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不在届:302号室 郵便物集積記録  作者: ちぱ


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第33話 折居神社の加護

 バスが排気音を残して夜の闇に消えていくと、周囲は耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。


 折居神社の鳥居は、街灯の届かない場所に黒々とそびえ立ち、まるで巨大な口を開けて獲物を待っているかのようだった。


「……行こうぜ。早くお守り買って、ここを出よう」


 大樹が自分を鼓舞するように声を出し、砂利を深く踏みしめる。


「ああ、急ごう。……ここなら、大丈夫なはずだ」


 賢人は短く答えた。不思議なことに、鳥居をくぐった瞬間に、バスの車内であれほど二人を追い詰めていたあの「視線」が、ふっつりと途切れていた。あんなに重苦しかった空気は、神社の境内の澄んだ冷たさに一掃され、賢人はようやく肺の奥まで深く空気を吸い込むことができた。


 参道を少し進んだ手水舎の脇に、その目的のものはあった。境内の暗闇の中で、一台の自動販売機だけが、青白いLEDの光を放って浮き上がっている。


「あった……。これだろ, 賢人」


 大樹が吸い寄せられるように自販機の前に立った。賢人はその背中越しに、自販機の中に並ぶ『厄除』の文字をじっと見つめた。


「……これだ、間違いない。『24時間授与所』って書いてある。大樹、千円札はあるか?」

「ああ、持ってる。早く、これ、早く買おう」


 二人は財布から千円札を抜き取り、投入口に差し込んだ。機械が紙幣を飲み込む、ウィーンという乾いた音が夜の境内に響く。


 コトン、と軽いプラスチックの音が取り出し口に落ちた。

 大樹が弾かれたように手を突っ込み、二体のお守りを取り出した。それは、混じりけのない純白の生地に、眩い金糸で刺繍された、神々しいほどに美しいお守りだった。


「……買えた。買えたぞ、賢人!」


 大樹の声に、ようやく確かな生気が戻ってきた。


「よかった。これなら、あの不在票の気味の悪さも払えるかもしれない」


 賢人も安堵の息を漏らし、お守りを受け取った。大樹はそれを上着の胸ポケットへ、賢人は自分の鞄のストラップへと、互いにすぐ目に入る場所にしっかりと結びつけた。その白さが、自分たちを夜の闇から切り離してくれる唯一の盾に見えた。


 神社を出て、再びバスに乗り込み駅へと向かう間も、あの嫌な気配は一切なかった。駅前のロータリーは、帰宅を急ぐ人々や車のヘッドライトで溢れ、いつもの日常の風景を取り戻していた。


「やっぱり、お守りのおかげかな。全然、誰かに見られてる感じがしねえよ」


 明るい街灯の下で、大樹がお守りを愛おしそうに見つめた。だが、賢人は自分のお守りの「端」が、わずかに波打っているのに気づき、足を止めた。


「……大樹。ちょっと、止まれ」

「え? なんだよ賢人、早く帰ろうぜ」

「これ……最初からこんな色だったか?」


 賢人は自分の鞄のお守りを指先でなぞった。街灯のオレンジ色の光の下で、それはどこか濁って見えた。


「え? ……ああ、街灯の光のせいだろ。ほら、ここらへんの電球ってオレンジっぽいし。少し黄ばんで見えるだけだって。気のせいだよ」


 大樹は努めて明るい声で言い、駅からの道を早足で歩き始めた。しかし、賢人の指先には、布地のさらりとした感触ではなく、じっとりと吸い付くような、正体不明の湿り気が伝わっていた。


 賢人は大樹の背中を見守りつつ、自分のお守りから目を離さなかった。街灯の下を通り過ぎるたびに、お守りの「白」が一段ずつ階調を落とし、まるで古い写真が腐食していくような、不自然な速度で変質していく。


 二人はそのまま、逃げるように自分たちのマンションへと辿り着いた。一階の集合郵便受けを慎重に確認したが、そこにはあの一枚の不在票も、新しく届いた郵便物も入っていない。


「……入ってないな。今日はもう、終わりってことか」


 大樹が無理やり作ったような笑みを浮かべる。賢人はそれに応えず、ただ無言で大樹の胸元を凝視した。大樹が気づいていないだけで、彼のお守りの中央には、すでに指紋を押し付けたようなどす黒いシミが浮かび上がっていた。


「……ああ。じゃあ、また明日な」


 賢人はそれだけを告げ、自分の部屋へと戻った。

 扉を閉め、真っ暗な玄関で賢人は自分の鞄からお守りを外した。部屋の明かりを点けるのが怖かった。だが、点けないわけにはいかない。

 パチリ、という音とともに部屋が明るくなる。


 賢人の手の中にあったのは、もはや神聖な『厄除』の輝きを失ったものだった。

 どぶ川の水を吸い込んだような、濁った灰色。あんなに眩しかった金糸の刺繍は、今や泥にまみれた糸屑のようにどす黒く変色している。


 賢人はそのお守りを、両手で包み込むようにそっと握りしめた。


 これだけの短時間で、これほどまでに穢れる。それは、自分たちが神社を出てからここに着くまでの間、このお守りが絶え間なく何かを吸い込み続けてくれた証拠だった。


 姿も見せず、音も立てず、すぐ側まで迫っていたはずの強烈な呪いを、この小さな布切れがすべて自分たちの代わりに引き受けてくれているのだ。


 今も、この掌の中で、お守りは目に見えない何かと戦っている。

 自分たちが無事に家まで辿り着けたのは、このお守りが身代わりになってくれているからに他ならない。


「……ありがとう」


 賢人は、冷たく湿りきったお守りに向かって、ぽつりと呟いた。

 その声は自分でも驚くほど震えていたが、確かな感謝がこもっていた。

 賢人は、満身創痍の盾を枕元のサイドテーブルに安置し、祈るような心地でベッドに潜り込んだ。

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