第27話 私が殺した朝
メロンパンは、甘かったです。
それが少しだけ、救いでした。
袋を開けた瞬間、かさり、と音がしました。
その音に黒瀬さんの指が一度止まりました。
でも、彼女は止まったことをごまかしませんでした。
ただ、少し息を吸って、袋の中からメロンパンを取り出しました。
「三等分、雑だけど許して」
黒瀬さんはそう言って、メロンパンを三つに割りました。
均等ではありませんでした。
一つは少し大きい。
一つは端が欠けている。
一つは砂糖の粒がたくさんついている。
私は、砂糖の粒が多いものを渡されました。
「しずくさん、それ」
「いいのですか」
「うん。甘いところ多い方」
「ありがとうございます」
「人間になりかけの神様には、糖分が必要」
「そうなのですか」
「今決めた」
黒瀬さんは、少しだけ笑いました。
笑おうとしている、という方が近いかもしれません。
メロンパンの匂いは、消えた三人目の気配に似ています。
私はまだ、その人の名前を知りません。
黒瀬さんも、知りません。
一度だけ戻った「あ」の文字も、第二章の終わりに消えてしまいました。
でも、メロンパンの匂いだけは残っています。
名前が消えても、甘い匂いは残る。
それが優しいのか、残酷なのか、私にはまだわかりません。
「食べよ」
黒瀬さんが言いました。
「第27話が始まる前に」
「話数で言っていいのですか」
透真さんが聞くと、黒瀬さんはメロンパンをかじりながら言いました。
「もういい。ここまで来たら言う。言わない方が不自然」
「黒瀬さんが言うと、少し安心します」
私が言うと、黒瀬さんは眉をひそめました。
「何で?」
「話数や物語という言葉が、黒瀬さんの口から出ると、怖いものではなくなる気がします」
「それはちょっと責任重大」
「はい」
「じゃあ、なるべく雑に言う。第27話、重すぎるからメロンパン休憩を挟みます。以上」
透真さんが、小さく笑いました。
「黒瀬らしいですね」
「そういう時だけ便利に黒瀬らしさを使わない」
私はメロンパンを口に運びました。
甘い。
表面の砂糖が、舌にざらりと触れます。
パンは少し乾いていて、口の中の水分を持っていきます。
けれど、それすら人間の食べ物らしくて、私は嫌ではありませんでした。
意味より先に甘い。
この感覚を覚えておきたいと思いました。
これから見るものは、きっと苦いから。
透真さんもメロンパンを食べました。
彼は少しだけ考える顔をして、それから言いました。
「確かに、甘いですね」
「水無月さん、食レポが下手」
黒瀬さんが即座に言いました。
「すみません」
「謝らなくていいけど。もう少しあるでしょ。外がさくっとしてるとか、懐かしい味とか、あいつが好きそうとか」
最後の言葉で、黒瀬さん自身が少し止まりました。
メロンパンを持つ手が、ほんの少し震えました。
「……あいつが好きそう」
彼女は自分で繰り返しました。
「いや、好きだったんだろうね。たぶん」
透真さんは何も言いませんでした。
私も言いません。
黒瀬さんは、もう一口メロンパンを食べました。
「腹立つくらい甘い」
その言葉は、泣いているようにも、怒っているようにも聞こえました。
その時、部屋の雨が止まりました。
窓の外では、まだ雨が降っています。
けれど、天井から文字になって落ちていた雨は、ぴたりと止まりました。
机の上に置かれた透明な傘の形の紙が、ゆっくりと浮き上がります。
そこに、新しい文字が浮かびました。
【第27話 私が殺した朝】
私の心臓が、一度だけ大きく跳ねました。
とくん。
痛いくらいに。
黒瀬さんが、食べかけのメロンパンを袋の上に置きました。
「始まるね」
「はい」
「しずくさん」
「はい」
「謝る準備じゃなくて、見る準備」
「はい」
「水無月さん」
「はい」
「自分が死体だったからって、急に悟った顔しない」
「努力します」
「努力じゃ足りない時は殴る」
「平手ですか」
「状況次第」
透真さんは、困ったように笑いました。
その笑顔を見て、私は胸が痛くなりました。
この人を、私は殺したのかもしれない。
物語に閉じ込めたのかもしれない。
読まれるために。
私を見つけてもらうために。
私を忘れないでもらうために。
それが本当なら、私はどうすればいいのでしょう。
謝ればいいのでしょうか。
いいえ。
黒瀬さんは言いました。
謝って終わりにするな。
私は、その言葉を手のひらで握るようにしました。
次の瞬間、部屋の壁が雨に溶けました。
透真さんの部屋ではなくなります。
白い部屋。
前回、私の第一話で見た部屋です。
私の部屋。
雨粒のシール。
白いカーテン。
小さな机。
透明なコップ。
開きかけのノート。
そして、床の中央には、また透真さんの死体がありました。
胸に透明な傘が刺さっています。
でも、前回と違うところがありました。
死体の周りに、文字が円のように並んでいます。
透真さん。
透真さん。
透真さん。
透真さん。
透真さん。
私の字。
幼い字。
何度も何度も書いた名前。
それが死体の周りを囲んでいました。
まるで、檻のように。
「……これは」
透真さんの声が、少しだけ掠れました。
黒瀬さんが、すぐに彼の横へ立ちます。
「水無月さん」
「はい」
「今、遠く行かない」
「はい」
「返事だけでもして」
「はい」
「ミナト」
「はい」
黒瀬さんは、少しだけ息を吐きました。
「よし。いる」
私は、床の文字を見つめました。
透真さん。
私が呼ぶ名前。
少し遠くて、少し優しい名前。
その名前が、彼の死体を囲んでいる。
名前は救いだと思っていました。
呼べば繋ぎ止められると思っていました。
でも、名前は檻にもなるのだと、今、わかりました。
「私が」
喉が震えました。
「これを書いた」
黒瀬さんが、私の肩に手を置きました。
「確認中」
「はい」
「でも、見たまま言うなら、そう」
「はい」
前回の第一話の私が現れました。
過去の私。
水色の寝間着を着て、心臓が動き始めたばかりの私。
彼女は床に座り込み、ノートに文字を書き続けています。
顔は青白いのに、頬だけが少し赤い。
人間になり始めたばかりの体温。
でも、目はまだ神様の目。
彼女は震える指で、何度も書いていました。
透真さんを起こしたい。
透真さんに、私を見てほしい。
透真さんに、私の名前を呼んでほしい。
透真さんが死んでいるのは嫌。
でも、透真さんが起きていなくなるのは、もっと嫌。
黒瀬さんが、低く言いました。
「……来た」
「何がですか」
透真さんが聞きます。
「閉じ込めるやつ」
過去の私は、さらに書きます。
起きたら、帰ってしまうかもしれない。
帰ったら、私を忘れるかもしれない。
忘れたら、私はまた雨の日だけになります。
晴れの日には、いなくなります。
それは嫌です。
胸が苦しくなりました。
わかってしまいます。
わかりたくないのに。
過去の私は、透真さんを助けたいと思っている。
でも、透真さんがどこかへ行くのは怖い。
生きてほしい。
でも、離れてほしくない。
その二つが、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
綺麗ではありません。
優しさだけではありません。
愛情とも呼べないかもしれません。
寂しさ。
依存。
恐怖。
願い。
身勝手。
その全部が、小さな字になってノートに並んでいました。
「人間臭いね」
黒瀬さんが言いました。
その声は怒っているのに、少し悲しそうでした。
「神様なのに、ものすごく人間臭い」
「はい」
「相手を助けたい。でも自分のそばにいてほしい。帰ってほしくない。忘れてほしくない」
「はい」
「最悪だけど、わかるのが嫌」
黒瀬さんは、自分の胸元を押さえました。
そこには、消えた三人目の恋文がある鞄があります。
「あいつの名前を思い出したい。でも、思い出したら私が壊れるかもしれない。あいつが隠したいなら尊重した方がいいのかもしれない。でも隠されるのは嫌。そういうぐちゃぐちゃと、たぶん少し似てる」
「黒瀬さん」
「だから、怒る」
彼女は、過去の私を睨みました。
「わかるからこそ、怒る。わかることと、許すことは別」
その言葉は、私の中に深く沈みました。
わかることと、許すことは別。
私は、過去の私を見ました。
彼女は、ノートに新しい一文を書きます。
透真さんが生きたら、私は読まれない。
透真さんが死んでいたら、私は読まれる。
なら、透真さんは死んだまま、私の物語の中にいてください。
その瞬間、部屋の空気が凍りました。
透真さんの死体の周りに書かれた名前が、黒く光ります。
檻が閉じるように。
私は、息ができませんでした。
これです。
これが、私が殺した朝。
透真さんを生き返らせる方法を探していたはずの私は、どこかで願ってしまった。
死んだままでいてほしい。
私の物語の中にいてほしい。
私を読ませてほしい。
私を見てほしい。
黒瀬さんの手が、私の肩に強く食い込みました。
痛い。
でも、その痛みがなければ、私はその場で崩れていたと思います。
「しずくさん」
黒瀬さんの声が、低く届きます。
「逃げない」
「……はい」
「今、逃げたくなってるでしょ」
「はい」
「消したくなってるでしょ」
「はい」
「第七話みたいに」
私は目を閉じそうになりました。
でも、閉じませんでした。
「はい」
認めました。
「消したいです」
声が震えます。
「なかったことにしたいです。これは私ではないと思いたいです。子供だったから、神様だったから、寂しかったから、仕方なかったと言いたいです」
「うん」
「でも、違います」
涙が出ました。
雨ではありません。
人間の涙です。
「私です」
過去の私が書いた文字。
死体の透真さんを囲む名前の檻。
生きてほしいけれど、死んだままいてほしいという矛盾。
全部、私の中にある。
「私が、透真さんを物語に閉じ込めました」
言ってしまうと、胸元の半分剥がれたラベルが熱くなりました。
雨宮しずく。
そこに書いた私の名前が、少し滲みます。
「私は、あなたに読まれたかったんです」
私は透真さんを見ました。
生きている透真さん。
でも、その足元には死体の透真さんがいる。
どちらを見ればいいのかわからなくなりそうでした。
「だから、あなたを私の物語に閉じ込めました」
透真さんは、何も言いませんでした。
怒っているのか、傷ついているのか、考えているのか、全部が混ざった顔をしていました。
私は謝りたくなりました。
ごめんなさい、と。
でも、その言葉は喉で止めました。
謝って終わりにしてはいけません。
謝った瞬間、少し楽になる気がしました。
だから、まだ言いません。
黒瀬さんが、静かに言いました。
「今のは、ちゃんと見た」
「はい」
「逃げなかった」
「はい」
「でも」
彼女の声が強くなります。
「ここから」
「ここから?」
「閉じ込めたなら、開けるところまでやりなさい」
その言葉は、部屋の白い壁にぶつかって、何度も返ってきました。
開けるところまで。
開けるところまで。
開けるところまで。
過去の私が、ノートを書く手を止めました。
初めて、こちらを見たような気がしました。
黒瀬さんは、まっすぐ過去の私を睨みます。
「しずくさん」
「はい」
「謝るのはそのあと。自分を責めるのもそのあと。まず、閉じ込めたなら開ける。鍵を探す。扉を探す。水無月さんが自分の意思で出られるようにする」
「はい」
「水無月さん」
「はい」
「あなたも、閉じ込められた側ですって顔で固まらない」
「はい」
「開ける時、出るかどうかは自分で決めて」
透真さんが、少しだけ目を見開きました。
「僕が?」
「当たり前でしょ。開けた瞬間に、じゃあ外へどうぞって押し出されたら、それもまた別の暴力じゃない」
黒瀬さんは、少しだけ苦い顔をしました。
「出たいかどうか。どこに出たいか。今すぐ出たいのか。まだ残って見たいものがあるのか。それを水無月さんが決める」
「僕が決める」
「そう。しずくさんが閉じ込めたなら、しずくさんは開ける責任がある。でも、水無月さんが出る責任まで勝手に持つな」
透真さんは、床の死体を見ました。
そして、私を見ました。
「僕は」
声が少し震えていました。
「まだ、すぐには出たいと言えません」
私は息を止めました。
「なぜですか」
「ここに閉じ込められたことで、僕はしずくさんに会ったのかもしれない」
「はい」
「それが嫌だという気持ちと、会えてよかったという気持ちが両方あります」
胸が痛みました。
でも、その言葉を私は受け止めなければいけません。
「僕は、あなたに閉じ込められたかもしれないことを怒っています」
「はい」
「でも、ここで全部を否定したら、今の僕たちの関係まで嘘にしてしまいそうで、それも怖い」
透真さんは、少しだけ自分に腹を立てているような顔をしました。
「だから、僕も保留です」
黒瀬さんが、ふっと息を吐きました。
「保留、多いなあ」
「はい」
「でも、今のはかなり大事な保留」
過去の私が、ノートを見下ろしました。
死体の周りの文字の檻が、少しだけ揺れます。
私は一歩前へ出ました。
怖いです。
とても怖い。
この文字に触れたら、自分が何をしたのか、もっとはっきりわかってしまう気がする。
でも、私は逃げません。
床に膝をつきました。
死体の透真さんの周りに並ぶ「透真さん」という文字。
私は、その一つに触れました。
冷たい。
私の字なのに、氷のように冷たい。
「開けます」
私は言いました。
「どうやって?」
黒瀬さんが聞きます。
「わかりません」
「正直」
「でも、まず」
私は指先に力を込めました。
「名前を檻にしないようにします」
私は、床の文字を一つずつなぞりました。
透真さん。
その横に、別の文字を書き足します。
水無月さん。
黒瀬さんが、息を呑みました。
私は次の文字にも書き足します。
ミナト。
黒瀬さんの目が揺れます。
次。
欄外。
次。
朝。
でも、その横にさらに書きます。
ただし、人間として扱う。
過去の私の「透真さん」だけで囲まれていた檻に、ほかの呼び方を入れていく。
私だけの名前ではなくする。
私だけが呼ぶ名前ではなくする。
透真さんは、私の物語だけにいる人ではありません。
黒瀬さんが呼ぶ水無月さん。
消えた三人目が呼ぶミナト。
白紙先生に欄外受理された人。
神様の前で朝の責任を持つ人。
それでも、人間として卵サンドを食べ、メロンパンを少し下手に食レポする人。
文字の檻が、少しずつほどけていきます。
死体の透真さんの指先が、わずかに動きました。
生きている透真さんが、胸を押さえます。
「透真さん?」
「大丈夫です」
「痛いですか」
「痛いというより、ほどける感じです」
「ほどける」
「はい。少し怖いです」
黒瀬さんが、すぐに言いました。
「怖いって言えた。よし」
「よし、ですか」
「よし。怖いって言える人は、まだ自分で立ってる」
私は、さらに文字を書き足しました。
共有中。
それを書いた瞬間、床の文字が大きく震えました。
過去の私が叫びます。
『やめて』
その声は、子供の声でした。
私は振り返りました。
過去の私は、ノートを抱きしめています。
『書かないで。ほかの名前を書かないで。透真さんは、私が見つけたの』
胸が痛みました。
わかってしまいます。
その独占欲。
その怖さ。
置いていかれた子供が、やっと見つけた名前を誰にも渡したくない気持ち。
でも。
「違います」
私は言いました。
「透真さんは、私だけのものではありません」
過去の私の顔が歪みます。
『でも、私が書いた』
「はい。あなたが書きました」
『私が見つけた』
「はい。あなたが見つけました」
『私が、雨を食べた』
「はい」
『私が人間になった』
「はい」
『なのに』
過去の私は泣いていました。
『なのに、また取られるの?』
私は、胸が裂けそうになりました。
取られる。
そう思っていた。
幼い私も、第一話の私も。
透真さんを誰かに取られるのが怖かった。
晴れの日に取られる。
母親に取られる。
現実に取られる。
黒瀬さんに取られる。
読者に取られる。
物語の外に取られる。
だから、閉じ込めた。
死体のままでも、自分の物語の中にいてほしかった。
私は、過去の私に近づきました。
「取られません」
『嘘』
「取られないというより、誰か一人のものにはなりません」
『それは、私のものじゃないってことでしょ』
「はい」
過去の私が、また泣きました。
私は、しゃがんで彼女の目線に合わせました。
「それは、とても悲しいことです」
『……』
「でも、一人だけのものにすると、その人は檻になります」
私は床の文字を見ました。
「私は、それをしました。透真さんを、私の名前で囲みました」
『だって』
「はい」
『寂しかった』
「はい」
『読んでほしかった』
「はい」
『見つけてほしかった』
「はい」
「でも、読んでほしいなら、閉じ込めてはいけませんでした」
過去の私は、ノートを強く抱きしめました。
『じゃあ、どうすればよかったの』
その問いに、私はすぐ答えられませんでした。
子供にとって、それは難しすぎる問いです。
神様にとっても、人間にとっても。
でも、今の私は一人ではありません。
黒瀬さんが、横から言いました。
「助けてって言えばよかった」
過去の私が、黒瀬さんを見ます。
『助けて?』
「そう。寂しい、怖い、忘れないで、見つけてって。相手を係にしたり死体にしたり物語に閉じ込めたりする前に、言えばよかった」
『言えない』
「うん。言えなかったんだよね」
黒瀬さんの声が少しだけ柔らかくなりました。
「でも、言えなかったからって、閉じ込めていいわけじゃない」
過去の私は、泣きながら黒瀬さんを見ました。
『怒ってる?』
「怒ってる」
『嫌い?』
「嫌いではない」
その答えに、過去の私だけでなく、今の私も少し救われました。
黒瀬さんは続けます。
「怒ってるけど、嫌いじゃない。そういうの、ある」
透真さんも、過去の私の前にしゃがみました。
死体の自分の横で、生きている彼が膝をつく。
とても不思議な光景でした。
「僕も、怒っています」
過去の私が、小さく震えます。
「でも、今ここであなたを置いていくつもりはありません」
『また?』
「はい?」
『また、帰る?』
透真さんは、言葉に詰まりました。
あの雨の日。
幼い透真さんは帰りました。
お母様に手を引かれて。
過去の私には、それが一番怖かった。
今の透真さんは、少し考えてから言いました。
「帰ります」
過去の私の顔が歪みました。
私も、胸が痛みました。
でも、透真さんは続けます。
「でも、帰る場所は、一つではありません」
『……』
「僕は、僕の現実へ帰ります。黒瀬がいる場所へ。しずくさんがいる場所へ。神様の死体がある朝へ。かなり嫌な帰り先ですが」
黒瀬さんが小さく言います。
「本当に嫌な帰り先ね」
「でも、帰ります」
透真さんは過去の私を見ました。
「あなたのノートの中だけには残りません」
『それは、置いていくってこと?』
「いいえ」
透真さんは、静かに首を横に振りました。
「あなたも連れていきます。ノートごと」
過去の私が、目を見開きました。
私も。
透真さんは、今の私を見ました。
「しずくさん」
「はい」
「そのノートを持ってきてください」
「はい」
「閉じ込めたものを、外へ出すなら、たぶんノートを捨てるのではなく、持ち出す必要があります」
私は、過去の私の腕の中のノートを見ました。
白い表紙のノート。
私が透真さんを書いたノート。
透真さんを係にしたノート。
透真さんを死体のまま閉じ込めたノート。
捨てたい。
燃やしたい。
なかったことにしたい。
でも、それをすればまた同じです。
痛いものを消すことになる。
私は過去の私に手を差し出しました。
「一緒に持ちます」
『重いよ』
「はい」
『怖いよ』
「はい」
『透真さんに嫌われるかもしれない』
胸が痛みました。
「はい」
私は正直に答えました。
「でも、持ちます」
過去の私は、泣きながらノートを差し出しました。
私はそれを受け取ります。
前より重い。
腕が下がりそうになるほど。
黒瀬さんが、すぐに片側を持ちました。
「一人で持たない」
「はい」
透真さんも、反対側に手を添えました。
「僕も」
「透真さん」
「僕を閉じ込めたノートでもありますから」
黒瀬さんが、すかさず言います。
「そこで全部背負う顔しない」
「はい」
「被害者面するな、じゃないの。全部自分で持つな、って意味」
「わかっています」
「本当に?」
「努力します」
「よし」
三人でノートを持つと、床の文字の檻がさらにほどけました。
透真さんの死体の胸に刺さっていた透明な傘が、少しずつ抜けていきます。
完全には抜けません。
でも、深く刺さっていたものが、少し浅くなる。
死体の透真さんの目が、ゆっくりと開きました。
その目は、生きている透真さんと同じでした。
けれど、もっと遠い。
ずっと長い間、紙の中にいた目。
『意味が』
死体の透真さんが呟きます。
黒瀬さんが即座に言いました。
「言わない!」
死体の透真さんが、少し驚いたように口を閉じました。
私は思わず泣きながら笑ってしまいました。
「黒瀬さん、死体にも突っ込むのですね」
「死体でも水無月さんでしょ。意味がわからないって言ったら世界の意味が減るから止める」
死体の透真さんは、少しだけ困った顔をしました。
生きている透真さんと同じ顔です。
『……では』
死体の透真さんは言いました。
『よくわかりません』
「それならよし」
黒瀬さんが頷きました。
「妥協案として採用」
死体の透真さんの身体が、雨になってほどけ始めました。
消えるのではありません。
檻から出るために、形を変えているように見えました。
彼は、私を見ました。
『書いたんですね』
私は頷きました。
「はい」
『閉じ込めたんですね』
「はい」
『開けるんですね』
「はい」
『遅いですね』
その言葉に、私は息を呑みました。
責められた。
でも、当然です。
「はい」
私は頷きました。
「遅いです」
死体の透真さんは、少しだけ笑いました。
『でも、来ましたね』
「はい」
『なら、続きは外で』
その瞬間、死体の透真さんは完全に雨になりました。
床の文字の檻が崩れます。
過去の私も、泣きながら少しずつ雨に戻っていきます。
『嫌われる?』
過去の私が、最後に聞きました。
私は答えられませんでした。
代わりに、透真さんが言いました。
「保留です」
過去の私が、きょとんとしました。
黒瀬さんが少し笑います。
「便利でしょ、保留」
過去の私は、泣いたまま少しだけ笑いました。
『じゃあ、まだ終わってない?』
「はい」
私は言いました。
「まだ終わっていません」
過去の私は、雨になって消えました。
でも、消滅ではありません。
ノートの中へ戻ったのではなく、私の胸の中へ戻ったような気がしました。
部屋が崩れます。
白いカーテンも、雨粒のシールも、透明なコップも、透真さんの死体も、文字になってほどけていきます。
私たちは、透真さんの部屋に戻りました。
机の上には、白い表紙のノートが置かれています。
表紙には、三人の手形のような雨跡がついていました。
私。
透真さん。
黒瀬さん。
三人で持った跡。
ノートの表紙に文字が浮かびます。
状態:閉鎖解除中
鍵:未発見
次の確認者:白い猫
黒瀬さんが、眉をひそめました。
「鍵、まだ見つかってないの?」
「はい」
「開けるところまでやったと思ったのに」
「解除中、です」
透真さんが言いました。
「完全には開いていないようです」
「じゃあ次、猫か」
黒瀬さんは窓の外を見ました。
雨の向こうで、白い猫が座っていました。
金色の目でこちらを見ています。
その首には、小さな紙。
紙にはこう書かれています。
白い猫は誰の味方か。
私の手の甲が熱くなりました。
黒瀬さんの手の甲を見ると、そこに書かれていた「し」が少しだけ薄くなっています。
「黒瀬さん」
「何」
「し、が」
黒瀬さんは自分の手を見ました。
確かに、私の「し」が薄くなっています。
透真さんの手の甲の「し」も、同じように薄くなっていました。
胸が冷えます。
「私が、過去を開けたから?」
黒瀬さんは、少しだけ口を結びました。
「たぶん、何かが動いた」
「返してもらえるのではなく、消えかけているのでしょうか」
「まだ決めない」
黒瀬さんは、薄くなった「し」を油性ペンでなぞろうとして、手を止めました。
「……上からなぞっていいのかな」
「駄目ですか」
「わからない。返すための文字を私が勝手に濃くしていいのか、ちょっと迷う」
その迷いが、とても黒瀬さんらしいと思いました。
怒る人。
でも、雑に踏み込まないところもある人。
私は、彼女の手に触れました。
「今は、なぞらないでください」
「いいの?」
「はい。薄くなったことを、見ます」
「怖いよ」
「怖いです」
透真さんも、自分の手の「し」を見ました。
「次で、猫に聞く必要がありますね」
「はい」
窓の外の白い猫が、にゃあと鳴きました。
その声が、頭の中に届きます。
返却条件を確認せよ。
黒瀬さんが、低く言いました。
「条件付きで名前預かる猫、ほんと面倒」
でも、その声には少しだけ希望もありました。
条件があるなら、返せるかもしれない。
私の「し」も。
消えた三人目の「あ」も。
ノートの表紙に、新しい文字が浮かびます。
【第27話 私が殺した朝 読了】
【第28話 白い猫は誰の味方か】
私は、白いノートを胸に抱きました。
重いです。
でも、さっきより少しだけ違います。
閉じ込めた証拠ではなく、開ける途中のものとして。
私はまだ、謝っていません。
謝りたい気持ちはあります。
喉の奥に、ずっとあります。
でも、まだ終わっていません。
閉じ込めたなら、開けるところまで。
その言葉を、私は胸の中で何度も繰り返しました。
窓の外で、白い猫が尻尾を揺らしました。
まるで、次は自分の番だと言うように。




