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『毎朝、僕の部屋で知らない神様が死んでいる』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第26話 雨宮しずくの第一話

 朝起きると、私の部屋で知らない男の子が死んでいた。


 その一文が、雨になって降ってきました。


 天井から落ちてきた雨粒は、床に当たる前に文字へ変わります。


 朝。

 起きると。

 私の部屋で。

 知らない男の子が。

 死んでいた。


 ひとつひとつの言葉が、畳の上に落ちて、黒いインクのように広がっていきます。


 私たちは透真さんの部屋にいたはずでした。


 プリンの空き容器。

 卵サンドの包み。

 黒瀬さんのノート。

 メロンパン。

 窓の外の雨。


 それらは、次々と薄くなっていきました。


 代わりに現れたのは、知らない部屋です。


 でも、知らないのに、私は知っていました。


 白いカーテン。

 窓際の小さな机。

 机の上に置かれた透明なコップ。

 壁に貼られた雨粒の形のシール。

 ベッドの上には、白い毛布。

 床には、開きかけのノート。


 そして、部屋の中央に男の子が倒れていました。


 透真さんでした。


 いいえ。


 その時の私は、彼を知らない男の子だと思っていたのでしょう。


 でも、今の私は知っています。


 水無月透真。

 透真さん。

 ミナト。

 欄外。

 朝。


 彼は床の上に横たわっていました。


 胸には、透明な傘が刺さっています。


 私が第1話で死んでいた時と同じ。


 白いシャツは濡れていました。

 血ではありません。

 雨でした。


 彼の胸から、雨が流れている。


 床に落ちるはずの雨は、そこから空へ向かって落ちていました。


 逆さ雨。


 見慣れてしまった異常。


 でも、見慣れたからといって、痛くないわけではありません。


「……透真さん」


 声が震えました。


 私は一歩近づこうとして、足が止まりました。


 この第一話の私は、知らない男の子として彼を見ている。


 けれど、今の私は透真さんとして彼を見ています。


 二つの視点が重なって、胸の中が気持ち悪くなりました。


 知らない。

 知っている。


 死んでいる。

 ここにいる。


 過去の第一話。

 今の私。


 どれが本当なのかわかりません。


「しずくさん」


 隣から声がしました。


 透真さんです。


 生きている透真さん。


 彼は私の横に立って、自分の死体を見ていました。


 その顔は、驚きよりも先に困惑していました。


「自分が死んでいるのを見るのは、あまり慣れませんね」


 黒瀬さんが、すぐに言いました。


「慣れなくていい」


「押し入れにも僕の死体がありましたから」


「死体経験をカウントしないで。人間は自分の死体を見る経験、一回もなくていいの」


「確かに」


「確かにじゃない。納得が軽い」


 黒瀬さんは、部屋の中央に倒れた透真さんの死体を見て、顔をしかめました。


 彼女の手にはノートがあります。


 さっき「読みながら残る」と書いたノート。


 そのページには、勝手にこの第一話の本文が流れ込んでいました。


 朝起きると、私の部屋で知らない男の子が死んでいた。


 黒瀬さんは、それを睨みました。


「反転してる」


「はい」


「第1話の逆。水無月さんの部屋で知らない神様が死んでたんじゃなくて、しずくさんの部屋で知らない男の子が死んでる」


「私の第一話」


「たぶんね」


 黒瀬さんはノートを閉じようとしましたが、また閉じられませんでした。


「もう、勝手に開くノートに慣れてきた自分が嫌」


「慣れは危険ですか」


「危険。でも慣れないとやってられない。人間って面倒」


「はい」


 私は部屋の中を見ました。


 この部屋は、私の部屋なのでしょうか。


 雨の日だけ存在する神様に、部屋があったのでしょうか。


 あったのかもしれません。


 私が主人公だった世界では。


 そこでは、私が朝起きる。

 私が死体を見つける。

 私が遺言を読む。

 私が世界を修正する。


 そして、床に倒れていたのは透真さん。


 私は、胸の奥が冷たくなるのを感じました。


「私の世界では、透真さんが死体だった」


 言葉にすると、部屋の雨音が少し強くなりました。


 透真さんは、静かに頷きました。


「そのようです」


「嫌ではありませんか」


「嫌です」


 即答でした。


 私は少し驚いて彼を見ました。


 透真さんは、困ったような顔で続けます。


「自分が死体として配置されているのは、かなり嫌です。さすがに」


 黒瀬さんが頷きました。


「よし。嫌がれてる。人間」


「存在診断ですか」


「存在診断。自分の死体見て嫌なら、まだ人間」


「嫌ではあるんですが」


「何」


「少しだけ、安心もしています」


 黒瀬さんの顔が険しくなりました。


「また?」


「はい」


「水無月さん、そういうところ本当に厄介。何で自分が死体側だったって知って安心するの」


 透真さんは、床の上の自分を見つめました。


「しずくさんだけが死体だったわけではないとわかったからです」


 その言葉に、私は息を止めました。


「透真さん」


「あなたは第1話で死んでいた。胸に透明な傘が刺さっていた。それを僕が見つけた。僕はずっと、その構図を背負ってきました」


「はい」


「でも、しずくさんの第一話では、僕が死んでいる。あなたが見つける側だった」


「はい」


「それが公平だとは言いません。何も解決しません。でも、あなた一人だけが死体だったわけではない。そのことに、少しだけ安心してしまいました」


 黒瀬さんは、すぐに怒りませんでした。


 少し考えてから、低い声で言います。


「それは、わからなくもない」


「黒瀬さん」


「嫌だけどね。死体のバランス取れてよかったね、とは絶対言わない。でも、片方だけが被害者で片方だけが加害者って形が少し崩れると、息がしやすくなるのはわかる」


 私は、二人の言葉を聞きながら、床の死体を見ていました。


 透真さんの死体。


 胸に透明な傘。


 開いたままの手。


 少しだけ濡れた髪。


 この第一話の私は、これを見て何を思ったのでしょう。


 怖かったのでしょうか。

 悲しかったのでしょうか。

 それとも、知らない男の子だから、少しだけ距離があったのでしょうか。


 ノートが勝手にめくれます。


 黒瀬さんが、渋い顔で読み上げました。


「私は、死んでいる男の子のそばにしゃがみました。胸に透明な傘が刺さっています。傘の柄には、小さく文字が書かれていました」


 黒瀬さんは、床の死体へ近づきます。


「触っていいのかな」


「自分の死体ではありますが」


 透真さんが言うと、黒瀬さんが睨みました。


「自分の死体って言い方やめて。判断に困る」


「すみません」


「謝るのも違う」


 黒瀬さんは慎重にしゃがみ込み、透明な傘の柄を覗き込みました。


 そこには、小さな文字がありました。


 雨を食べてください。


 ただし、食べた神様は人間になります。


 黒瀬さんが、顔をしかめました。


「遺言?」


「雨を食べる」


 私は呟きました。


 第1話の私の遺言は、プリンを食べてください、でした。


 透真さんがプリンを食べた。

 世界が壊れた。

 私は半分だけ死に損ねた。


 この第一話では、私が雨を食べる。


 神様が、人間になる。


 だから今の私は、人間に近づいているのでしょうか。


「私が雨を食べたから」


 私は、自分の手首に触れました。


 脈が打っています。


 とくん。


 とくん。


「私は人間になり始めた?」


 透真さんが、死体の胸に刺さった傘を見ました。


「この第一話が、今のしずくさんの人間化に繋がっている可能性はあります」


「私が透真さんを死体にして、その遺言を読んで、人間になった」


 言葉が、喉に引っかかりました。


「私は、透真さんの死体を使って人間になったのでしょうか」


「しずくさん」


 黒瀬さんの声が強くなりました。


「自分を最悪の言い方でまとめない」


「でも」


「でもじゃない。そう見えるのはわかる。でも、その言い方だけで固定すると、また役割が太る」


 黒瀬さんは、透明な傘の文字を見ながら言いました。


「今ある事実。しずくさんの第一話では、水無月さんが死体だった。遺言は雨を食べてください。食べた神様は人間になる。ここまで」


「はい」


「そこから先は、まだ仮説」


「はい」


「水無月さんの死体を利用したとか、人間になるために殺したとか、そういう言い方は保留」


「保留」


「そう。嫌でも保留」


 私は頷きました。


 保留は、逃げではないことがあります。


 第二章で私たちはそれを学びました。


 けれど、保留は重いです。


 決めないまま持つということだから。


 私は、透真さんの死体の前にしゃがみました。


 死体なのに、顔は穏やかでした。


 第1話の私の死体は、どんな顔をしていたのでしょう。


 透真さんに聞きたいような、聞きたくないような気持ちになりました。


「私は、この死体に何をしたのでしょうか」


 ノートが答えるように、文字を続けました。


 私は、透明な傘を抜こうとしました。

 けれど、傘は抜けませんでした。

 男の子の胸から雨が流れ続けています。

 私は、その雨を両手ですくいました。


 部屋の中央。


 過去の私が現れました。


 今より少し幼い私。


 白いワンピースではなく、薄い水色の寝間着を着ています。

 髪は肩のあたりで濡れていて、目はまだ神様の目をしています。

 人間に近づく前の、雨そのものに近い目。


 彼女は死んだ透真さんの胸から流れる雨を両手ですくいました。


 震えています。


 怖いのだと思います。


 知らない男の子の死体。

 透明な傘。

 雨を食べろという遺言。


 それでも、彼女は雨を口に運びました。


 飲むのではありません。


 食べました。


 雨粒が、口の中で何か固形のものになったように、彼女は噛みしめました。


 その瞬間、過去の私の身体が大きく震えました。


 胸元に、赤いものが差します。


 血の気。


 頬に色が戻る。


 指先が濃くなる。


 白い肌の下に、細い血管が浮く。


 心臓が、初めて音を立てる。


 とくん。


 とくん。


 過去の私は、自分の胸に手を当てました。


『動いてる』


 その声は、私の声でした。


『これが、人間』


 嬉しそうでした。


 怖そうでした。


 今の私と同じです。


 でも、その足元には透真さんの死体がありました。


 黒瀬さんが、低く言いました。


「嬉しいのが、つらいね」


「はい」


「人間になれて嬉しい。でも、その横で水無月さんが死んでる」


「はい」


「最悪だけど、嬉しいのも本当だったんだ」


「はい」


 私は、過去の自分を見ていました。


 否定できません。


 過去の私は、確かに嬉しそうでした。


 神様だった身体が人間に近づく。


 触れられる。

 温度を持つ。

 心臓が動く。


 それは、私が第15話で感じた喜びと同じでした。


 私は、嬉しかった。


 透真さんが死んでいても。


 その事実が、ひどく苦しかった。


「透真さん」


 私は彼を見ました。


 生きている透真さん。


 彼は、自分の死体と、過去の私を見つめていました。


「私は」


「まだ謝らないでください」


「……はい」


「でも」


 透真さんは、少しだけ目を伏せました。


「今のは、少しつらいです」


 正直な声でした。


 胸が痛みます。


 でも、その正直さがありがたかった。


 許そうとしないでいてくれる。

 すぐに飲み込まないでいてくれる。


 それは、私を罰するためではなく、私と一緒に事実を見るためなのだと思います。


「はい」


 私は頷きました。


「つらいと言ってくれて、ありがとうございます」


「お礼を言うところですか」


「わかりません。でも、ありがとうございます」


 黒瀬さんが、静かに言いました。


「今のは、お礼でいいと思う」


 過去の私が、死体のそばで立ち上がります。


 心臓が動き始めた彼女は、部屋を見回しました。


 机の上に、ノートがあります。


 白い表紙のノート。


 あの団地の階段で、幼い私が透真さんの名前を書いていたノートです。


 過去の私は、そのノートを開きました。


 そこに文字を書きます。


 知らない男の子が死んでいました。

 名前は、まだ知りません。

 でも、胸から雨が流れていました。

 私は雨を食べました。

 私は少し人間になりました。

 男の子は、まだ死んでいます。


 私は、呼吸が苦しくなりました。


 まだ死んでいます。


 その一文が、とても子供っぽくて、とても残酷でした。


 過去の私は、死んでいる透真さんのそばに膝をつきます。


『名前』


 彼女は呟きました。


『名前がないと、呼べない』


 それは、黒瀬さんが第二章で言ったことと同じでした。


 名前がないと、呼べない。


 過去の私は、死体のシャツの胸元を探ります。


 学生証はありません。


 財布もありません。


 ただ、死体の手のひらに文字がありました。


 水無月透真。


 私は息を呑みました。


 その名前。


 過去の私が、初めて読む透真さんの名前。


 でも、彼女は眉をひそめました。


『みなづき、とおま』


 たどたどしく読みます。


『遠い名前』


 私は、胸が痛みました。


 過去の私は、もう一度手のひらの文字を見ます。


『透真さん』


 そう言い直しました。


『こっちの方が、呼びやすい』


 透真さんが、隣で小さく息を吸いました。


「しずくさんの呼び方は、ここでも」


「はい」


 私は頷きました。


「距離のある名前です」


 過去の私は、ノートに書きます。


 男の子の名前は、水無月透真。

 でも、私は透真さんと呼びます。

 さんをつけると、少し遠くて、少し優しいです。


 黒瀬さんが、苦い顔をしました。


「団地のノートと同じ」


「はい」


「繰り返してる」


 そうです。


 私の物語は、繰り返していました。


 雨の日に見つけた男の子。

 名前を知り、透真さんと呼ぶ。

 死んでいても、いなくなっても、ノートに書く。


 私はずっと同じことをしていたのかもしれません。


 置いていかれたくなくて。


 忘れられたくなくて。


 忘れたくなくて。


 過去の私は、死んだ透真さんに向かって言いました。


『透真さん』


 返事はありません。


『透真さん』


 返事はありません。


 彼女は困ったように、ノートを見ました。


 そして、書きます。


 透真さんは、返事をしません。

 死んでいるからです。

 でも、私が雨を食べたら、心臓が動きました。

 なら、透真さんにも何かを食べさせたら、生きるかもしれません。


 黒瀬さんが、嫌な予感をしたように顔をしかめました。


「何を食べさせる気?」


 答えはすぐに出ました。


 過去の私は、机の上の小さな皿を見つけます。


 皿には、黒い雨粒のようなものが乗っていました。


 いいえ。


 それは雨ではありません。


 文字でした。


 「遺言」という文字が、小さな黒い粒になって皿に乗っている。


 過去の私は、それを一粒つまみました。


『遺言を食べてください』


 彼女は、死んでいる透真さんの口元にそれを運びます。


 私は思わず叫びました。


「待って!」


 過去の私は止まりません。


 でも、黒瀬さんが私の肩を掴みました。


「しずくさん、これはもう起きたこと」


「でも」


「止めたくなるのはわかる。でも、今は見る」


「はい」


 過去の私は、死んだ透真さんの口に「遺言」を入れました。


 その瞬間、透真さんの死体が少しだけ震えました。


 胸に刺さった透明な傘は抜けません。


 けれど、彼の唇が動きました。


『……意味が』


 過去の私は、身を乗り出します。


『意味が、わからない』


 その言葉が、部屋に響いた瞬間。


 世界の意味が一つ減りました。


 壁に貼られた雨粒のシールが、一枚消えます。


 机の上の透明なコップが、何に使うものだったか曖昧になります。


 窓の外の雨が、雨である理由を少し失います。


 黒瀬さんが、低く言いました。


「ここか」


「何がですか」


 透真さんが聞く。


「水無月さんが『意味がわからない』って言うたびに世界の意味が減るルール」


 黒瀬さんは、過去の部屋を睨みました。


「しずくさんの第一話で、死体の水無月さんに遺言を食べさせた結果、最初にその言葉が出た」


 私は震えました。


「私が」


「まだ」


 黒瀬さんが言います。


「自罰禁止。確認中」


「はい」


 でも、胸が痛い。


 私の第一話が、透真さんのルールを作った。


 意味がわからないと言うたびに、世界の意味が減る。


 彼を、そんな存在にしてしまったのは。


 過去の私は、死体が声を出したことに喜んでいました。


『透真さん』


 彼女は笑います。


『返事をしました』


 でも、透真さんの目は開きません。


 死体のままです。


 過去の私は、ノートに書きます。


 透真さんは、意味がわからないと言いました。

 意味が少し減りました。

 でも、声が出ました。

 もう少しで起きるかもしれません。


 黒瀬さんが、額を押さえました。


「善意が怖い」


「はい」


「起こそうとしてる。助けようとしてる。でも、やってることが危ない」


 透真さんは、自分の死体を見ていました。


「僕は、この時から半分死体で、半分語り手だったのかもしれません」


「どういう意味ですか」


 私が聞くと、彼は少し考えます。


「死んでいるのに言葉を出す。意味がわからないと言う。世界の意味を減らす。たぶん、僕はこの第一話で、死体として語り始めた」


「死体として語る」


「はい」


 黒瀬さんが嫌そうな顔をしました。


「それ、すごく嫌な言い方なのに、この作品だと妙に合ってて嫌」


「作品と言いましたか」


「言ったわよ。もう隠すの面倒」


 黒瀬さんはノートを指で叩きました。


「読者に近いとか言われたんだから、少しくらい言わせて」


 その時、ノートに文字が浮かびました。


 黒瀬依子の任意介入:承認。


「承認するな」


 黒瀬さんが即座に言いました。


 少しだけ笑いそうになりました。


 こんな場面なのに。


 でも、その笑いも大事なのだと思います。


 過去の第一話は続きます。


 過去の私は、何度か透真さんに遺言を食べさせました。


 そのたび、透真さんの死体は少しずつ声を出します。


『朝』


『雨』


『しずく』


 最後の言葉で、過去の私は固まりました。


『今、私の名前を』


 死体の透真さんは、目を開けません。


 でも、確かに言いました。


『しずく』


 過去の私は泣きました。


 嬉しくて。


 怖くて。


 ようやく名前を呼ばれたから。


 その涙は、雨ではありませんでした。


 人間になりかけた神様の涙。


 私は、その涙を見て、胸が締めつけられました。


 黒瀬さんが、小さく言いました。


「これも本当なんだよね」


「はい」


「しずくさんが危ないことをしたのも本当。でも、名前を呼ばれて嬉しかったのも本当」


「はい」


「本当が多すぎる」


「人間は、面倒ですから」


「しずくさん、人間の面倒さを覚えてきたね」


 私は、少しだけ頷きました。


 過去の私は、ノートの最後に何かを書こうとしました。


 けれど、手が止まります。


 死体の透真さんの胸に刺さった透明な傘が、少しだけ光りました。


 その傘の内側に、文字が浮かびます。


 次に死ぬ神様の名前は、水無月透真。


 部屋が、凍りました。


 私は、その文字から目を離せませんでした。


 次に死ぬ神様の名前は、水無月透真。


「水無月さんが、神様?」


 黒瀬さんの声が震えました。


「この第一話では」


 透真さんは、かなり青い顔をしていました。


「僕は、男の子の死体ではなく、神様の死体だったのかもしれません」


「でも、人間のはずです」


 私は言いました。


「透真さんは、人間です」


「第1話のしずくさんも、知らない女の子に見えました」


「……」


「でも、神様でした」


 私は何も言えませんでした。


 この第一話の透真さんも、神様だった?


 水無月透真という神様?


 朝の神様?


 死体の神様?


 それとも、私に書かれたことで神様になってしまった男の子?


 黒瀬さんが、強く言いました。


「今は決めない」


「黒瀬さん」


「決めたら危ない。水無月さんが神様か人間か、今ここで固定したら、たぶんまた何か死ぬ。だから保留」


「はい」


「でも、水無月さん」


 黒瀬さんは透真さんを見ました。


「人間側に引っ張るから」


 透真さんの目が少し揺れました。


「はい」


「しずくさんも」


「はい」


「自分が水無月さんを神様にしたかもしれないって顔で、沈まない。人間側に引っ張る」


「はい」


 私は、透真さんの手を握りました。


 ちゃんと触れます。


 温かい。


 死体ではありません。


 少なくとも、今ここにいる透真さんは温かい。


「透真さん」


「はい」


「あなたは今、ここにいます」


「はい」


「死体ではありません」


「はい」


「神様かもしれません」


「はい」


「でも、人間として手を握れます」


 透真さんは、少しだけ笑いました。


「それは、かなり雑な証明ですね」


「黒瀬さんに学びました」


「良いと思います」


 黒瀬さんが少し得意げに頷きました。


「雑な存在証明は大事」


 その瞬間、過去の第一話が揺れました。


 部屋の中央に倒れていた透真さんの死体が、雨になってほどけていきます。


 過去の私も、ノートも、雨粒のシールも、透明なコップも、すべて文字に戻っていきます。


 床に最後の一文が残りました。


 次に死ぬ神様の名前は、水無月透真。


 そして、その下に新しい文字。


 ただし、彼はまだ自分が神様だと知らない。


 黒瀬さんが言いました。


「知らなくていいこともあるけど、これは知るべきやつっぽい」


「はい」


 透真さんは、静かに頷きました。


「でも、今すぐ答えを出すのは保留で」


「よし」


 黒瀬さんはノートを閉じました。


 今度は、閉じられました。


「閉じられた」


「はい」


「勝ち?」


「暫定勝ちです」


 私が言うと、黒瀬さんは少し笑いました。


「しずくさん、暫定勝ち気に入ってきたね」


「はい。完全勝利より現実的です」


「悲しい成長だけど、正しい」


 私たちは透真さんの部屋に戻っていました。


 プリンの空き容器も、メロンパンも、卵サンドの包みも、そのままあります。


 ただ、机の上に新しい紙が一枚置かれていました。


 透明な傘の形をした紙。


 そこには、こう書かれていました。


 次に死ぬ神様の名前は、水無月透真。

 この文章を読んだ者は、彼を人間として扱う義務があります。


 黒瀬さんが、それを見て言いました。


「義務って言い方は嫌だけど、内容は採用」


「採用ですか」


 透真さんが聞く。


「採用。水無月さんを人間として扱う。ご飯を食べさせる。むせたら背中叩く。自罰に沈んだら怒る。消えかけたら掴む」


「かなり実務的ですね」


「人間扱いって、たぶんそういうこと」


 私は頷きました。


「私も採用します」


「しずくさんは?」


 黒瀬さんが聞きます。


 私は少し考えました。


「透真さんを、神様としてだけ扱いません。死体としても、主人公としても、係としても扱いません」


「うん」


「でも、その全部を見なかったことにもしません」


「うん」


「目の前にいる人として扱います」


 透真さんが、少し驚いたように私を見ました。


 私は、押し入れの雨宮透真さんの言葉を思い出していました。


 目の前にいる女の子として扱え。


 今度は、私が思います。


 目の前にいる男の子として扱う。


 神様かもしれない。

 死体だったかもしれない。

 私が書いたかもしれない。

 それでも、今ここにいる透真さんとして。


 その時、私の手のひらに通知が浮かびました。


【第26話 雨宮しずくの第一話 読了】


 その下に、新しい文字。


【第27話 私が殺した朝】


 私は息を止めました。


 私が殺した朝。


 とうとう、その言葉が来ました。


 黒瀬さんが、私の手のひらを見て、眉を寄せました。


「次、相当きつい」


「はい」


「しずくさん」


「はい」


「謝る準備じゃなくて、見る準備」


「はい」


 透真さんも言いました。


「僕も見ます」


「怖くありませんか」


「怖いです」


「はい」


「でも、僕も知らなければいけない気がします。しずくさんが僕を物語に閉じ込めたかもしれないことを」


 私は、胸元の半分剥がれたラベルを押さえました。


 雨宮しずく。


 その文字が少しだけ滲んでいます。


 でも、まだ残っています。


「私は、逃げません」


 そう言いました。


 黒瀬さんが頷きます。


「じゃあ、次も三人で」


「はい」


「あと、始まる前にメロンパン食べよう」


 唐突でした。


 透真さんが少し驚きます。


「今ですか」


「今。第27話のタイトルが重すぎるから、少し糖分入れる。しずくさんも食べる?」


「はい」


 私は頷きました。


「食べます」


 メロンパンの袋を開ける音がしました。


 かさり。


 その音は、消えた三人目の気配に少し似ていました。


 黒瀬さんは一瞬だけ手を止めましたが、すぐにパンを三つに分けました。


「三等分、雑だけど許して」


「はい」


 私はメロンパンを受け取りました。


 甘い匂い。


 意味より先に甘い。


 私は、それを忘れないように一口かじりました。


 次の朝は、苦いかもしれません。


 それでも今は、甘いものを食べてから行きます。


 人間なので。


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