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不在届:302号室 郵便物集積記録  作者:


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第46話 夜の調達(池崎視点)

 サトウさんは、私が読み上げた手順書の内容を聞き、まるで心臓を直接掴まれたかのような顔をしていた。恐怖と困惑が混ざり合い、青ざめた肌がファミレスの白い照明に照らされて、より一層病的な色味を帯びている。


 しかし、もはや迷っている時間はない。この再配達という不可解な怪異を止めるためには、正体不明の古い手順書に記された儀式を完遂するしかないのだ。


「清めの塩、真新しい手鏡、手水舎の水、数珠、お神酒……」


 私は手順書の歪んだ文字の上を指でなぞり、唱えるように一つずつ項目を確認していく。深夜のファミレスという、かつては平和の象徴だった場所で、こんな呪術的な供物を揃えようとしている自分たちが、現実から切り離された悪夢の住人になったかのような錯覚を覚えた。


「手水舎の水は、どこかの神社に寄るとして。数珠は、俺の家にあったはずなんですけど」


 サトウさんが震える声で呟いた。だが、その言葉とは裏腹に、彼の体は椅子に縫い付けられたように動こうとしない。みるみるうちに表情が強張り、泳ぐ視線は机の一点を見つめたまま固まっている。自分の家という、本来ならば世界で一番安全な場所であるはずの空間を、彼は今、地獄の入り口であるかのように激しく拒絶していた。


 一体、あの場所で何が起きたのだろう。ただ数珠を取りに帰る。そんな日常の些細な行動すら、今の彼にとっては死刑執行の場へ戻るような絶望を伴うものなのだ。


 そんなサトウさんに、「では今から貴方の家に取りに行きましょう」などという言葉は、残酷すぎて口にできなかった。出会ったばかりの彼の事情をすべて知っているわけではない。


 けれど、今この瞬間、彼を一人にしてはならないことだけは、肌に刺さるような直感で理解できた。私はあえて彼の異常な怯え方には深く触れず、努めて落ち着いたトーンで言葉を続けた。


「この時間では仏壇店は開いていません。でも、24時間営業のディスカウントストアなら、お神酒や手鏡、数珠の代わりになるようなものくらいは置いているはずです。まずはそこへ向かって、今揃えられるものをすべて集めてしまいましょう」


 私が提案すると、サトウさんは憑き物が落ちたように小さく息を吐き、目に見えて肩の力を抜いた。やはり、彼は自分の家へ近づくことを死ぬほど恐れている。その怯え方は、初対面の私から見ても尋常なものではなかった。


「近くの駐車場にカーシェアがあるみたいです。今、アプリで予約を入れました。私が運転しますから、行きましょう」


 スマホの画面を操作して手早く予約を確定させると、サトウさんは驚いたように私を見たが、すぐに消え入りそうな声で「すみません……お願いします」と頭を下げた。


 彼の顔には、幾晩もまともに眠っていないような色濃い疲労と、底知れない恐怖が泥のようにこびりついている。せめて車の中だけでも、彼を少しでも休ませてあげたかった。


 私たちは支払いを済ませてファミレスを出ると、冷たい夜気に包まれた。

 二十二時を過ぎた街は、数時間前までの賑わいが嘘のように静まり返っている。街灯の光が届かない建物の隙間は、粘りつくような深い闇に満ち、そこから得体の知れない何かがこちらを窺っているような不気味さを漂わせていた。


 駐車場に停められた指定のコンパクトカーをアプリで解錠し、運転席に乗り込む。エンジンをかけた瞬間、鋭いヘッドライトの光が前方の闇を乱暴に切り裂いた。私はハンドルを握りしめ、アクセルを踏み込んだ。


 辿り着いた深夜の大型ディスカウントストアは、無機質な蛍光灯の光が広大な店内に溢れ、かえってその明るさが非現実的で空虚に感じられた。


 私は足早に棚を回り、お神酒用の日本酒と、埃一つない真新しい手鏡、そして法要関連の隅で見つけた簡易的な数珠を買い物カゴに投げ込んだ。さらに、手水舎の水を入れるための清潔なポリ容器も確保する。カゴの中で瓶同士がカチリと音を立てるたび、心臓が跳ねた。


 だが、一番の問題は清めの塩だった。調味料売り場の食塩では、どうしても儀式を支える力がないように思えてならない。必死に店内を歩き回り、ようやく健康雑貨のコーナーで見つけたのは「お清めの塩配合」と書かれた浄化用のルームスプレーだった。


「これで……代用できるのかな」


 私は棚の前で立ち尽くし、そのボトルを凝視した。手順書にある「塩」そのものではない。けれど、深夜のこの状況で他に手立てはないのだ。何もしないよりはましだと自分に言い聞かせ、祈るような思いでそのスプレーをカゴに入れた。


「池崎さん、次は神社ですね」


 レジを済ませて車に戻ると、サトウさんが地図アプリを指し示しながら言った。目的地が決まったことで、彼の声にはほんの少しだけ生気が戻ったように感じられた。


 私は再びハンドルを握り、車を走らせた。

 残るは手水舎の水、そして本物の清めの塩だ。


 深夜の神社に人がいる可能性は極めて低い。けれど、もし住み込みの宮司さんがいるのなら、なりふり構わず事情を話し、神域の塩を分けてもらえないか交渉するつもりだった。不審者として通報されるリスクも、深夜に叩き起こす非礼も承知の上だ。今の私たちには、神の慈悲という不確かな細い糸に縋る以外、生き残る道は残されていなかった。


「この先を曲がったところに、小さな神社があるはずです」


 ルームミラーを何度も確認するが、幸い、あの無人の軽トラックがついてきている様子はない。だが、窓の外を流れていく夜の闇は、街を飲み込むようにその深さを増していた。私たちは、かすかな希望を握りしめたまま、静まり返った深夜の街を突き進んだ。

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