第23話 境界の眼
「……行ったか? あの人」
横にいた大樹が、賢人の肩を軽く叩いて場所を譲らせた。
「ちょっと見てみるわ。まだドアの前で立ちすくんでたら洒落にならねーし」
大樹は少し腰を屈め、玄関ドアについている内蓋付きのドアスコープに手をかけた。
カチリ、と小さな音を立ててカバーをずらした、その瞬間。
大樹の動きが、ぴたりと止まった。
「……大樹?」
賢人が不審に思い声をかけるが、返事はない。
大樹は吸い付くようにスコープに片目を押し当てたまま、石像のように硬直している。数秒の沈黙。だが、その背中が目に見えて震え始め、喉の奥から「ひっ……」と短い引きつけのような音が漏れた。
「うわああああああ!!」
大樹は耳を劈くような悲鳴を上げ、弾かれたように後ろへ飛び退いた。
勢い余って三和土に尻もちをつき、激しく靴を蹴散らす。
「おい、どうした! 大樹!」
賢人が駆け寄り、大樹の肩を強く掴む。だが大樹は、自分の右目を押さえたまま、見開いた左目で狂ったようにドアを指差した。
「見てたんだよ……っ! あの人、スコープの真ん前で……俺を、覗き返してたんだよ!」
「嘘だろ……?」
賢人の喉が、ひきつったように鳴った。追い出した直後だ。ドアの向こうにいたとしても、スコープを覗くにはあまりにタイミングが早すぎる。
「……最初、何だか分からなかったんだ。レンズの中が真っ黒で……でも、それが少し動いて、端の方から白目が見えて……っ」
大樹は過呼吸気味に、震える声で言葉を絞り出す。その指先はガタガタと音を立てそうなほど震えていた。
「あいつ、穴に目を押し付けてこっちを覗き込んでたんだ。レンズの向こうで、あの女の目が、俺を真っ直ぐ……っ!」
賢人の背筋を、じっとりとした冷たい汗が伝う。
今しがた追い出したばかりのあの女が、ドアを閉めた瞬間に反転し、この小さな穴に目を押し当てて自分たちを覗き込んでいる。その剥き出しの執念に、賢人は吐き気を覚えた。
「……池崎さん。もう、いい加減にしてください」
賢人はドアに向かって、震える声を無理やり喉の奥で押し殺し、冷静さを装って告げた。
「これ以上しつこいなら、本当に警察を呼びます。……帰ってください」
返事はない。
ただ、薄い金属のドア一枚を隔てたすぐ向こう側に、あの女の殺意が張り付いているような圧迫感だけが伝わってくる。
賢人は震える手でスマートフォンを取り出し、110番の画面を表示させた。
大樹が見たという、レンズを塞ぐ真っ黒な塊。そこから覗き返してくる、あの女の目。
それを覚悟して、賢人はゆっくりと腰を落とし、片目をスコープに押し当てた。
しかし。
魚眼レンズの向こう側に広がっていたのは、寒々しいほどに無機質な、誰もいない廊下だった。




