第30話 雨宮しずくが主人公だった世界
雨宮しずくが主人公だった世界は、とても綺麗でした。
最初にそう思ってしまったことが、私は少し嫌でした。
綺麗。
その言葉は、優しいようで、とても危ない。
綺麗なものは、汚れているところを隠します。
整っているものは、はみ出したものをなかったことにします。
美しい物語は、ときどき、人間の面倒さを邪魔だと言います。
それでも。
私が主人公だった世界は、ほんとうに綺麗でした。
透真さんの部屋に置かれた四つの椅子が、雨の中に沈んでいきます。
私。
透真さん。
黒瀬さん。
欠席者の席。
四つの席を囲んでいた机も、メロンパンの袋も、恋文の封筒も、白いノートも、受領書も、全部が雨粒になってほどけました。
けれど、消えたわけではありません。
私たちは、それを持っていました。
見える形ではなくても。
胸の奥に。
手の甲に。
まだ返ってこない名前の一文字に。
誰も座っていない椅子の重さに。
雨の向こうで、白い猫がこちらを見ていました。
金色の目。
猫は言いました。
主人公を一人にしないこと。
声は頭の中に届きました。
そして、次の瞬間。
私は一人でした。
「……え?」
声が出ました。
私の声だけが、部屋に響きました。
白い部屋です。
私の部屋。
雨粒のシールが壁に貼られていて、白いカーテンが揺れていて、小さな机の上には透明なコップがあります。
そこまでは、第26話で見た第一話と同じでした。
でも、少し違います。
部屋が、あまりにも整っていました。
埃がありません。
散らかったメロンパンの袋もありません。
黒瀬さんのノートもありません。
透真さんのスマホもありません。
床に置かれた四つ目の椅子もありません。
椅子は、一つだけ。
私のための椅子。
机の上には白いノートが開かれていました。
その一ページ目には、きれいな字でこう書かれています。
朝起きると、私の部屋で知らない男の子が死んでいた。
その下に、第二行。
私は、彼の遺言を読みました。
第三行。
雨を食べると、私は少しだけ人間になりました。
私は、ページに触れました。
文字は冷たくありません。
むしろ、少し温かい。
このノートは、私を責めていませんでした。
私を怖がらせようともしていませんでした。
ただ、私に優しい顔をしていました。
あなたが主人公です。
そう言っているようでした。
「透真さん?」
呼びました。
返事はありません。
「黒瀬さん?」
返事はありません。
私は慌てて自分の手の甲を見ました。
そこには、何も書かれていませんでした。
共有。
欄外受理。
し。
何もありません。
私の胸元には、ラベルが貼られています。
雨宮しずく。
完全な名前。
欠けていません。
「し」が戻っている。
そのことに、私は一瞬だけ喜びそうになりました。
戻った。
私の名前が戻っている。
でも、すぐに気づきます。
手の甲に預けていた「し」がない。
黒瀬さんの手もない。
透真さんの手もない。
四つ目の席もない。
一人で戻った名前。
それは、少し怖いものでした。
「……違います」
私は呟きました。
「これは、違います」
すると、ノートの文字が変わりました。
何が違うのですか。
私は息を呑みました。
白いノートが、私に返事をしました。
いいえ。
これは私自身の物語なのかもしれません。
私が主人公だった世界。
私が一人で語る世界。
私のために整えられた世界。
「透真さんたちがいません」
私は言いました。
ノートに文字が浮かびます。
登場人物は、必要な時に登場します。
「黒瀬さんは?」
黒瀬依子は存在しません。
喉が詰まりました。
「存在しない?」
はい。
「なぜですか」
この世界では、彼女の役割が不要だからです。
不要。
その言葉は、あまりにも静かでした。
怒りもなく、悪意もなく、ただ整理された言葉。
不要。
黒瀬さんが聞いたら、絶対に怒ります。
いや、怒ってほしい。
今、ここで。
「不要じゃありません」
私は言いました。
声が震えました。
「黒瀬さんは、不要ではありません」
ノートは答えます。
この物語は、雨宮しずくの物語です。
怒る人は、物語を乱します。
読者に近い人は、主人公を疑わせます。
疑いは、美しい物語を壊します。
「壊していいです」
私は即答しました。
自分でも驚くくらい、すぐに言えました。
「壊していいです。黒瀬さんは、壊すために必要です」
部屋が少し揺れました。
白いカーテンが雨に濡れます。
でも、すぐに元へ戻りました。
整った世界は、壊れかけても自分で直ってしまうようです。
ノートの次のページが開きます。
そこには、別の朝が書かれていました。
朝起きると、透真さんが死んでいました。
私は、彼の遺言を読みました。
遺言は「雨を飲んでください」でした。
私は雨を飲み、世界を少し修正しました。
また次のページ。
朝起きると、透真さんが死んでいました。
私は、彼の遺言を読みました。
遺言は「名前を呼んでください」でした。
私は彼の名前を呼び、世界を少し修正しました。
次。
朝起きると、透真さんが死んでいました。
私は、彼の遺言を読みました。
遺言は「笑ってください」でした。
私は笑い、世界を少し修正しました。
ページがどんどんめくれます。
毎朝、透真さんが死んでいる。
私が見つける。
私が読む。
私が遺言を叶える。
私が世界を修正する。
とても整っています。
毎話の構造が同じです。
今日の死体。
遺言。
世界の異常。
修正。
次の朝。
読者にはわかりやすいかもしれません。
主人公の目的も明確です。
私は、透真さんを救おうとしている。
彼の死体を見つけ、遺言を読み、世界を直しながら、人間に近づいていく。
綺麗です。
でも。
「会話がありません」
私は呟きました。
この世界の透真さんは、死体です。
死体だから、話しません。
たまに遺言の中で短い言葉を残すだけ。
黒瀬さんはいません。
消えた三人目もいません。
猫はいますが、必要な時にだけ現れて、短く告げるだけです。
誰も、私に突っ込みません。
誰も、私を怒りません。
誰も、私に「今の言い方は逃げ」と言いません。
誰も、プリンの蓋が開いただけで泣いていいと言ってくれません。
誰も、椅子が狭いと文句を言いながら、その席をどかさずにいてくれません。
「……静かすぎます」
私は、白い部屋の真ん中で言いました。
ノートは答えます。
静かな物語は、美しい。
「違います」
静けさが、痛い。
私は、そこでようやく気づきました。
この世界には、傷が少ないのではありません。
傷が、綺麗に並べられているだけです。
透真さんは毎朝死ぬ。
私は毎朝泣く。
私は毎朝遺言を読む。
私は毎朝少し人間になる。
悲しい。
美しい。
切ない。
でも、面倒ではありません。
怒鳴る人がいない。
話を脱線させる人がいない。
メロンパンを三等分する人がいない。
「今それ言う?」と呆れる人がいない。
「自罰禁止」と肩を掴む人がいない。
人間の面倒さが、削られている。
私は白いノートを閉じようとしました。
閉じられません。
ノートが、優しく開いたまま私を見ています。
あなたは、この世界を望みました。
文字が浮かびました。
私は息を止めました。
望んだ?
あなたは、綺麗な物語を望みました。
読まれるために。
忘れられないために。
透真さんに見つけてもらうために。
「私は」
声が震えました。
「私は、こんな世界を望んだのですか」
はい。
ノートは答えました。
雨宮しずくが主人公だった世界。
ここでは、あなたは一人で立てます。
誰にも怒られません。
誰にも疑われません。
誰にも邪魔されません。
透真さんは毎朝あなたのために死にます。
あなたは毎朝、彼を見つけられます。
私は、床に膝をつきました。
吐きそうでした。
透真さんが毎朝、私のために死ぬ。
その言葉が、あまりにもはっきりしていました。
私が見つけるために。
私が主人公でいるために。
私が読まれるために。
この世界では、透真さんは死体であることが役割です。
神様の死体を見つける係ではなく。
神様の死体として見つけられる係。
「嫌です」
私は言いました。
「私は、嫌です」
ノートは、すぐに答えます。
でも、あなたは寂しくありません。
「寂しいです」
私は即答しました。
その瞬間、白い部屋の壁にひびが入りました。
「ものすごく寂しいです」
さらにひびが入ります。
「綺麗なのに、寂しいです」
雨粒のシールが一枚落ちました。
「透真さんが毎朝死ぬのは嫌です」
机の上の透明なコップが割れました。
「黒瀬さんがいないのも嫌です」
白いカーテンが雨に溶けました。
「名前のないあの人の席がないのも嫌です」
床に、小さなメロンパンの袋が現れました。
空っぽの袋。
でも、そこにあります。
私はそれに手を伸ばしました。
袋が、かさりと鳴ります。
その音で、胸が少し温かくなりました。
この世界に、欠席者の席はありませんでした。
でも、私が思い出したから、袋だけは現れた。
「私は」
私は立ち上がりました。
白いノートを見ます。
「私は、綺麗な物語より、面倒な三人がいる朝を選びます」
言ってから、すぐに訂正しました。
「いいえ。三人ではありません」
私は空っぽのメロンパンの袋を拾いました。
「面倒な三人と、欠席者の席がある朝を選びます」
白い部屋が、大きく揺れました。
ノートのページが勝手にめくれます。
警告のような文字が浮かびました。
その選択をすると、雨宮しずくは主人公ではなくなります。
「構いません」
あなたの物語は、乱れます。
「乱れていいです」
透真さんは、あなたのためだけに死ななくなります。
「死なない方がいいです」
黒瀬依子が介入します。
「してほしいです」
欠席者の席が戻ります。
「戻します」
物語は、読みにくくなります。
私は少しだけ笑いました。
「読みにくいくらいで、ちょうどいいです」
その瞬間。
白い部屋の扉が開きました。
向こう側から、声がしました。
「しずくさん!」
黒瀬さんの声です。
怒っていました。
泣きそうでした。
生きていました。
「何、一人で綺麗な結論出そうとしてるの! こっちは椅子四つ抱えて追いかけてるんだけど!」
私は泣きそうになりました。
「黒瀬さん」
「返事!」
「はい!」
「よし! 返事できるならまだ大丈夫!」
扉の向こうから、透真さんの声もしました。
「しずくさん、手を伸ばしてください」
「透真さん」
「僕は、今日は死体ではありません」
その言い方が、透真さんらしくて、私は涙が出ました。
「はい」
「死体ではないので、手を掴めます」
「はい」
私は扉へ向かって手を伸ばしました。
その前に、白いノートが最後の文字を浮かべます。
本当に、この世界を捨てますか?
私は少しだけ迷いました。
正直に言えば。
この世界には、楽なところがありました。
黒瀬さんに怒られない。
透真さんに疑われない。
三人目の名前を思い出せずに胸が痛むこともない。
猫に受領書を求めなくていい。
役割と名前の違いに悩まなくていい。
主人公として、綺麗に悲しんでいればいい。
それは、少しだけ楽です。
だから私は、その楽さを忘れないようにしました。
その上で、答えました。
「捨てます」
そして、すぐに言い直しました。
「いいえ。持って出ます」
ノートが震えました。
「捨てると、また消すことになります。だから持って出ます。これは私が望んだ世界です。綺麗で、寂しくて、怖くて、透真さんを毎朝死なせた世界です。なかったことにはしません」
白いノートが、少しだけ重くなりました。
私はそれを抱え、扉へ向かいました。
黒瀬さんの手が伸びてきます。
その手の甲には、薄くなっていた「し」がありました。
でも、今、その文字が少しだけ濃くなっています。
「しずくさん!」
黒瀬さんの手を掴みました。
次に、透真さんの手。
彼の手の甲にも「し」が戻りかけています。
そして、その後ろに、四つ目の椅子が見えました。
誰も座っていない椅子。
メロンパンの袋と恋文が置かれている椅子。
その袋が、かさりと鳴りました。
まるで、「遅い」と言うように。
「すみません」
私は思わず謝りました。
黒瀬さんが叫びます。
「誰に謝ってるの!」
「たぶん、全員に」
「雑!」
その雑さが、嬉しかった。
私は扉を抜けました。
次の瞬間、透真さんの部屋に戻っていました。
狭い部屋。
四つの椅子。
机の上の受領書。
プリンの空き容器。
メロンパンの残り。
黒瀬さんのノート。
白いノート。
空気が、少し湿っています。
でも、白い部屋のような静けさはありません。
黒瀬さんが、私の肩を掴んだまま言いました。
「一人で主人公になるなって、さっき会議したばっかり!」
「はい」
「会議直後に一人になりかけるの、展開が早い!」
「すみません」
「謝るより、戻ってきたことを言って」
私は息を吸いました。
「戻ってきました」
「よし」
黒瀬さんは、そこでようやく私の肩を離しました。
透真さんは、私の腕の中の白いノートを見ています。
「持ってきたんですね」
「はい」
「捨てずに」
「はい。捨てると、また消すことになるので」
透真さんは、少しだけ目を伏せました。
「ありがとうございます」
「お礼を言われることでは」
「でも、ありがとうございます」
胸が痛みます。
私はまだ、彼に謝っていません。
でも、少しずつ開けています。
閉じ込めたものを。
白いノートの表紙に、文字が浮かびました。
雨宮しずくが主人公だった世界
状態:持ち出し済み
保管方法:共有
その瞬間、私の胸元のラベルが熱くなりました。
雨宮しずく。
欠けていた「し」が、少しだけ戻ります。
完全ではありません。
でも、空白だったところに、薄い線が走りました。
「しずくさん」
透真さんが言いました。
「名前が」
黒瀬さんも私の胸元を見ます。
「し、戻りかけてる」
私は、自分の名前に触れました。
雨宮しずく。
まだ少し薄い。
でも、ある。
涙が出ました。
「戻りました」
「全部?」
「いいえ」
「でも、戻った」
「はい」
受領書が光りました。
預かり品:し
返却準備:九割
一部返却済み
黒瀬さんが、ほっと息を吐きました。
「九割。もう返してよ、猫」
窓の外で、白い猫の鳴き声がしました。
にゃあ。
まだ。
「けち」
黒瀬さんが言いました。
その時、透真さんが少しふらつきました。
「透真さん?」
私は慌てて手を伸ばします。
透真さんは、机に手をつきました。
顔色が少し悪い。
「大丈夫ですか」
「はい。少し、名前が」
「名前?」
黒瀬さんが、透真さんの学生証を取りました。
第二章で何度も変わった学生証。
そこには、こう書かれていました。
水無月透
最後の「真」が消えていました。
私は息を止めました。
「真が」
透真さんは、自分の名前を見て、少しだけ困ったように笑いました。
「今度は僕ですか」
「笑うところじゃない!」
黒瀬さんが怒鳴ります。
「一文字ずつ取るのやめろ!」
その声で、部屋の空気が震えました。
「猫! 聞いてる!? 名前を一文字ずつ取るのやめなさいよ! ポイントカードじゃないんだから!」
窓の外で、白い猫が少しだけ目を細めました。
黒瀬さんは本気で怒っていました。
でも、その怒りのおかげで、私は少しだけ呼吸ができました。
透真さんの「真」が消えた。
私が主人公だった世界を持ち出した代償でしょうか。
それとも、主人公を一人にしない条件が、まだ完全ではないからでしょうか。
受領書を見ると、次の行が浮かんでいました。
預かり品:真
状態:暫定預かり
理由:主人公性の過剰反応
黒瀬さんが、額を押さえました。
「主人公性の過剰反応って何よ。熱でも出したみたいに言うな」
透真さんが言いました。
「僕が、しずくさんの世界で死体側として強く反応したからでしょうか」
「冷静に分析しない」
「はい」
「水無月透真。言える?」
黒瀬さんが、彼の目を見て言いました。
透真さんは少し息を吸います。
「水無月透真」
言えました。
でも、少しだけ声が掠れています。
私も言いました。
「透真さん」
「はい」
「水無月透真さん」
「はい」
黒瀬さんが四つ目の椅子を見る。
「ミナト」
その呼び方に、部屋の空気が少し揺れました。
メロンパンの袋が、かさりと鳴ります。
透真さんの輪郭が少し濃くなりました。
「戻った?」
黒瀬さんが聞きます。
「少し」
透真さんが言う。
「なら、続ける。水無月さん。透真さん。ミナト。欄外。朝。でも人間」
黒瀬さんは、指折り数えるように呼びました。
私も続けます。
「透真さん。水無月さん。ミナトさん。欄外の方。朝の責任を持つ人。でも、卵サンドでむせる人」
透真さんが、少しだけ笑いました。
「最後、必要ですか」
「必要です」
黒瀬さんが即答しました。
「むせるなら人間」
「まだ有効なんですね」
「永久有効」
受領書の「真」の文字が、少しだけ薄くなりました。
完全に戻ったわけではありません。
でも、暫定預かりの横に追記が浮かびます。
返却条件:本人が一人で主人公を背負わないこと。
透真さんは、それを見て静かに頷きました。
「わかりました」
「本当に?」
黒瀬さんが疑います。
「はい。たぶん」
「たぶんか」
「でも、たぶんと言えるくらいには、人間です」
黒瀬さんは、少しだけ笑いました。
「よし。採用」
その時、四つ目の椅子の恋文封筒が光りました。
黒塗りの差出人の下に、前回浮かんだ「あ」と「お」。
その二文字が、一瞬だけ並びました。
あお
黒瀬さんが息を止めました。
「……あお」
声が震えます。
名前なのか。
言葉なのか。
罠なのか。
まだわかりません。
でも、たしかに二文字がそこにありました。
黒瀬さんは、泣きそうな顔で封筒を見つめます。
「あお、から始まる?」
返事はありません。
メロンパンの袋も、今度は鳴りませんでした。
黒瀬さんは、ゆっくり息を吐きました。
「決めない」
彼女は言いました。
「でも、置く」
ノートの欠席者欄に、彼女は書き足します。
あお?
まだ名前かどうか未定。
でも、席に置く。
その文字を書き終えた瞬間、受領書の「あ」が少しだけ濃くなりました。
黒瀬さんは、それを見て小さく笑いました。
「……五割から進んだ?」
受領書には、こう浮かびました。
預かり品:あ
返却準備:六割
「一割増えた」
黒瀬さんの声は、少しだけ泣いていました。
「しょっぱい進捗」
「でも進んでいます」
私が言うと、黒瀬さんは頷きました。
「うん。進んでる」
私たちは、四つの椅子のある狭い部屋で、しばらく黙っていました。
第三章が終わろうとしている。
そんな気配がありました。
白いノート。
黒瀬さんのノート。
受領書。
恋文。
メロンパンの袋。
欠けかけた名前。
戻りかけた「し」。
預かられた「真」。
六割になった「あ」。
何も綺麗に片づいていません。
むしろ、荷物は増えました。
でも、この散らかり方が、私は好きでした。
白い部屋の綺麗さより、ずっと。
透真さんのスマホが震えました。
私の手のひらも。
黒瀬さんのノートも。
【第三章 雨宮しずくが主人公だった世界 完了】
続いて、次の文字。
【第四章 黒瀬依子だけがまともだった世界】
黒瀬さんが、画面を見ました。
ものすごく嫌そうな顔になりました。
「絶対まともじゃないやつじゃん」
透真さんが言いました。
「黒瀬だけがまとも、というのは」
「まともな人間を一人にする一番悪いタイトル」
黒瀬さんは即答しました。
「これ、私だけが正気で、二人が変になるやつでしょ」
「可能性はあります」
「水無月さん、そこで真面目に頷くな」
私は、黒瀬さんの手を握りました。
「次は、黒瀬さんを一人にしません」
黒瀬さんは、少しだけ目を丸くしました。
それから、苦笑しました。
「さっき私が言ったやつ、返されると弱い」
「はい」
「でも、助かる」
彼女は四つ目の椅子を見ました。
「欠席者席も、続投ね」
メロンパンの袋が、かさりと鳴りました。
今度は、はっきりと。
黒瀬さんは、少しだけ笑います。
「はいはい。あお、かどうかはまだ保留。でも、ちゃんと連れていく」
窓の外では、雨が止みかけていました。
でも、朝はまだ終わっていません。
次は、黒瀬依子だけがまともだった世界。
まともでいることが、どれほど怖いことなのか。
私たちは、まだ知りませんでした。




