逃亡の始まり
薄い布地を貫き、皮膚を裂き、肋骨の隙間を強引にこじ開けて熱い臓腑へと刃が沈み込む感触は、思ったよりもずっと重くて、生温かかった。
母さんの喉から、空気の抜けるような絶叫が漏れる。四肢が激しく痙攣し、靴のかかとが床の魔法陣を何度も蹴りつけた。
「きゃあっ! お、お兄ちゃん、母さんが動くっ!」
「絶対に離すな! 絶対にロープを緩めるなよ、マーリナ!」
マーリナが悲鳴を上げながらも必死にロープを絞り上げ、母さんの首を青白くしていく。
一度刺してしまえば、あとは驚くほど簡単だった。
引き抜いた刃から真っ赤な血飛沫が舞い、俺の頬とマーリナの白い顔を温かく濡らす。
俺はこれまで母さんに理不尽に殴られた数だけ、泣きながら抱きしめられて謝られた数だけ、何度も、何度も、何度もその胸に包丁を突き立て続けた。
肉を耕すような水音と、俺とマーリナの荒い呼吸音だけが部屋に重なり合う。
それは俺たち兄妹が、生まれて初めて誰にも邪魔されずに心と体を一つにした、狂おしいほどの共犯の儀式だった。
「ハァ……ハァ……」
やがて母さんの手足から完全に力が抜け、部屋に耳鳴りのような静寂が満ちた。
俺は血糊で滑る凶器を握ったまま母さんの上からどき、マーリナと顔を見合わせて荒い息を吐く。
「死んだ……? ねえお兄ちゃん、母さんは本当に死んじゃったの……?」
「ああ、俺たちが殺したんだ。でも、こうするしかなかった、だろ?」
疲れと、怒りとストレスと……ほんの少しの後悔で震える肩で息をしながら、俺はそもそも母さんがマーリナに一体何をしようとしていたのかを確かめるため、魔法陣の端に落ちていたあの黒い魔術書に近づいた。
「魔術のための生贄に家族を選ぶとか、ありえねぇだろ」
「本当に私って生贄にされるところだったの!? え、比喩じゃなくて本当の意味の生贄!?」
「落ち着け、マーリナ」
返り血で真っ赤に染まった俺の指が、開かれていた羊皮紙のページに触れる。
そこには不気味な理解不能な文字が散らばるだけで、マーリナと目を見合わせてからもう一度本のページをパラパラとめくっていくも、どのページも理解ができない。
「魔術関係の文字……? マーリナ、読めるか?」
「お兄ちゃ……ルークが読めないものを読めるわけないじゃん、少しは考えてから発言してよ」
「言っとくが俺が来なきゃお前は殺されてたかもしれねぇんだぞ、少しは感謝しろ。あとそのガキの頃のアダ名で呼ぶのもやめろ」
「ルークはルークだもん! あと、別に一人でも殺せましたぁー!」
「んじゃなんだよ、あの『助けてお兄ちゃん!』ってのは、説明してくれよ」
……コイツ、助けてって言った時には既に母さんの首を締めていたよな?
俺が行かなくても殺せたはずだ。
だったら……何故……?
「む……昔から意地悪ばっかり!」
「俺が来なくてもよかったってか? だったら呼ぶなよ」
床に描かれていた血色の模様に沿って、母さんの血が流れていく。
あり得ない血の動きだ。
マズい、この模様は何かの魔術を発動しようとしている。
そんな直感が働くと同時に、部屋中の光と音をすべて吸い込むようにどす黒い紫色の閃光に包み込まれた。
網膜を焼くような眩しさに思わず目を閉じて数秒後。
「マーリナ、大丈夫か!?」
「うん、大丈夫だけど……見て」
俺たちの目の前にあったはずの母さんの遺体は、人の形を完全に失っていた。
床の上には、おびただしい量の鮮血の海と、まだ生々しく湯気を立てる赤黒い内臓の塊だけがぶちまけられており、母さんの"肉と骨"が、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく消え失せている。
「……死体って、こんなすぐ骨が消えんのか?」
「そんな訳ないでしょ」
「わかってるっての……ん?」
そして、さらなる異変が俺たちの体を襲っていた。
俺が右手に握りしめていた包丁は、鈍い黒色をぶちまけた骨のような素材の包丁……いや、ナイフになっている。
不気味で、気味の悪い、呪いを振り撒きそうな見た目だ。
「んだよ、これ」
握ったそのナイフの柄から手を離すと、重力に逆らったあり得ない動きをして右腕に引っ付いた。
手首から肘までの、ナイフよりも少し大きなこのスペースに張り付くように動きやがった。
長袖を着ていたのに、袖が消えてるし……どうなってやがる。
「見たか、マーリナ」
「今、包丁が生きてるみたいに動いたわよね?」
「そう……見えたよな?」
左手を使って右腕に張り付いたナイフを引き剥がそうとするも、今度は左の掌に引っ付きやがった。
まるでネチャネチャした……水を加えてすぐの穀物の粉を練っている時のように、触った所に張り付いてくるし、それを取ろうとするとそこに張り付く。
「もしかして、呪われたか?」
「えーっと……見た感じ、多分、そうだね」
「…………」
「…………」
お互いの目を見合わせた後、マーリナがナイフに触れて俺の体から剥がそうと引っ張ると、凄まじい痛みが走った。
体中の皮膚をいきなり力任せに引きちぎろうとされているような、肉と神経が裂けていくような。
言葉すら出ない程の痛みに、俺はうずくまることしかできなかった。
「ルーク?」
「ちょっと待って……剥がそうとしない方がいい……マジで痛いから……」
「お母さんって本当に何を考えてんの!? 生きてるだけでも迷惑だったけど、死んでも迷惑かけるとかあり得ないんだけど!」
「まったくだな、本当に迷惑……待て、お前その首のロープはどうなってんだ?」
隣にいたマーリナの細い首元には母さんの首を絞め殺したあの麻のロープがまるでチョーカーのように巻き付いている。
「……えーっと、ルークが見えない速度で私を殺そうとしたとか?」
「んなわけあるかバカ」
首に巻き付くロープには、本来あるべきはずの結び目がない。
まるで最初から付いているかのように、人の力で付けたにしてはあまりにも綺麗過ぎる円の形だ。
「こんなロープなんて……痛っ! ぬあああ!」
マーリナがロープと首の間の少し空いた空間に、細くて長い綺麗な指を差し込んで引っ張ると彼女は悲鳴をあげながら汚れた床に転がっていく。
アレも、母さんの呪いか?
それともこの魔術のせいか?
「って待てコラ! お前が転がったせいで床の模様が消えてんだけど!? 何かのヒントとかになったかもしれねぇのに、何やってんだよ」
「うるさいバカルーク! どうせそんなヒントなんてないんだから、ここは妹の心配をすべきでしょ!?」
最悪だ……手がかりがマーリナの服の汚れになってしまった。
全部が全部消えているわけじゃないけど、こんな端の方の線だけ見てもわからないぞ。
他の場所なら文字らしき模様もあったのに……クソッ……。
痛いのはわかるさ、多分だけど俺と同じ痛みを味わったんだろうから、理解できる。
でも手がかりを消すとか……いつもそうだ、いつもいつもいつも!
「お前は余計なことばっかりするよな、マーリナ」
「痛かったんだもん、私は悪くない」
「俺は消さなかったのに、お前が消したせいで何もわからないじゃねぇか」
「そんなの知らないもん、私じゃなくてお母さんが悪いんだし、怒らないでよ」
「今回はお前が悪いだろうが! そもそもだな……」
「あーあー、聞こえませーん! それより血でベトベトだし着替えない? 鉄臭いし、これお母さんだし、嫌でしょ」
コイツ……自分勝手な所は本当に変わらないな。
体は成長したけど、中身は子供の頃から何も変わってないじゃねぇか。
「…………えっと」
本当に……成長したよな。
胸も大きくなったし、長く綺麗な髪は似合ってるし、鉄臭くてたまらないはずの部屋の中でもいい匂いがする。
昔はもっとガキみたいな匂いだったんだけどな。
「ルーク」
スタイルが抜群って訳じゃない。
昔、母さんに連れられて行った教会にはもっと綺麗で素敵な女性がいたんだからな。
けれど、コイツの纏う空気と色気、そこそこの長さの足に少し鋭い目つき。
それらが作り出す彼女の魅力は普通とは違う、全然違う。
兄として見ても……むしろ……。
「ルーク!」
「うるさい、聞こえてる」
「着替えるんだから、出ていってよ。それとも覗きたいって言うなら居てもいいけど」
「妹の着替えを覗く趣味はねぇよ」
「そうなの? 最近手つきと目線がいやらしいんだけど、私の気のせい?」
「あのな、お前は……」
右腕に小さなトゲが刺さった時のような、鋭い痛みが走った。
それも、一本だけじゃない。
感じる痛みだけでも、十、いやもっとある。
「ルークさぁ、いくら妹が好きだからってそんな目の前で着替えを待たれると困るんだけど」
叫び、転がるようなさっきの痛みとは違う。
いきなりの痛みに声が出なかったが、いくらかマシな痛みだ。
その痛みの原因を見てみると、そこにはさっきまでとは違う、柄から無数のトゲが飛び出しているナイフがあった。
「痛っ!」
「だ、大丈夫!?」
時間経過でトゲが伸びるのか?
さっきまでこんなの無かっただろ?
しかも段々トゲ伸びてやがる。
だけど外そうとするとさらに痛むし……。
「血が……止血しないと……包帯はまだ配給品残ってたっけ!?」
「多分、もうないと思う」
頭が回るうちに考えろ。
この痛みが俺の正気を奪う前に、さっきの状態にせめて戻す方法を考えろ。
……声を出して痛いと叫んでも、誰も助けてくれないぞ。
俺はマーリナじゃないんだ、自分で全部やるんだ。
「そんな……ど、どうしよう! ルークが、ルークが死んじゃう!」
体から引き剥がすのはダメだ。
だが、最初このナイフは俺の手のひらに握られていた。
離した途端に腕に引っ付いたんだから、手に持つことは出来る……可能性がある。
だがこんなトゲだらけの柄を握るなんて傷口を増やすだけの行為だし、解決にはならない。
だったら……。
「包帯……えーっと……そうだ!」
左手で右腕に張り付いたナイフを触ろうとした時、トゲが小さくなっていくのが見えた。
足の指程あったものが、ゆっくりと爪程の長さになり……完全に柄に戻っていく。
そして今度は触った左手のひらにナイフが張り付いた。
「どうなって……」
「ルーク! とりあえずこれ使って!」
「ああ、ありが……」
妹が汚れた上着を脱ぎ捨て、その下の肌着を脱いで下着を見せている。
彼女の手から渡された肌着にはじっとりとした汗と、体温が残っていて、受け取った右手がマーリナに包まれているような気さえしてくる。
飾り気のない下着とそれが生み出す胸の谷間に視線が奪われて、感覚と視覚の全てをマーリナに乗っ取られたような……。
「何考えてんのよバカ! 胸見すぎ!」
「別に見ては……」
そう答えるよりも早く、左手に張り付いたナイフの柄からさっきよりも大きなトゲが飛び出した。




