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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第31話 黒瀬依子だけがまともな朝

 目が覚めた時、最初に思ったのは。


 首が痛い。


 だった。


 世界が壊れているとか。

 神様が死んでいるとか。

 名前が欠けているとか。

 そういう大事そうなことではなく、首が痛い。


 たぶん、椅子に座ったまま寝たからだ。


 しかも、普通の椅子ではない。


 透真さんの部屋に無理やり置いた四つ目のパイプ椅子。


 あいつの席。


 誰も座っていないはずの椅子。


 なのに、今そこに座っているのは私だった。


「……は?」


 声が出た。


 自分でも、かなり低い声だったと思う。


 目の前には小さな机。

 机の上には、白いノート。黒いノート。受領書。プリンの空き容器。メロンパンの袋。恋文の封筒。

 狭い部屋に、椅子が四つ。


 昨日と同じ。


 いや、違う。


 空気が違う。


 やけに静かだった。


 透真さんの部屋は、もともと騒がしい場所ではない。六畳一間の古いアパートだ。壁は薄いし、床は少し軋むし、窓の外では雨の音がする。


 でも、昨日までは、変な意味で生きていた。


 しずくさんがプリンを食べて泣きそうになったり、透真さんが自分の死体を妙に冷静に扱ったり、私が何かにつけて怒ったり、猫が偉そうに受領書を出したり。


 嫌になるくらい面倒だった。


 今は、その面倒さが薄い。


 まるで、部屋全体が寝息を止めているみたいだった。


「……水無月さん?」


 呼んだ。


 返事はすぐにあった。


「はい」


 透真さんは、窓際に立っていた。


 白いシャツ。

 少し寝癖のある髪。

 手の甲には、共有、欄外受理、そして薄い「し」。


 見た目は、いつもの透真さんに近い。


 でも、何かが違う。


 顔が穏やかすぎる。


 第三章の終わり、透真さんの名前から「真」が暫定預かりになった。


 水無月透真。


 それが今は、水無月透。


 そう表示された学生証を、私は昨日見た。


 それなのに、本人は平然としていた。


「黒瀬、おはようございます」


 透真さんはそう言った。


 声が柔らかい。


 柔らかすぎる。


「……おはよう。じゃなくて」


「はい」


「何で私が四つ目の椅子に座ってるの」


 透真さんは、少し首を傾げた。


「そこが空いていたからでは」


「空いてない」


「座っているのは黒瀬ですが」


「そういう意味じゃない。ここは、あいつの席」


 私は自分が座っている椅子を見下ろした。


 メロンパンの袋と恋文は、机の端に避けられている。


 つまり、私が座るためにどかされたのだ。


 誰が?


 いや、たぶん世界が。


 世界が、また勝手に席替えをした。


 私は立ち上がろうとして、膝を机にぶつけた。


「痛っ」


「大丈夫ですか」


「痛いから大丈夫じゃない。でも、痛いなら現実感はある」


「黒瀬らしい判断ですね」


 透真さんは笑った。


 穏やかに。


 まただ。


 腹が立つくらい穏やか。


「水無月さん」


「はい」


「自分の名前、言って」


「水無月透です」


「違う」


 即答した。


 透真さんは、少しだけ困った顔をした。


 でも、それも浅い。


 困っているふり、とは言わない。

 でも、困り方が足りない。


「黒瀬」


「違うでしょ」


「はい?」


「水無月透真でしょ。真が足りない」


「そうでしたね」


 そうでしたね。


 その言い方で、頭の奥がかっと熱くなった。


「そうでしたね、じゃない!」


 私は机を叩いた。


 受領書が跳ねた。

 プリンの空き容器がころりと転がった。

 白いノートが少し開いた。


「名前の一文字が預かられてるんだよ? 人間の名前だよ? 真だよ? 何でそんな、朝ごはんの箸が片方ないくらいの感じで流してるの!」


 透真さんは、叱られた子供のような顔をした。


 でも、それも一瞬だけ。


「すみません」


「謝ればいいと思ってる感じも腹立つ」


「では、どうすれば」


「嫌がって」


「嫌です」


「薄い!」


「嫌です」


「もっと!」


「……嫌です」


 少しだけ声が強くなった。


 でも、まだ足りない。


 私は奥歯を噛んだ。


 これが「真」が欠けているということなのかもしれない。


 嘘をついているわけではない。

 でも、本気味が薄い。


 自分の異常を、どこか他人事みたいに眺めている。


 いつもの透真さんにもそういうところはあった。


 でも今は、それが悪化している。


「しずくさんは?」


 私は部屋を見回した。


 すると、台所の方から返事があった。


「はい」


 しずくさんが、お盆を持って出てきた。


 白いワンピースではない。


 いつの間に着替えたのか、淡い水色のカーディガンを羽織っている。

 髪は整っていて、表情も穏やか。

 胸元の半分剥がれたラベルは、見えない。


 いや、ある。


 でも、前より綺麗に貼り直されている。


 そこには、雨宮しずく、と書かれていた。


 「し」が戻っている。


 完全に。


 私は一瞬、ほっとしそうになった。


 でも、すぐに違和感が来た。


 戻り方が、綺麗すぎる。


「黒瀬さん、おはようございます」


 しずくさんが微笑んだ。


「お茶を淹れました。温かいうちにどうぞ」


「……しずくさん?」


「はい」


「何でそんな、旅館の若女将みたいになってるの」


「若女将」


 しずくさんは、少し首を傾げた。


「違います。私は雨宮しずくです」


「それは知ってる。いや、知ってるけど」


 私は彼女の手元を見た。


 湯呑みが三つ。


 三つ。


「一つ足りない」


 言った瞬間、しずくさんはお盆の上を見下ろした。


「足りませんか」


「四つ目」


「でも、今ここにいるのは三人です」


 その言葉が、やけに自然に出た。


 自然すぎて、怖かった。


「違う」


 私は低く言った。


「四つ目の席がある」


「はい」


「欠席者の席」


「はい」


「そこに湯呑みがないの、おかしいでしょ」


 しずくさんは、少し困ったように微笑んだ。


「でも、欠席している方は飲めません」


「飲めるかどうかじゃない!」


 自分でも声が大きくなったと思う。


 しずくさんが肩を震わせた。


 その反応だけは、いつもの彼女に近かった。


 胸が痛んだ。


 怒りたいわけじゃない。


 でも、怒らないとこの部屋はどんどん綺麗に片づいてしまう。


 いない人の湯呑み。

 足りない名前。

 薄い違和感。

 そういうものが、全部「まあいいですね」で流される。


 それが、ものすごく怖い。


「しずくさん、ごめん。怒鳴りたいわけじゃない」


「はい」


「でも、今のは駄目。飲めなくても置くの。席を空けるって、そういうことって昨日やったでしょ」


「……はい」


 しずくさんは、少し目を伏せた。


「そうですね。すみません」


「謝り方も綺麗すぎる」


「えっ」


「もっとこう、納得いかない顔していい。忘れてた自分が嫌だとか、置かなきゃと思ったのに抜け落ちたとか、そういう面倒な顔して」


「面倒な顔」


「そう。今のしずくさん、整いすぎてて怖い」


 しずくさんは、お盆を机に置いた。


 そして、自分の頬を両手で触った。


「整いすぎている」


「うん」


「白い部屋に似ていますか」


 私は息を止めた。


 彼女自身も、気づいている。


「似てる」


 正直に言った。


「第三章で見た、しずくさん一人が主人公だった世界。あの白い部屋のしずくさんに、少し寄ってる」


 しずくさんの顔が、少しだけ歪んだ。


 ほっとした。


 綺麗な顔が崩れたから。


 ひどい話だけど、今は崩れてくれた方が安心する。


「……嫌です」


「うん」


「私は、あの部屋を持ち出しました。捨てないと決めました。でも、飲まれたいわけではありません」


「わかってる」


「黒瀬さん」


「何」


「湯呑み、もう一つ出します」


「うん」


「でも、少し怖いです」


「何が」


「四つ目を置くと、また名前を思い出したくなります。思い出したくて、思い出せなくて、黒瀬さんが苦しそうな顔をするのを見るのが怖いです」


 それは、綺麗な言葉ではなかった。


 少し言い訳で、少し本音で、少し私への気遣いで、少し自分の怖さだった。


 私は息を吐いた。


「そういうのを最初から言って」


「はい」


「怖いから置かなかった、なら一緒に考えられる。飲めないから要らない、みたいに綺麗に片づけないで」


「はい」


 しずくさんは台所へ戻り、四つ目の湯呑みを持ってきた。


 空席の前に置く。


 中身はお茶。


 湯気が立っている。


 誰も飲まない。


 でも、ある。


 メロンパンの袋が、かさりと鳴った。


 今度は、私にも聞こえた。


「……遅いって?」


 私は空席へ言った。


「うるさい。置いたでしょ」


 返事はない。


 でも、少しだけ部屋の空気が戻った気がした。


 その時、机の上の黒いノートが勝手に開いた。


 私のノート。


 読者に近い、などと勝手に言われた、嫌なノート。


 ページに文字が浮かぶ。


 この朝で、まともなのは黒瀬依子だけです。


 私は、すぐにノートを叩いた。


「そのタイトル、私を一人にする気満々じゃん」


 文字は消えない。


 むしろ、少し濃くなった。


 透真さんが、ノートを覗き込む。


「黒瀬だけがまとも」


「読み上げない」


「すみません」


「すぐ謝る。やっぱり今日の水無月さん、変」


「僕は大丈夫です」


「大丈夫って言う人間が一番大丈夫じゃないの!」


 言いながら、自分でも少し笑いそうになった。


 何度この台詞を言えばいいのか。


 でも今日は、笑えなかった。


 透真さんの「大丈夫」は、本当に危ない。


 大丈夫という言葉に、芯がない。


「しずくさんも」


「はい」


「自分の名前、言って」


「雨宮しずくです」


 言えた。


 きれいに。


 きれいすぎるくらい。


「……言えるのはいい。でも、それで安心しきらないで」


「はい」


「水無月さんの“真”が戻ってない。四つ目の席の“あお”も消えてる」


 私は恋文の封筒を見た。


 昨日、そこには「あお」と浮かんだ。


 名前なのか、青い何かなのか、罠なのかわからない二文字。


 今は、消えていた。


 黒塗りの差出人だけが残っている。


 胸の奥が、冷えた。


 戻りかけたものがまた遠のく感覚。


「……あお、消えてる」


 声が震えた。


 透真さんが言う。


「また探せばいいです」


 その瞬間、私は彼を睨んだ。


「軽い」


「え?」


「今の、軽い。探せばいいって、そうなんだけど、そうなんだけどさ。昨日やっと六割まで戻って、あおって浮かんで、それが今消えてるんだよ。もうちょっと一緒に悔しがって」


 透真さんは、少しだけ目を伏せた。


「すみません」


「だから謝るな!」


 声が裏返った。


 自分でも驚いた。


 しずくさんが心配そうに私を見た。


「黒瀬さん」


「ごめん。違う。違わないけど、違う」


 私は額を押さえた。


 頭が痛い。


 まともなのは私だけ。


 そんな文字を見せられた直後に、透真さんは軽いし、しずくさんは綺麗すぎるし、四つ目の席の文字は消えている。


 これでは、本当に私が全部見なければいけないみたいになる。


 それが罠だと、わかっているのに。


 わかっているのに、放っておけない。


 私はノートを睨んだ。


「聞いてる? 世界。私を一人にしようとしてるでしょ」


 ノートに文字が浮かぶ。


 黒瀬依子が読めば、全員助かります。


「そういう言い方が一番嫌」


 黒瀬依子が疑えば、間違いを防げます。


「うるさい」


 黒瀬依子が記録すれば、消えた名前も戻ります。


 手が止まった。


 卑怯だ。


 本当に卑怯。


 消えた名前。


 その言葉を出されたら、止まってしまう。


 名前を戻したい。

 思い出したい。

 恋文の差出人を読みたい。

 あいつを、ちゃんと怒りたい。


 その気持ちは本物だ。


 だから危ない。


「黒瀬さん」


 しずくさんが、私の手に触れた。


 あたたかい。


 白い部屋のしずくさんではなく、今ここにいるしずくさんの手だった。


「一人で読まないでください」


「……うん」


「黒瀬さんが読んでくれることに、私は何度も助けられました。でも、黒瀬さんだけが読む朝は嫌です」


「うん」


 透真さんも言った。


「僕も、黒瀬だけに読ませたくありません」


 私は彼を見た。


 穏やかな顔。


 まだ足りない。


 でも、そこに少しだけ焦りが戻っていた。


「水無月さん」


「はい」


「今の言葉、自分で言った?」


「はい」


「“黒瀬が読めば楽だ”って思ってない?」


 透真さんは、すぐに答えなかった。


 そこで即答しないところだけは、少し信用できた。


「少し、思いました」


「正直」


「黒瀬が読んでくれれば、僕は間違えずに済むのではないかと。そう思ってしまいました」


「それ、駄目」


「はい」


「でも、言えたからまだまし」


「はい」


 しずくさんも、小さく言った。


「私も、思いました」


「しずくさんも?」


「はい。黒瀬さんが怒ってくれれば、私が綺麗な方へ寄っていることに気づけます。黒瀬さんがいてくれれば、私は間違わないかもしれない、と」


「それも駄目」


「はい」


「でも、言えたからまだまし」


 私は、椅子に座り直した。


 四つ目の椅子に座っていたことを思い出し、慌てて立ち上がる。


「駄目だ。ここ、私の席じゃない」


 私は自分の椅子を引き寄せ、座り直した。


 四つ目の椅子には、メロンパンの袋と恋文を戻す。


 四つ目の湯呑みも、そこへ置く。


「黒瀬さん」


 しずくさんが言った。


「大丈夫ですか」


「大丈夫じゃない」


 即答した。


「かなり怖い。今、私が全部見なきゃって思いかけた」


「はい」


「水無月さんの“真”がないのも、しずくさんが白い部屋っぽいのも、あおが消えてるのも、全部私が気づかなきゃいけない感じがした」


「はい」


「それは、かなり気持ちいい」


 言ってから、自分で嫌になった。


 でも、言わない方が危ない。


「気持ちいいんですか」


 透真さんが聞く。


「うん」


 私は頷いた。


「私だけがまとも。私だけが気づいてる。私だけが止められる。そういうの、最悪だけど、少し気持ちいい。自分が必要とされてる感じがするから」


 しずくさんは黙って聞いていた。


 透真さんも。


 私は続ける。


「でも、その気持ちよさに乗ったら終わり。たぶん、私が全部記録して、全部疑って、全部正そうとして、最後に一人になる」


 ノートの文字が、少し揺れた。


 当たり。


 そう言われた気がした。


「腹立つ」


 私はノートを閉じた。


 今度は閉じられた。


 でも、閉じた表紙に白い文字が浮かぶ。


 水無月透真を信用するな。


 部屋の空気が止まった。


 透真さんが、それを見て少しだけ目を細めた。


 しずくさんは息を呑んだ。


 私は、ノートから目を離せなかった。


 水無月透真を信用するな。


 最悪の警告だった。


 疑わなければいけない。

 でも、疑いすぎれば一人になる。


 透真さんを見る。


 彼は静かに立っている。


 名前から「真」が欠けたまま。


 穏やかすぎる顔で。


「……水無月さん」


「はい」


「この警告、どう思う?」


 透真さんは、少し考えた。


 そして、静かに言った。


「妥当かもしれません」


「そこで納得する?」


「僕には“真”が欠けています。真実、誠実、本気。そのあたりが薄くなっている可能性がある。なら、信用しない方が安全です」


 正しい。


 正しいけれど、すごく嫌だ。


「安全とか言うな」


「はい」


「自分を疑う材料として差し出すの、やめて。こっちが楽になるじゃん。疑いやすくなるじゃん。そうやって自分を危険物みたいに置かれると、私はまた判断側に立たされる」


 透真さんは、少しだけ顔を歪めた。


 やっと。


 やっと、傷ついた顔をした。


「すみません」


「謝るなってば」


「難しいですね」


「難しいよ。人間関係って難しいの」


 しずくさんが、静かに頷いた。


「はい。面倒です」


「そう。面倒」


 私はノートを見下ろした。


 水無月透真を信用するな。


 この警告を、完全に無視するのも危ない。


 でも、丸ごと信じるのも危ない。


「今日の暫定方針」


 私はノートを開き、警告の下に書き足した。


 水無月透真を信用するな。

 ただし、黒瀬依子一人で疑うな。

 透真本人にも疑わせる。

 しずくにも見てもらう。

 欠席者の席にも置く。

 疑うことを、一人で持たない。


 書き終えると、ノートが少しだけ熱を持った。


 受理。


 と、小さく浮かんだ。


「受理された」


 透真さんが言った。


「水無月さん」


「はい」


「受理されたから安心、じゃないからね」


「はい」


「疑われるの、嫌?」


 透真さんは、今度はすぐに答えた。


「嫌です」


「よし」


「よしなんですか」


「よし。嫌がったから」


 しずくさんも、少しだけ笑った。


「存在診断ですね」


「そう。第四章でも有効」


 四つ目の椅子のメロンパン袋が、かさりと鳴った。


 私はそちらを見る。


「何。笑った?」


 返事はない。


「笑ったなら、何か言いなさいよ」


 返事はない。


 でも、封筒の黒塗り部分がほんの少しだけ滲んだ。


 あお。


 消えたはずの文字は戻らない。


 でも、黒塗りの下に、何かが動いた気がした。


 私は胸の奥が痛くなった。


「……あんたも見てて」


 私は四つ目の椅子に向かって言った。


「私が一人でまともになりかけたら、止めて」


 メロンパンの袋は鳴らなかった。


 けれど、恋文の封筒の端が少しだけ浮いた。


 それだけ。


 曖昧な合図。


 腹立つ。


 でも、少しだけ助かる。


 透真さんが、穏やかに言った。


「黒瀬、君が全部読んでくれればいい」


 その声を聞いた瞬間、背筋が冷えた。


 今の言葉は、透真さんの声だった。


 でも、透真さんだけの言葉ではない。


 世界が言わせたような、薄い響き。


 私は彼を見た。


 彼は自分で言ったことに気づいていないような顔をしていた。


「……今の」


 しずくさんが青ざめる。


「透真さん?」


 透真さんは、少し遅れて自分の口元に触れた。


「僕は、今」


「言った」


 私は立ち上がった。


「君が全部読んでくれればいいって言った」


「すみません。そんなつもりでは」


「わかってる。だから怖い」


 ノートの警告が、濃く光りました。


 水無月透真を信用するな。


 その下に、新しい行。


 第32話 水無月透真を信用するな


 私は奥歯を噛んだ。


「タイトル回収、早いんだよ」


 しずくさんが、私の手を握った。


「黒瀬さん」


「大丈夫じゃない」


「はい」


「でも、一人では読みません」


「はい」


 透真さんも、自分の胸に手を当てた。


「僕も、自分を疑います」


「一人で?」


「いいえ」


 彼は、少し苦しそうに言った。


「二人と、欠席者の席と一緒に」


 四つ目の椅子の湯呑みから、湯気が少しだけ上がりました。


 誰も飲んでいないのに。


 それが合図なのかどうかはわからない。


 でも、私は少しだけ息ができた。


 まともなのは私だけ。


 世界はそう言った。


 でも、私はそれを信じない。


 信じたら、私だけがまともな朝になる。


 そんな朝は、たぶん一番狂っている。


 私はノートに最後の一行を書いた。


 まともさも、共有する。


 書き終えた瞬間、窓の外の雨が、ほんの少しだけ弱くなった。


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