません。


 これは、幼い私のノートが作った場面です。


 書かれた透真さん。


 幼い私が望んだ透真さん。


『しずく』


 彼は言いました。


 幼い私が顔を上げます。


『見つけた』


 その言葉で、幼い私は泣きそうな顔をしました。


 でも、すぐにノートに何かを書き足します。


 透真さんは、私を見つけてくれました。

 だから、明日も見つけます。


 その瞬間、書かれた幼い透真さんの輪郭が少し薄くなりました。


 今の透真さんが、膝をつきました。


「透真さん!」


 私は駆け寄ります。


 黒瀬さんも。


 透真さんは、片手で胸を押さえていました。


「大丈夫ですか」


「少し、取られました」


「何を」


「見つける意思、みたいなものを」


 黒瀬さんが青ざめます。


「見つける意思?」


「はい。僕が何かを見つけるたび、それが役割に吸われる感じがします」


「最悪」


 黒瀬さんは低く言いました。


「つまり、水無月さんが自分の意思で見つけたものまで、係の仕事にされるってこと?」


「たぶん」


「ふざけんな」


 その言葉は、階段の雨を震わせました。


「見つけるのが仕事だから見つけたんじゃない。大事だから探したとか、気になるから見たとか、怖いけど目を逸らさなかったとか、そういうのまで係に回収するな」


 黒瀬さんは幼い私のノートに向かって怒鳴りました。


「人間の行動を全部役割にするな!」


 ノートの文字が、一瞬だけ薄くなりました。


 白い猫が目を細めます。


 にゃあ。


 頭の中に声が届きます。


 役割は、呼ばれ続けると太る。


「太る?」


 黒瀬さんが聞き返します。


「何その嫌な表現」


 猫は尾を揺らしました。


 係と呼べば、係になる。

 主人公と呼べば、主人公になる。

 ヒロインと呼べば、ヒロインになる。

 死体と呼べば、死体になる。


 私は、自分の胸元を押さえました。


 ヒロイン。


 その言葉が、どこかで私を待っている気がしました。


 まだ先の話です。


 でも、近づいています。


 黒瀬さんは猫に言いました。


「じゃあ、呼び方を変えればいいの?」


 猫は、少しだけ首を傾げます。


 変えるだけでは足りない。


「じゃあ何」


 役割より先に、名前を呼べ。


 その声が届いた瞬間、私たちは透真さんを見ました。


 彼の背中の文字。


 神様の死体を見つける係。


 それは、まだそこにあります。


 でも、役割より先に名前を呼ぶ。


 第二章で私たちが学んだことです。


 黒瀬さんが、透真さんの肩を掴みました。


「水無月さん」


 透真さんが息を吸います。


「はい」


「ミナト」


「はい」


「欄外」


「はい」


「でも、一番先に言う」


 黒瀬さんは彼の目を見ました。


「水無月さんは、係じゃない」


 文字が揺れました。


 私は、彼の反対側から手を取りました。


「透真さんは、係ではありません」


 背中の文字が、少し薄くなります。


 でも、完全には消えません。


 透真さんは、苦しそうに言いました。


「でも、僕は見つけます」


「はい」


 私は頷きました。


「見つけることは、悪くありません」


 黒瀬さんも言います。


「係だから見つけるんじゃない。あんたが見たいから、探したいから、放っておけないから見つける。それでいい」


「僕が、放っておけないから」


「そう」


 黒瀬さんは、少しだけ笑いました。


「水無月さん、見つけるの向いてると思う。変なところに気づくし、死体にもわりと冷静だし、遺言読めるし」


「褒めていますか」


「半分」


「もう半分は?」


「不気味」


「ひどいですね」


「でも、そこも水無月さんでしょ」


 透真さんは、少しだけ笑いました。


 笑える。


 背中の文字が、さらに薄くなる。


 私は思いました。


 消すのではない。


 役割を否定して消すのではなく、その前に名前を置く。


 係ではなく、透真さん。


 係ではなく、水無月さん。


 係ではなく、ミナト。


 その呼び方が積み重なって、役割の文字を少しだけ遠ざける。


 完全には消えません。


 きっと、消してはいけないのです。


 私は書いた。


 その事実は消えません。


 透真さんが毎朝神様の死体を見つけてきたことも消えません。


 でも、それだけにしない。


 それが、今できることなのだと思いました。


 幼い私が、ノートを抱えたままこちらを見ていました。


 今度は、私と目が合いました。


 彼女は震えています。


 胸に透明な傘が刺さっています。


 それでも、ノートを離しません。


 私は、ゆっくりと彼女の前にしゃがみました。


「あなたは」


 声が震えました。


「寂しかったんですね」


 幼い私は答えません。


「置いていかれたくなかったんですね」


 白い猫が、幼い私の足元で丸くなります。


「でも」


 私は言いました。


「透真さんを係にしてはいけませんでした」


 幼い私の顔が歪みます。


 泣きそうになります。


 私も泣きそうです。


「あなたは子供でした。神様でした。死にかけていました。だから、全部を責めることはしません」


 私は、自分の手の甲の「し」を見ました。


「でも、なかったことにはしません」


 幼い私のノートが震えました。


「これから、私が持ちます。あなたが一人でノートに閉じ込めたものを、私が、透真さんと黒瀬さんと一緒に持ちます」


 黒瀬さんが、小さく頷きました。


「そう。三人で持つ」


 透真さんも、静かに言いました。


「僕も持ちます」


 幼い私は、ようやく涙をこぼしました。


 雨ではありません。


 涙でした。


 その瞬間、彼女の胸に刺さっていた透明な傘が、ほんの少しだけ抜けました。


 完全には抜けません。


 でも、深さが少し変わりました。


 幼い私は、ノートを私に差し出しました。


 私は受け取ります。


 重い。


 小さなノートなのに、とても重い。


 表紙には、雨粒で文字が浮かびました。


 神様の死体を見つける係

 所有者:雨宮しずく

 被記名者:水無月透真

 状態:共有中


 黒瀬さんが、それを見て言いました。


「共有中」


「はい」


「よし。所有者ってところは気に入らないけど、共有中ならまだまし」


 透真さんも苦笑しました。


「被記名者というのも、なかなか嫌ですね」


「でも、係だけよりはいい」


「はい」


 白い猫が、手すりから飛び降りました。


 そして、ノートの上に前足を置きます。


 文字がまた浮かびました。


 次は、ヒロインの話。


 私は息を止めました。


 胸元が熱くなる。


 そこに、まだ見えないラベルが貼られようとしている気がしました。


 メインヒロイン。


 その言葉が、雨の向こうから近づいてきます。


 黒瀬さんが、私の顔を見ました。


「しずくさん?」


「はい」


「今、何か来た?」


「たぶん」


「嫌なやつ?」


「はい」


 私は、自分の胸元を押さえました。


「次は、私がヒロインだったことを問われるのだと思います」


 黒瀬さんは、すぐに嫌そうな顔をしました。


「ヒロインって言葉、今朝の流れだとかなり危ない」


「はい」


「好きかどうかまで役割にされそう」


「私も、そう思います」


 透真さんが言いました。


「しずくさん」


「はい」


「僕は、あなたをヒロインだから好きになったわけではないと思いたいです」


 胸が熱くなりました。


「思いたい、なのですね」


「断言できないことが怖いので」


「はい」


「でも、今の僕はそう思いたい」


 黒瀬さんが、少し照れたように咳払いしました。


「はい、そこで甘い空気を出しすぎない。次、ヒロイン問題なんでしょ。油断したら一気にラベル貼られる」


「黒瀬さんは、ラベルに怒りそうですね」


「怒る。人に勝手にメインヒロインとか貼るなって怒る」


「心強いです」


「任せて。ラベル剥がしならたぶん得意」


「なぜですか」


「小学生の時、机に貼られた名前シール剥がすの好きだった」


「急に具体的ですね」


「具体的な方が現実に戻れるでしょ」


 雨の団地が、少しずつ薄れていきます。


 幼い私も、ノートを渡したあと、白い猫と一緒に雨の奥へ戻っていきます。


 私はノートを胸に抱えました。


 重いです。


 でも、一人で持っている重さではありません。


 透真さんが横にいます。

 黒瀬さんがいます。

 白い猫が、少し離れて歩いています。


 私は、もう一度透真さんの背中を見ました。


 神様の死体を見つける係。


 その文字は、まだ薄く残っています。


 けれど、その上に別の文字が重なっていました。


 透真さん。

 水無月さん。

 ミナト。

 欄外受理。

 共有中。


 役割より先に、名前を呼ぶ。


 私は、それを忘れないようにします。


 たとえまた、私の名前から文字が欠けても。


 たとえ次に、ヒロインという役割を貼られても。


 私たちは、それより先に名前を呼ぶ。


 雨が止みます。


 スマホの通知音がしました。


 透真さんのスマホではありません。


 私の手のひらです。


 そこに文字が浮かびました。


【第23話 神様の死体を見つける係 読了】


 その下に、次の文字。


【第24話 ヒロインは主人公を選べない】


 私は、胸元を押さえました。


 見えないラベルが、そこに貼りつこうとしている。


 黒瀬さんが、私の手のひらを覗き込んで、顔をしかめました。


「タイトルからして腹立つ」


「はい」


「ヒロインは主人公を選べない? 誰が決めたのよ」


 彼女は、油性ペンを取り出しました。


「黒瀬さん?」


「先に書いておく」


 彼女は自分の手の甲に大きく書きました。


 選べる。


 そして、私の方を見ました。


「しずくさん。次、絶対選ばされる。もしくは選べないって言われる」


「はい」


「でも、最初にこれだけ覚えておいて」


 黒瀬さんは、私の手を握りました。


「好きかどうかは、役割じゃなくて、今のしずくさんが決めること」


 私は頷きました。


 胸元の熱が、少しだけ和らぎました。


 透真さんも、静かに言いました。


「僕も、選ばれる側としてだけ立たないようにします」


「どういう意味ですか」


「主人公だから選ばれる、という役に逃げないようにします」


 黒瀬さんが、少しだけ笑いました。


「二人とも面倒なこと言い始めた」


「面倒ですか」


「でも、たぶん必要」


 白い猫が、最後に一度だけ鳴きました。


 にゃあ。


 その声は、少しだけ満足そうでした。


 そして私たちは、次の雨へ向かいました。


 私の胸元に、まだ見えないラベルの気配を抱えたまま。


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