第34話 まともな人間ほど壊れやすい
まともな人間ほど壊れやすい。
ノートに浮かんだその文字を見て、私はまず思った。
余計なお世話だ。
本当に、余計なお世話。
まともかどうかなんて、自分でもわからない。
朝起きたら神様が死んでいる部屋に通い続けて、友達の名前が欠けていることに怒り、雨の日だけ存在する神様の女の子とお茶を飲み、名前のわからない相手の恋文を持って、白い猫に受領書を要求する。
そんな女がまともなわけない。
ただ、相対的にましに見えているだけだ。
横にいる二人が、ちょっと物語に飲まれやすいだけ。
それだけ。
「黒瀬さん」
しずくさんが、私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
即答した。
「今、ノートにまともな人間ほど壊れやすいって言われた」
「それは」
「嫌なタイトルでしょ」
「はい。とても嫌です」
しずくさんは、素直に頷いた。
その顔は、さっきの白いしずくとは違う。
整っていない。
心配そうで、眉が少し下がっていて、口元に迷いがある。
それが、少しだけ安心する。
「黒瀬」
透真さんが呼んだ。
まだ水無月透真ではなく、水無月透。
でも、さっきより目に力がある。
受領書によれば、「真」は返却準備三割。
三割。
低い。
でもゼロじゃない。
「僕も、そのタイトルは嫌です」
「うん」
「黒瀬だけをまとも側に置く言い方です」
「そう」
「僕たちは、また黒瀬に判断を寄せそうになっています」
「そう」
「それが嫌です」
私は透真さんを見た。
嫌です。
そう言えた。
今日の透真さんにしては、かなり大事な進歩だ。
「よし」
「よし、ですか」
「嫌がれたから」
「また存在診断ですね」
「第四章は存在診断多めでいく。名前も正気も欠けやすいから」
しずくさんが、少しだけ笑った。
「診断項目が増えています」
「増やさないと追いつかないの」
私はノートを開いた。
ページには、さっきの記録が残っている。
雨宮しずくは二人いた。
白いしずくは、綺麗な物語を望んだ。
今のしずくは、それを自分だと認めた上で選ばなかった。
水無月透真の「真」は三割返却準備。
四つ目の席は有効。
黒瀬依子は邪魔。
ただし、邪魔でよい。
私はその下に、新しく書いた。
第34話 まともな人間ほど壊れやすい
書いた瞬間、ペン先が勝手に動き始めた。
「うわっ」
手首を掴まれたみたいだった。
私は慌ててペンを離そうとした。
でも、指が離れない。
ペンが、私の手を使って勝手に文字を書いていく。
記録一。水無月透真は信用できない。
記録二。雨宮しずくは二人いる。
記録三。欠席者の名前は「あお」ではない可能性がある。
記録四。黒瀬依子が判断しなければ全員が壊れる。
「やめろ」
声が出た。
低くて、自分でも少し怖い声だった。
「私の手で勝手に書くな」
ペンは止まらない。
記録五。黒瀬依子は最も正気に近い。
記録六。正気に近い者が、物語を管理すべきである。
「管理すんな!」
私は左手で右手首を掴んだ。
透真さんがすぐに動いた。
私の指からペンを外そうとする。
けれど、透真さんの手がペンに触れた瞬間、彼の手の甲の「し」が薄く揺れた。
「水無月さん、下がって!」
私は叫んだ。
透真さんが手を引く。
しずくさんが白いノートを開いた。
「私が書き換えます」
「待って」
私は首を振った。
「しずくさんが今書くと、閉じる方へ行くかもしれない」
しずくさんの顔がこわばった。
でも、彼女は怒らなかった。
傷ついた顔をしながら、それでも頷いた。
「……はい。今の指摘は必要です」
「ごめん」
「謝らないでください。私も怖いです。書けば助けられるかもしれないと思いました。でも、閉じ込めるかもしれないとも思いました」
「うん」
ペンはまだ動いている。
正気担当:黒瀬依子。
異常監視:黒瀬依子。
記録保全:黒瀬依子。
判断権限:黒瀬依子。
「ふざけんな」
私は歯を食いしばった。
「担当にするな。権限を渡すな。私を便利な棚にするな」
その瞬間、手の甲が熱くなった。
右手の甲。
そこに、黒い文字が浮かび上がる。
正気担当
私は固まった。
短い言葉だった。
たった四文字。
でも、その文字を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。
担当。
正気担当。
まるで、教室の黒板消し係みたいに。
日直みたいに。
誰かが勝手に決めた役割みたいに。
「担当にするな!」
叫んだ。
その声で、部屋の窓が震えた。
四つ目の椅子の湯呑みがかたんと鳴った。
メロンパンの袋も、かさりと鳴る。
でも、文字は消えない。
正気担当。
私の手の甲に、べったり貼りついている。
「黒瀬さん」
しずくさんが泣きそうな顔で言った。
「それ、剥がせますか」
「剥がしたい」
私は爪を立てた。
でも、皮膚に書かれた文字ではない。
もっと奥。
役割として貼られた文字だ。
爪では剥がれない。
痛みだけが走る。
「痛っ」
「やめてください」
しずくさんが私の手を掴んだ。
「血が出ます」
「出た方がまし」
「ましではありません」
彼女の声が強くなった。
「黒瀬さんが血を出しても、正気担当は消えません。たぶん、もっと“頑張っている人”にされます」
私は動きを止めた。
その通りだ。
血を出してまで支える人。
痛みを我慢する人。
全部を背負っても折れない人。
そういう物語にされる。
「……最悪」
「はい」
「痛がることまで、美談にされそう」
「はい」
透真さんが、四つ目の椅子を見た。
「欠席者の席に置きましょう」
「何を?」
私が聞く。
「正気担当という役割を」
「置けるの?」
「わかりません。でも、僕たちは主人公も、名前も、疑うことも、席に置いてきました」
「役割も置く?」
「はい。一人の手に貼るのではなく、机の上に置く」
私は、自分の手の甲を見た。
正気担当。
腹立つ文字。
でも、完全に否定すると、たぶん逆に強くなる。
正気を捨てるわけにはいかない。
疑うことも、読むことも、記録することも必要だ。
問題は、それを私一人に貼ること。
「……やる」
私は言った。
「置く。手から机へ」
しずくさんが頷いた。
「私も手伝います」
「書かないでね」
「はい。書かずに、持ちます」
透真さんも頷いた。
「僕も」
「水無月さんは、今ちょっと信用三割引だから無理しないで」
「三割引」
「真が三割返却準備だから」
「計算が複雑ですね」
「私も今言っててよくわからなかった」
少しだけ笑えた。
その瞬間、手の甲の文字がほんの少し薄くなった。
笑い。
くだらない会話。
やっぱり大事だ。
「机の上に紙」
私は言った。
しずくさんが、白いノートから一枚破ろうとして手を止める。
「白いノートは危ないですか」
「危ない気がする」
「では、黒瀬さんのノートは?」
「それも危ない」
透真さんが、部屋を見回した。
「メロンパンの袋は?」
私としずくさんは同時に彼を見た。
「袋?」
「はい。役割を置く紙としては、かなり物語らしくないので」
私は四つ目の椅子のメロンパン袋を見た。
空っぽの袋。
少し油が染みていて、端がしわくちゃで、甘い匂いが残っている。
確かに。
正気担当という重たい文字を置く場所として、これほど締まらないものもない。
「いい」
私は言った。
「かなりいい。神秘性ゼロ」
「神秘性ゼロが評価される場面、珍しいですね」
「今は最高評価」
私は四つ目の椅子へ向かった。
袋を手に取る。
かさり。
小さな音。
まるで、文句を言っているようにも、笑っているようにも聞こえた。
「借りる」
私は空席へ言った。
「返すから」
返事はない。
でも、袋は私の手の中で少しだけ温かかった。
気のせいかもしれない。
気のせいでもいい。
私はメロンパンの袋を机の中央に置いた。
その上に右手をかざす。
「正気担当」
私は言った。
「私一人の手から、机の上に移動」
何も起きない。
部屋の空気も変わらない。
「……こういう時、もうちょっと反応してほしい」
「儀式のやり方が雑なのでは」
透真さんが言った。
「じゃあ、丁寧にやる?」
しずくさんが真面目に頷いた。
「言葉が必要なのかもしれません」
「言葉」
「はい。役割より先に名前を呼ぶのと同じで、担当より先に人を呼ぶ」
私は自分の手を見た。
黒瀬依子。
その名前を、自分で呼ぶのは少し恥ずかしい。
でも、やるしかない。
「私は、黒瀬依子」
言った。
思ったより、声が震えた。
「正気担当じゃない。まとも役でもない。読者でも、記録係でも、ツッコミ役でもない」
手の甲が熱い。
「でも、読むことはできる。怒ることもできる。疑うこともできる。記録することもできる」
私はメロンパンの袋に触れた。
「それを、私一人の担当にしない。机に置く。三人と欠席者席で持つ」
しずくさんが、私の左隣で言った。
「私は、雨宮しずくです」
声は震えていた。
「綺麗な主人公ではありません。白い部屋の私も、今の私の一部です。でも、私は一人で物語を閉じません」
彼女はメロンパンの袋に指を添えた。
「正気を、黒瀬さん一人に預けません。私も、自分の中の綺麗な嘘を疑います」
透真さんも、手を伸ばした。
「僕は、水無月透真です」
その瞬間、彼の声が少し掠れた。
まだ「真」は完全ではない。
でも、彼は言い切った。
「今は真が欠けています。だから、僕自身も僕を信用しきれません。でも、その判断を黒瀬一人に任せません」
彼の指が袋に触れる。
「僕も、自分の薄さを見ます。嫌だと言います。怒ります。必要なら、疑われることに怒ります」
四つ目の椅子の湯呑みから、湯気が立った。
それは、たぶん合図だった。
私は空席を見た。
「欠席者」
言葉に詰まる。
名前がない。
あおなのか、青なのかもまだわからない。
でも、席はある。
「名前はまだない。少なくとも私たちは、まだ知らない。でも、あんたもここにいることにする。外へ逃がす役かもしれない。メロンパンの匂い担当かもしれない。腹立つ曖昧合図担当かもしれない」
しずくさんが小さく笑った。
透真さんも、ほんの少し笑った。
「でも、担当って言うとまた危ないから」
私は言い直した。
「あんたは、まだ思い出していない人。四つ目の席の人。私が怒りたい人。恋文の差出人。ミナトをミナトって呼んだ人。正気も、疑いも、記録も、こっちに押しつけすぎそうになったら、外へ逃がして」
メロンパンの袋が、かさりと鳴った。
今度は、はっきり。
その瞬間、私の手の甲の「正気担当」が剥がれた。
いや、完全には剥がれていない。
でも、文字が手から浮き上がり、薄い紙片のようになってメロンパンの袋の上へ落ちた。
袋の上に、黒い文字。
正気担当
私は息を吐いた。
「移った」
「はい」
しずくさんが言った。
「でも、残っています」
見ると、私の手の甲には薄い跡がある。
完全には消えていない。
担当にされかけた痕。
たぶん、すぐには消えない。
「まあ、いい」
私は言った。
「ゼロにできないなら、机に置けただけでも暫定勝ち」
透真さんが頷いた。
「暫定勝ち」
「第三章からの合言葉みたいになってるね」
「かなり便利です」
「便利な言葉は危ないけど、今は採用」
黒いノートが勝手に開いた。
また何か書かれるのかと身構えたが、今度は短い文字だけだった。
記録四、修正。
黒瀬依子が判断しなければ全員が壊れる。
↓
黒瀬依子が一人で判断しようとすると、全員が壊れる。
私は、その文字を見て、ゆっくり頷いた。
「そっちなら採用」
しずくさんが、少しほっとした顔をする。
透真さんも、顔色が少し戻った。
受領書が淡く光る。
預かり品:真
返却準備:四割
「お」
私は思わず声を出した。
「また一割戻った」
透真さんは、自分の学生証を見た。
水無月透。
そこに、さらに薄く「真」の影が浮かんでいる。
「まだ名前には戻りませんね」
「でも進んでる」
「はい」
しずくさんの胸元のラベルも、少しだけ濃くなった。
雨宮しずく。
受領書を見ると、「し」は九割五分になっていた。
「あと五分」
私は言った。
「猫、刻むなあ」
窓の外から猫の声はしない。
でも、きっとどこかで偉そうにしている。
その時、机の上のメロンパンの袋に置かれた「正気担当」の文字が、少しずつ滲んだ。
文字が袋の油染みと混ざって、読みづらくなる。
正気担当。
だったものが。
正気、担当?
担当、正気?
正気っぽい何か?
最後には、ただの黒い染みになった。
しずくさんが言った。
「少し、間抜けになりました」
「最高」
私は即答した。
「役割は間抜けにした方が弱る」
透真さんが真面目に頷いた。
「今後の対策として有効かもしれません」
「水無月さん、真面目に言うと少し面白いからやめて」
「すみません」
「謝らない」
「はい」
少しだけ、部屋の空気が戻った。
でも、まだ終わっていない。
まともな人間ほど壊れやすい。
そのタイトルは残っている。
私は壊れていない。
でも、壊れかけた。
ほんの少し、気持ちよかった。
私だけが正気で、私だけが読めて、私だけが皆を支えられる。
その気持ちよさは、きっとまた来る。
何度も。
私はそれを忘れないように、ノートに書いた。
今日の危険。
正気担当にされかけた。
嫌だった。
でも、少し気持ちよかった。
必要とされる感じがした。
だから危ない。
次に同じことが起きたら、メロンパンの袋に置く。
神秘を油染みにする。
書き終えると、しずくさんがじっと見ていた。
「神秘を油染みにする」
「いいでしょ」
「はい。とても黒瀬さんです」
「褒めてる?」
「褒めています」
透真さんも言った。
「黒瀬らしいです」
「二人とも、今それ言えば私が機嫌直すと思ってるでしょ」
「少し」
しずくさんが正直に言った。
「思っています」
透真さんも頷いた。
「僕も少し」
「正直でよろしい」
私はお茶を飲んだ。
ぬるい。
少し渋い。
でも、喉に通る。
まともな人間ほど壊れやすい。
なら、壊れないためには、まともでいることを一人で頑張らなければいい。
たぶん、そういう話だ。
その時だった。
白いノートと黒いノートが、同時に開いた。
机の上の受領書も、勝手に裏返る。
部屋の壁に、白いチョークのような線が走った。
黒板。
いつの間にか、壁の一部が教室の黒板になっている。
そこに文字が浮かぶ。
この物語に作者はいない。
私は、心底嫌な予感がした。
「……次、それ?」
透真さんが、黒板を見つめた。
「作者がいない」
しずくさんが、白いノートを抱えた。
「では、誰が書いているのでしょう」
私は額を押さえた。
「そういう話、絶対面倒じゃん」
その瞬間、部屋の隅に白い扉が現れた。
大学の教室の扉に似ている。
扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「出席を取ります」
白紙先生の声。
でも、前に会った時より、少しだけ掠れている。
黒板に新しい文字が浮かぶ。
第35話 この物語に作者はいない
私は思わず言った。
「作者いないのに、先生はいるんだ」
扉の向こうで、白紙先生が微笑んだ気配がした。
「先生は、作者ではありません。採点不能なものを採点不能と告げる係です」
私は即座に言った。
「また係!」
白紙先生の声が、少しだけ止まった。
「……失礼。告げる者です」
「よし」
透真さんが小さく笑った。
しずくさんも、少しだけ笑った。
四つ目の椅子のメロンパンの袋も、かさりと鳴った。
私は、メロンパンの袋の上に滲んだ黒い染みを見た。
正気担当だったもの。
それはもう、ただの油染み混じりの黒い跡だ。
私は深く息を吸った。
「行こう」
言ってから、すぐに言い直した。
「行く。けど、一人では行かない」
透真さんが頷いた。
「はい」
しずくさんも。
「はい」
四つ目の椅子の湯呑みから、細い湯気が立った。
私はそれを見て言った。
「欠席者席も、出席扱い」
扉の向こうで、白紙先生が言った。
「欄外出席として受理します」
「受理、便利に使いすぎ」
私はそう言いながら、扉へ向かった。
まともな人間ほど壊れやすい。
だったら、壊れやすいまま、一人でまともにならない。
それが今日の、暫定勝ちだった。




