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不在届:302号室 郵便物集積記録  作者:


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第42話 私だけが、ブレている(池崎視点)

【前夜 19:55 板穂駅 ホーム】


 夜の冷気が、全力疾走で火照った体に容赦なく突き刺さる。


 改札を抜ける際、背後に誰かが立っているような気がして何度も振り返ったが、そこには自動精算機の無機質な光が冷たく辺りを照らしているだけだった。

 

 滑り込んできた上り電車に、逃げ込むように飛び込む。

 プシュー、という乾いた音と共にドアが閉まった瞬間、ようやく肺に溜まっていた熱い空気を吐き出した。


 ――助かった。


 車内にはまだ帰宅途中のサラリーマンや学生が数人座っている。その「日常」の光景に、激しく打っていた心臓が少しずつ落ち着きを取り戻していく。私は車両の隅、連結部近くの席に深く腰を下ろし、震える手でスマホを取り出した。


 池崎:『今、電車に乗りました。1時間半後には着くと思います』


 サトウ:『了解です。今から家を出ますね。駅前のファミレスで待ってます。あそこならこの時間でも人が多いですし』


 サトウさんからの返信を確認し、私は安堵と共にふと顔を上げた。

 ……けれど、そこで奇妙な感覚が背筋を撫でた。


 まだ20時を回ったばかり。都心から地方へと向かうこの路線は、残業帰りや飲み会帰りの客で、むしろ座席が埋まっていてもおかしくない時間帯だ。現に、ホームには電車を待つ人影がいくつも見えていた。


 それなのに、駅に停まるたび、乗客たちは吸い込まれるように次々とホームへ降りていく。不自然なのは、代わりに乗ってくる客が一人もいないことだ。


 開いたドアの向こう、ホームで並んでいたはずの人々は、なぜか私が乗っているこの車両を避けるように、隣の車両へと足早に移動していく。まるで、この空間だけが何か致命的な汚れに浸食されているのを、本能的に察知しているかのように。


 気づけば、この車両に乗っているのは私と、目の前で深くうつむいて寝ている中年男性の二人だけとなってしまった。


 広い車両に、走行音だけがやけに空虚に響き始める。


 窓の外は街の明かりが疎らになり、底の見えない深い闇が支配し始めていた。

 不安を紛らわそうと再びスマホに目を落としたが、電波の状態が悪い場所ではないはずなのに、アンテナのマークが一本、また一本と、力尽きるように消えていく。


「……カ、サッ」


 静寂を切り裂いて、乾いた音が聞こえた。


 心臓が跳ねる。音のした方――連結部のドアの隙間に視線を走らせる。

 そこには、床に落ちた誰かの忘れ物らしきフリーペーパーが、車両の揺れに合わせて小さく跳ねていただけだった。

 

「……気のせい。大丈夫、大丈夫……」


 自分に言い聞かせるように呟いた直後、再びスマホが震えた。


 サトウ:『今ファミレスに着きました。席確保しました。さっき言った手順書の1ページ目、送ります。今のうちに見ておいてください』


 続いて送られてきた一枚の画像。


 私は祈るような心地でそれをタップして表示させた。……だが、画面に映し出されたのは、あまりに激しくブレていて、文字の形すら判別できない白黒の染みの塊だった。まるで、カメラを振り回しながら撮ったような、あるいは、レンズの向こうで何かが激しく悶えているような。


 池崎:『写真、ありがとうございます。でもこれ、かなりブレてて文字に見えないです。もう一度撮り直してもらえませんか?』


 すぐに既読がついた。


 サトウ:『え? ブレてないですよ。今、注文取りに来た店員さんにも見てもらったけど、ブレてないって言ってました。……池崎さん、液晶が割れてるとかじゃないですよね?』


 背筋に冷たい氷を押し当てられたような衝撃が走った。

 店員にも見せて、確認までしている。サトウさんの手元にあるのは、まともな写真なのだ。


 なのに、私のスマホに映るそれは、何度開き直しても激しくブレていて、何一つ読み取ることができない。


 その時。


「……マツムラ……ヨシダ……」


 向かいの席から、低く掠れた、湿った声が聞こえた。

 びくりとして顔を上げると、寝ていたはずの中年の男が、うつむいたまま口をごもごもと動かしている。


「……ヨシダ……マツムラ……ヨシダ……」


 ただの寝言にしては、あまりに一定のトーンで、呼吸をするのと同じ自然さで、その二つの名前だけを執拗に繰り返している。


 車両のスピーカーから、プツプツと不快なノイズが漏れ出した。

 ガタン、と電車が大きく揺れ、車内の蛍光灯が一瞬だけ、不気味に瞬く。

 

 サトウさんの手元ではブレていないのに、私にはブレているようにしか見えない。

 私と彼の間に、取り返しのつかない認識のズレが生じ始めている。

 

 逃げ出したい。けれど、ドアの向こう側は真っ暗な闇が流れるばかりだ。

 私は吐き気すら覚えるような不安にさいなまれながらも、冷たい座席の端を強く握りしめ、暗闇の中を突き進む電車に揺られ続けるしかなかった。

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