第24話 誰もいない廊下
「……いない」
賢人はスコープに目を押し当てたまま、呆然と呟いた。
「いない……どこにも、いないんだ」
「……そんなはずねえだろ! 確かにいたんだよ、賢人! 真っ直ぐ……覗いてたんだ!」
三和土に座り込んだままの大樹が、必死に訴える。その声は震え、恐怖で顔を引き攣らせていた。大樹が嘘をつくような奴ではないことは、賢人が一番よく分かっている。大樹がそこまで言うなら、さっきまで確実に「誰か」がそこにいたのだろう。
だが、何度瞬きをして覗き直しても、魚眼レンズの向こう側には静まり返った廊下が続いているだけだった。何かが逃げ去る足音も、気配もない。
「……いないんだよ、大樹。本当に、何も」
「嘘だ……」
大樹の目は、恐怖と混乱で血走っていた。自分の見た「現実」と、賢人が告げる「現実」の食い違いに、大樹自身も崩れそうになっている。
賢人は、このままでは埒が明かないと悟った。そこに誰もいないのかを確かめるには、このドア一枚の隔てをなくすしかない。
「……分かった。……俺が、直接見てくる」
「……は?」
賢人がドアガードに手をかけると、大樹が息を呑んだ。
「おい、待て! お前、何考えてんだよ! 開けんな、そこにまだ隠れてるかもしれないんだぞ!」
「大丈夫だ。……いないことを、ちゃんと確かめるから」
賢人は大樹を安心させるように、短く、静かに言った。大樹を信じているからこそ、彼を怯えさせている元凶がどこへ行ったのかを見極めなければならない。
カチャ、と重々しい音を立てて、ドアガードが外れる。
賢人は一度、深く息を吐いた。そして、ドアノブをしっかりと握り、一気に外側へと押し出した。
「……っ!」
大樹が悲鳴を呑み込み、三和土の上でさらに後ずさる。
勢いよく開け放たれたドアの向こう。そこには――。
何もなかった。
冷たい廊下の空気だけが、ふわりと玄関に流れ込んでくる。
白っぽい蛍光灯が、無機質なタイルを照らしている。いつもの、見慣れたマンションの廊下があるだけだった。
「……ほら、大樹。出てこいよ」
賢人は廊下に踏み出し、左右を確認してから大樹を促した。大樹はおそるおそる腰を浮かせ、賢人の背中に隠れるようにして玄関の外へ足を踏み出した。
二人は慎重な足取りで、数メートル先のエレベーターへと向かう。角を曲がるたび、誰かが飛び出してくるのではないかという緊張が走る。だが、消火栓の裏にも、非常階段へ続く重い鉄扉の影にも、人影はない。
辿り着いたエレベーターの前。
壁に埋め込まれた表示灯は、静かに「1」の数字を灯したまま、微動だにしていなかった。
「……本当だ……いねえ……」
大樹が、掠れた声で漏らした。
エレベーターが動いた気配はなく、階段の扉が開閉する音も聞こえなかった。
「あんな一瞬で、消えられるわけないよな……? 階段を使ったとしても、この静けさなら足音が響くはずだろ……?」
大樹の声が震えを増していく。彼は自分の右目を何度もこすり、困惑したように周囲を見渡した。
「……なあ、賢人。俺が見たの……本当にあいつだったのかな」
大樹のその呟きに、賢人は言葉を失った。
「確かに、目は合ったんだ。でも、レンズ越しで歪んでて……。……もし、あいつじゃなくて、全然別の『何か』が覗いてたんだとしたら、俺――」
二人の間に、説明のつかない沈黙が流れる。
池崎さんではなく、もっと得体の知れないものがそこにいたのではないかと。
物理的な不在が、かえって大樹の想像力を最悪の方向へ引きずり込んでいた。




