第47話 暗闇の共助(池崎視点)
街灯のまばらな住宅街の坂道を登り、目的の神社の前に差し掛かった。
そこは、昼間なら地域の人々に親しまれているであろう、こじまりとした古い神社だった。だが、深夜の闇に沈むその姿は、まるで現世から切り離された異界の入り口のように静まり返っている。
私はブレーキを踏み、エンジンの振動が止まった後の静寂に耳を澄ませた。
隣の助手席で、サトウさんは外の闇を凝視したまま、シートベルトをちぎれんばかりの力で握りしめている。
「……池崎さん、本当に行くんですか。ここ、真っ暗ですよ。街灯だってあんなに遠いし、誰もいない……」
サトウさんの声はひどく掠れ、視線はフロントガラスの向こうに広がる濃密な闇に釘付けになっていた。社務所も、本殿へと続く石段も、すべてが墨を流したような闇に沈んでいる。
「ええ。手順書には手水舎の水とあります。水道水じゃダメなんです。それに、さっきの店で買ったスプレーの塩だけで儀式に臨むのは、あまりにも不安すぎますから」
私は自分に言い聞かせるように言葉を返し、さらに社務所の奥にある、わずかな生活の気配を探すように目を凝らした。
「それに、社務所か、ここからは見えない敷地の奥に、宮司さんたちが家族で住まわれているかもしれません。深夜に叩き起こすのは心苦しいですが……事情を話せば、本物の清めの塩やお守りを分けてもらえるかもしれない。ダメ元で聞いてくるつもりです」
私の言葉を聞いても、サトウさんの強張った体は解けなかった。私は後部座席に手を伸ばし、ディスカウントストアで買ったポリ容器を掴んだ。
「サトウさんは、車の中で待っていてください。すぐに戻りますから」
私がドアノブに手をかけた瞬間、サトウさんの大きな手が、私の腕をがっしりと掴んだ。
「待って……待ってください! 一人は、嫌だ……!」
その指先は氷のように冷たく、男の力とは思えないほど小刻みに震えている。彼は逃げるようにシートベルトを外し、半狂乱で助手席のドアを開けた。
「……一緒に行きます。絶対に、離れないでください」
私がポリ容器を右手に持って外に出ると、サトウさんも転がり出るようにしてついてきた。
夜の冷気が肌を刺す。街灯の届かない駐車場で、サトウさんは私の左側に立つなり、荒い呼吸を繰り返しながら、押し殺したような声で言った。
「あの……池崎さん。……手を、繋いでいてもいいですか。そうでもしてないと、俺、立っていられそうにないんだ」
成人男性が、しかも初対面に近い相手に求める提案としては異常だった。けれど、繋がっていなければこの闇に吸い込まれて消えてしまう。
そんな根源的な恐怖が彼を支配しているのだと分かり、私は左手を差し出した。彼はそれを、骨が軋むほどの力で握り締めた。
右手にはポリ容器、左手にはサトウさんの手。私たちは奇妙な繋がりを保ったまま、砂利を踏みしめて手水舎の前まで辿り着いた。
「サトウさん、一旦手を離してください。このままだと水が汲めません。二人でやった方が早いです」
「えっ、でも、一瞬でも離れたら……」
「大丈夫。二人で交互に入れましょう。その方が早く済みます。早くここを済ませて、社務所へ行きましょう」
私は努めて冷静に言った。サトウさんは喉を鳴らして生唾を飲み込み、しぶしぶといった様子で私の左手を離した。私は足元にポリ容器を置き、二本ある柄杓のうち一本を彼に握らせた。
「私が注いだら、次はサトウさん。いいですね? 始めますよ」
私が柄杓で水を汲み、容器の狭い口へ注ぎ込む。すぐさまサトウさんが、震える手で水を汲み、私の後に続いた。
チョロチョロ、ジャバッ、と、静まり返った境内に水の音だけが交互に響く。サトウさんは何かに追い立てられるように、必死に腕を動かしていた。
「……池崎さん、早く。早く。あっちの木の陰、誰か動いた気がする」
「気のせいです。狙いを定めて、こぼさないで」
交互に繰り返す作業は、思いのほか早く容器を満たしていった。
ふと、背後の林から枝が折れるような「パキッ」という音が聞こえた。
サトウさんの肩が大きく跳ね、持っていた柄杓を水の中に落としそうになる。
「い、今の音! 聞きましたよね!? 誰か、そこに……!」
「落ち着いて。ただの風です。……よし、最後の一杯、入れてください」
サトウさんが最後の一杯を流し込み、私が容器の蓋をきつく閉めると、水が満杯になったポリ容器はずっしりと重くなった。片手で提げて歩くには少々骨が折れる。
「……池崎さん、早く、早くここを離れましょう」
「待ってください。これは一旦ここに置いておきましょう。重いし、社務所へ行くのに邪魔になります。宮司さんに許可をもらってから、車へ運べばいいですから」
私は容器を手水舎の柱の陰に滑り込ませた。サトウさんは一秒でも早くここを離れたいのか、私が立ち上がるのを待たずに、私の左手を強く引き寄せた。
「水は確保できました。次は、あそこです」
私たちは意を決して、社務所の玄関へと向かった。
手水舎から社務所までは、距離にして十メートルほどだろうか。しかし、昼間なら一瞬で通り過ぎるその距離が、今の私たちには果てしなく遠く感じられた。
一歩踏み出すたびに、足元の砂利が「ザッ、ザッ」と鋭い音を立て、それが静寂を切り裂く暴力のように耳に響く。
サトウさんは私の左手を握り潰さんばかりの力で掴み、肩を縮めて私の背後に隠れるように歩いた。彼の荒い呼吸が首筋にかかり、その全身の震えが直接伝わってくる。
参道の両脇に並ぶ石灯籠の影が、月明かりに照らされて、巨大な手の指のように地面に伸びている。その影が揺れるたび、サトウさんは「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、私の手を強く引いた。
「池崎さん、今の……影が動いた……! 誰か、灯籠の裏に……!」
「見ないで。前だけ見てください。あと少しですから」
私は彼を励ましながら、闇が凝縮されたような社務所の建物へと視線を固定した。
社務所の白い壁が、闇の中でぼうっと青白く浮かび上がっている。周囲を囲む木々が風にざわめき、「サラサラ」という音が、誰かの低い囁き声のように聞こえてくる。
ようやく辿り着いた玄関先は、さらに深い闇が溜まっていた。
磨りガラスの入った古い引き戸は、冷たく、頑なに沈黙を守っている。生活の音も、明かりも、何一つとして漏れてはこない。
私は、サトウさんの震える呼吸音を背中に感じながら、空いている右手を震わせつつ伸ばした。
呼び鈴のボタンは古く、指先に伝わる感触さえもどこか非現実的だった。
意を決して、私はそのボタンを強く押し込んだ。
ジリリリリ……。
静寂を塗り潰すようなベルの音が境内に鳴り響き、サトウさんの体が、私の腕を掴みながら大きく跳ねた。




