第24話 ヒロインは主人公を選べない
胸元に、何かが貼りつこうとしていました。
まだ見えません。
けれど、わかります。
雨の匂いの中で、私の胸のあたりだけが少し熱い。
肌の上ではなく、物語の上に、何か薄い札のようなものが押し当てられている感覚。
私は手で胸元を押さえました。
心臓が打っています。
とくん。
とくん。
その音に混じって、紙が擦れるような音がしました。
ぺたり。
まだ貼られていないはずなのに、もう貼られた音がしたような気がしました。
「しずくさん」
黒瀬さんが、私の顔を覗き込みました。
「今、めちゃくちゃ嫌な顔してる」
「嫌な感じがします」
「でしょうね。私も見てるだけで嫌」
「見えるのですか」
「まだ文字は見えない。でも、雰囲気がある。名札とか、値札とか、そういう“この人はこういうものです”って勝手に決める紙の雰囲気」
黒瀬さんは、雨の団地の階段で油性ペンを握りしめていました。
彼女の手の甲には、昨日から増え続けた文字があります。
共有。
欄外受理。
し。
選べる。
最後の「選べる」は、さっき彼女が書いたものです。
私の次の話が「ヒロインは主人公を選べない」だと知った瞬間、黒瀬さんは怒ってそう書きました。
選べる。
その字は、少し乱暴で、少し力強い。
私はその字を見ると、少し息がしやすくなります。
透真さんは、私の少し後ろに立っていました。
彼の背中には、まだ薄く文字が残っています。
神様の死体を見つける係。
ただ、その上に重なるように、私たちが呼んだ名前も浮かんでいました。
透真さん。
水無月さん。
ミナト。
欄外。
共有中。
役割より先に名前を呼ぶ。
それが、第23話で私たちが学んだことでした。
でも、今度は私の番です。
私にも、役割が貼られようとしている。
メインヒロイン。
まだ見えていないのに、その言葉だけが頭の中にありました。
「ヒロインって」
黒瀬さんが腕を組みました。
「普通に考えると、女の子側の主役っぽい言葉なのに、今朝の流れだと完全に呪いよね」
「呪い」
「うん。可愛いとか、守られるとか、恋愛する相手とか、主人公のために配置されるとか。そういう感じで閉じ込めてきそう」
私は、少しだけ俯きました。
「私は、ヒロインだったのでしょうか」
「知らない」
黒瀬さんは即答しました。
「でも、少なくとも、しずくさんはしずくさん」
「でも」
「でも?」
「私は第1話で、死体として登場しました」
「うん」
「白いワンピースで、胸に透明な傘が刺さっていて、プリンの遺言を残していました」
「うん」
「透真さんに見つけられて、遺言を読まれて、半分だけ死に損ねて、部屋に居座りました」
「うん」
「そして、透真さんのことを好きになりました」
言葉にすると、胸の奥が熱くなりました。
恥ずかしい。
怖い。
でも、言わなければ逃げてしまいそうだったので、言いました。
「これは、ヒロインとして作られた流れではありませんか」
黒瀬さんは、すぐには答えませんでした。
透真さんも。
雨の階段だけが、静かに音を立てています。
やがて、透真さんが口を開きました。
「それを言うなら、僕もかなり主人公らしい位置にいます」
「透真さん」
「朝起きたら神様の死体を見つける。遺言を読む。世界の異常に巻き込まれる。複数の呼び名を持つ。名前が消える。白紙先生に名前を迫られる」
「並べると、本当に面倒ですね」
「はい」
透真さんは少しだけ苦笑しました。
「でも、主人公らしいからといって、僕の苦しさが全部作り物になるわけではありません」
胸が、少し痛みました。
「しずくさんがヒロインらしい流れを持っていることと、今のしずくさんが何を感じているかは、完全には同じではないと思います」
黒瀬さんが、すぐに頷きました。
「そう。それ」
「それ、ですか」
「私が言いたかったことを水無月さんが少し丁寧に言った」
「黒瀬さんなら、どう言いますか」
黒瀬さんは、少し考えてから言いました。
「設定のせいにしすぎるな」
「……はい」
「好きかどうかまで設定のせいにしたら、今のしずくさんがかわいそうでしょ」
その言葉は、胸の真ん中に刺さりました。
痛い。
でも、嫌ではありません。
私は、自分の胸元を押さえました。
見えないラベルが、少しだけ熱くなります。
「私は」
声が震えました。
「透真さんのことが好きです」
雨の音が一瞬止まりました。
透真さんが、目を見開きました。
黒瀬さんが、ものすごく微妙な顔をしました。
「ここで言うんだ」
「はい」
「いや、大事だけど。大事だけど、雨の階段で、胸にラベル貼られかけながら告白っぽいこと言うの、状況が混線しすぎ」
「すみません」
「謝らないで。いや、謝るところじゃない。でも、私の情緒が追いつかない」
黒瀬さんは、額を押さえました。
「ちょっと待って。これは恋愛イベント? 役割解除イベント? 自己確認イベント? どれ?」
「全部では」
透真さんが言うと、黒瀬さんは彼を睨みました。
「そういう全部少しずつ正しいみたいなこと言うの、今はやめて。処理が重い」
「すみません」
「水無月さんも謝らない。謝罪が渋滞してる」
私は、少し笑ってしまいました。
こんな時なのに。
胸に見えないラベルが貼られかけていて、自分の好きが設定かもしれなくて、怖くて仕方ないのに。
黒瀬さんの怒り方が人間らしくて、私は少し笑ってしまいました。
「しずくさん、笑った?」
「はい」
「今のどこに笑う要素あった?」
「黒瀬さんが、私たちの情緒を交通整理しているところです」
「交通整理しないと三人とも事故るからね」
透真さんが、小さく笑いました。
「助かっています」
「ほんとに助かってると思うなら、二人とも急に重いこと言う前に一回申告して」
「重いことを言います、と?」
「そう」
「では、黒瀬さん」
私は少しだけ手を上げました。
「重いことを言います」
「今から?」
「はい」
「よし。来なさい」
黒瀬さんは、なぜか少し身構えました。
私は透真さんを見ました。
「私は、透真さんのことが好きです」
今度は、さっきより少しだけ落ち着いて言えました。
「でも、その好きがどこから来たのか、わかりません。第1話のヒロインとしてそう書かれたからかもしれません。幼い私が透真さんを書いたから、その続きとして好きになったのかもしれません。雨の日に見つけてくれた男の子を、ずっと待っていたからかもしれません」
透真さんは、黙って聞いていました。
黒瀬さんも、今度は茶化しませんでした。
「私は、自分の気持ちを完全に信用できません」
言うのが怖かったです。
でも、言いました。
「でも、完全に信用できないからといって、全部嘘にするのも嫌です」
胸元の熱が、少し強くなりました。
見えないラベルが、貼られようとしています。
私は、それに逆らうように言いました。
「私は、透真さんを好きかどうか、今すぐ決めなくてもいいと言われました。でも今、私は言いたいです。好きです。たぶん、好きです。まだ疑っています。でも、疑いながら好きです」
黒瀬さんが、小さく息を吐きました。
「疑いながら好き」
「変でしょうか」
「変だけど、かなり正直」
透真さんは、少し困ったように笑いました。
でも、その顔は逃げていませんでした。
「僕も、しずくさんのことを大切だと思っています」
心臓が、大きく鳴りました。
「でも、好きかどうかを今すぐ同じ重さで返すのは、たぶん違うと思います」
「はい」
「僕は、あなたが神様だったから見つけた。死体だったから関わった。遺言があったから一緒にいた。幼い頃に否定した罪悪感もある。雨宮透真の記憶に引っ張られている部分もあるかもしれない」
「はい」
「だから、僕も自分の気持ちを完全には信用できません」
透真さんは、私をまっすぐ見ました。
「でも、完全に信用できないからといって、あなたを大切に思う気持ちを全部嘘にはしたくありません」
胸元のラベルが、一瞬だけ止まりました。
黒瀬さんが、小さく呟きます。
「二人して面倒な告白してる」
「告白なのでしょうか」
「知らない。でも、普通のラブコメならもっと甘い音楽が流れるところで、自己不信と役割論が混ざってるのが私たちらしい」
「甘い音楽」
「流れないでしょ、たぶん」
その瞬間、どこからか小さなオルゴールの音が聞こえました。
黒瀬さんが、即座に怒鳴りました。
「流すな!」
音が止まりました。
私は驚いて黒瀬さんを見ました。
「止まりました」
「言ってみるものね」
透真さんが、かなり真面目な顔で言いました。
「黒瀬のツッコミが世界に干渉していますね」
「やめて。私まで変な役割つけられそうだから」
そう言った瞬間、黒瀬さんの頭上に薄い文字が浮かびました。
ツッコミ役。
黒瀬さんは、それを見た瞬間、油性ペンを投げそうな顔になりました。
「貼るな!」
文字は、慌てたように消えました。
「……消えましたね」
私が言うと、黒瀬さんは肩で息をしました。
「危ない。今、私にも貼られかけた」
「役割は呼ばれ続けると太る、と猫が言っていました」
透真さんが言います。
「だから、黒瀬をツッコミ役と呼び続けると」
「言うな」
「はい」
「私は黒瀬依子。役割は保留。必要なら突っ込むけど、役割じゃない」
「はい」
私は、そのやり取りを見て少しだけ勇気をもらいました。
役割が貼られそうになったら、否定できる。
完全には無理でも、少しは。
私は、自分の胸元を見下ろしました。
そこに、とうとう文字が浮かび始めます。
白いラベル。
制服の名札のような形。
そこに黒い文字。
メインヒロイン。
貼られました。
ぺたり。
音がしました。
胸の奥が、急に重くなります。
同時に、世界の見え方が少し変わりました。
透真さんが、少しだけ遠く見えます。
主人公。
私は、そう思ってしまいます。
透真さんが主人公で、私はヒロイン。
彼を支え、彼に見つけられ、彼を好きになり、彼の選択に影響を与える存在。
その構図が、私の中に流れ込んできました。
心が、それに合わせて形を変えようとします。
好き。
大切。
守りたい。
そばにいたい。
でも、その全部が、透真さんを中心に回るように並べ替えられていく。
「……嫌」
声が出ました。
小さく。
でも、確かに。
「嫌です」
黒瀬さんが、すぐに私の肩を掴みました。
「しずくさん」
「嫌です」
私は胸元のラベルを掴みました。
指先がラベルに触れます。
紙ではありません。
薄い膜のような、でも確かに貼りついているもの。
「私は、透真さんを好きです」
言いながら、ラベルを引っ張ります。
「でも、好きだからヒロインなのではありません」
ラベルは剥がれません。
「ヒロインだから好きなのでもありません」
さらに引っ張ります。
胸が痛い。
皮膚ではなく、物語が剥がされるような痛み。
「私は、私のまま、透真さんを好きかどうか迷いたいです」
黒瀬さんが、私の手の上に手を重ねました。
「一人で剥がさない」
「黒瀬さん」
「共有でしょ」
透真さんも、反対側から手を伸ばしました。
「僕も」
「透真さんは、主人公かもしれません」
「かもしれません」
「なら、私のヒロインラベルを剥がすのは、おかしくありませんか」
「おかしいかもしれません」
透真さんは、少しだけ苦しそうに言いました。
「でも、僕はあなたに僕のためのヒロインでいてほしいわけではありません」
その言葉で、ラベルが少し浮きました。
黒瀬さんが力を込めます。
「しずくさんは、しずくさん。雨宮ずくじゃなくて、雨宮しずく。神様でも、死体でも、ヒロインでもあるかもしれないけど、それだけじゃない」
「はい」
「好きかどうかは、今のしずくさんが決める。疑いながらでも、迷いながらでも、変わってもいい。主人公に合わせて決定しなくていい」
「はい」
「あと、勝手にラベル貼る世界は本当に最悪」
「はい」
私は、泣きながら少し笑いました。
「最後、ただの悪口です」
「大事な悪口」
三人で、ラベルを引っ張ります。
痛い。
とても痛い。
でも、一人ではない痛みです。
ぺり。
少し剥がれました。
そこには、まだ文字が残っています。
メインヒロ――
最後の「イン」が剥がれかけて、雨に溶けました。
黒瀬さんが言います。
「全部剥がす?」
私は、ラベルを見ました。
完全に剥がしたい。
そう思いました。
でも、少しだけ違う気もしました。
「全部は、まだ剥がしません」
「いいの?」
「はい」
透真さんが、私を見ました。
「なぜですか」
「私は、ヒロインという言葉に傷つけられています。でも、ヒロインだった私を全部捨てると、第1話で死んでいた私や、プリンの遺言で戻ってきた私も捨てることになる気がします」
黒瀬さんは黙って聞いています。
「だから、全部は剥がしません。でも、貼られたままにもさせません」
私は、ラベルを半分だけ剥がした状態で、胸元に残しました。
文字は崩れています。
メインヒロ――
不完全なラベル。
貼られているけれど、剥がれかけている。
私には、それくらいが今はちょうどいい気がしました。
「保留ラベルですね」
透真さんが言いました。
黒瀬さんが、すかさず言います。
「保留、多いなあ」
「私たちらしいです」
私が言うと、黒瀬さんは少し笑いました。
「それもそう」
白い猫が、手すりの上でにゃあと鳴きました。
猫の声が頭に届きます。
ラベルは、剥がすだけではなく、書き換えることもできる。
「書き換える?」
黒瀬さんが聞き返しました。
猫は尾を揺らします。
主人公を一人にしないなら、ヒロインも一人にしない。
「ヒロインを一人にしないって、どういう意味?」
黒瀬さんが眉をひそめます。
私は考えました。
ヒロイン。
主人公に選ばれる人。
主人公を好きになる人。
主人公の物語で大切な役を担う人。
でも、それが一人である必要はないのでしょうか。
いいえ。
人数の話ではないのかもしれません。
ヒロインという役割を、私一人に押しつけない。
好きという感情を、物語の役割だけに閉じ込めない。
私は、黒瀬さんを見ました。
「黒瀬さんも、私の物語で大切な人です」
「えっ」
黒瀬さんが、急に変な声を出しました。
「何で急に私?」
「黒瀬さんがいないと、私は自分の気持ちを全部設定のせいにしていました」
「いや、でも、私ヒロインとか言われるのは嫌よ」
「言いません」
「言わないんだ」
「はい。黒瀬さんは黒瀬さんです」
「それはそれで、ちょっと照れる」
透真さんが小さく笑いました。
「黒瀬、顔が赤いです」
「うるさい。水無月さんは今ちょっと黙って」
「はい」
私は胸元の半分剥がれたラベルに触れました。
そして、油性ペンを黒瀬さんに借りました。
「何を書くの?」
「上書きします」
「ラベルに?」
「はい」
私は、剥がれかけのラベルに文字を書きました。
雨宮しずく
ただし、「し」は少しだけかすれました。
欠けた文字だからです。
黒瀬さんが、すぐに自分の手の甲を見せました。
「ここにある」
彼女の手の甲の「し」。
私はその文字に触れました。
温かい。
「ありがとうございます」
「預かってるだけ。返すって言ったでしょ」
「はい」
透真さんも、自分の手の甲を見せました。
そこにも「し」があります。
「僕も預かっています」
「はい」
「忘れないように」
「はい」
胸元のラベルは、もう「メインヒロイン」ではありませんでした。
完全に消えたわけではない。
下地にはまだ役割の跡があります。
でも、その上に私の名前が書かれています。
雨宮しずく。
少し欠けて、少し預けて、少し取り戻している名前。
黒瀬さんが、それを見て頷きました。
「よし。ヒロインより先に名前」
「はい」
「勝ち?」
「完全ではありません」
「じゃあ暫定勝ち」
「暫定勝ち」
透真さんが、ふっと笑いました。
「僕たちは暫定勝ちが多いですね」
「負けるよりいい」
黒瀬さんはそう言って、手の甲の「選べる」を見ました。
その文字が少しだけ濃くなっています。
雨の階段が、ゆっくり薄れていきました。
団地の壁が白く滲み、手すりが消え、幼い私のノートも、白い猫の姿も、雨粒になってほどけていきます。
その中で、最後に幼い私が見えました。
胸に透明な傘を刺したまま、こちらを見ています。
でも、さっきより少し表情が柔らかい。
彼女は私に言いました。
『選んでいいの?』
声は、小さな私の声でした。
私は答えました。
「はい」
『透真さんを?』
「透真さんも。自分も。物語も」
『間違えたら?』
「黒瀬さんが怒ってくれます」
黒瀬さんが横で言いました。
「そこで私?」
「はい」
「まあ、怒るけど」
幼い私は、少しだけ笑いました。
そして、雨になって消えました。
目を開けると、私たちは透真さんの部屋に戻っていました。
プリンの空き容器。
卵サンドの包み。
メロンパン。
黒瀬さんのノート。
窓の外の雨。
全部がそのままあります。
でも、私の胸元には半分剥がれたラベルが残っていました。
そこには、私の字でこう書かれています。
雨宮しずく
黒瀬さんが、私を見て言いました。
「似合ってる」
「ラベルがですか」
「名前が」
私は胸が温かくなりました。
「ありがとうございます」
その時、黒瀬さんのノートが勝手に開きました。
ページに文字が浮かびます。
黒瀬依子は、読者に近い。
黒瀬さんが、ものすごく嫌そうな顔をしました。
「……次、私?」
透真さんのスマホにも通知が出ます。
【第24話 ヒロインは主人公を選べない 読了】
【第25話 黒瀬依子は読者に近い】
黒瀬さんは、ノートを閉じようとして、閉じられませんでした。
ページが勝手に開いたままです。
「読者に近いって何よ」
彼女は言いました。
「嫌な予感しかしないんだけど」
透真さんが、少しだけ首を傾げました。
「黒瀬は、確かに読者に近いところがあります」
「水無月さん、そこで納得しない」
「ツッコミますし、記録しますし、僕たちが物語に流されそうになると止めますし」
「分析するな。私を役割にするな」
私は、黒瀬さんの手を取りました。
「黒瀬さん」
「何」
「黒瀬さんは、役割より先に黒瀬依子さんです」
黒瀬さんは、一瞬黙りました。
それから、少しだけ照れた顔で言いました。
「……今それ言われると、弱い」
「弱いですか」
「うん。かなり」
黒瀬さんは、ノートを見下ろしました。
そのページには、さらに文字が浮かびます。
次の話では、地の文に黒瀬依子の声が混ざります。
黒瀬さんが、顔を上げました。
「地の文に混ざる?」
その瞬間、私の頭の中に黒瀬さんの声が響きました。
――いや、勝手に混ぜないで。
私は驚いて黒瀬さんを見ました。
「今」
「何」
「黒瀬さんの声が、地の文に」
「え、もう?」
黒瀬さんが頭を押さえました。
「早い早い早い。まだ第25話始まってないでしょ!」
――こういうメタいことを言うと、また話がややこしくなる。
「それも黒瀬さんの声です」
「やめて! 私の心の声を勝手に本文に混ぜないで!」
透真さんが、少し真面目な顔で言いました。
「これはかなり厄介ですね」
「水無月さん、冷静に厄介認定しない!」
私は、胸元のラベルを押さえました。
ヒロインのラベルは半分剥がれました。
でも次は、黒瀬さんに「読者に近い」という役割が迫っています。
主人公。
ヒロイン。
読者。
物語の役割が、私たちを一人ずつ捕まえようとしている。
私は、黒瀬さんの手を握り直しました。
「次は、黒瀬さんを一人にしません」
黒瀬さんは、少しだけ目を見開きました。
それから、困ったように笑いました。
「頼むわ。私、読者とか言われたら、たぶん一番面倒なタイプの読者になる」
「どういうタイプですか」
「伏線を全部メモして、矛盾点に怒って、でも登場人物が泣くと結局泣くタイプ」
透真さんが言いました。
「かなり黒瀬らしいですね」
「だから役割にするなって言ってるでしょ」
黒瀬さんはそう怒りました。
でも、その怒りは少しだけ柔らかかった。
私は思いました。
役割は、きっと何度も貼られる。
主人公。
ヒロイン。
読者。
死体。
係。
神様。
でも、そのたびに私たちは名前を呼べばいい。
役割より先に。
透真さん。
水無月さん。
ミナト。
黒瀬さん。
雨宮しずく。
欠けても、預けても、書き直しても。
名前を呼び続ける限り、私たちはまだ、物語だけにはならない。
そう思った瞬間、胸元のラベルが少しだけ軽くなりました。
そして、黒瀬さんのノートのページに、新しい一文が浮かびました。
読者は、物語を読むだけではない。
時々、登場人物を生かしてしまう。
黒瀬さんは、それを見て小さく言いました。
「……そういう良さげなこと書くの、ずるい」
次の話が、始まろうとしていました。




