第28話 音のない投函者
「池崎さん。……あなたの家、今から行ってもいいですか」
賢人の提案に、池崎さんは一瞬怯えたように肩を震わせた。マンションのロビーの外はまだ夕暮れの色を残しているが、ここから離れた自分の家まで、一人で戻る恐怖が勝ったのだろう。彼女は力なく頷き、先頭に立って歩き出した。
二人のマンションから最寄り駅まで歩き、そこからバスに乗り込む。夕方の混雑が引き始めた車内で揺られている間に、窓の外の景色は急速に色彩を失っていった。5つ目の停留所で降りる頃には、空はすっかり夜の闇に塗り潰されていた。
そこから街灯の間隔が広く、人影もまばらな古い住宅街を6分ほど歩くと、目的地のアパートが見えてきた。築年数を感じさせる鉄骨造りの二階建て。錆びついた階段を一段登るたびに「ギィィ……」と耳障りな金属音が夜の静寂を切り裂き、足の裏から古びた建物の嫌な振動が伝わってくる。
二階の角、201号室の前に立った時、三人は言葉を失った。
茶色く変色した鉄扉の真ん中に設置された銀色のドアポスト。その隙間から、数枚の白い紙がだらりと舌を出すように外へ向かってはみ出していた。大樹がそれを一枚ずつ抜き取ると、池崎さんは震える手で鍵を開け、逃げ込むようにドアを押し開けた。
「……お願い、早く入って直ぐに閉めて。近所の人に見られたら変な風に思われるし、何より、外に誰かいたら……」
切羽詰まった池崎さんの言葉に、賢人と大樹は顔を見合わせた。いくら異常事態とはいえ、一人暮らしの女性の部屋に男二人が上がるのは流石に躊躇いがある。
「え、あ……お邪魔します」
「……失礼します」
二人は少し気まずそうに、しかし背後の闇を振り払うようにして、狭い玄関に足を踏み入れた。すぐ横には小さなシンクとコンロがあり、一人暮らしの生活感が漂っている。賢人の視線が、ドアの裏側に固定されたプラスチック製の受け箱に向いた。白濁としたカバーには、池崎さんが何度も中を確かめたのであろう無数の指紋の跡がべったりと付着している。
「……池崎さん。これ、中も確認していいですか?」
賢人が指差すと、彼女は幽霊でも見るような目で頷いた。賢人が受け箱の蓋を開けると、そこには案の定、折り重なった白い束が何層にもなって横たわっていた。賢人はそれらをすべて掴み出すと、パチンと音を立てて丁寧に受け箱の蓋を閉めた。
三人はそのまま奥の居室へと入り、賢人は最後に居室の扉をしっかりと閉めた。1Kの限られたスペースに男二人が入ると、部屋は一気に窮屈な熱を帯びる。
「……適当に座って。お茶とか出せないけど」
池崎さんはそう言い捨てると、床に置かれたクッションを二人に勧めた。二人は肩を窄め、居心地の悪さを感じながら、部屋の真ん中にある小さなローテーブルを囲んだ。賢人は回収した不在票をテーブルの上に広げた。
「……池崎さん。もしかしたら、俺たちが、あなたを巻き込んでしまったのかもしれません」
賢人は、数週間前にフリマアプリ「メルノリ」で届いたあの不気味な茶封筒の話を始めた。
「あの資料を面白半分で読んでから、俺たちの周りでこれが始まったんです。最初はただの悪質ないたずらだと思ってました。でも、池崎さんが俺たちの部屋を覗いたあの日から、あなたのところにも届き始めた。ターゲットはあくまで俺たちで、あなたはそこに巻き込まれただけなんだと思うんです」
池崎さんは顔を覆い、すすり泣き始めた。狭い部屋に、彼女の嗚咽が低く響く。
その時だった。
ガチャンッ。
静まり返った部屋に、鋭い金属音が響いた。
音は、閉め切った居室の扉の向こう側――玄関の方からだ。
三人の身体がびくりと跳ねる。賢人が先ほど確かに閉じたはずの、ドアポストの受け箱。その奥にある金属の内蓋が跳ね上がった音だ。
このアパートは壁が薄い。他の住人が帰ってくれば、階段を登る金属音や廊下を歩く足音が嫌でも聞こえてくるはずだ。しかし、今はその予兆が一切なかった。
三人は呼吸を止め、閉ざされた扉の先にある、あまりにも静かすぎる玄関の気配に耳を澄ませた。




