第41話 共有された怪異(池崎視点)
一畳にも満たない狭いブース。空調の微かな風が、冷や汗をかいた項にまとわりつく。
私はリクライニングチェアの隅に身を寄せ、ドア下の数センチの隙間を凝視していた。
さっき聞いた店員たちの声が、呪文のように頭の中にこびりついて離れない。あの汚れた紙が、今この瞬間も音もなく滑り込んでくるのではないか。そのイメージが現実を浸食し、心臓が喉元までせり上がる。
だが、何も来ない。
沈黙が、かえって私を逃げ場のない箱の中に閉じ込められている事実に直面させた。
――ピコン。
不意に手元のスマホが震えた。ブログの管理人、サトウからの返信だ。
『サトウです。ブログのメッセージ、見ました。
……正直、めちゃくちゃビビってます。あなたのメッセージを読み終わった直後に、ブログ経由で通知が来たんです。
件名は「403号室:松村・吉田様」。本文は「再配達の受付を完了しました」っていう、不気味な内容のやつ。
祖父の話を面白半分で書いてきた罰が当たったのか……正直、一人でこれ以上考えるのは限界です。
ブログ経由だと不便なんで、こっちでやり取りしませんか?』
添えられたID。私を疑う余裕すらなく、自分自身に起きた異変に怯えきっている短い文面。
現在地を捕捉され、追い詰められた私が彼に助けを求めてしまった。そのせいで、私が中継地点となり、サトウさんの平穏まで怪異のルートに繋いでしまったのだ。私の絶望が、ブログのメッセージ経由で彼へと感染していく。
私は震える手でアプリを切り替え、彼を追加した。
「ブログから連絡した池崎です。助けてください」
なりふり構わずメッセージを送ると、一秒と置かずに既読がついた。
サトウ:『追加ありがとうございます。……さっき、勇気出して手順書の表紙だけめくりました。1ページ目に祖父の走り書きがあるんですけど、変に達筆すぎてなんて書いてあるかところどころしか読めないんです。
飛ばし読みしただけでも、ろくなことが書いてないのだけは分かります。でも、今の状況を止める方法が書いてあるとしたら、この先だけなんです。
ごめんなさい、これ以上は怖くて一人じゃ絶対に読めません。……池崎さん、今から会えませんか。一緒にこれの内容を確かめてほしいんです』
サトウさんからの、悲鳴のような協力依頼。
私も同じだった。このまま一人で、この薄い壁の中で過ごすのはもう耐えられそうにない。相手が一度も会ったことのない男だとしても、誰かが側にいてくれるのなら、それだけで救われる気がした。
「今から向かいます。場所を教えてください」
そう打ち込んで送信した直後、目の前のPCモニターが一度だけ強く点滅し、歪な文字列が浮かび上がった。
『403号室 松村様 吉田様。再配達の準備が整いました。到着予定時刻は、5分後です』
――5分後。
「……っ!」
私はバッグをひったくると、鍵を開けてブースを飛び出した。
通路を駆け抜け、フロントへ向かう。心臓の音がうるさすぎて、自分の足音すら遠くに聞こえた。
自動精算機の前に立ち、震える手で伝票を読み取らせる。処理を待つ数秒が永遠に感じられた。
ふと視線を感じて顔を上げると、カウンターの奥で、少し顔の青い男性店員と、不安そうな表情をした女性店員が、こちらをじっと見つめていた。
何かを言いたげに、けれど関わりたくないという恐怖が勝っているような、そんな視線。
彼らにも見えているのかもしれない。私が今、何を「引き連れて」ここから出ていこうとしているのか。
精算を終えると同時に、私は逃げるように自動ドアを抜けた。
背後のネットカフェから、冷たい空気が追いかけてくる気がして、一度も振り返らずに夜の街へ駆け出す。
スマホに届いたサトウさんの指定駅は、ここから電車で一時間半ほどかかる場所だった。
時刻は19時43分。
夜の駅で待ち受けるのは、希望か、それともさらなる絶望か。
サトウさんの持つ解読不能な手順書だけを頼りに、私は走り続けた。




