第32話 最後尾の視線
駅前で池崎さんと別れた直後、大樹はたまらず近くの公共ゴミ箱に駆け寄った。
燃えるゴミの投入口は、パンパンに詰まった家庭ゴミの袋や使い古されたマスクが押し込まれ、今にも溢れ出しそうだ。大樹は無言のまま、丸めた不在票を指先でそのわずかな隙間に無理やり奥へとねじ込んだ。
ゴミの湿った感触が指に触れるのも構わず、二度と出てこないように執拗に押し込む。それからすぐに、近くの公衆トイレの水道へ駆け込んだ。蛇口を全開にし、石鹸で何度も何度も手を洗う。あの紙に触れた指先が、いつまでもじっとりと汚れている気がしてならなかった。
二人は逃げるようにして、やってきた路線バスに乗り込んだ。
19時を過ぎた車内は、まばらに仕事帰りの会社員が座っているだけで、ひどく静まり返っている。二人は吸い寄せられるように、一番後ろの長い座席へと腰を下ろした。
エンジン音が重く腹に響き、バスが夜の街を滑り出す。
車窓を流れる街灯の光が、交互に大樹の横顔を照らしては闇に沈める。大樹は膝の上で固く拳を握りしめていた。隣に座る賢人もまた、窓の外を見つめたまま微動だにしない。
数分が経過した頃、バスが緩やかなカーブに差し掛かった。車体が傾き、吊り革が一斉に乾いた音を立てて揺れる。
その沈黙を破ったのは、賢人の、低く抑えられた声だった。
「……大樹」
「……ああ。視線、感じるよな」
大樹が震える声で先を越すと、賢人は何も言わずに、ただ静かに頷いた。
前方の座席には、疲れた顔でスマホを見つめる数人の乗客がいるだけだ。誰もこちらを振り返らない。それなのに、自分たちのすぐ背後――バスの最後部の壁の向こうから、誰かがじっと後頭部を覗き込んでいるような、逃げ場のない感覚が車内に満ちていた。
冷房が効いているはずなのに、大樹の項には嫌な汗がじわりと滲む。
振り返ってはいけない。もし振り返って、誰もいないはずの場所に「誰か」が座っていたら。あるいは、窓ガラスに自分たちではない誰かの顔が映り込んでいたら。
『次は、折居神社前。折居神社前です』
ピンポーン、と無機質なチャイムが響く。その音に弾かれたように、大樹は逃げるように立ち上がった。
「降りるぞ、賢人!」
焦って通路へ出ようとした、その時だった。
大樹の足元に、ひらりと白い紙切れが落ちた。
「……あ」
動きを止めた大樹の足元で、それは無慈悲に表を向けていた。
ぎゅうぎゅうのゴミの隙間にねじ込み、手まで洗って清めたはずの、あの不在票。
なぜ。
あんなに深く押し込んだはずなのに。あのゴミ箱から、どうやってこの走るバスの中まで追いかけてきたというのか。
「……大樹、それ」
「……捨てそこねたんだ。さっき、ちゃんと入ってなかったんだよ。服に引っかかってたんだ。そうに決まってる」
大樹は、震える声で自分に言い聞かせた。まるで自分を騙すための呪文だ。
拾うことさえおぞましく、床に落ちたその紙を跨ぐようにして、開いたばかりのバスの扉へ飛び出す。
走り去るバスの床に、あの不在票を置き去りにしたまま。
二人は、夜の闇に沈む神社の参道へと足を踏み出した。




