大嫌いな人
いつも、夢に母さんが現れる。
薄暗い廊下の奥、湿気を吸って膨らんだ壁紙のカビ臭さと、母さんが好んでつけていた安物の甘い香水の匂いが混じり合う、あの息の詰まるような記憶だ。
教会に連れていってもらった時の話とか、道で聞いた魔術師の英雄譚なんて、殆ど覚えていない。
頭の中にはいつだって、母さんと妹がいた。
『お前がクズだから、マーリナはこんな風に育ってしまったのよ!』
鼓膜を突き刺すような甲高い金切り声とともに、俺の左頬に乾いた平手が飛ぶ。
バチン、と肉が弾ける音がして、口の中に生温かい鉄錆の味が広がるよりも早く、母さんの細く冷たい指が俺の髪を乱暴に鷲掴みにした。
まだ背の低かった俺の頭を、首の骨が鳴るほど前後左右に激しく揺さぶりながら、母さんは血走った目を剥いて唾を飛ばすんだ。
『お兄ちゃんなんだから、ちゃんと妹を教育しろって言ったでしょ!? 四六時中ずっと見ていろって言ったじゃない、あの子がよその家にいたずらをして迷惑をかけるたび、私がどれだけ近所に頭を下げて恥をかいていると思ってるの? お前がだらしないから、お前がゴミみたいな兄だから、マーリナがまともに育たないのよ!』
めったに家に帰らない無責任な父親と、自分の見栄や世間体ばかりを気にして子供には徹底的に無関心な母親。
そんな両親から幼い俺に押し付けられたのは、「妹のマーリナを片時も離れず監視し、教育し、守る」という絶対の義務だった。
『お兄ちゃんまたママに怒られたの? 私のこと直接怒らないのに、何でお兄ちゃんを怒るんだろ……怒ってもくれない程、嫌いなのかな』
マーリナは昔から自分勝手で、構ってちゃんな子供だった。
母さんに自分を見てほしくて、わざと花瓶を割ったり、近所の子供の持ち物を隠したりと、いたずらばかりを繰り返していた。
けれど母さんは、最初はマーリナをヒステリックに怒鳴りつけていたものの、今じゃ"相手にするのも面倒だ"と言わんばかりに妹から目を背け、その何倍もの時間をかけて「監督責任」を問うように俺を殴り、蹴りつけ、罵倒する。
だから、俺はいつも妹と一緒だった。
好きで一緒にいたわけじゃない。
親に押し付けられたから、妹を見ていないと俺が怒られるから、妹が他の人に迷惑をかけないように守らないと、また母さんに殴られるから。
ただ自分の身を守るための盾として、俺は自分の言うことを少しも聞かない生意気な妹の手を、いつも強く握りしめていただけなんだ。
けれど、俺を部屋の隅に追い詰めて散々に殴りつけてから、肩で荒い息を切らしたあと――母さんは決まって、急に憑き物が落ちたように表情を崩す。
さっきまで俺を殴っていたその手で自分の顔を覆い、ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、腫れ上がった俺の頬を撫でて、窒息しそうなほど強く俺を抱きしめてくる。
『……ごめんね、イガルク。痛いことをして本当にごめんね。お母さん、イライラしてつい手が滑っちゃったの。でもね、お兄ちゃんなんだから、あなたがマーリナを見ていないといけないのよ。あの子を止められるのはあなたしかいないんだから。……お母さん、あなただけを信用してるから……ね?』
俺の首筋に押し当てられる母さんの濡れた頬と、甘い香水の匂い。背中に食い込む長い爪の痛み。
突き放すような理不尽な暴力と、すべてを預けて縋りつくような甘い抱擁。
殴られた頬がジンジンと熱を持っているのに、母さんに"あなたを信用している"と囁かれるたび、俺の胸の奥にはどろりとした歪な達成感と、決して逃げられない鎖を巻かれたような絶望が同時に広がっていった。
その気味の悪い繰り返しが、俺の頭を少しずつ麻痺させ、俺から"普通の子供"としてのまともな感情を削り取っていったんだと思う。
妹が居なければ、俺は怒られないのに。
妹が居れば、俺は母さんに褒められるのに。
そもそも、何故俺が妹の面倒を見なきゃいけないんだ?
誰か、この現実をぶっ壊してくれよ。
ある日を境にマーリナにすらまったく構わなくなり、何週間もどこかをほっつき歩いていた母さんが、嵐の前の晩にふらりと家へ帰ってきた。
「母さん、吹雪の前に帰ってこられたんだな」
そのまま野垂れ死ねばよかったんだ。
「ただいま、イガルク。ご飯を作ってくれてたなんて、今日もいい子でえらいわ」
帰ってくるかわからないお前の分があるわけないだろうが。
それは俺とマーリナの分だ。
少し考えればわかるはずなのに、母さんは作りたてのスープを味見してやがる。
「……ああ、母さんが帰ってくる気がしたから作って待ってたんだよ」
俺の分はナシ……だな。
マーリナのスープを残さないといけないし、ここで母さんにお前の分は無いって歯向かっても、ヒステリックを起こされるだけでいいことは一つもない。
「やっぱりイガルクはいい子ね……イガルクだけは……」
久しぶりに帰ってきた母さんの目は、どこか焦点が合っておらず、気味が悪いほどギラついていた。
「母さん……?」
「ねぇイガルク、マーリナはどこに居るの?」
「アイツなら部屋にいると思うけど」
「そう……ね、絶対に部屋に来ちゃダメだからね」
母さんは俺には目もくれず、自分の手に負えなくなったはずのマーリナの部屋に向かって、階段を登っていく。
今さら何を言うつもりなんだろうか。
もう妹は、母さんからの愛を必要としていないんだぞ?
「俺が行っても面倒なことになるだけだし……ハァ」
俺はリビングで、落ち着かない気分のままスープを温めて皿に入れる。
今日の配給は吹雪の前ってことで、いつもより多かったから具沢山だ。
いつもは入れない肉と、野菜がゴロゴロ入った特製スープなのに俺は食べられないのかぁ……。
「なんてタイミングで帰ってきてんだよ、クソッ!」
……今日の母さん、変だったな。
帰ってきて、すぐにマーリナの部屋に行くなんておかしくないか?
それにあの目……嫌な予感がする。
そんな予感がするのは変だ、間違ってる。
けれど、間違いならそれでいい。
大丈夫、何もないさ。
勘違いなら、それでいいんだ。
そう心の中で唱えながら、俺は台所から包丁を持って階段へと足を進めた。
自分の身を守るためなのか、母さんの変化に対応するためなのかはわからない。
ただ俺は、マーリナを守らないといけないんだ。
その時だった。
二階から、重い家具がなぎ倒されるような鈍い音と、ガラスの割れる音、そしてマーリナの喉が裂けんばかりの甲高い悲鳴が響き渡った。
「いやッ、お兄ちゃん! 助けて、お兄ちゃん!」
心臓が喉元まで跳ね上がった。
頭で考えるよりも先に階段を踏み外すほどの勢いで二階へと駆け上り、重たい木製の扉に体当たりするようにして鍵を壊し、中へと飛び込む。
そこに広がっていたのは、悪夢よりもおぞましい異様な光景だった。
妹の部屋の古い絨毯が乱暴に剥がされ、むき出しになった木の床一面に、どす黒い赤色の塗料で複雑な幾何学模様が描かれていた。
部屋の四隅には異臭を放つ黒い蝋燭が灯され、揺らめく炎の影が壁に不気味な模様を映し出している。
そしてその魔法陣のど真ん中で、マーリナが母さんの腹の上に馬乗りになり、どこから持ち出したのか太い麻のロープを母さんの首に巻き付けて、自分の全体重をかけて必死に締め上げている。
「マーリナ! お前何をしてるんだ!?」
「ち、違うのお兄ちゃん! 私じゃない、母さんが先にやったのっ!」
慌てて二人を引き剥がそうと駆け寄った俺を、マーリナが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で振り返った。
乱れた髪の隙間から覗くマーリナの白い首筋には、確かに誰かの指で強く絞められたような生々しい赤紫色の痕が残っており、着ていた服の袖も無残に引き千切られている。
「母さんがね、部屋に入ってきてからいきなり変な本を開いて、そこに変な模様が浮かんだの!」
この模様……魔術関係か?
母さんは魔術が使えないはずなのに、どうなって……違う、考えるのは後だ、今は目の前の状況をどうにかしないといけない。
「お母さんが後ろからこのロープで私の首を絞めてきたの! 私をどうせ教会に捨てるくらいなら、私を殺して、強い武器に変えるんだって言い出したんだってば!」
マーリナの目線の先、魔法陣のすぐ外側に、見たこともない不気味な黒い革の魔術書が口を開けて転がっていた。
床の上で背中を反らせて暴れる母さんは、ロープが喉の肉に深く食い込んで顔を赤黒く鬱血させながらも、マーリナの手首を爪が剥がれるほど引っ掻き、血走った目で俺を睨みつけている。
その泡を吹く唇が、声にならないかすれ声で「クズ」「早く助けろ、イガルク」と呪詛を吐き出しているのがわかった。
――ああ、そうか。
その瞬間、俺の頭の中にあった最後のタガが、パチンと音を立てて外れた。
この女は、自分勝手に俺たちを放置し、自分勝手に俺にマーリナを押し付けておきながら、最後は俺からマーリナを奪い取って、意味のわからない"生贄"なんかにするために殺そうとしたんだ。
『お前がクズだから』
『お兄ちゃんなんだから妹を見ていないといけないの』
十数年間にわたって俺の鼓膜に焼き付けられた母さんの声が、脳内でぐわんぐわんと反響する。
マーリナを守らなければならない。
そうしないと、俺のたった一人の妹が、俺の本当の姿を知っている世界で唯一の存在が、この狂った母親に殺されてしまう。
その強烈な使命感と、心の底にヘドロのように溜まり続けていた母さんへのどす黒い恨みが、俺の中で完全に一つに溶け合った。
「……マーリナ。そのまま、母さんが動かないようにしっかり押さえていろ」
「え……? お兄、ちゃん……?」
俺の声は、自分でも驚くほど静かで、冷え切っていた。
俺は右手に握った包丁を逆手に強く握りしめ、魔法陣の上でもがく母さんの横に座った。
俺の目を見た母さんの瞳が、そこで初めて、絶対的な恐怖に見開かれる。
「何がしたいんだよ、お前。俺を苦しめて、妹を押し付けて、俺に守るように教育したくせに、次は俺に親殺しまでさせんのか? いいさ、やってやるよ……てめぇのせいで、俺の人生台無しなんだよ!」
何かを懇願するように首を横に振ろうとする母さんの胸元――鎖骨のすぐ下のあたりに狙いを定め、俺は一秒の迷いもなく、全体重を乗せて包丁の切っ先を振り下ろした。




