第五大陸 フィッタイト
あの凄惨な夜からもう何ヶ月もの月日が流れ、俺たちは故郷を捨てて逃亡生活を続けているというのに、目を閉じれば決まって母さんを刺し殺した瞬間の生温かい感触と、内臓の匂いが鮮明に蘇る。
一人でベッドに横たわると、暗闇の向こうから骨のない母さんの肉塊が這い出してくるような幻覚に襲われ、朝まで一睡もできなくなる。
旅の途中で立ち寄った薬屋から治療は可能だと言われ、「この薬草を煎じて飲めば不眠なんてすぐに治る」と勧められたこともあったが、俺はそれを頑なに拒否した。
悪夢に食い殺されずに人並みの睡眠をとる方法は、こうして同じベッドの中で妹の柔らかい体温を感じながら一緒に寝ることだけ。
逆に言えば、妹と一緒に眠ればそんな金は使わなくてもいいんだ。
「節約のためだ」
それに……この不眠症まで治してしまったら、俺が毎晩マーリナをベッドに引き込む正当な理由がなくなってしまう。
そんな歪んだ思考が、俺の頭の中を駆け巡った。
「ん……なあに、ルーク。すごい汗だよ……また、母さんの夢?」
薄くボロボロの布団の擦れる柔らかな音がして、すぐ横で眠っていたはずのマーリナが、眠そうな目を細めた。
窓の古びた鎧戸の隙間から差し込む朝の淡い光が、彼女の長いまつげと、少し癖のある艶やかな髪を照らし出している。
二十歳になったばかりの妹は、小さなあくびを一つこぼすと、猫のようにしなやかで無防備な動作で俺の胸元へとすり寄ってきた。
寝乱れた薄いシュミーズの襟元が大きくはだけており、そこから陶器のように滑らかな白い鎖骨と、呼吸に合わせて上下する柔らかな胸の谷間が惜しげもなく覗いている。
彼女は、シーツの下で自分の細く形のいい太ももを、俺の腰へと当たり前のように絡めてくる。
ひんやりとした空気の中で、マーリナの肌だけが吸い付くようにしっとりとしていて、女の子特有の甘い匂いが俺の鼻腔を濃密に撫で上げる。
「お前に巻き込まれた夢だよ」
「ルークがトドメを"刺"したんじゃん」
「うるさい」
俺が思わず息を呑んでその胸元から視線を逸らすと、マーリナは俺の反応に気づくなり、くすりと意地悪く唇の端を吊り上げた。
「ねえ、知ってる? ルークったら最近、寝てる私に触るときの手つきと、私を見る目つきが、すっごくイヤらしいの」
「……寝ぼけたこと言うな。お前の寝相が昔から悪いから、ベッドから落ちないように押さえてやっただけだ」
俺は一秒の間も置かずに爽やかな『優しい兄』の笑顔を作り、さらりと嘘をついた。
けれど、俺の嘘を一番近くで見続けてきたマーリナにはまるで通じていないだろう。
彼女は信じちゃいないという風に鼻を鳴らし、自分の白い首元に緩く巻き付いている『切れないロープ』を細い指先で弄びながら、俺の顎の下を指でツンツンと突いてきた。
「嘘がヘタだよね。どんなに外でいい人のふりをしてても、妹には全部わかるの。……忘れたとは言わせないよ? 先月の夜なんて、私がぐっすり寝てると思って、私の寝間着の中に手を入れて夜這いかけようとしたくせに」
「あれは……悪夢でうなされて、寝ぼけてただけだって言っただろ」
「ふふっ、苦しい言い訳だね」
マーリナがケラケラと愉快そうに笑いながら、俺の腰に絡めた足の膝頭で、俺の下腹部をわざとらしくくいくいと擦り上げてくる。
挑発するような潤んだ上目遣いと、薄い布越しに押し当てられる柔らかな胸の感触。
ドキドキするな、意識するなと言われてもそれこそ不可能だ。
……ああ。
いっそこのまま、この生意気な口を塞いで、俺を兄としてではなく男として受け入れさせたい。
こんな奴に狂わされた人生の責任をとらせたい。
目の前で勝ち誇ったように笑うマーリナの赤い唇を奪って、俺だけの女にしたい。
俺の胸の奥にどす黒い支配欲と劣情が渦巻いた、まさにその瞬間だった。
肉を裂く鈍い音を立てて、俺の右腕に張り付いていはり『刃こぼれしないナイフ』から、鋭い棘のような無数の小刃が一斉に突き出し、俺の腕を容赦なく食い破っていく。
「……っ、ぐ、ぁぁ……」
「あーあ、やっぱりいやらしいこと考えてたじゃん。また血がいっぱい出てるよ」
「血はすぐ止まるっての……クソッ!」
脳天を突き抜けるような激痛に視界が白く明滅し、俺は反射的にベッドの上で右手を強く握りしめた。
握りしめた指の隙間から、どくどくと脈打つ生温かい鮮血が溢れ出し、白いシーツの上に真っ赤な染みを広げていく。
これが、母さんを犠牲にして手に入れた"呪い"だ。
俺がマーリナを妹ではなく"異性"として見るたびに、ナイフの柄から無数のトゲが現れて、俺の手をズタボロに切り裂きやがる。
「痛そう。でも自業自得だよ、お兄ちゃんが家族に対して変な欲情なんかするからいけないの。……ほら、動かないで。新しい包帯を巻いてあげる」
「……っ、傷痕は自動的に治るんだから、それはお前がケガした時にとっとけ」
「そう? ……不思議だよね、傷をつけるのに傷の跡は残らないなんて、まるでルークみたいな呪いだもん」
「俺みたいだと?」
「うん」
脂汗を浮かべて息を荒げる俺の前で、マーリナはベッドから起き上がると、サイドテーブルから清潔な布と包帯をバッグにしまいながら意味不明なことを言っている。
「嘘ばっかりで、本当はそんな人じゃないのに優しいフリをして人を傷付けてさ。でも自分が悪くないって事実を作り上げることだけはいつも確実なところとかね」
彼女は俺の右手にチュッと軽く唇を押し当てると、うっとりと熱を帯びた瞳で俺の苦悶の表情を見上げ、自分の首に巻き付いたロープを触りながら鈴を転がすような声で笑っている。
「私ね、この呪いが大好きだよ。だってこれがあれば、お兄ちゃんは私を"女"として襲うこともできないし、ルークはどうせ他の女のところには行けないもん。 結婚なんてできなくても、私たちは家族なんだからしなくていいし……この呪いがあれば、死ぬまでずっと、あの頃のままで二人きりで暮らせるね」
心の底から幸せそうに微笑む妹を見下ろしながら、俺は包帯の下で掌をえぐり続ける鉄の痛みを奥歯で噛み殺した。
ふざけるな。
俺はお前と一生仲の良い子供のままの兄妹ごっこを続けるために、母さんを殺して罪を背負ったんじゃない。
「私が捕まったらルークは眠れなくなるし、私が自首すれば刺したルークも捕まるの。どうやったって、私から逃げられないなんて素敵でしょ?」
一緒に母親殺しの罪を背負ったことで、マーリナはその罪を俺を縛り付ける"鎖"として使っている。
こんな奴に何故惚れているのかわからない。
時々、殺してしまいたくもなるのに、抱いて俺の女にしたくもなる。
自分でも自分がわからない。
どんな手段を使ってでもこの呪いのナイフとロープを体から引き剥がし、目の前で笑うこの生意気な妹を、名実ともに俺の嫁にしてやる。
そのために俺は、有名な"赤色の大魔術師"や、あの魔術書の出所を探して旅を続けている。
「さあ、準備して出かけようよ、お兄ちゃん! 今日も配給の列に並ばなきゃいけないんでしょ?」
マーリナが鼻歌交じりにベッドから飛び降り、窓を開け放つ。
灰色に曇ったフィッタイトの重苦しい朝の光と、白い雪。
行き交う人々の乾いた声と、どこかで誰かが助けを求める声が聞こえる。
「ああ、行くか」
俺とマーリナは、第五大陸フィッタイトのありふれた光景を眺めていた。




