第33話 雨宮しずくは二人いる
雨宮しずくは二人いる。
ノートに浮かんだその文字を見た瞬間、私は思った。
ああ、また最悪な言い方をしてきたな、と。
二人いる。
そんな簡単に言わないでほしい。
人間は、そんなふうに数えられるものじゃない。
神様でも。
死体でも。
主人公でも。
ヒロインでも。
白い部屋から持ち帰った綺麗な何かでも。
しずくさんは、しずくさんだ。
そう言いたかった。
でも、目の前には確かに二人いた。
一人は、私の隣で肩を震わせているしずくさん。
薄い水色のカーディガン。
胸元には、戻りかけた「雨宮しずく」のラベル。
さっきまで湯呑みを四つ出し忘れて、自分でもそれを怖がったしずくさん。
もう一人は、壁際に立っている。
白いワンピース。
濡れていない髪。
胸に傷はない。
表情は整っていて、泣くなら美しく泣き、笑うなら静かに笑うのだろうとわかる顔。
白い部屋のしずく。
雨宮しずくが主人公だった世界にいた、綺麗なしずく。
彼女は、こちらを見て微笑んでいた。
その笑顔が、とにかく腹立たしい。
美しいからだ。
美しくて、整っていて、悪意がなさそうで、それなのに言っていることが最悪だからだ。
「透真さんは、毎朝死んでいればよかったのです」
白いしずくは、静かに言った。
「その方が物語は美しいから」
部屋の中が冷えた。
透真さんは、何も言わなかった。
ただ、窓際に立ったまま、自分の手の甲を見た。
そこには薄く「し」が残っている。
でも、名前の「真」はまだ戻っていない。
水無月透。
真の欠けた水無月さんは、怒るのが遅い。
今も、たぶん傷ついている。
嫌だと思っている。
でも、その嫌さが言葉になるまでに時間がかかる。
だから、私が先に怒った。
「綺麗な顔で最悪のこと言わないで」
白いしずくは、私を見た。
まるで、不思議なものでも見るような目だった。
「黒瀬依子さん」
「何」
「あなたは、いつも怒っていますね」
「そうね」
「疲れませんか」
「疲れるわよ」
即答した。
「めちゃくちゃ疲れる。喉も痛いし、頭も痛いし、正直、毎回私が怒らなくてもよくない? って思ってる」
「なら、怒らなければいいのです」
白いしずくは微笑んだ。
「怒らない物語は、静かです。静かな物語は、美しいです」
「静かな物語と、誰も文句言えない物語は違う」
私はノートを握りしめた。
「静かなのが悪いんじゃない。怒るべき時に怒る人が消されてるのが嫌なの」
白いしずくは、少しだけ首を傾げた。
その仕草まで綺麗で、また腹が立った。
「怒りは、物語を乱します」
「乱していいって第三章で結論出したばっかりなんだけど」
「雨宮しずくは、主人公でした」
「知ってる」
「主人公には、物語を美しく保つ責任があります」
「ない」
私は机を叩いた。
湯呑みが揺れた。
四つ目の椅子の湯呑みから、細い湯気が乱れる。
「主人公にそんな責任はない。少なくとも、一人で背負うものじゃない」
白いしずくは、今度は今のしずくさんを見た。
私の隣のしずくさん。
彼女は、青ざめた顔で白い自分を見ていた。
「あなたは、覚えているでしょう」
白いしずくが言う。
「透真さんが毎朝死んでいた世界を。あなたは毎朝、彼を見つけました。遺言を読みました。雨を食べ、人間に近づきました。誰にも邪魔されませんでした。誰にも疑われませんでした。誰にも怒られませんでした」
今のしずくさんの肩が、わずかに揺れた。
「その世界は、寂しかったです」
「でも、綺麗でした」
「寂しかったです」
「綺麗でした」
白いしずくは、まったく同じ調子で繰り返した。
それが怖かった。
会話ではない。
反応でもない。
用意された台詞のようだった。
今のしずくさんは、唇を噛んだ。
「私は、あの世界を持ち出しました」
「はい」
「捨てないと決めました」
「はい」
「でも、戻りたいとは思っていません」
「本当に?」
白いしずくが、一歩近づいた。
部屋の中に、白い雨の匂いが広がった。
普通の雨ではない。
洗われすぎた雨。
汚れを全部落とし、必要なものまで削ってしまう雨。
「あなたは楽だったはずです。黒瀬依子さんに怒られない。透真さんに疑われない。欠席者の名前に胸を痛めなくていい。白い猫に受領書を求めなくていい。あなたは、ただ主人公として悲しんでいればよかった」
しずくさんの顔が歪んだ。
私はすぐに彼女の手を握った。
「しずくさん」
「はい」
「今、揺れた?」
「……はい」
正直だった。
それでいい。
揺れない人間なんて、信用しなくていい。
「少し、思いました」
しずくさんは言った。
「楽だった、と。白い部屋では、私が悪いことをしたと言われませんでした。透真さんを毎朝死なせても、それは物語として整っていました。私が寂しいと言えば、雨が降りました。私が泣けば、世界がそれを美しく扱ってくれました」
透真さんが、静かに彼女を見ている。
私は、水無月さんの顔も見逃さないようにした。
傷ついている。
ちゃんと傷ついている。
よかった、と思ってしまった。
ひどいけど、よかった。
「しずくさん」
透真さんが言った。
少し掠れた声だった。
「僕は、今の話を聞いて嫌でした」
しずくさんが、目を見開いた。
「はい」
「あなたが、僕を毎朝死なせる世界を少し楽だったと思うことが、嫌でした」
「はい」
「でも、それを言ってくれたことには、少し安心しました」
水無月さんは、自分の胸元を押さえた。
「言わずに綺麗にされる方が、もっと怖いので」
私は、心の中で小さく頷いた。
戻ってきている。
まだ「真」は欠けているけど、今の言葉は本気に近い。
白いしずくは、そのやり取りを静かに見ていた。
そして、少し残念そうに言った。
「痛みを言葉にすると、物語は濁ります」
「濁っていい」
今度は、しずくさん本人が言った。
震えていた。
でも、確かに自分で言った。
「私は、濁っていいです」
「あなたは雨です」
白いしずくは言った。
「雨は、澄んでいる方が美しい」
「泥水を跳ねる雨もあります」
しずくさんは言い返した。
その言い方が少し必死で、少し子供っぽくて、私は泣きそうになった。
白い部屋のしずくには絶対に出せない声だ。
「洗濯物を濡らす雨もあります。靴の中に入って気持ち悪い雨もあります。傘を忘れた人を困らせる雨もあります。そういう雨は、綺麗ではないかもしれません」
しずくさんは、私の手を握り返した。
「でも、私はそちらの雨も知りたいです」
白いしずくの笑顔が、少しだけ薄くなった。
私は思った。
効いている。
綺麗な物語は、汚い具体例に弱い。
洗濯物。
靴の中。
傘を忘れた人。
そういう生活臭いものが、白い部屋の壁に染みを作る。
「いいね」
私は言った。
「かなりいい。靴の中に入る雨、最高に嫌でいい」
「褒めていますか」
「褒めてる」
水無月さんも、小さく言った。
「僕も、靴の中に雨が入るのは嫌です」
「水無月さん、今それ言う?」
「具体的な方が現実に戻れると黒瀬が言ったので」
「そうだけど」
少しだけ、部屋の空気が戻った。
でも、白いしずくは消えない。
彼女は、静かに四つ目の椅子を見た。
メロンパンの袋。
恋文。
湯呑み。
白いしずくは、眉ひとつ動かさずに言った。
「その席は不要です」
今度は、私の血が冷えた。
「何て?」
「不要です」
白いしずくは繰り返した。
「名前のない者の席は、物語を散らかします。読者は混乱します。主人公の目的がぼやけます。恋文も、メロンパンも、黒塗りの差出人も、すべて不要です」
四つ目の椅子の湯呑みから、湯気が消えた。
メロンパンの袋が、静かになった。
私は立ち上がった。
「撤回して」
「不要なものを不要と言っただけです」
「撤回して」
声が低くなった。
白いしずくは、私を見る。
「あなたは、彼の名前をまだ知りません」
「だから何」
「名前のない登場人物は、物語に必要ありません」
「必要かどうかで、人を置いたり消したりするな」
私は四つ目の椅子に手を置いた。
冷たい。
嫌な冷たさだった。
「名前がなくても、席はある。そう決めた」
「誰が?」
「私たちが」
「作者ではなく?」
「私たちが!」
部屋の窓が震えた。
白いしずくは、ほんの少しだけ目を細めた。
その時、ノートに文字が浮かんだ。
黒瀬依子は、怒ることで物語を乱す。
「そうだよ」
私はノートを見ずに言った。
「乱すよ。乱してやる。あんたが整えようとしてるなら、私は机ずらすし、椅子増やすし、湯呑み一個多く出す」
水無月さんが、少しだけ困った顔をした。
「黒瀬、地味ですね」
「地味でいいの。世界を救うって言うより、湯呑み一個増やす方が今は大事」
「確かに」
「そこで確かにって言えるなら、少し戻ってる」
私は四つ目の湯呑みを持ち上げ、台所へ行った。
白いしずくが私を見ている。
「何をするのですか」
「お茶を入れ直す」
「意味がありますか」
「ある」
私は急須から、冷えかけたお茶を注ぎ足した。
湯気がまた立つ。
少し渋い匂い。
美しくはない。
でも、生活の匂いだ。
四つ目の椅子へ戻しながら言った。
「意味があるかどうかじゃない。置くって決めたから置くの」
その瞬間、メロンパンの袋がかさりと鳴った。
小さく。
でも、確かに。
白いしずくの眉が、初めて少しだけ動いた。
「……不完全な合図です」
「不完全でいい」
私は言った。
「完全な返事しか認めないから、あんたの世界は静かすぎるんでしょ」
しずくさんが、私の横に立った。
今のしずくさん。
手が震えている。
でも、立っている。
「あなたは、私です」
しずくさんは白いしずくに向かって言った。
「私はあなたを捨てません」
白いしずくは微笑んだ。
「では、戻りましょう」
「戻りません」
「捨てないのでしょう」
「はい。捨てません。でも、戻りません」
しずくさんは、自分の胸元のラベルに触れた。
「あなたは、私が望んだ綺麗な物語です。透真さんを毎朝死なせて、私だけが悲しむ世界です。私はそれを望みました。認めます」
白いしずくは、少しだけ満足そうに見えた。
でも、しずくさんは続けた。
「でも、望んだものすべてを選ぶわけではありません」
水無月さんが顔を上げた。
「私は、あなたを持ちます。けれど、あなたの言う通りにはしません」
「矛盾しています」
「はい」
「美しくありません」
「はい」
「主人公として不完全です」
「はい」
しずくさんは頷いた。
「私は不完全です」
声が震えていた。
でも、折れていなかった。
「透真さんを好きかどうかも、まだ疑っています。自分が書いたことも怖いです。黒瀬さんに怒られると胸が痛いです。欠席者の席を見ると、自分が知らない人を置いている不安があります。私は、主人公として綺麗ではありません」
しずくさんは、一度息を吸った。
「でも、今の方がいいです」
白いしずくの輪郭が、わずかに揺れた。
「なぜ」
「面倒だからです」
私は思わず笑いそうになった。
水無月さんも、少し目を丸くした。
しずくさんは、真面目な顔で続ける。
「面倒な方が、人間がいる感じがします。黒瀬さんが怒って、水無月さんが遠回しに傷ついて、四つ目の席の袋がかさりと鳴って、私が何を言えばいいかわからなくなる朝の方が、私は怖いです。でも、そちらにいたいです」
白いしずくは、今度こそ黙った。
その沈黙は、美しい沈黙ではなかった。
少しだけ、困っているように見えた。
私は言った。
「聞いた?」
白いしずくは私を見る。
「これが今のしずくさん。美しいかどうかは知らないけど、かなり面倒で、かなり生きてる」
水無月さんが、静かに言った。
「僕も、今のしずくさんの方がいいです」
しずくさんが、驚いたように彼を見た。
「透真さん」
「白いしずくさんは、僕を毎朝死なせる世界を美しいと言いました」
「はい」
「正直に言うと、怖いです」
「はい」
「でも、今のしずくさんは、それを自分の中にあるものとして認めた上で、選ばないと言った」
水無月さんは、少しだけ息を吐いた。
「僕は、その方が信用できます」
私はすぐに突っ込んだ。
「水無月さんの信用、今ちょっと割引中だけどね」
「はい」
「でも、今のは少し真が戻ってた」
「そうでしょうか」
「うん。少し刺さった」
受領書が光った。
預かり品:真
返却準備:三割
「お」
私は思わず声を出した。
「一割増えた」
水無月さんは、自分の学生証を見た。
名前はまだ水無月透。
でも、薄く「真」の影が浮かんだように見える。
しずくさんがほっとした顔をした。
その瞬間だった。
白いしずくが、今までで一番静かな声で言った。
「黒瀬依子さん」
「何」
「あなたは邪魔です」
部屋の空気が止まった。
しずくさんが、私の手を強く握った。
水無月さんも、こちらを見る。
白いしずくは、私だけを見ていた。
「あなたがいると、物語が美しくありません」
その言葉は、たぶん私を傷つけるためのものだった。
けれど、私は少し笑ってしまった。
「知ってる」
白いしずくは、ほんの少し目を見開いた。
「私は綺麗な物語には向いてない。怒るし、疑うし、記録するし、椅子増やすし、湯呑みも増やすし、死体にも突っ込む」
私は一歩前に出た。
「でも、あんたの綺麗な物語で、しずくさんは一人だった。水無月さんは毎朝死んでた。あいつの席はなかった」
四つ目の椅子のメロンパン袋が、かさりと鳴った。
私はそれを背中で聞いた。
「そんな物語なら、私が邪魔でいい」
ノートが勝手に開いた。
文字が浮かぶ。
まともな人間ほど壊れやすい。
次の話のタイトルだった。
私は、その文字を見て顔をしかめた。
「嫌なこと言うな」
でも、たぶん正しい。
今日だけで、何度も思った。
私が見なければ。
私が疑わなければ。
私が怒らなければ。
そのたびに、少し気持ちよかった。
そして、少し壊れそうだった。
白いしずくは、ゆっくりと薄くなり始めた。
消えるわけではない。
しずくさんの胸元のラベルの下へ戻っていくように見えた。
「私は、あなたです」
白いしずくが、今のしずくさんに言った。
「知っています」
しずくさんは答えた。
「また来ます」
「その時は、また黒瀬さんに怒ってもらいます」
「自分で怒るのではなく?」
しずくさんは、少しだけ考えた。
「私も怒ります」
その答えを聞いて、白いしずくは初めて少しだけ表情を崩した。
それが悲しみなのか、悔しさなのか、安堵なのかはわからない。
でも、綺麗なだけではなかった。
そして彼女は消えた。
完全にではない。
しずくさんの中に戻った。
部屋に残ったのは、四つの椅子と、冷めかけたお茶と、少し戻った「真」と、私のやたら疲れた喉だった。
「……疲れた」
私が言うと、しずくさんが心配そうに見た。
「お茶、飲みますか」
「飲む」
水無月さんが言った。
「僕も飲みます」
「水無月さんは、自分の湯呑み持って」
「はい」
「しずくさんも座って。自分の中の白い人と戦った直後なんだから」
「はい」
三人でお茶を飲んだ。
四つ目の湯呑みだけは、置いたまま。
誰も飲まない。
でも、湯気は立っている。
私はノートに書いた。
今日の記録。
雨宮しずくは二人いた。
白いしずくは、綺麗な物語を望んだ。
今のしずくは、それを自分だと認めた上で選ばなかった。
水無月透真の「真」は三割返却準備。
四つ目の席は有効。
黒瀬依子は邪魔。
ただし、邪魔でよい。
書き終えると、ノートに小さく受理と浮かんだ。
私はその文字に向かって言った。
「受理するな。照れる」
しずくさんが少し笑った。
水無月さんも笑った。
その笑い方には、さっきより少しだけ人間味があった。
そして、四つ目の椅子のメロンパンの袋が、またかさりと鳴った。
今度は、ちょっとだけ笑われた気がした。
「何よ」
私は空席に向かって言った。
「邪魔でよい、がそんなに面白い?」
返事はない。
でも、恋文の封筒の端に、小さな青い染みが浮かんでいた。
青。
名前なのか、場所なのか、まだ決めない。
でも、置いておく。
私はお茶を一口飲んだ。
ぬるかった。
渋かった。
でも、白い部屋の綺麗な雨より、ずっとましだった。




