第17話 境界線を越えて
大樹の掠れた呟きが、静まり返ったエレベーターホールに小さく響いた。
賢人がそれに答えようと口を開きかけた、その時だった。
正面、郵便受けコーナーのさらに奥にある、自動ドアが軽快な電子音を立てて開いた。
夜の静寂を破るように外から入ってきたのは、仕事帰りだろうか、スマホを操作しながら無造作に歩くスーツ姿の男性住人だった。その足音と光の動きに弾かれたように、402号室の郵便受けにへばりついていた女が、ガタッと肩を揺らして身を離した。
「あ、こんばんは」
男性住人が、ポストの前で固まっている彼女を同じマンションの住人と勘違いしたのか、通り過ぎざまに軽く会釈を投げかけた。
「あ……っ、は、はい。こんばんは……っ」
女は裏返った声で慌てて頭を下げ、逃げるように数歩、郵便受けの列から距離を置いた。
その、あまりにも人間味のある狼狽え方。蛍光灯の下でハッキリと見える、彼女の肩にかかったトートバッグの質感や、不安げに組み合わされた両手の指。
「……幽霊じゃ、ねーな」
大樹が、肺に溜まっていた緊張を吐き出すように小さく呟いた。
ゴミ置き場での「消失」という不可解な恐怖で麻痺していた脳が、目の前の「生身の不審者」という現実的な問題へと強制的に切り替わったようだった。
「……おい、賢人。どうする」
大樹の視線には、先ほどまでの怯えよりも、自分たちの郵便受けを勝手に覗き込まれたことへの不快感と、正体を確かめたいという焦燥が混じり始めていた。
「……あんなに覗いてたんだ。このまま上に戻っても、また来るだろうね」
賢人達は、男性住人がオートロックを解除してこちら側へ入ってくるのを待って、入れ替わるように郵便受けコーナーへと踏み出した。
「あの、すみません」
賢人は意を決して、まだポストの前で所在なげに立ち尽くしている女に向けて声をかけた。
「……うちの郵便受けに、何か用ですか?」




