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不在届:302号室 郵便物集積記録  作者:


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第48話 境界の杜と、身代わりの木札

 鳴り響いたベルの音は、湿った夜気に吸い込まれるようにして消えた。

 あとに残されたのは、耳の奥が痛くなるほどの静寂だ。私の二の腕を掴むサトウさんの指先が、肉に食い込むほど激しく震えている。


「池崎さん、誰も……誰も出てきませんよ。帰りましょう。もう、帰りましょうよ」


 サトウさんは半泣きで私の腕を引っ張り、懇願するように顔を覗き込んできた。その目は恐怖で血走り、大の大人が今にもその場に泣き崩れそうなほど憔悴している。


 だがその時、内側から重い鍵を外すカチャリという乾いた音が響き、引き戸が数センチだけゆっくりと開いた。


 隙間から漏れてきたのは、古い木材と、かすかな白檀の香。そして、使い古された羽織を肩にかけた、一人の小柄な老人が立っていた。


 寝癖のついた白髪が街灯の光を鈍く反射しているが、その双眸だけは、寝起きとは思えないほど鋭く澄んでいる。その身のこなしと、背後の奥にちらりと見えた神棚のしつらえが、ここを守る神職の主であることを無言で語っていた。


 老人は言葉を発するよりも先に、私とサトウさんの姿を視界に入れた瞬間、息を呑んで絶句した。その鋭い視線が、私の隣で震えるサトウさんを通り越し、私、池崎の顔に釘付けになる。


「……あんた、自分が今、どんな影を引き連れているか分かっているのか。うちのような小さな社で、手に負える代物じゃない」


 その言葉が響いた瞬間、私の左腕を締め付けていたサトウさんの手が、弾かれたように離れた。


 サトウさんは顔面を土気色に変え、氷ついたように硬直した。自分たちには何も見えない。けれど、目の前の専門家には、はっきりとそれが見えている。その事実が、サトウさんから一切の余裕を奪い去った。


 だが、そのフリーズは一瞬だった。自分をここまで連れてきてくれた唯一の頼みの綱である私が危険だと言われても、彼は私から離れることなどできなかった。サトウさんは泣きそうな顔で震える右手を再び伸ばし、私の腕を先ほどよりもさらに強く掴み直した。


「……上がりなさい。外に置いておくわけにもいかん」


 案内された板間の奥。石油ストーブが微かに音を立てる部屋で、私はこれまでの経緯を手短に説明した。ただの勘違いからこの怪異の連鎖に巻き込まれたこと、そして道中でサトウさんと出会ったこと。


 宮司はサトウさんの持つ手順書を震える指先で受け取り、食い入るように見つめた。


「そうか。そのようなことが……。この手順書、私にも読める。……いいか、よく聞きなさい。今夜はここで寝ていきなさい。その土地に今の時間帯に行くのは、死にに行くようなものだ」


 宮司は傍らに置いてあった古い黒電話の受話器を取り、力強い手つきでダイヤルを回し始めた。


「もしもし、夜分にすまん。……ああ、客が来た。少々、厄介なやつだ。親戚の者を集めてくれ。今夜は、少し社の守りを固めねばならん。それと、息子夫婦も起こせ。奥の広間を清めるんだ」


 電話を切るやいなや、社務所の中が俄かに慌ただしくなった。


 宮司の息子夫婦と思われる男女が、白い装束を羽織って現れ、無言で広間の四隅に盛り塩を置き、古い御札を貼り替えていく。さらに、近所に住んでいるという親戚の男たち数人が、法被を羽織り、手に数珠や錫杖を持って次々と駆けつけてきた。


「あんたはもう、精神の境界がガタガタだ。寝て気力を戻さねば、現場に着く前に食い破られるぞ」


 用意された布団は二つ。サトウさんは、私の布団を自分の布団のすぐ隣まで強引に引き寄せ、隙間がないほど密着させると、何も言わずに潜り込んだ。


 隣の部屋からは、宮司と集まった親戚たちの低い祝詞が重なり合って聞こえてくる。時折、屋根の上でパシッと家鳴りのような不気味な音が響くたび、サトウさんの体がビクンと跳ねるのが伝わってきた。私はその音を聞きながら、泥のように深い眠りへと沈んでいった。


 翌朝。

 鳥の囀りで目が覚めた時、昨夜の重苦しさが嘘のように、体は軽くなっていた。居間に向かうと、そこには一晩中祈り続けてくれた宮司と親戚の方々が、真っ白な顔で座り込んでいた。


「宮司さん、皆様……本当に、ありがとうございました」


 私が深く頭を下げると、サトウさんも私の後ろで何度も頭を下げた。宮司は疲労を滲ませた顔で頷き、お盆に乗せられたいくつかの包みを差し出した。


「これを持っていきなさい。清めの塩とお神酒、それと……これは身代わりの護符だ」


 和紙に包まれた塊と小瓶、そして朱色の文字が躍る厚みのある木の板。

「あの、お代は……いくらお支払いすればよろしいでしょうか」


 私が財布を取り出そうとすると、宮司はそれを手で遮った。

「金はいらん。こんなものを売るわけにはいかん。……気休めにしかならんかもしれんが、ないよりはマシだろう」


 宮司は私とサトウさんの背中に向けて、鋭く火打石を鳴らした。


 私たちは、手水舎の柱の陰から回収したポリ容器の水を積んだ車に乗り込み、決戦の地へと向けてアクセルを踏んだ。


 助手席のサトウさんは、まだ魂が戻りきっていないような顔で護符を握りしめ、窓の外を流れる景色をじっと見つめ続けていた。

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