第22話 契約書の空白
賢人はダイニングの隅にある棚に手を伸ばし、入居時に受け取った書類の束をかき乱すようにして、『不動産賃貸借契約書』を引っ張り出した。
「これを見てください。……ほら」
差し出された書類を、池崎は震える手で受け取った。一ヶ月前の契約日。そして借主の欄に記された、自分たち二人の名前。池崎は食い入るように、穴が開くほどその文字を見つめている。
「……あ」
池崎が、小さく声を漏らした。彼女の指が、ページの下部、特約事項の欄をなぞる。
「……これ、結衣ちゃんの名前……書いてある」
「え?」
賢人が怪訝に思い、池崎の手元を横から覗き込んだ。だが、そこにあるのは無機質な条文の羅列と、ただの真っ白な余白だけだ。
「何言ってるの、ここよ。ここに……」
池崎は少し声を荒らげ、苛立ったように指先で書類の下部を激しく叩いた。
「ほら、ここに『前入居者:佐藤結衣』って……」
だが、自分の指が指し示した場所を改めて見つめた瞬間、池崎の言葉が止まった。
「……え?」
彼女の指の先にあるのは、汚れひとつない真っ白な紙面。そこには、一瞬前まで確かに見えていたはずの、あの震えるような筆跡の文字はどこにもなかった。
「……あれ? さっき、あったのに。確かに、書いてあったのに……」
その姿を見て、賢人の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
脳裏に、ついさっきこのダイニングテーブルで見た光景が鮮烈に蘇る。あの手紙を広げた瞬間、余白を埋め尽くしていた自分たちの名前。あの、のたうつような歪な文字。
……嘘だろ。まさか、この人にも見えたのか……?
あまりの符号の一致に、賢人は吐き気を覚えた。
池崎が狂っているのか、それともこの部屋が、執着を持つ人間にだけ特定の「バグ」を見せているのか。どちらにせよ、これ以上彼女をここに留めておくのは危険だ。
「……池崎さん。もういいでしょ。納得して、帰ってください」
賢人は、震えそうになる声を無理やり喉の奥で押し殺し、冷徹な響きを装って告げた。
横で大樹も、半ば強引に池崎の肩を玄関の方へと向けた。
「ほら、約束だろ。早くしてくれよ」
大樹の腕に押され、池崎は抵抗することなく、ふらふらとした足取りで玄関へと歩き出した。
「二度と来ないでください」
賢人はドアを開け放ち、池崎を廊下へ押し出すようにしてドアを閉めた。即座にサムターンを回し、カチャリと金属的な音を立ててドアガードをかける。
静寂が戻ったはずの402号室。
だが、賢人の手の中にある契約書は、まだ池崎の体温を吸い取ったかのように、じっとりと熱を持っていた。




