第32話 水無月透真を信用するな
水無月透真を信用するな。
その文字は、黒瀬のノートの上で、嫌になるほど正しかった。
正しい。
それが、一番腹立たしい。
間違っているなら怒鳴れる。
馬鹿な警告なら破れる。
意味不明なら、いつものように「はいはい、また世界が変なこと言ってる」で済ませられる。
でも、今回の警告は正しかった。
水無月さんは、今、信用しきれない。
名前から「真」が抜けている。
水無月透。
真実の真。
本気の真。
誠実の真。
漢字一文字に意味を背負わせすぎだとは思う。
思うけど、この世界はそういう雑で嫌な理屈を本当に通してくる。
実際、水無月さんはおかしかった。
嘘をついているわけじゃない。
悪意があるわけでもない。
むしろいつもより穏やかで、聞き分けがよくて、謝罪も早い。
それが怖い。
人間は、もう少し面倒なはずだ。
自分の名前が欠けたら、嫌がる。
怖がる。
認めたくなくて黙る。
怒る。
自分で納得できないまま、とりあえず水を飲んだり、スマホを見たり、関係ないことを言ったりする。
今の水無月さんは、その引っかかりが薄い。
つるんとしている。
綺麗に滑っていく。
「黒瀬」
水無月さんが言った。
私はノートから顔を上げる。
「何」
「僕を疑ってください」
「その言い方が一番嫌」
即答した。
水無月さんは、少し困ったように笑った。
困り方も、やっぱり薄い。
「でも、必要でしょう」
「必要だけど、あんたがそれを差し出すなって言ってるの」
「差し出す?」
「そう。『僕を疑ってください』って、自分をまな板の上に乗せるみたいに言わないで。こっちが包丁持つしかなくなるでしょ」
しずくさんが、小さく息を呑んだ。
部屋は狭い。
椅子は四つ。
四つ目の椅子には、メロンパンの袋と恋文と湯呑み。
その湯呑みからは、まだ細い湯気が立っている。
誰も飲まないお茶。
でも、そこにある。
それだけで、少しだけ部屋がましになる。
私はノートに、さっき書いた方針をもう一度見た。
水無月透真を信用するな。
ただし、黒瀬依子一人で疑うな。
透真本人にも疑わせる。
しずくにも見てもらう。
欠席者の席にも置く。
疑うことを、一人で持たない。
書いたのは私だ。
正しいと思う。
でも、実行するのは面倒だった。
「じゃあ、会議」
私は言った。
「また会議ですか」
水無月さんが言う。
「また会議。私たちは困ったら会議する生き物になったの」
「人間らしいですね」
しずくさんが言った。
「うん。人間、だいたい困ったら集まってぐだぐだ話す。それで解決しないことも多いけど、一人で黙って壊れるよりはまし」
私はノートの新しいページを開いた。
題名を書く。
水無月透真をどう疑うか会議
書いてから、すぐ横に追記した。
※ただし、水無月透真を物扱いしない。
※疑う役を黒瀬依子一人にしない。
※欠席者席あり。
「注意書きが多いですね」
水無月さんが言う。
「注意しないとすぐ事故るからね、この物語」
言ってから、私は少しだけノートを睨んだ。
物語。
もう、その言葉を避けるのも面倒になっている。
でも便利に使いすぎると、また私が読者側へ寄る。
面倒くさい。
言葉一つにまで警戒しなきゃいけないの、本当に面倒くさい。
しずくさんが、四つ目の椅子を見た。
「あの方にも、疑ってもらうのですか」
「もらう」
「でも、今はいません」
「いないけど、席はある」
「はい」
「名前がなくても席は置ける。猫が言ってた」
「猫が言うと腹立つのに、黒瀬さんが言うと少し安心します」
「それは私も複雑」
私は四つ目の椅子に置いたメロンパンの袋を少し見た。
「あんたも、水無月さんをミナトって呼んでたんでしょ」
返事はない。
「呼んでたなら、今の水無月さんがおかしいかどうか、何か反応して」
メロンパンの袋は鳴らなかった。
恋文の封筒も動かない。
私は少しだけ苛立った。
「こういう時に黙るな」
返事はない。
水無月さんが、静かに言った。
「黒瀬」
「何」
「彼も、全部に答えられるわけではないのでは」
「わかってる」
「はい」
「わかってるけど、腹立つの」
「はい」
「その“はい”も軽い」
「……はい」
「今のは少し重くなった」
水無月さんは、本当に困った顔をした。
ほんの少し。
それでも、さっきよりはましだった。
私はノートに書く。
観察一。
水無月透真は謝罪が早い。
嫌がり方が薄い。
自分を疑えと言う。
自分を危険物のように差し出す傾向あり。
ただし、突っ込むと少し困る。まだ人間味あり。
しずくさんが覗き込んだ。
「まだ人間味あり」
「大事」
「はい」
「しずくさんから見て、今の水無月さんはどう?」
しずくさんは、水無月さんを見た。
見るだけで、少し痛そうな顔をした。
第三章で、しずくさんは自分が水無月さんを書き、閉じ込め、死体として見つけた世界を見た。
その負い目がある。
だから、彼を疑うのはしんどいはずだ。
それでも、逃がさない。
疑うことを私一人にしないために。
「……優しすぎます」
しずくさんは言った。
「水無月さんは、もともと優しいです。でも、今は優しいというより、角がなくなっている感じがします」
「角」
「はい。怒りや迷いが、こちらに刺さらないように丸くなっている。でも、その分、水無月さん自身の形が少しわかりにくいです」
私は頷いた。
「それ、いい表現」
「いいのですか」
「うん。書く」
私はノートに書いた。
しずく証言。
水無月透真は優しいというより、角がなくなっている。
怒りや迷いが刺さらない代わりに、本人の形がわかりにくい。
水無月さんは、黙ってそれを読んでいた。
責められているのに、反論しない。
そこがまた怖い。
「水無月さん」
「はい」
「今の、嫌?」
「少し」
「少し?」
「はい。自分の形がわかりにくいと言われるのは、少し嫌です」
「もっと嫌がっていい」
「かなり嫌です」
「今、私に合わせた?」
「……少し」
「正直。よし」
しずくさんが、小さく言った。
「存在診断ですね」
「そう。嫌がれるなら人間」
私は水無月さんに向き直った。
「次、水無月さん本人」
「はい」
「自分のどこが信用できないと思う?」
水無月さんは、少し考えた。
この「少し考える」は、いつもの水無月さんに近かった。
「まず、自分の異常を軽く扱っています」
「うん」
「次に、黒瀬に判断を任せようとしています」
「うん」
「しずくさんに対しても、怒るべきところで怒れていません」
しずくさんが少し肩を震わせた。
水無月さんは、彼女を見て言った。
「すみません。これは責めたいという意味ではなく」
「言い直さないでください」
しずくさんが言った。
声が震えている。
でも、ちゃんと出ている。
「今のは、私にも必要です。透真さんが怒れていないことを、私が楽に感じてしまうから」
水無月さんは黙った。
しずくさんは続けた。
「透真さんが怒らなければ、私は少し救われます。でも、それは本当の救いではありません。たぶん、また白い部屋に近づきます」
私はノートに書いた。
しずく証言二。
透真が怒らないことは、しずくを楽にする。
しかし、それは白い部屋へ近づく危険がある。
書きながら、少し息苦しくなった。
こうやって記録していると、自分がどんどん「まともな記録者」へ寄っていく気がする。
だから、わざと書き足した。
今、黒瀬依子は記録者ぶっていて少し危ない。
腹が減った。
あとで何か食べる。
しずくさんがそれを見て、少し笑った。
「腹が減った、も記録ですか」
「記録。超重要」
「なぜですか」
「お腹が空くなら、まだ人間だから」
水無月さんが、静かに言った。
「では、黒瀬も人間です」
「当たり前でしょ」
そう返してから、少しだけ安心した。
私は人間だ。
読者でも、正気担当でも、まとも役でもなく。
腹が減る黒瀬依子だ。
その時、黒いノートの文字がじわりと滲んだ。
ページの端に、新しい文が浮かぶ。
疑う者は、信じたい者である。
私は眉を寄せた。
「急に良さげなことを書くな」
「でも、少し本当かもしれません」
しずくさんが言った。
「信じたくない相手なら、疑うのも雑でいいはずです。でも、信じたいから、ちゃんと疑うのでは」
「しずくさん、最近こういう核心を刺すの上手くなってない?」
「人間に近づいたので」
「それ便利に使ってるでしょ」
「少し」
しずくさんは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、白い部屋の整った笑顔ではなかった。
少し困っていて、少し恥ずかしそうで、少し自分の言葉を疑っている。
よし。
そっちは戻ってきている。
問題は、水無月さんだ。
「じゃあ」
私は言った。
「水無月さんを疑うために、まず水無月さんに怒ってもらう」
「怒る」
水無月さんが繰り返した。
「はい。怒って」
「何にですか」
「私に」
「黒瀬に?」
「そう。疑うって言われて、記録されて、信用できないって書かれて、いろいろ観察されてる。普通、嫌でしょ。怒っていい」
水無月さんは、少し困った。
「黒瀬は必要なことをしているので」
「そうやって納得するな」
「でも」
「でもじゃない。必要なことをされても嫌なものは嫌でいい。病院の注射だって必要だけど嫌でしょ」
「注射は嫌ですね」
「それ。その感じ」
水無月さんは、自分の手を見た。
手の甲に残る「し」。
そして、名前から抜けている「真」。
しばらく黙ったあと、彼は言った。
「嫌です」
「うん」
「黒瀬に疑われるのは嫌です」
「うん」
「記録されるのも嫌です」
「うん」
「自分が信用できない状態にあるのも嫌です」
「うん」
「しずくさんが、僕を怖がっているのを見るのも嫌です」
しずくさんが息を呑んだ。
水無月さんの声は、少しずつ震えていた。
「欠席者の席にまで、僕を疑う材料として置かれるのも嫌です」
「うん」
「でも、一番嫌なのは」
彼は、私を見た。
「黒瀬が、僕を疑うことで一人になりそうなことです」
胸の奥が、少し痛んだ。
やっと、刺さった。
角が戻ってきた。
人間の言葉だ。
「怒ってる?」
私は聞いた。
「はい」
「誰に」
「僕に。世界に。黒瀬に。少しだけ、しずくさんにも」
しずくさんが、静かに頷いた。
「はい」
「でも、黒瀬に怒るのが一番怖いです」
「何で」
「黒瀬は、いつも必要なことをしてくれるから」
「必要なことをする人には怒っちゃ駄目なの?」
「駄目ではありません」
「じゃあ怒って」
水無月さんは、私を見た。
目に、少しだけ力が戻っていた。
「黒瀬」
「うん」
「僕を読む時、僕を結論にしないでください」
その言葉は、思ったより強かった。
「結論?」
「はい。僕は信用できない。僕は真が欠けている。僕は危険。そういう結論にしないでください」
「……うん」
「疑うのはいいです。必要です。でも、僕を“信用できない人”という形に固定しないでください」
私は、ノートを見た。
水無月透真を信用するな。
その文字が少しだけ薄くなった。
やっぱり。
疑うことと、結論にすることは違う。
「わかった」
私は言った。
「ごめん。少し、結論にしかけてた」
「はい」
「水無月さんは今、信用しきれない。でも、それは水無月さん全部じゃない」
「はい」
「疑う。けど、固定しない」
私はノートに書き足した。
結論にしない。
水無月透真は現在、信用しきれない状態。
ただし「信用できない人」ではない。
真が欠けている影響を三人と欠席者席で観察する。
本人の怒りを証拠として扱う。
怒れるなら、まだ真は完全には失われていない。
書いた瞬間、受領書が光った。
預かり品:真
状態:暫定預かり
返却準備:二割
「二割」
私は息を吐いた。
「低っ」
水無月さんが、少しだけ笑った。
「ゼロよりはいいです」
「そういう控えめな前向きさ、今はちょっと腹立つけど、まあいい」
しずくさんが、胸に手を当てた。
「透真さん」
「はい」
「少し、戻りましたか」
「少しだけ、自分の嫌さがわかりました」
「嫌さ」
「はい。嫌だと思えることが、少し戻りました」
「よかったです」
しずくさんは、本当にほっとした顔をした。
その顔は綺麗すぎなかった。
少し泣きそうで、少し情けなくて、少し嬉しそうだった。
「しずくさんも、戻ってきたね」
私が言うと、彼女は驚いたように私を見た。
「私ですか」
「うん。さっきより白い部屋っぽくない」
「本当ですか」
「本当。だいぶ面倒な顔してる」
「褒めていますか」
「褒めてる」
しずくさんは、少しだけ笑った。
すると、四つ目の椅子の湯呑みから、また湯気が上がった。
メロンパンの袋が、かさりと鳴る。
今度は小さく。
私はそちらを見た。
「何。今の会議、合格?」
返事はない。
でも、恋文の封筒の黒塗り部分が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。
「……あんたも水無月さんを疑ってた?」
もちろん返事はない。
「ミナトって呼んでたくせに」
やっぱり返事はない。
でも、私の頭の奥に、声がした気がした。
違う。
聞こえたわけじゃない。
思い出しかけたのかもしれない。
――ミナトは、信用するなって言われると、すぐ自分から信用を差し出すから面倒なんだよ。
私は息を止めた。
「黒瀬さん?」
しずくさんが私を見る。
「今」
「何か聞こえましたか」
「……わからない」
私は四つ目の椅子を見つめた。
「聞こえた気がした。ミナトは、信用するなって言われると、すぐ自分から信用を差し出すから面倒、って」
水無月さんが、少し目を見開いた。
「彼の言い方のような気がします」
「思い出したの?」
「声ではなく、言い回しが」
しずくさんが言った。
「席に置いたから、性格が戻ってきているのでしょうか」
「性格ばっかり戻るの、ほんと腹立つ」
でも、嬉しかった。
私はノートの欠席者欄に書いた。
欠席者証言?
「ミナトは、信用するなって言われると、すぐ自分から信用を差し出すから面倒」
※声か記憶か不明。
※腹立つが、たぶん大事。
書いた瞬間、封筒に一文字だけ浮かんだ。
青
「あお」ではなく、漢字の青。
黒瀬さん――いや、私は、自分の指が震えるのを見た。
「青」
しずくさんが呟く。
「名前でしょうか」
「まだ決めない」
私はすぐに言った。
「でも、置く」
ノートに書き足す。
青。
名前か場所か物か不明。
まだ決めない。
でも置く。
受領書が光る。
預かり品:あ
返却準備:六割五分
「五分刻みになった」
私は笑いそうになった。
泣きそうでもあった。
「細かいな、猫」
窓の外で、猫の鳴き声はしなかった。
でも、絶対どこかで見ている気がした。
その時、しずくさんがふと部屋の隅を見た。
「……あれ」
「何」
「私、今、自分が二人いる気がしました」
空気が止まった。
水無月さんが、しずくさんを見る。
「二人?」
「はい。今ここにいる私と、白い部屋に残った私」
私は、しずくさんの胸元を見た。
ラベル。
雨宮しずく。
その下に、何か白いものが浮かび上がっている。
もう一枚のラベル。
綺麗な文字。
主人公だった雨宮しずく
「しずくさん」
「はい」
「動かないで」
私は立ち上がった。
しずくさんの背後の壁に、白い影が立っていた。
しずくさんと同じ顔。
でも、表情が違う。
静かで、整っていて、悲しみ方まで綺麗な女の子。
第三章で見た、白い部屋のしずくさん。
その影が、ゆっくり口を開いた。
「透真さんを疑う必要はありません」
声まで同じ。
でも、温度がない。
「透真さんは、毎朝死んでいればよかったのです。その方が物語は美しいから」
私は、背筋が冷たくなった。
しずくさんの顔から血の気が引く。
水無月さんも、目を細めた。
私はノートを掴んだ。
「第33話」
ページに文字が浮かぶ。
雨宮しずくは二人いる。
私は、白い影を睨んだ。
「綺麗な顔で最悪のこと言わないで」
白いしずくは、静かに微笑んだ。
その笑顔は、本当に綺麗だった。
だからこそ、吐き気がした。




