第26話 増殖する不在票
翌朝、昨夜の緊迫感が嘘のように、廊下は何事もなく静まり返っていた。賢人と大樹は寝不足の目をこすりながら大学へ向かい、一日の講義を終えて夕方に帰宅した。
「……ん、なんだこれ」
一階の集合郵便受けを開けた大樹が、怪訝そうに数枚の紙を取り出した。
それは、宅配便の不在連絡票だった。
「403号室……宛名は、俺と賢人の連名になってるぞ」
賢人が横から覗き込む。確かに自分たちの名前が記されているが、二人とも何かを注文した覚えなど一切ない。
「心当たり、ないよな?」
「ああ。……何かの間違いだろ。気味悪いし、捨てとこうぜ」
二人はその不在票を、郵便受けのすぐ横にあるチラシ用のゴミ箱へと放り込み、自分たちの部屋へと上がった。
しかし、それは一度きりではなかった。
翌日も、その翌日も。帰宅するたびに403号室のポストには、二人宛の不在票が数枚ずつ、執拗に差し込まれていた。差出人の欄は空白だったり、見たこともない会社名が並んでいたりする。その都度、二人は不気味さを振り払うように、それらをチラシと一緒にゴミ箱へ捨て続けた。
三日後の夕方だった。
マンションの入り口に、見覚えのある人影が立っていた。池崎だった。
彼女は片手に白いレジ袋を提げ、ひどくやつれた顔で地面を凝視していたが、二人の姿を認めた瞬間に弾かれたように顔を上げた。
「……ちょっと、待ちなさいよ」
掠れた、しかし芯のある声だった。彼女は震える手でレジ袋を握りしめ、静かな怒りを湛えた目で二人を見つめた。
「……確かに、この前のことは悪かったと思ってるわよ。あなたたちを疑って、結衣ちゃんが引っ越してないと思い込んで……あんな風に、勝手に部屋の中にまで入っちゃったんだし。怖がらせたのは私の方だって、それは分かってるわ」
池崎さんは一度言葉を切り、苦しそうに喉を鳴らした。その瞳には、怒りよりも深い困惑と、隠しきれない怯えが滲んでいる。
「でも……だからって、こんなことしなくてもいいじゃない。わざわざ私の家を突き止めて、こんなことしなくても……っ。やりすぎよ。もう、たくさんなの」
「……何のことだよ。俺たちは何も――」
大樹が言い返そうとしたが、池崎さんがレジ袋の中に手を突っ込み、その中身を無理やり掴み出したのを見て、言葉を失った。
それは、カサカサと乾いた音を立てて溢れ出す、大量の紙の束だった。
「これ……全部そうよ! 私の家の郵便受けに、毎日毎日……!」
彼女の手からこぼれ落ちそうになっているのは、二人が一階のゴミ箱へ捨てたはずの、そして二人の名前がはっきりと記された「403号室宛の不在連絡票」だった。
「なんであなたたちの名前の紙が、私の郵便受けに山ほど入ってるのよ……。捨てても捨てても、翌朝にはまた増えてるの。郵便受けを開けるのがもう怖くて……。あなたたちが、嫌がらせで入れに来てるんでしょ?」
池崎さんの目は、恐怖で血走っていた。
自分たちの名前入りの不在票が、なぜか池崎さんの住む別の場所へ届き、彼女を追い詰めている。
その異様な光景に、二人は反論の言葉を失い、冷たい夕闇の中でただ立ち尽くすしかなかった。




