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不在届:302号室 郵便物集積記録  作者: ちぱ


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第35話 四階からの脱出

 賢人の指先が、その小さな紙の切れ端に触れた瞬間、心臓が跳ね上がった。


 お守りの中に、こんなものが入っているはずがない。内符を包む薄紙でも、祈祷済みの木札の一部でもない。その、ざらりと乾燥した安っぽい更紙の質感は、紛れもなくあの不在票のそれだった。


「……おい、賢人? どうしたんだよ」


怪訝そうに顔を覗き込んできた大樹が、賢人の手元を見て絶句した。


 黒く焦げた糸屑と、粉々になった木札の灰。その中に、不自然に白い、角の欠けた紙の破片が混じっている。そこには、掠れた黒いインクで『……取不能』という文字の一部が、嘲笑うかのように印字されていた。


「なんで……。なんでお守りの中に、これが入ってんだよ……!」


大樹の声が裏返る。

 それは、お守りが呪いを吸い取って壊れたというレベルの話ではなかった。自分たちを守るはずの聖域そのものが、内側から不在票に書き換えられ、侵食されていたのだ。


「……触るな。これ、普通じゃない」


賢人は吐き気をこらえ、ティッシュでお守りの残骸ごと、その紙切れを包み込んだ。指先に残ったあのざらつきが、皮膚の下まで染み込んでくるような不快感に襲われる。

 

「とにかく、行こう。このまま家にいたら、次が来る」


二人は競うようにして着替えを済ませた。大学の講義のことなど、もう意識の端にもない。


 賢人は、お守りの残骸を包んだティッシュを、汚物に触れるような手つきで鞄の底へ押し込んだ。捨てるのも怖かった。もしこれをゴミ箱に捨てて、その場所が配達先に指定されたらと思うと、持ち歩くしかないという結論に至った。


玄関に向かう短い廊下を歩く足音が、やけに大きく響く。

2DKの狭い空間が、今は底なしの沼のように重苦しい。


「……開けるぞ」


賢人がドアノブに手をかける。

ゆっくりと扉を開くと、そこにはただの、見慣れたマンションの廊下が広がっていた。四階の空気は、朝の冷気を孕んでひっそりと静まり返っている。


二人は顔を見合わせ、頷き合った。階段で降りる時間さえ惜しい。今は一刻も早く、この場所から離れるための速さが必要だった。


廊下の先にあるエレベーターのボタンを押し、箱が上がってくるのを待つ。表示灯が3、4と進むたびに、心臓の鼓動が耳元で跳ねるように早まった。


――ピン、という乾いた音がして、扉が開く。

 無人であることを確認し、滑り込むように中に入った。一階のボタンを押し、閉まりかけた扉の隙間から外を見るが、やはり誰もいない。


だが、エレベーターが下降を始めた瞬間、密室の中で大樹が声を殺して呟いた。


「……賢人。なんか、臭わないか?」


言われて気づく。狭い箱の中に、古い紙が湿ったような、あるいは土埃のような、ひどく粉っぽい臭いが充満していた。一階に着くまでの数秒間、表示灯を見つめる二人の呼吸は浅く、速くなった。


一階に着き、扉が開く。

 正面玄関のロビーへ足を踏み出そうとした賢人は、直前で大樹の肩を掴んで引き止めた。


「……待て」


ロビーの壁際、集合ポストの前にそれはいた。


 見慣れない制服を着た男。制服の生地は厚ぼったく、どこか数十年も前のデザインを思わせる、古臭い色褪せた紺色だ。


 男はポストの前に立ち、ゆっくりとした動作で何かを仕分けしている。帽子を深く被っているため顔は見えないが、その指先は驚くほど白く、細長かった。


男の足元には、古びた革製の大きな鞄が置かれている。

 こちらには気づいていないようだが、正面玄関から出るには、あの男のすぐ脇を通り抜けなければならない。


「……裏口から行くぞ」


 賢人は大樹に囁き、ロビーを横切るのをやめて、非常口を兼ねた裏口の重い鉄扉へと進路を変えた。


普段はゴミ出しの時にしか使わない、裏口の外は車一台がようやく通れるほどの、入り組んだ古い住宅街が広がっている。


駅へ行くには大幅な遠回りになる。だが、今は効率よりも視界から消えることが優先だった。


 扉が閉まる音が、静かな朝の住宅街に不快に響く。

 頼む、聞こえないでくれ……


賢人が祈るような心地で外へ出ると、背後で扉が閉まった。その閉まる音さえも、あのポストの前にいた男に自分たちの居場所を知らせる合図に聞こえて、賢人は肩を強張らせた。


そこには、車一台がようやく通れるほどの、入り組んだ古い住宅街が広がっていた。

 大通りに出て駅へ向かうには大幅な遠回りになる。だが、今は効率よりも「あの視線から消えること」が最優先だった。


二人は高い塀が続く入り組んだ小道へと足を踏み入れた。複雑に分岐し、どこへ繋がっているのかも判然としない路地を、早足で進む。


背後に人の気配はない。誰かがついてきている足音もしない。なのに、どこからか絶え間なく視線を感じる。塀の隙間から、あるいは古い民家の二階の窓から、誰かが自分たちをじっと監視しているような、刺すような感覚に背中が泡立った。


「……お祓い、早く……。お祓いしてくれるとこ探さねーと」


大樹が落ち着きなく何度も後ろを振り返りながら、掠れた声で漏らす。角を曲がるたびに、物陰に誰か潜んでいないか、あるいはあのバイクが止まっていないか、剥き出しの警戒心を周囲に飛ばしていた。


「賢人、急げよ! ……なんかさっきから、ずっと誰かに見られてる気がしてしょうがねえんだよ。マジで気色悪い……」


大樹の焦燥に応えるように、賢人は震える手でスマートフォンを取り出し、地図アプリを起動した。画面上の現在地を示す青い丸が、迷路のような路地の中で頼りなく揺れている。


「……わかってる、今探してる! ……あった、ここから徒歩三分くらいのところに厄払いやってる神社がある。ここを目指そう」


賢人が画面の開始ボタンを叩く。


『北西に進みます。その先、右方向です』


無機質なナビの音声が、湿り気を帯びた朝の空気の中に不自然に響いた。二人はその声に導かれるように、もつれる足で走り出した。


賢人は地図を凝視し、大樹は背後の曲がり角を睨みつける。

 ナビの指示通り、狭い十字路を右へ、さらに細い路地を左へ。


ただ、一刻も早く目的地へと辿り着きたかった。


『目的地付近です。案内を終了します。お疲れ様でした』


ナビが案内を終了したその瞬間、住宅街の影に隠れるようにして立つ、ひどく古びた鳥居が二人の目の前に姿を現した。

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