番外編 幼なじみの私たちだけが知っていること
放課後の教室に、夕日が差し込んでいた。
窓際の席で学園祭の資料をまとめていると、廊下から控えめな足音が聞こえてきた。
「……琴音ちゃん」
顔を上げると、教室の入り口に結衣が立っていた。
長い黒髪を揺らしながら、少し困ったような顔でこちらを見ている。
「結衣ちゃん? どうしたの?」
「……ちょっと、お話してもいい?」
「いいけど。綾人は?」
「今日は先に帰ってもらったの。お母さんに買い物を頼まれたって言って」
「ふうん。あんたが綾人を一人で帰すなんて、珍しいじゃない」
からかうつもりで言うと、結衣は頬を赤くして俯いた。
「……もう。琴音ちゃんまでそんなこと言う」
その反応がおかしくて、思わず笑ってしまう。
ついこの間まで、綾人の名前を出しただけで不機嫌になっていた子とは思えない。
「まあ、座りなさいよ」
私が隣の椅子を引くと、結衣は小さくお礼を言って腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえてくる。
先に口を開いたのは、結衣だった。
「……琴音ちゃん」
「ん?」
「私ね、お兄ちゃんと仲直りできて、すごく嬉しいんだ」
「……うん」
「三年間、ずっと意地張ってたから。今さら昔みたいにしてもらえるかなって、ちょっと怖かった」
結衣は膝の上で指を重ね、照れくさそうに笑った。
「でも、お兄ちゃん、全然怒ってなくて。昔みたいに頭を撫でてくれて……それが嬉しくて、つい甘えすぎちゃった」
「……そっか」
私は小さく頷いた。
正直、安心していた。
この三年間、綾人がどれほど結衣のことで悩んでいたか、私は知っている。
妹に話しかけても無視される。
一緒に帰ろうと誘っても断られる。
昔はあんなに懐いていたのに、どうして嫌われてしまったんだろう。
そんなことを、綾人は何度も私にこぼしていた。
そのたびに私は、思春期なんだから仕方ないでしょ、と慰めることしかできなかった。
だから、二人が仲直りできたことは、本当に嬉しい。
……嬉しい、はずなのに。
「……琴音ちゃん?」
「え?」
「なんか、難しい顔してる」
「べ、別に。ちょっと考え事してただけ」
結衣は私の顔をじっと見つめたあと、ふっと微笑んだ。
「……ありがとう」
「何がよ」
「お兄ちゃんのこと。私が冷たくしてた間も、ずっとそばにいてくれて」
思いがけない言葉に、胸の奥がくすぐったくなった。
「……何よ、急に」
「だって、本当のことだもん」
結衣は窓の外へ視線を向けた。
「私、琴音ちゃんがいてくれて、よかったって思ってる」
「……ばか。そんなの、今さら言わなくてもいいわよ」
私は慌てて顔を背けた。
夕日のせいにするには、頬が少し熱すぎた。
「……ねえ、覚えてる?」
気恥ずかしさをごまかすように、私は話題を変えた。
「小さい頃、三人で公園に行ったときのこと」
「公園?」
「ほら、結衣ちゃんがブランコから降りられなくなって、泣いちゃったとき」
「あっ! それ、言わないでよ!」
結衣が真っ赤になって抗議する。
「あのとき、綾人が必死になって助けようとしてたのよね。自分だって小さかったくせに」
「……うん」
「結局、私が近くにいた大人を呼んできたんだけど」
「覚えてる。お兄ちゃん、私より泣いてたよね」
「そうそう! 『結衣が怪我したらどうしよう』って!」
二人で顔を見合わせ、声を上げて笑った。
懐かしい。
あの頃は、三人でいるのが当たり前だった。
誰が誰を好きだとか、そんなことを考えもしなかった。
ただ一緒に遊んで、喧嘩して、仲直りして。
夕方になれば、綾人が結衣の手を引いて帰っていく。
私はその隣を歩きながら、明日は何をして遊ぼうかと考えていた。
……いつからだろう。
綾人の隣にいることが、当たり前ではなくなったのは。
「……琴音ちゃん」
結衣の声で、我に返った。
「ん?」
「琴音ちゃんって、昔からお兄ちゃんと仲良しだよね」
「そりゃ、幼なじみだし。同じクラスだしね」
「……いいなあ」
「え?」
「私、一年生だから。学校じゃ、お兄ちゃんとずっと一緒にいられないし……」
結衣は少しだけ唇を尖らせた。
「……ちょっと羨ましい」
私は思わず目を瞬かせた。
「な、何言ってるのよ。結衣ちゃんは家に帰れば、いつでも綾人と一緒なんだから」
「……あ」
結衣が小さく目を見開いた。
それから、いたずらっぽく微笑む。
「そっか。そうだよね」
「……何よ、その顔」
「えへへ。私、お兄ちゃんと一緒に暮らしてるんだった」
「わざわざ言い直さなくていいから!」
「朝も一緒だし、夜も一緒だし、ご飯も一緒だし……」
「分かった! 分かったってば!」
結衣は楽しそうに笑った。
……まったく、この子は。
昔からそうだった。
綾人のことになると、途端に得意げになる。
小学生の頃も、綾人からもらった髪飾りを何日も自慢していたっけ。
「……でもね」
結衣が、不意に声を落とした。
「私、琴音ちゃんのことも羨ましいんだよ」
「……え?」
「お兄ちゃん、琴音ちゃんと話してるとき、すごく楽しそうだから」
胸が、どきりと鳴った。
「そ、そんなことないでしょ。あいつ、いつも私にからかわれてるだけだし」
「ううん。違うよ」
結衣は静かに首を振った。
「私といるときは、優しいお兄ちゃんの顔なの。でも、琴音ちゃんといるときは……なんていうのかな。すごく自然に笑ってる」
「……っ」
「私、ああいう顔、あんまり見たことなかったから」
何も言えなかった。
結衣は責めているわけじゃない。
むしろ、少し寂しそうに笑っている。
それが分かるからこそ、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……結衣ちゃん」
「なあに?」
「私だって、羨ましいわよ」
言ってから、自分でも驚いた。
結衣が目を丸くする。
「……え?」
「だって、あんたたちは家族じゃない。小さい頃からずっと一緒で、帰る場所だって同じで……」
そこまで言って、慌てて口をつぐんだ。
……何を言ってるのよ、私。
これじゃまるで。
「……琴音ちゃん?」
「な、何でもない! 今の忘れて!」
「……ふふっ」
結衣が小さく笑った。
「何よ」
「ううん。琴音ちゃんも、昔から変わらないなって」
「……どういう意味よ」
「優しくて、ちょっと意地っ張り」
「それ、あんたにだけは言われたくないんだけど!」
「えへへ」
結衣は笑いながら、私の肩にそっと寄りかかった。
その仕草があまりにも昔のままで、私は思わず口を閉じた。
小さい頃、結衣はよくこうして私に甘えてきた。
綾人と喧嘩したときも、転んで膝を擦りむいたときも、泣きながら私のところへやってきた。
私はそのたびに、仕方ないわね、と言いながら頭を撫でていた。
「……ねえ、琴音ちゃん」
「ん?」
「私たち、これからも仲良しでいられるよね?」
その問いかけに、胸の奥が小さく疼いた。
どうして、そんなことを聞くのだろう。
結衣も、何かを感じ始めているのだろうか。
「……当たり前でしょ」
私はできるだけ普段どおりの声で答えた。
「何年の付き合いだと思ってるのよ」
「……うん」
「それに、あんたが綾人と仲直りできて、私も嬉しいんだから」
「……ありがとう」
結衣は私の肩から顔を上げた。
そして、少しだけ迷うような表情を浮かべたあと、ぽつりと尋ねた。
「……ねえ、琴音ちゃん」
「何?」
「琴音ちゃんも、お兄ちゃんのこと……大切?」
心臓が跳ねた。
結衣は真っ直ぐに私を見つめている。
その瞳には、さっきまでの無邪気な笑顔とは違う、真剣な光が宿っていた。
私はしばらく言葉を探した。
「……ばか」
ようやく出てきたのは、そんな一言だった。
「そんなの、あんたたち二人ともに決まってるでしょ」
「……そっか」
結衣は嬉しそうに微笑んだ。
けれど、その笑顔は、どこか少しだけ切なかった。
私も、きっと同じ顔をしていたと思う。
夕日がゆっくりと傾き、教室の床に伸びた影が重なっていく。
「……そろそろ帰ろっか」
私が立ち上がると、結衣も頷いた。
「うん。琴音ちゃん、一緒に帰ろ?」
「いいわよ。途中までね」
「えへへ。久しぶりだね、二人で帰るの」
「そうね」
廊下へ出ると、結衣が私の隣に並んだ。
昔と変わらない距離。
それなのに、何かが少しずつ変わり始めている気がした。
「……ねえ、琴音ちゃん」
「今度は何?」
「明日のお昼、お兄ちゃんにお弁当作ってあげようと思うんだけど」
「……また?」
「うんっ! 今度はハンバーグにしようかなって」
「綾人、ハンバーグ好きだもんね」
「そうなの! ……あれ?」
結衣が足を止めた。
「琴音ちゃん、よく知ってるね」
「……そりゃ、昔から一緒にいるんだから」
「……そっか」
結衣は少し考え込んだあと、ふっと笑った。
「じゃあ、今度は琴音ちゃんの分も作ってこようかな」
「……え?」
「だって、琴音ちゃんもお兄ちゃんの大切な人なんでしょ?」
思いがけない言葉に、私は目を見開いた。
「……いいの?」
「うんっ! でも、お兄ちゃんの分が一番大きいからね」
「……何よ、それ」
「えへへ。そこは譲れないもん」
思わず吹き出してしまった。
「分かったわよ。じゃあ、楽しみにしてる」
「うん!」
結衣は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、私も自然と笑っていた。
……きっと、これから色々なことが変わっていく。
今まで当たり前だった距離も、何気ない会話も。
もしかしたら、いつか私たちは、同じことで泣いてしまう日が来るのかもしれない。
それでも。
今日、隣で笑っているこの子のことを、私はやっぱり嫌いになれそうになかった。
「……結衣ちゃん」
「なあに?」
「ハンバーグ、焦がさないでよね」
「もう! 私だってちゃんと料理できるもん!」
「はいはい。期待してるわ」
「琴音ちゃんの意地悪!」
夕暮れの廊下に、二人の笑い声が響いた。
昔と変わらない、幼なじみ同士の笑い声。
ただ一つだけ、あの頃と違うことがある。
私たちはもう、子供じゃない。
そして、たぶん。
二人とも、同じ男の子を好きになってしまったのだ。
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