第29話 無音の階段
「……今の、落ちたよな」
大樹が声を潜めて呟いた。その顔は白を通り越して土色だ。
池崎さんは嗚咽すら止めて、居室の隅で蹲っている。
三人の中で最も玄関の扉に近い位置に座っていた賢人は、無言で立ち上がった。心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打っているが、それを悟られないよう、ゆっくりと居室の扉に手をかける。
指先から伝わる木製の扉の感触が、今はひどく頼りない。
「……賢人、待て。俺が行く」
「いい。……見てくる」
賢人は大樹を制し、ゆっくりと扉を引いた。
狭いキッチンを通り、鉄扉の前へと歩み寄る。シンクの蛇口から一滴、水が滴る音さえ、爆発音のように響く静寂。視線の先には、銀色のドアポストの裏側に固定されたプラスチック製の受け箱がある。賢人がさっき、中身を空にして丁寧に蓋を閉めたばかりのその箱だ。
そのカバー越しに、白い影がひらりと横たわっているのが見えた。
「……っ」
賢人は震える指を伸ばし、受け箱の蓋を跳ね上げた。
落ちていたのは、やはりあの不在連絡票だ。
つい先ほど回収した束と同じ、あの無機質なフォント。
賢人はそれを指先でつまみ上げ、居室から漏れる光にかざした。
「……賢人、なんて書いてある?」
部屋の入り口から、大樹が恐る恐る声をかける。賢人はその問いに、すぐには答えられなかった。不在連絡票の「ご訪問日時」の欄。そこには、ボールペンで書き殴ったような生々しい筆跡で、こう記されていた。
「4月13日 18時45分」
賢人は、もう片方の手でスマホの画面を点灯させた。
表示された時刻は、18時46分。
「……さっきだ。あの音がした、その瞬間の時刻が書いてある」
賢人の声が掠れる。つい一分前、この鉄扉のすぐ向こう側に誰かがいた。このアパートは壁も薄く、階段を登る音や廊下を歩く音は嫌でも聞こえてくる。なのに、何も聞こえなかった。
賢人は意を決して、ドアに付いた小さなレンズ――ドアスコープに目を押し当てた。
……誰もいない。
魚眼レンズ越しに歪んだ外廊下の景色が、街灯に照らされてぼんやりと浮かんでいるだけだ。
その時、静寂を破って、階段を登る確かな金属音が響いた。
三人が息を呑む。やがて、くたびれたスーツを着たサラリーマンが、201号室の前を何食わぬ顔で通り過ぎ、隣の部屋へと入っていった。ドアが閉まり、鍵をかける音が聞こえる。
賢人はたまらず玄関の鍵を開け、外の廊下へ飛び出した。
唯一の出口である鉄製の階段へ駆け寄り、身を乗り出して一階の入り口を凝視する。だが、そこには誰もいなかった。街灯に照らされたアスファルトの上にも、建物の影にも、動くものは何一つない。
耳を澄ませても、夜の住宅街に響くはずのバイクの排気音や、走り去る車のエンジン音すら聞こえてこない。
そもそも、おかしい。
あの「ガチャン」という音がする前に、この錆びついた階段を一段ずつ登ってくる足音も、廊下を歩く気配も、一切しなかったのだ。まるで最初からドアの前に立っていて、音を立てずに待ち構えていたかのように。
そして音がしてから賢人がドアを開けるまでの、わずか一分足らずの間。この階段を一段も鳴らさずに降り、乗り物の音もさせず、音もなく現れ、音も立てずに去っていく。
生きている人間には不可能だ。
賢人は、手の中にある「4月13日 18時45分」の不在票を、指が白くなるほど強く握りしめた。




