第43話 受け継がれた手順書(サトウ視点)
数年前、じいちゃんが死ぬ一週間前のことだ。病室のシーツと同じくらい白くなった顔で、じいちゃんは一冊の黄ばんだノートを俺に押し付けてきた。
ボロボロの表紙に、震える筆跡で書かれた『手順書』なんていう大層なタイトル。それを見た俺は、内心「じいちゃん、最期に中二病でも発動させたのか?」と鼻で笑っていた。
「いつか、お前にこれが必要な時が来るかもしれない。……捨てずに持っておけ」
真剣すぎる、どこか何かに怯えるような眼でそんなことを言われたが、当時の俺には「じいちゃんがボケて夢に見た、怖い話のメモ」くらいにしか思えなかった。二十代後半にもなって、今さら呪いだの儀式だのを信じるほどピュアじゃない。
ただ、オカルト系の掲示板にでも晒せばいい話のネタになるし、適当にブログにでもアップして、匿名ユーザーたちの反応を楽しもう。その程度の、不謹慎で軽い好奇心が、俺の動機のすべてだった。
実際、ブログを立ち上げてからは数年間、何一つ不気味なことは起きなかった。
社会人になり、日々の仕事に忙殺されるようになれば、あんなものは老人の妄想だったと片付けてしまう。管理パスワードどころか、ブログという存在そのものを、俺はとうの昔に記憶のゴミ箱へ放り込んでいた。
……なのに。
スマホの画面に躍り出た一通の通知が、その数年分の油断を木端微塵にぶち壊した。
『話があります。至急返信をください。私も……もう、届いてしまったんです。手順書の中身を教えてください。お願いします』
池崎という見知らぬ名前。「届いてしまった」という、じいちゃんの遺言と嫌な形でリンクする不吉な言葉。
じわり、と嫌な汗が背中を伝う。俺は吸い寄せられるように、記憶の底に沈んでいたブログの管理画面を叩いた。ログインなんてできるはずがない。どこかでそう高を括っていたのに、入力欄をタップした瞬間、ブラウザの自動補完機能が、数年前のパスワードをヌルリと呼び出した。
……ログインできてしまった。まるで、ずっと俺がここに戻ってくるのを、闇の中で待っていたかのように。
その瞬間、スマホの画面が激しく明滅し、一通の新着通知が突きつけられる
件名:なし
本文:403号室:松村・吉田様。再配達の受付を完了しました。
「……は? 松村、吉田? 誰だよこれ。悪質ないたずらか?」
画面に並ぶ無機質な名前に、一瞬、呆気にとられた。
再配達。配送業者のミスメールか何かか。つまり、この「松村」と「吉田」という人物が、今、どこかで荷物を待っているということだろうか
心当たりなんて一つもない。だが、思考を巡らせるうちに、ふと思い出した。そういえばじいちゃんが入院する前、やけに「玄関」を気にして怯えていたことがあったな……。
誰もいないはずのドアの向こうを確認しては、ガタガタと震えていたじいちゃん。あの記憶が、この最悪なタイミングで、鮮明に脳裏をよぎった。
今は一軒家に一人きりだ。両親は結婚記念日の旅行中で不在。妹も自立して家を出ている。
広いはずの家が、急に狭い檻になったような感覚に襲われる。静まり返った家の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく、速く、耳の奥で鳴り響く。
……なんだか、猛烈にぞくっとした。
俺は逃げるように、池崎さんへメッセージを打ち込んだ。ブログ経由のやり取りじゃまどろっこしい。LINEの方が早くやり取りできるはずだ。相手がまともな人間かもわからないが、今の俺には、藁にも縋る思いで自分のIDを書き添えて送信するしかなかった。
送信ボタンを押し、池崎さんからの反応を待つ。
静寂が耳に痛い。スマホの画面を凝視しながら、浅い呼吸を繰り返していた、その時だった。
――ガタッ。
玄関の方から、明らかな物音がした。
ただのラップ音か。それとも、あのドアの向こうに「誰か」が立っているのか。じいちゃんを怯えさせていた何かが、ついに俺のところまで辿り着いてしまったのか。
俺はたまらず、本棚の隅で埃を被っていたあの『手順書』を引っ張り出した。じいちゃんは「俺に必要がある時が来るかも」と言っていた。それが今なのかもしれない。
震える手で、無理やり1ページ目を開く。
だが、そこに並んでいたのは、あまりにも達筆というか、執念がこもった殴り書きに近い走り書きだった。俺には、一部しか判別できない。
他のページをめくれば、何かヒントがあるかもしれない……。だが、指が動かない。これ以上このノートをめくるのが、言葉にできないほど恐ろしかった。もし、この次のページに、とんでもないことが書いてあったら?
ひりつくほどに喉が渇いた。唾を飲み込んだその瞬間、スマホが激しく震えた。
池崎さんだ。
俺が送ったID宛に、彼女から連絡が届いた。




